恋人たち

 ラダトームに一度戻れば、あの無駄好き国王が満面の笑みで出迎えてくれた。
 これには猫を被り慣れて滅多に猫が外れたりはしないローラでさえ、ずるりと猫がズレたと思ってる。国王や臣下の目が行き届かない隙を見て頭を突き合わせると、ローラもあんな上機嫌な父は見た事が無いと返す。今の状況を考えれば、どんより暗い気持ちで今にも倒れそうな程色んな問題を抱えているのに何なんだあの態度。今にも鼻歌歌い出しそうなその背中、斬りつけたろうか。
 しかも、ラダトーム城の人間が俺に向ける視線が、かなりの殺意を帯びている。ぶっちゃけ、剣を抜いて歩いていたい気分だ。
 イトニーは竜だからか人間の事情には我関せずと言った様子であり、会って早々国王陛下にラダトーム王家の先祖の記録の公開を求めた。ついでに人間側に残された記録を洗うつもりなのか、書庫を解放して欲しいとかちょっと無理を言ってみる。無論、状況が状況なので国王も二つ返事で了承して、兵士にイトニーを案内するよう命じた。イトニーと俺達は玄関先で既に別れていたんだ。
 情けない話だが、非常に心細い。本音を言えば、竜王かイトニーと一緒に行けば良かったと後悔している。
 ローラ曰く国王が親しい人物を呼ぶ時に使う部屋に案内されると、ローラは侍女に連れられて部屋に行くと告げて行ってしまった。給仕がお茶や美しい茶菓子をテーブルに置き、国王が人払いさせると部屋には国王と俺だけが残った。国王は嬉しそうに俺を見ると、俺にこう訊ねた。
「アレフ殿。ローラが付いて行きたいと申し出て迷惑ではなかったかな?」
「特にありませんでした」
 言葉を大分端折って言ったが、実際『魔王の爪痕』ではローラに助けられた所が多い。むしろ、ローラが居なければこんな展開になるのに3日は遅れていたかもしれない。
 それにマイラの行程を共に進んだ事もあって、ローラは一般的な女性と比べても非常に旅慣れていると感じる様になった。戦闘の技術は無いが、旅に必要な体力と根性は十分に備わった。今では足が疲れた歩けないと言う事も少なくなったし、足の裏がマメに酷い事になる事もなくなった。
 しかし、無駄が好きなのも変だが、こういう時は『娘に危険は及ばなかっただろうね?』と凄みを利かせて聞いて来るのが普通だろうに。やはり変な国王だ。
 国王は笑った。酷く屈託無い笑みで、娘の事を喜んでいる親の顔で。
「君は私を見て不謹慎だとでも思うだろうが、私も己を不謹慎な王だと思うよ。娘が最近楽しそうだ、そう分かるだけで胸がいっぱいになる。誰よりも国民とアレフガルドの未来を考える立場なのに、初めて見る娘の幸せそうな姿ばかり頭にあるんだ」
 親バカ……、そう思うのは簡単だった。俺は無言で王の言葉を聞いていた。
「アレフガルドはもう終わりかもしれない。その言葉に、私は娘が王族に相応しく無くても幸せなら咎める事を敢えてしない。国民には幸せな時間をこの時にこそ、一つでも多く作って欲しいと願っている。君が良ければローラと…」
「陛下」
 俺は国王の言葉を遮った。
 諦めているのか酷く穏やかな王は、ローラ程の年齢の子供が居るにしてはやや歳が行った男だった。彼は婿だった。ローラの母である王女に決して遜色ない貴族の男で、真面目で見目も良く頭も腕っ節も他の貴族より抜きん出ていた。娘の幸せを願っているが、この状況の終末論と王が王族ではなかった事が重なって、少し逸脱した方向になっている。だが、それは王宮の伝統での話。王はローラの父親としての、同じアレフガルドの住民としての考えをいつの間にか濃くしていた。
「俺達はアレフガルドに光を灯す事を諦めちゃいません」
 俺の言葉に、王は少し情けなさそうに笑った。自嘲気味に口元を引き締めると、そこには人好きしそうな男の顔は無かった。

 ■ □ ■ □

 ラダトームの書庫でイトニーは有力な情報を得たと得意げに話した。ラダトームの書庫では今回の事態を受けて各界の知識人が知識を出し合っている真っ最中で、イトニーもその輪に加わってロトの証に付いて議論を交わしたという。その中には呪いオタクの爺さんが居たのだそうだ。俺の疑わし気な表情とは正反対に、イトニーはあの爺さんはただ者で無いとか絶賛していた。
 聞けば聞く程、呪文飛び交い会心の一撃が舞う。それは調べ物を調べている行為なのか疑問に感じるエピソードを経て、イトニーはロトの証があるだろう場所を特定したと話した。
 そこはメルキドよりも更に南。誰も近づくなんてしないだろ、根腐れして倒れた木々が横たわる見渡す限りある馬鹿でっかい沼地だ。メルキドの南の山脈の向こうの広大な土地は、海の満ち引きによって海水が流れ込み引いていく干潟地帯らしい。それでも水の循環は非常に悪いらしく、残った海水は腐り木々を殺し非常に悪い土地に長い時間をかけて変質させてしまっている。
 ドラゴンの姿で低空を滑空したイトニーも、その背に乗っている俺達も『うっ』っとなる。潮風に混じる水の腐った臭いが鼻を突き、思わず込みあがった吐き気に口を押さえた。背の上で吐いたらイトニーに殺される。
 イトニーは沼地の中でも堅そうな地盤を見つけると、美しい蝶の羽を羽ばたかせふわりと降り立った。彼女が払った風が過ぎ去り、周囲の臭いが押し寄せて来ると三人揃って鼻を押さえた。
「なんて酷い臭いだ。生き物の居るべき場所じゃねぇ」
 俺の言葉にイトニーもローラも激しく同意して頷いた。俺もこんな酷い所だと知っていればロトの証なんか絶対探しにこなかった。
 この地はアレフガルドでも最も遠い場所になるだろう。山岳地帯でマイラよりも険しいとされるメルキド街道には複数の道があり、当然ここを通る街道も遥か昔にはあったと傭兵仲間から聞いた事がある。しかし、ここを通過する街道とはメルキド山脈を大きく迂回して平原を行く道なのだが、大きく迂回し過ぎて逆に街道として意味が無かったという。村もないし、トドメと言わんばかりに存在するこの沼地。誰も使う訳が無いと、笑いのネタになっていた気がする。
 ランプを翳して沼地を照らすと、透明度の無い淀んだ水辺が光を返す。突き立っていた枝を一つ落ち上げると、泥が滴った。
「ここからロトの証を探すのか……」
 俺は既に心がばきばきに折れていた。
 確かにここからロトの証を探し出すなんて、俺達のように余程ロトの証に用がある人間がロトの子孫という名声を偽ってでも手に入れたい人間だけだろう。しかし、目の前には真っ暗になりそうな絶望的な現実がある。ここからロトの証を見つけて手に出来た者は、確かに勇者の子孫を名乗る資格があると思わされる。
 すると背後で風が動いた。俺が振りランプを掲げると、硝子よりも薄く儚い蝶の羽が黄金の輪郭と曙の光を宿して光り輝く。イトニーが翼を拡げて舞い上がろうとしている。
「私はもっと広い範囲を空から探してみます」
 一時間くらいしたら回収しに来ます。そんな事を言うが早いか、イトニーは天に向かって飛び上がってしまった。
 俺とローラは呆然と互いの顔を見合わせた。それから長い長い沈黙が満ちて、互いに愕然としているのが分かった。ローラは小さく溜息を付いて、色は少々黒ずんでいるが乾いた砂の上に腰を下ろした。そんな彼女を上から照らす形になった俺は明るく輝いた金髪や緑の瞳を見てから沼地に視線を移した。
「どうしてこんな所に捨てちゃったんだろう?」
 ローラを見ると、膝に置いた手に顔を乗せるような姿勢で沼地を見ていた。
「勇者ロト…アレフガルドが嫌いだったのかな?」
 顔は見えなかったが、少し寂しそうな声が耳に届いた。
 俺達のようにアレフガルドに生まれて育った人間と違い、ロトはアレフガルドでない大地の出身だから俺達と同じ愛国心のようなものは持っていないだろう。本心であったかどうかは知らないが、勇者はこの地に光を灯す為にやって来た。闇に閉ざされた今なら、光を切望する住人達の気持ちがわかる。光を灯す事は結果的にはアレフガルドの住人の為になると分かるだろう。
 勇者ロトがアレフガルドの人間を心底嫌っていたら、アレフガルドに光は戻らなかっただろう。
 だが、勇者ロトはアレフガルドの人間の前から姿を消した。
 祖国に戻った可能性だってある。外界に戻る手段として遺された物で、何でロトの証だけこんな扱いなんだろう。大事に扱うつもりが無いのだから、きっと勇者にとって大事な物ではなかったのだろう。だが王国に献上する形で所有権を放棄する事は無かった事を考えると、無関心という訳ではない。ロトはロトの証を人間にも魔物にも届かない場所に捨てる事で、何かも捨てたかったんだろう。
 何だろう…名声……か?
「ローラ、お前は姫とか言われるの嫌いなのか?」
「うーん。まぁ、そうかな。お城でお姫様扱いされるより、皆にローラ扱いされる方が好きだな」
 嬉しそうな声が耳を撫でた。
 普通の人間なのに、勇者になってしまったロト。祖国に帰る事を切望したのも、ロトとして己を見てくれる愛しい存在に逢いたい為だろう。だが、アレフガルドの人間がロトの家族の代わりになれなかったのは、恩人を蔑ろにするようでどうかとおもった。結局、ロトは信じられなくなったのだ。ローラの様に。
「勇者ロトは勇者扱いされるのが嫌だったのかもな」
 俺はもう一度水辺にまで歩み寄って周囲を見回す。この沼地には生き物が居ない…それは魔物も居ないことになる。水辺を縄張りにして生きる魔物もこんな水辺の傍に来ても襲って来ない所を見ると、どんなに条件が悪くても住み着く事が出来ないのだろう。だが、アレフガルドでは人間の町以外なら何処にでも魔物は居る。
 ……なんで、ここには魔物が居ないんだ?
「アレフ、どうしたの?」
「暇だからロトの証を探してみようと思ってな」
 折り重なった流木の上からランプで沼を照らす。まるで薄力粉を水で溶かしたようなねっとりして、俺の掲げるランプの光に光沢質な輝きを返してくる。すげぇ嫌な水だよなぁ。生き物なんて居るのか?だが、沼の中にロトの証があるならば入らなくては…!虎穴に入らずんば虎児を得ず。危険を冒さねば得られぬものがある…!
 だけどよぉ…とりあえず手だけ入れて心の準備でもしてみるか…。
 すっかり腰の引けた俺は手袋を外してローラの前に置いてある荷物袋に突っ込むと、ずぼっと沼に手を突っ込んだ! まるで豆腐のような掴めるような手応えが、やがてクリームのようにまとわりついてくる。すんごい気持悪いぞ、こりゃあ…と目を虚空に向けて後悔していると、手に何やら堅い物が滑り込んできた。
「ん?」
 重たい水から苦労して腕を引くと、水から出ていきなり重みがなくなり俺は勢いあまって掴んだ何かを放り投げてしまった!
 ぽーーーーんと気持ち良く舞い上がった何かは、泥を引力で落とし、掲げたランプの光を倍にして反射してくる。屈託ない笑みといえば聞こえは良いが、俺にしてみれば人を小馬鹿にしたような憎たらしい笑みを浮かべて笑う、人を苛だたせようとするように小刻みに震えるゼリー体質を持つ魔物だ。違う所を挙げるなら磨かれた銀のような体を持っている事だ。
 傭兵ならば、知らぬ者はいない。
「うわ〜。ピカピカしたスライムだね〜」
 ローラの脳天気な声なんか明後日の遥か先より遠い。
 あれは
「メ タ ル ス ラ イ ム だ ー ー ー ー ー ー っ ! ! ! 」
 かの存在を前に沼の気持ち悪さなど何だと言うだろう。
 俺は重たい沼の水の上を走る気持ちで駆け出すが、落下してくるメタルスライムには僅かに届かない。
 このまま落としてなるものか!
 俺は腐って倒れた木に右足を掛け体重を預けると、三角蹴りの要領で右足一本に全体重を掛け蹴ると体を空中に投げ出した!空中で体を精一杯伸ばし、後少しでメタルスライムの落下地点だと予測できる地点に到達できる。
 メタルスライムの銀色の輝きが、流星のように伸ばした右手に吸い込まれるように落ちてくる。
 次の瞬間
 右手に落ちてきた堅い感触と、沼に飛び込む衝撃が同時に襲ってきた!
 反射的に目を閉じ口を閉じ、両手で頭を庇ってしまった事を酷く後悔した。右手につかんだ感触はつるりと抜けて、この透明度など微塵もないゼラチン質の沼地に消えてしまったことだろう。それを実感して俺は両手で倒れた木に掴まると、勢い良く顔を沼から上げた!
「ぶはぁ!」
 髪というか顔にまみれた沼の泥が口の中に入ってきて、俺は盛大に咳き込んだ!
 土などという生っちょろい物体ではない、腐った腐臭に酸っぱいような鉄っぽい潮っぽい味が舌を刺すように刺激するだけでも我慢ならんのに、どろりとした中にツブツブと砂なのか腐った木の破片なのかよく分からない微細な何かが大量的に含まれていて、生理的にというよりも本能的に体から排出する機能が存分に働いて胃の中のものまで吐き出しそうなほど咳き込んだ!
「アレフ、大丈夫?」
「大丈夫に見えるか!?…畜生!」
 目の回りにまとわりつく泥を拭うと、木々の上を歩いてきたんだろうローラを見上げる。翳したランプの光に浮かぶその顔は完全に呆れ顔だ。
 俺が鋭く睨み返すとローラがタジタジになったように視線を泳がせた。
「いきなり『メタルスライムだーー!』って叫んで沼地に飛び込むんだもん。正気に見えないっていうかさぁ、発狂したのかなぁって思ってさ」
 まぁ、そう見えてもしょうがない。俺はとりあえず沼から上がると、泥を引っ掛けない程度離れてローラの横に座った。
「とりあえず聞くけどよ。メタルスライムって知ってるか?」
「知らない」
 ……一から説明しなきゃならんのか。
 大きな目に嵌ったエメラルドの瞳を真っすぐ俺に向けてくる姫さんを見返すと、俺は何から説明しようか肘をついて頬杖をつく。
「まずメタルスライムってのは普通のスライムやスライムベスと違って、金属質のスライムなんだ。動きや質感や柔らかさは普通のスライムだが、その体を構成している物質が金属なんだ。…そこまでは分かるか?」
「うん。このスライムちゃんとは少し違うんだね」
 そう言いながらローラはポシェットからスライムを取り出した。…いや、今は何の突っ込みもしたくない。
「最初の目撃情報はロトの時代よりも遥か昔に一回目撃情報があるだけの伝説の魔物なんだ。最大の特徴はこのメタルスライム、動いてる時は凄く柔らかいんだが、斬りつけようとすると鋼より堅くなり鉄の斧も弾き返す。その性質を調べたくて各研究機関が莫大な懸賞金を出しているんだ。…ここまでで何か質問は?」
 はーーい。ローラの真っすぐ挙がった手を見て、質問を促す。
「じゃあ、アレフはその懸賞金目当てで、あんなに血相変えて追いかけてったの?あたし思うんだけどさ、アレフっていくら懸賞金高いからって伝説の魔物追いかけるほどロマンチストには思えないんだけど…」
「当たり前だ。俺は伝説なんぞ信じねぇ」
 俺は目を閉じてかつての憧れを反芻した。
「メタルスライムは………男のロマンだ」
「これほどアレフの真面目な顔って見た事ないわ」
 ローラの呆れ返った顔を横に振るとため息をつきながら肩を竦めやがる。心底呆れているのが分かる態度に俺が怒らすに居られると思うか!?
「…テメェって奴は本当に嫌な女だな!」
「な、なんなのよ!いきなりキレないでよ!!男のロマンなんか分かるわけないじゃない!」
 言いやがったなぁ!
「お前はここで待ってろ!俺は一人でメタルスライムを探しにいく!」
 もう一回沼に飛び込むと浅くても膝まで、深くても腰の辺りまで浸かりながらザブザブ進んでいく。焦るような足音が後を追ってくるが、もうローラの顔を見るだけでこっちがキレそうだから顔を見る気など更々無い。
「ちょっと……待ちなさいよ〜!ロトの証を探すんじゃないの!?」
「そんなこと知るか!後で竜王とイトニーと合流して探せばいいだろ!」
「それって竜ちゃんとイトニーに悪いことなんじゃないの!」
 俺は倒れた巨木を縫うように進む。どうやら底なしという訳ではなく底は堅い地面と木の根が入り組んでいるため、沼の泥水の抵抗は凄まじいが歩く分には予想以上に足場があって楽だった。やはりいくら進んでも、生きている者の気配を沼の中も外も見当たらない無気味な湿原が続く限りだ。
 そんな湿原を見渡すとさっきのメタルスライムが幻に感じる。希望をへし折られる。
 しかし、それごときでメタルスライムを諦めてたまるもんか!!
「メタルスライムが最優先だ!」
「なんなのよそれ〜」
 批難を言いながらもローラの翳しているランプの光が俺の後をついてくる。
 女って奴はわかんねぇな。
 魔物に襲われる心配もほとんどなく、空も真っ暗のまんまだから時間の感覚もとっくに麻痺していた。黙々と沼地を探ってどれくらい経ったか知らないが、俺は木じゃない人工物に当たった。他の沼地と変わらず腐った木々が折り重なって倒れ、泥の流れをせき止めているのか土が山のように盛り上がっている。
 埋もれるよう崩れたブロックが見える。
 その土の中に何かの建物があるのか隙間があった。
「………」
「………」
 掴むと建築でも使う一般的な煉瓦だ。それを見下ろしながら俺は木の上に立っているローラと顔を見合わせた。
「人が昔住んでたのかな?」
 俺は隙間にランプを突っ込んで中を見回すと、中は木々の根が複雑に根を下ろす狭苦しい空間だ。さすがに俺では入れないが奥まで続いているか分からないが、奥までランプの光は届かない。さぁて、どうしたもんか…。
「アタシも手伝うよ!」
 弾けたように明るい声が響く。しかしそんな声に俺が喜ぶ訳ねぇだろ。
「姫さんがわざわざ汚れに来るな」
「アタシをお姫様扱いしないで!」
 そう言うが早いかローラは助走を付けて沼に飛び込んだ。泥が跳ね上がりローラが悲鳴を上げる。俺の立っている所まで泥が跳ねなかったから良かったが、ローラの泥の汚れた髪やら服といったら、悲惨だなぁの一言に限る。
「き…気持悪〜い」
 ローラは言葉と裏腹に早速俺の横まで歩み寄ってくると、隙間に同じようにランプの光を押し込んで覗き見る。ローラの横顔を盗み見すると沼地の感触を気味悪がったりする様子はなく、むしろ泥遊びをしているように楽しそうだ。
 ローラは奥まで続く細い道をしばらく眺めていたが、一つ頷くと俺を見上げた。
「あれくらいの隙間なら奥まで入れるかも。アレフ、この隙間に入るの手伝ってよ」
 お前なぁ…。
「んな危険な目に遭わせる訳いかねぇだろ。竜王やイトニーなら変化の呪文が使えるから、あいつらを待ってようぜ」
「嫌よ」
 ローラの瞳が挑戦的に輝いた。
「あたしができる事ならしたいのよ。アレフや竜ちゃんやイトニーみたいに強くないけど、あたしだって出来る事くらいあるはずでしょ?」
 だけどよぉ…。
 意識すると俺は顔を歪ませていたらしい。ローラが畳み掛けるように捲し立ててくる。
「今までだって魔物に遇わなかったじゃない。きっとこの中も何もいないよ」
 ローラの視線を真っ向から見つめて、俺はため息をついて逸らした。根負けだ。言っても聞かねぇなら行かせてしまってもいい。
 俺はもう一度ローラの視線にあわせるとゆっくり言い聞かせる。
「お前が危なくって悲鳴を上げたとしても俺は助けに行ってやれねぇからな」
「…うん」
「行ってこい。無力と非力は違うんだからな」
 ローラの瞳が驚いたように見開かれた。嬉しそうに目を細めて頬を染めると力一杯頷いた。
「…うん!」

 これだけ時間を引き延ばされて感じることなんか滅多になかったなぁ。
 俺はひたすらローラを待ちながら苛つきにまで高まった感情を持て余していた。実際は大して時間が過ぎ去っている訳じゃないが、待っているだけというのも結構苦痛だ。空の暗さも変化がなく沼の泥水の冷たさも変わらず、ただ澄ました耳に変化のない静寂が苛立を煽る。
「やっぱり行かせなきゃ良かったなぁ」
 ふと音に変化があったような気がした。慌ててローラが入っていた隙間に振り返ると音が大きくなる。
 音は背後から…
「こんな所にいたのか」
 地響きで重い沼地の水が波立った!
 冷静な声の正体よりもその振動に俺は反応して、舞い降りてきた2匹のドラゴンを見上げた!
「もっと静かに降りてこいよ!今の振動で建物崩れたらどうするつもりだ!」
 俺の剣幕に竜王とイトニーが互いに金色と深紅の瞳を見合わせあった。しかしイトニーがローラがいない事をいち早く察すると、目の色かえて詰め寄ってきた。
「まさか…ローラ様が中に入っておられるのですか!?」
「それは本当か!?」
 ドラゴン二匹に詰め寄られるのはかなりの迫力だな。
 俺がイトニーの問いに頷くのを見て、竜王がそのでっかい体を窮屈そうに屈めて建物を覗き込む。俺では入り込む事のできない入り口である隙間を認めると、竜王は少し呆れても急いた様子で変化の呪文を唱える準備をしだす。
「全く、無茶をする。私が変化して中に入ろう」
 『そうしてくれ…』と言おうとして水をかき分ける音が耳に響く。振り返って見つけたローラの顔を見て、俺は思わず吹き出した。
「え?どうしたの?」
 両肩にスライムとメタルスライムを乗っけて不思議そうにまばたきするローラがいる。悲惨な程に泥にまみれたローラの顔がそこにあった。一国の姫がこんな顔になるなんて聞いた事が無い。俺はメタルスライムがいる事よりも、ローラのその泥まみれな顔に負けて体をくの字に折り曲げた。
 笑っちまうのを堪えるので精いっぱいだ。
「ローラ…お前、顔が泥だらけだぞ」
 俺の様子を眺めるローラが竜王の指摘で見る見る怒りで顔を赤らめる!イトニーに手伝ってもらって隙間を抜け出すと、ローラは笑いを堪える俺に怒ったように震えて俺に掴み掛かって来た。
「う〜〜…。アレフも泥だらけにしてあげるよ!!」
▼泥だらけローラがアレフを押し倒した!
▼アレフが沼地の上に押し倒された!
「ぶ!こら、やめろ!」
 顔に泥の滴る拳をなすり付けられる。そんな俺達を2匹のドラゴンが見下ろした。
「何やってるんだ?お前らは」
 暗くて良く見えなかろうと、ドラゴンの顔であっても、ハッキリと呆れていると解る。
「楽しそうじゃありませんか」
 そういってイトニーは竜王の腹に泥をひっかけた!
 ローラの肩に乗っかっていたメタルスライムは、ぴょこんと一息で建物の隙間のレンガに乗り移った。なるほどね。ここがあいつの住処だったって訳か。
 とりあえず沼地に沈められないようにローラの攻撃をやり過ごすしかない。
 心配したのが馬鹿みてぇだ。

 ■ □ ■ □

 一番近いメルキドの宿屋に転がり込むと、俺達は沼の泥をようやく洗い流す事が出来た。
 メタルスライムの住処で見つけた金色の板は鳥が羽を広げたロトの剣の柄にある、そしてロトの墓所にあったあの紋章が刻まれている。実際泥だらけだったロトの証も洗ってみると新品のように輝く。純金製でルビー付き…売り値はさすがに付けられないだろうが、思わず顔がにやける。
 人間に化けたイトニーと竜王にロトの証を見せると、竜王が頬杖を付いてやる気無さげに呟いた。
「やっぱり、誰でも良かったんじゃないか」
 竜王の前にはルビーのような石が熱を帯びている『太陽の石』と、雲のようにフワフワとした握りがいのない『雨雲の杖』が並んでいた。さすが豪語しただけの事はあるようで、1日で集めてきやがった。
「そんな事無いよ」
 ローラの声に俺達が視線を向けた。俺達の視線を受け止めながら、ローラは俺達を見回した。
「だって、アレフは皆の事信じてたからロトの証を見つけられたんだよ〜。ほら、『信じる事の出来る者は勇者である』って良く言うじゃん」
「俺は誰かを信じていた訳じゃないぞ。第一、そんな言葉聞いた事もない」
 俺が素っ気なく言い返すと、イトニーが人間の間で読まれている児童本の一節だと教えてくれた。『勇者の条件』というタイトルを言われた時には、ローラはガキみたいに頬を膨らませてすねた。しかしよく人間の本まで手を出すなぁ…ドラゴンってのはそんなに暇人なんだろうか?
「だってアレフが竜ちゃんの言う外の世界を信じてるから、アレフは竜ちゃんと一緒にいるんでしょ? ロトの証を探す時だって、イトニーがここいら辺って言った場所を信じて探してたんじゃない。よく考えれば皆を信じてなきゃこんな事できないよ」
「ローラ、お前がいないじゃないか」
 俺の言葉に竜王が笑った。
「アレフに一番信じられてるのはローラだろう。お主がいなければ、私もイトニーもアレフと目的を共にするどころか、下手をすれば殺し合いになった事だろう。アレフに信じられたお主の言葉だからこそ、アレフは我々を信頼したのだろうしな」
 そこまで言うと、竜王は呆然とする俺達を交互に見遣って微笑んだ。
「仲人が必要かな?」
 俺とローラが強く否定したのは言うまでもない。