別れ

 乾燥した空気が吐く真白い息を奪うようにかき消していく。
 俺は一日欠かさず行う修練の為に暖まった体の汗を拭って、夜空を見上げた。
 太陽が昇らなくなった為に昼という存在は一日から消えてしまったが、夜というものがしっかりと存在する。つまり月は昇り星は輝くのだ。月光は太陽の代わりを果たせず日に日に真冬よりも寒さが厳しくなってはいるが、寒さに澄んだ空に浮かぶ満天の星空は闇に馴れつつある人々に眩しく映った。
 空が暗くなって初めて訪れた満月を眩しげに見上げた。太陽に負けない、星を消す明るい光だ。
 光を反射して白亜の壁面が発光したかのように照り出される。見上げた城は絢爛豪華なラダトームとは違い、重厚な教会のような造りの竜王の城と呼ばれている城である。内装も外見の印象と全く同じく、アレフガルド最大級と言えるミトラ神教の教会そのものだ。ラダトーム大聖堂の倍はある聖堂が一階に控え、地下階は6階にも及ぶ広大な空間と居住スペースと保管庫が、地上階は執政を行うスペースに当てられている。
 そう、俺は今、この城にローラと共に滞在している。
 俺達が集めた『太陽の石』と『雨雲の杖』と『ロトの証』を分析し、『闇の衣』を突き抜ける『虹』の力を生み出さなくてはならないらしい。その為には当然相応の施設というのが存在しなくてはならず、それがこの城であったと言う訳だ。魔物の保管している情報は人間の貯蓄量を遥かに凌駕していて、ラダトームの施設では全く話にならないと言うイトニーの説明も頷くしかなかった。
 本来なら俺達は留まれる場所ではないのだが、協力した故に結果を知る権利もあるという竜王の計らいだった。
 魔物達は最初警戒を強めていて殺さんばかりの殺意も滲ます者もいたが、竜王の幹部には人間の言葉に精通している者も多かった。上司と打ち解けるまで行かなくともそれなりに付き合いがあれば、部下も強く出る事はできないのは人間も魔物も変わりはしないようだ。
 俺は一番最初に打ち解けた、死神の騎士に向き直った。腕試しにと軽く試合したのが縁で、互いに暇が合えば手合わせしている。深紅の重厚な鎧甲冑と戦斧を軽々と扱う荒々しい外見に似合わず、紳士的で常識的な価値観を持っている竜王の側近だ。
 死神の騎士はというと、てくてくと歩いて近付いてくる人物を迎えている。
 小さい、魔物の姿の竜王だ。
「竜王様、何か御用ですか?」
「あぁ、少し頼みたい事があってな」
 だぼだぼのローブを捌き、胸元の深紅の宝石を揺らして歩みを止めた竜王は困りきった表情で俺達を見上げた。体よりも大きな杖を肩に掛け、苛立ちを散らす為か杖で肩を叩くように大きく動かして弄んでいる。
「研究の大詰めにも関わらず、大魔導が姿を眩ましてしまってな…。私もこのタイミングで席を外す訳にも行かぬし、イトニーには資料の整理をして貰わねばならん。今、動ける奴に大魔導を探してもらいたいのだ」
「また…ですか」
 死神の騎士がうんざりを声にしたような声で呟いた。
 俺が疑問に感じたのが表情に出たのか、竜王が苦笑しながらも説明する。
「大魔導は行動が非常に遅い男なのだよ。捕まえて会議室に引きずり出さねば、会議が始まるのを3日待たねばならぬ程のんびり屋なのだ。だが、仕事はできる。魔法論理で彼に勝るのは魔物の中にはおらんだろう」
「良いのヨ、良いのヨ!サボり癖のある悪い子だって、言って良いのヨ!竜王サマ!!」
 バサバサとけたたましい羽音を立てながら、これまた脳天に響く甲高い声が上空から降ってくる。旋回しながら下降し器用にも竜王の杖の上に止まったのは、赤銅色のメイジキメラである。足の無い柔らかい腹部をぽってりと杖に乗せ、ふわふわの首周りと翼を嘴で丹念に毛繕う。
「おい、竜王様の前で繕うんじゃない」
「いいじゃナイ!それよりもカレは今は自室にも廊下にも居ないワヨ!また壷にでもハマってるカシラ?」
「止めろ。今回も壷の中にすっぽりと入ってしまったとしても、二度と城内の壷を割る事は許さぬぞ!」
 貴様等は掃除せんではないか!と死神の騎士が殺気だつ。その様子に人間の声帯では表現しにくい笑い声を上げて、メイジキメラは杖の上で羽ばたいた。俺は彼等の様子を見ながら笑いを堪えるので必死だった。上司も上司だが、なんとも愉快で濃厚な部下共ではないか。
 俺が苦笑して眺めている先で、竜王が二人の間に入る。
「まぁ、怒るな。誰も大魔導が壷に嵌まっておったなど、想像も出来る訳なかっただろう」
 そこで黄金色の瞳が俺を見た。
「アレフ。お主も探しに行ってこい」
「俺もか?」
 俺は意外そうに眉根を寄せてはみたが、反論する事はできないだろうと思っている。なにせ、滞在中は完全に竜王の世話になっているのだ。城に宿泊させてもらい、イトニーが気を利かせて人間の料理を用意してもらっている。今ではすっかりさん付けする事も無かったが、竜王の部下の手前ではさん付けしようと思っても必要ないと言われたのをみると客人よりも友人のような扱いだ。応えなくてはならないだろう。
 だが、表情とは別に竜王の頼みを聞き入れる気はあった。この面白おかしい部下共を観察できる滅多にないチャンスだ。
 俺は一呼吸置いて、ゆっくりと頷いて見せた。
「分かった。良いだろう」
「では、頼んだぞ」
 了承の言葉に竜王も頷いて身を翻した。メイジキメラが杖の先端から飛び立って俺の肩に腹を落とす。
 竜王が完全に視界から去った後、死神の騎士も身を翻した。
「アレフ殿、ライキ殿と共に大魔導殿を探して頂こう。私は部下にも協力してもらうよう、一回詰め所に戻る。…くれぐれもライキ殿が変な気を起こさぬよう見張ってくれ」
 普通はこのライキと呼ばれたメイジキメラに『アレフが迷わないよう先導してやるんだぞ』というのが適切だろうに…。つまりこの俺の肩に乗っかっているキメラは、城内では有名なトラブルメーカーなのであろう。俺は同意しか求めない鎧を苦々しく見つめた。
「飛んでる奴を静止するのには限界があるが…努力はするさ」
 死神の騎士の兜の隙間から『では宜しく頼む』と声が低く漏れ、そのまま大股で歩み去ってしまった。
「じゃ、アタシ達も探しに行きまショウ!」
 残された俺の方に留まるライキは飛び立つ素振りもなく、翼を前方に振った。キメラの翼として店頭に並んでいる羽の倍近くの大きさの羽が、ずらりと俺の視界の半分を塞いだ。
 かくして人間とキメラの不思議な組み合わせの捜索が始まった。
 大魔導は魔物達の中では追随を許さない最大の魔力保有者であり、魔法研究の第一人者でもある。ただし、竜王が首飾りで力のを制限しているため、魔力の許容量や保有量は竜王が一番ではないかとの事らしい。とにかく魔法を使う魔物達の一派をまとめ、そのローブの色は最高権威色である光沢のある黄色であるとの事。頭は良いが一つ抜けていると有名であるらしい。重要な会議を忘れて遺跡の解明にいってしまったり、壁の隙間に挟れたり扉に挟まれて身動きが取れなくなったり、スライムに足を取られて転倒気絶も良くしているという。
 とにかく、ライキは良く喋る。
 今の大魔導の説明を要約に要約を重ねたのがこれである。今までの意外性に満ちた騒動の数々から昨日の相手のおやつに至るまで惜し気もなく語られて、俺はちょっとの時間でやけに大魔導に対して詳しくなったといえるだろう。非常にありがたくない。
 甲高く耳に障る声色は、頭痛を引き起こすには十分だった。耳元でギャンギャァンと喚き立てるような、人間の声色とはまた違う異質な音域。話す度に肩の上で毛繕う動きに体のバランスにまで気を使わなくてはならない。耳の奥が痛み肩が重い。俺の眉間は久々にこれでもかと言うほどに深く皺を寄せた。
 しかし、彼女だろうライキと別行動する訳には行かない。彼女はこの城の隅々を行く為の、通行書のようなものなのだ。すれ違う魔物達は人間の俺に驚きはするが、肩に止まったライキを見つけると警戒を解くことはないが敵意は失われる。俺も敵意を向けられれば少なからず殺気だってしまうやも知れぬので、己の身を守る意味でも彼女の存在はありがたかった。しかし、大魔導のプライバシー完全無視の情報は全くありがたくない。
「なぁんダカ、将軍の部下がゾロゾロと出て来たワネ。探す所も無さそウ」
 将軍…とは死神の騎士のことだろう。
 黒い甲冑の悪魔の騎士や、骸骨の姿が目立ち始めた。というよりも俺達が行く先々で見かける程なのだから、場内のほぼ全てに捜索網を広げたのだろう。
 ライキが休憩しようと中庭を指し示した。庭園というよりも鬱蒼とした森のような中庭である。魔物達の憩いの場だというそこは、せせらぎもあり日が差していれば芳醇な森と勘違いしそうな空間である。木々の隙間から見える白い城壁が、そこが中庭であると唯一知らせてくれる。
 俺も広い城内を歩き回っていた事もあり、それに同意した。
 巨木の根に腰を落とすと、ライキは向かい合う位置に降り立った。ようやく肩から重みが消える。
「そういえば、竜王サマとイトニーちゃんは進展があったカイ?」
「進展?」
 俺が首を傾げると、ライキ『そうヨ!そうヨ!』とかぶりつくような反応を見せる。
「イトニーちゃんはあんなに竜王サマの事が好きなのに、全く気が付かれないからネェ。アタシはもう焦れったくて仕様がないワ!でも、今回は珍しく人間も一緒だけど、二人だけの時間もあったでしょウ? 何か進展でもあったかしらと思ってネ!」
 完全におばさんじゃねぇか。
 俺は顔が渋くなるのをどうにか堪えた。確かに竜王の鈍感は俺も苦笑するほどだが、イトニーはイトニーで憧れと誤解されてもおかしくはない遠慮がある。親しく話しをしているし、行動も良く共にしている。竜王は紳士的といえる優しい態度であるし、イトニーもさり気ない気遣いが見える。端から見れば完璧な恋人同士と言えるだろう。人間の姿で歩けば、人はため息を零すに違いない。
 しかし俺は、ここでの態度を知らない以上何が進展しているかなど言い様がない。
 だが、恋人がするようなスキンシップがないのは確かだ。
「いや…特に思い至らないな」
 ライキが『マァ!?』と目を見開いた。
「竜王サマって竜族では若い方だけど、結婚適齢期ギリギリの年齢なのヨ!」
 知るかよ、そんなの。
 俺なんか一生独身で生きていこうと思っているんだから、結婚しなかろうとどうでもいいじゃねぇか。
 表情に出てしまったのかライキが凄んだ。あまりに凄み過ぎて、毛繕っていた羽毛を一本引き千切ってしまう。
「竜族の結婚事情って深刻なのヨ! 1000年後には竜族が全滅するんじゃないかって試算まで出ているノ! だから竜王サマのこれからの政治手腕には凄く期待されているけレド、同時に竜王サマの結婚にも凄く注目されているノヨ!!」
 そこでぐぐっと翼を広げた。
「竜王って呼ばれているノハ当然竜の王サマだから。それだけの力を持っているノニ、後継者も子孫もいないのではこれからが心配ダワ!!」
 あ、なぁるほど。
 竜王があんなに真面目で坊ちゃんっぽいのは、貴族出身だからなのだろう。イトニーの竜族の魔法使いの名家の出身であるらしいし、力ある魔物はそれなりの貴族として名を連ねているに違いない。竜王も父親か先代竜王の名を受け継いで、今の地位にいるのかもしれない。
「じゃあ、竜王は相当高位な家系の出身者なのだな」
「それは違うワ」
 ん?
 俺は一瞬首を傾げて固まった。
「竜王サマに血の繋がった家族はイナイ。あの方は一世一代で今の地位を築いたノ」
「じゃ…じゃあ、アイツ、孤児…なのか?」
「別に珍しくナイわ」
 ふいっとライキが毛繕いに戻ってしまう。散々喋っておきながら、俺の会話は続けねぇのかこんちくしょう。
 まぁ、魔物が人間と同じく育児意識があるとは思えない。ある意味動物のように巣立ちのような観念があれば、孤児だろうと関係はない。人間の視点でものを見過ぎだな…。俺は思わず驚いて孤児であるか聞いてしまったのを恥ずかしく思った。
「しかし…これだけ探して見つからないとはなぁ…」
 溜め息を上空に放り投げ木々の隙間から見える城を見遣った。
 魔物も探さないような場所など、どこにあるだろう?
 ……。
 ローラの部屋とか?
 しかしなぁ、ローラと金色ローブの怪しい魔物が茶を楽しんでいる訳がないか。
 ………。
 万が一というものがある…か? いや、なんか確信してきた。
 俺が立ち上がるのをライキが不思議そうに見上げた。

「大魔導…どうした? 頭にでかい瘤があるが?」
 金色のローブをズルズル引きずってやってきた俺を、竜王は首を傾げて見上げた。ローラの部屋で優雅に茶を楽しんでいた大魔導に、俺は我を忘れてぶん殴ってしまったのだ。後悔はしていない。貴重な時間を返せと言いたいくらいだ。
 ライキはライキでローラと部屋で楽しげにお喋りをしている筈だ。その旨を話すと竜王はイトニーにローラの元に行くように指示した。息抜きもあるかもしれないが、やはり抵抗手段の持たない人間と魔物を一緒にしておくのはできないのだろう。
 拳一つ分背の高くなった大魔導を突き出すと、竜王は回復呪文を掛けながら声を掛ける。
「大魔導、済まないが、もう、お主を待っている状態なのだ。やってくれるな?」
「あぁ、はい。すみません竜王陛下」
 大魔導がよろよろと立ち上がると、慌ただしく作業している赤や黒のローブの者達と合流する。巨大な円状に書き出された複雑な魔法陣の脇に設えられた巨大な卓には、溢れるほどの羊皮紙の古文書や巻き物が積み重なっており、筆記用具の数々が散乱している。それらに馴染んで『太陽の石』と『雨雲の杖』と『ロトの証』があるのだがら、俺は無くなってしまわないか心配になってしまう。
 魔法の事はてんで分からないが、彼等が本気で外の世界を目指しているのは空気で伝わってくる。お伽話のような『虹』の話を冗談だと思う者は誰一人いないだろう。
 この場にいる誰もが、真剣に取り組んでいるのだ。この、真っ暗い空の下で。
「本当に『闇の衣』を突き抜けられるのか?」
 俺が隣に立っているちっさい竜王に話しかけた。ちっさい竜王は頷くと、ここではないどこかを見つめて威厳のある声で呟いた。
「この先は私だけが行く」
「………」
 黙って竜王の声を聞いた。
 金色の瞳が己の部下を、そしてその先にある虹の力と世界に向けれらている気がした。今は天空に存在しない太陽の色が、多大な決意を秘めて色彩を凍らせていた。少しでも揺らめきが見えてしまえば、部下の不安になると知っている上に立つ者の瞳だった。
 本当は突き抜けられるのか、帰って来れるのかすら分からない。
 このアレフガルドに再び昼がやってくるかなど、保証も約束もできないかった。
 しかし、そうする為に動いてきたこの魔物達の王は引き返す事など許されない。機動力や魔力や能力や判断能力全てにおいて、彼以外が外の世界で行動するには制限があるに違いない。だからこそ、彼は部下の全てを置いてでも進まなくてはならなかった。
 慕われている事も、尊敬や信頼、果ては愛されている事も捨てなければいけない。
 死と同じくらいの決別だ。二度と会えないかもしれない別れだ。
 そこで竜王は俺を見上げた。暖かさを感じる光の玉と同じ色彩が、柔らかく細められる。
「正直、お前の助けを得られて助かった。お前がいなければロトの墓のヒントも、『ロトの証』も手に入れる事はできなかった」
「阿呆」
 俺は平手で竜王のでこをど突いた。竜王はいきなり事にバランスを保てず、あっけなくころんと倒れる。
 突然竜王がどつき倒されたので、作業に徹していた魔物達が手を止めて俺を見た。緊迫した雰囲気の中で、俺は腕を組んで竜王をにらみ付けた。
「何かっこつけてやがる! 詰まるところ、俺がいなければこんな素晴らしい解決策は、実行できなかったって事だろう? お前1人でアレフガルドを覆う『闇の衣』を、消す事が出来ると本気で思ってやがるのか!?」
 言いたい事が言えてスッキリ。俺は忘れていたくらい久しぶりに、唇の端を持ち上げて笑ってみせた。
「一緒に行ってやるって言ってんだよ」
 竜王の黄金色の瞳が信じられないものを見るように見開かれた。
「しかし…戻れる保証は何処にも無い。『闇の衣』を突き抜けられるかどうかすら、分からないのだぞ? 生きて戻れないかもしれん、道中死ぬかもしれん。これ以上私につき合う必要など、お前にはないはずだ」
「俺は自分から危険に飛び込む傭兵だ。今までもこれからもずっと危険や死と隣り合わせだ。お前と一緒に行ったからって何も変んねぇよ。外の世界が見たいって…前に言ったろ? お前に拒否権はねぇぞ!」
 竜王のしどろもどろの返答を一蹴すると、竜王は諦めたかのようにため息をついた。
「口の悪い男だったんだな」
 竜王は立ち上がるとローブについた埃を払って俺を見つめた。
「ローラとイトニーは置いて行くぞ」
「そうだな」
 こんな事に巻き込む事などできないからな。
 そう思いながらも、俺が一緒に行く事にあっさりと了承したのに驚いた。俺の助力を、コイツは俺が思った以上に重く受け止めているかもしれない。俺は大した事をしたつもりはないが、竜王本人にとってはとても重要なのだろう。
 いつの間にか魔物達も作業に戻り、あちこちで七色の光が見え始めている。魔法陣の調整を行うためか卓が退かされ、大量の資料が撤去されている。魔物達は本当に頭が良いのだな。もう完成に近い様相から背を向けておれた地は歩き出した。
 行く先には厄介な女達待っている。

■ □ ■ □

「ちょっと待て!こんなものを私に押し付けるな!」
「何言ってるんですか竜王様!もうスライムさんは、ベホマにイオナズンまで修得している身なんですよ!連れて行っても損はありません!」
 竜王の城の最上階でドラゴンの状態の竜王とイトニーは、スライムを煎餅にしながら言い合っていた。というかドラゴン2匹に、プレスされながらも平然と笑うスライムって一体何者だよ。
 なんでもイトニーの奴、暇を見てはスライムに呪文を教えていたらしく、今では大魔道も舌を巻く魔法の使い手となったらしい。…って言うかよぉ、喋れないただ揺れてるだけのスライムと、どうやって意思疎通をするんだよ。やっぱ役に立たねぇって…。
「アレフ、いってらっしゃいね」
「あぁ」
 ローラが満面の笑顔で送り出してくれるまで、俺達は出発を3日遅らせた。何で……って、言わずも分かるだろ?イトニーも随分とローラに感化されていたらしく、そろって俺達を困らせやがった。
 俺は疲れに少し引きつった顔を直しながら、スライムを押し付けられてしまった竜王の元に行こうとする。
 ぐむ。
 くるじい。振り向くとローラが俺のマントを握っている。
「変わったねアレフ」
「そうか?」
 俺は首に絡み付いたマントを緩めながらローラに向き直った。
「ちょっとの事も口で答えてくれるし、考えも言ってくれるようになったし」
 おい、俺がまるで無表情なワケワカランジンみたいな言い方をするな……って面倒を避ける為に自分からそうしていたんだがな。口は災いの元だ。決して譲れぬ金の取り引き以外では、滅多に口など利かなかった。
 良く喋る男になったもんだ。竜王に本来の口調で本音をぶつけた時は、自分で自分を疑っちまった。
「良く笑ってくれるようになったもんね」
 俺はたじろいだ。3日前に竜王に笑いかけた時以外で、自分から『笑う』なんてしなかった。だが、ローラの口調は俺が前々から笑い始めたね…って感じである。あぁ、そういえばロトの証を取った時も笑ってたかもしんないなぁ。
 俺の背後に竜王が立った。
「そろそろ行くぞ」
 竜王の背後には魔法使い達が円陣を組んで、魔法陣を起動させていた。魔法の力が渦を巻き始める。
 竜王は角にスライムを服に押し込んだ俺を捕まらせると、魔法使い達に『虹』を発動させるよう命じた。『ロトの証』を中心とした魔法陣は竜巻きのように激しく回り出す。魔法陣の脇に立った2人の魔法使いが『太陽の石』と『雨雲の杖』か掲げると、魔法陣が輝き出す。輝きは収束し、七色の光を伴って真っ直ぐ空に伸びた。
 俺はローラを見おろした。ローラが微笑む姿が竜王の広げた翼に隠れた。
 視界が七色の光に包まれた。竜王は垂直に伸びた虹を駆け上がっているのか、凄まじい圧力に角から手が離れそうになる。そして七色の光が忘れかけた空色になった。
 竜王が垂直から水平に体をたて直すと、俺は高い空から見下ろす果てしない世界に見入った。真っ白い険しい山脈もあれば、なだらかな平原や砂漠が広がっている。空は真昼で太陽が見え、陸地の奥や水平線の果てまで見渡せる様相に俺は溜め息をついた。
 アレフガルドではない世界がそこにあった。
「すげぇ…」
 俺が呟くが竜王は何の反応を返さない。『どうしたんだ?』と尋ねると竜王は下を見ろと言った。
 垂直に駆け上がったならば、真下にあるはずのアレフガルドがそこには無かった。
 ただ、広い海だけが広がっている。