悪霊の神々

 私が物心付いた時には、隣には義兄がいた。義兄も私と同じ竜族だったが、同じ親を持つ兄弟ではないというのは分かっていた。
 見渡せば私はアレフガルドの竜族とは全く異なっていた。とはいえ義兄も同じ一族と呼べる竜も無く、我々は天涯孤独の身で寄り添う様に生きていると思っていた。義兄はある人間と一緒にこの地に来たといっていて、お前もその地の匂いがすると言っていた。ただ、色んな地域の匂いが混ざって出身が特定出来なくて、お前の親は相当旅行が好きだったんだなと笑っていた。
 義兄は恩を感じていた人間がこの地で死んだので、アレフガルドに残る事を選択していた。しかし、私が故郷と呼べる見知らぬ世界に未練を感じているのを察すると、何くれと協力してくれた。義兄は色々と問題も多かったが、義兄も私も本当の兄弟の様だった。義兄が死ぬ時には、私はアレフガルドの魔物の統率者として申し分無い存在になっていた。
 『帰る事は難しい。命を失う程危険だ』
 義兄は私にそう切り出して初めて語りだした。義兄の恩人の人間は、アレフガルドから故郷に帰る事を一番最初に望み、途中で果てた人間だった。死に方は凄惨でその罪滅ぼしと恩返しの為に義兄は残る事を決めていたが、その死に方が恐ろしく故郷に帰るのを諦めていたらしかった。恩人の人間は博学で力があったが、どんなに調べても研究しても帰還の方法を見つけるに至らなかった。
 『この世界を閉ざしている力は簡単な物じゃない。あの人は世界に殺されたと言っても良い』
 私の名を呼んで、義兄は私の手を取って言った。痛い程強い力を込められ真剣な眼差しに息を飲んだのを覚えている。
 『世界に屈するな』
 そうして義兄は亡くなった。リムルダールを見下ろす丘に生えた一本の大樹の下に恩人の人間の墓があった。義兄が希望したそこには石碑もなかったが大樹が墓石みたいな物なのだろう。彼の核を埋めた時、諦めなかった者と諦めた者の無念がそれぞれに伝わってきた。
 私は何が何でも故郷を目指そうと心に誓ったのだった。

 □ ■ □ ■

 炎が踊り、影が濃くなる。アレフはルビスの攻撃を躱すので精一杯という感じである。鋼鉄の剣も融かされると判断してロトの剣で避けきれなかった炎を払っているが、次の一撃に体勢を崩してまで避ける。悪態と舌打ちがこちらにまで聞こえて来る。追撃として放たれた火の玉を私は杖で弾く。ぱぁんと高い音を立てて四散し、アレフからは透明な壁の内側からトマトを全力で投げつけられて潰れたのを見るようだろう。
 私の背後でアレフが立ち上がる。落胆が滲んだ声が耳に届いた。
「悪い。手も足も出ないなんて情けねぇな」
 人間がここまで神と称される存在と渡り合えるのは、情けないとは私は思わない。ルビスは確かに人間の力を軽く凌駕している。火炎に特化しているとはいえ、その呪文発動の時間は瞬く間と言って良い程一瞬で、威力は見た目以上に強力で人間ならメラくらいのサイズで焼死させる事だって出来るだろう。まるで炎を生き物のように従わせる。これが精霊という存在の力なのだろう。
「ルビス。一つ訊く」
 突如響いた低く冷たい声に、私は思わずぞっとした。
 炎が身を竦ませる様に動きを止め、震えるように揺らめいている。暖められた室温は急激に冷め、鮮やかだった世界はセピア色にまで色褪せて行く。私も敵に背を向ける事だと分かっていても、アレフを振り返って見たい気持ちに駆られた。この一瞬にして場を停滞させる程の何かを、アレフが発しているのだ。殺気でもない。威圧的な何かが場を圧倒しているのだ。
「お前等にとって、俺達は何者なんだ?」
 一瞬だけ私は振り返った。アレフが憎々し気にルビスを睨みつけている。その瞳の色は炎の光を吸い込んで、血のような深紅と滑るような漆黒に目紛しく色を変えていた。
『天上界の神々は竜王を龍神の末裔とは考えておりません。我々は貴方方を、邪神・悪霊の神々と同列の者だという判定を下しています』
 ルビスは生気のない上品な笑みを消す事無く、与えられた言葉を読み上げる様に淡々と答えた。
 私は怒りを覚えるかと思ったが、背後に居るアレフの怒りにそれどころではなかった。背中を撫でる殺気は強烈な感情ではなく、絶対零度にまで冷やされた殺意が放つ極一部の冷気のようだった。アレフはどちらかというと直ぐに感情が激しく出る人間だが、それが一線を越えると感情は鎮まり押し殺す。
「そうか、そりゃあ素敵だ」
 アレフがゆっくりと私の横に並んだ。彼らしい調子で紡がれた口調が、先程までの殺気を無かったかの様に覆い尽くした。
 それがあまりにも明るかったので、私は改めてアレフの人の良さを知った。私以上に私に向けられた暴言に怒ってみせれば、私以上に私が神々に向けた敵意を向けてみせる。それはアレフが魔物とか龍神の末裔とか関係なく、私を私として向き合ってくれているからだろう。溢れた感情は義兄が逝った後からは湧く事の無い、尊く久しい物だった。
 『世界に屈するな』義兄の言葉が蘇る。
 義兄の言葉は正しかった。私は貴方の言う通りとんでもないものと敵対する事になっている。義兄の恩人も、今の私の敵と同じかそれ以上の存在と渡り合ったに違いない。義兄の恐怖が私の心臓を高く響かせて血潮に乗って巡るのが分かる。だが、同時に武者震いのように高揚した気持ちが高まって行く。
 兄さん。私は良い友を得たよ。
 こんなに恐ろしい敵を前にして、兄さんの恩人の様に死ぬかもしれないのに、兄さんの様に絶望に打ち拉がれるだとうと分かっているのに…私は今、凄く嬉しい気持ちでいっぱいだ。隣に居る彼の存在が私を勇気づける。私達の前に立ち塞がる敵に、負ける気がしない。
 アレフガルドを…私の故郷を必ず救ってみせる。
 だって私は生物の頂点たる竜族の王、王の中の王と称される竜王と呼ばれているから…!
「精霊ルビス……」
 私は諭す様に優しく彼女に声を掛けた。
「私はゾーマに攫われて良かったと思っておる。私は確かに泥水を啜り、石を投げつけられ、魔物にも受け入れられず、魔物であろうと敵であればそれを殺して生きて来た。今思えば、私は魔物ではなかったからかもしれん。魔物に認められるのには尋常ではない苦労があった。今も魔物に部下にすら心を開く事ができん。………だが私はこうして魔物を束ねる身になった」
 半歩下がると私は変化を解く。本来の竜の姿を納めるには、この祠の空間はまるで空の下のような天井の高さを持っていて全く問題なかった。尾が壁となっていた海水を薙ぎ払って大粒の雨の様に祠に降り注ぎ、翼の羽ばたきが巻き起こした風がその雨を巻き上げて空中にまき散らした。アレフが真後ろに立つ私を見上げた。私もその感情に釣られて笑い返した。
「悪霊の神々だか邪神だかはよく分からん…だが貴様らには喜んで呼ばれようじゃないか!! 貴様らのように命の事など考えておらん者のような愚か者に成り果てる事なく、堂々と貴様等の敵であると主張できる!!」
 咆哮が海を震撼させる。
 瞬間、海と祠を隔てた壁が壊れた!渦の様に私達を取り囲んだ海水は、目映い光を帯びて回り続ける。この感触は話や本でしか訊いた事は無いが恐らく旅の扉だ。
 その中でルビスがただ一つの赤として浮かび上がり、それがどんどん遠ざかって行く。瞬く間にルビスが見えなくなる程に遠退き、目の前に居るだろうアレフもスライムも、私の巨体ですら光の渦に視界を飲まれて見えない。
『アレフガルドに戻り決断なさい。勇者となるか、死ぬかを…』
 光の向こうからルビスの声が聞こえた。

 光に痛めた目が闇に癒されていく。私は懐かしいが少し淀んだ空気を吸い込んで確信した。ここは間違いない。
「アレフガルドだな…」
「戻って来たようだな…」
 私の横でアレフが言った。どっちがどっちを言ったのか分からなかったが、お互いここがアレフガルドだと確認し合った。
 アレフガルドは低い所に三日月のようなかぎ爪の月が僅かに光を投げかけていたが、何もかもが黒く塗りつぶされて何処であるかを判別するのは難しかった。私が飛んで見下ろせば分かるのかもしれないが、見下ろして海も陸地も全てが墨汁に浸された様に見えたなら…そんな恐怖に飛び上がる気すら失せた。私達がアレフガルドを離れた頃よりも、ずっとずっと暗くなっているだろう。
「竜王、お前大丈夫か?」
 私達が戻って来たアレフガルドを眺めてどれくらい経った頃だったろう。アレフは私に何気なくそう問いかけた。
「何がだ?」
「何がって……お前なぁ」
 アレフは私の足下で呆れた様に言った。
「結局、お前の母親死んじまったんじゃねーのか?」
 そういえば、そうだ。
 大魔王ゾーマを退け闇の衣が覆っていた状態にも関わらず太陽の光りを投げ入れた本物の光の玉…龍神の末裔の命が生み出す秘宝は私の身内の誰かの命なのだ。私の身内はアレフの言葉の通り、母親の命である可能性が非常に高い。龍神の末裔がどれだけの数居るか定かではないが、今、我々が把握出来る存在は私か私の母親だけ。アレフがそう推測するのは正しいし、私も光の玉となったのは私の母ではない別の末裔だろうと楽観視する事はしない。ただでさえ、竜族とは子を産むのが難しい一族なのだ。
 ようやく母親の死を察した私だったが、実感としてはどうしても湧かない。冷静に考えれば母親も存命していればかなりの高齢で、普通の竜族だったら死去していてもおかしく無い。確かに会いたかった。会いたい気持ちでアレフガルドの外を目指したが、不思議な事にそこに母親に会って何かしたいという具体的な目的は無かった。
 私はもしかしたら、私という不安定だった存在を母親を捜すという事で安定させたかったのだろう。アレフガルドで生まれた訳でもなく、魔物の筈なのに魔物らしく無い、何処かにある言い様の無い違和感をはっきりさせたかったのだろう。ルビスから突きつけられた真実は確かに衝撃的だったが、今の胸中は驚く程に清々しかった。
「なんでガッカリしないんだよ。母親に会うのがお前が外を目指した目的だろう?」
「何処かに本物の光の玉がある」
「竜王、お前は本当に滅茶苦茶前向きだなぁ」
 お前らしくて良いけどさー、アレフが笑った。その声に私も気持ちが明るくなってしまう。
 不思議な事に私は母親が生きている気がしてならないのだ。理由は無かったが、盲信とは言えない程に私は確信していた。きっと本物の光の玉を見れば分かる。
「だが…」
 アレフは真剣な様子で言った。そこにはもう明るさは微塵も残っていない。
 私もアレフが敢えて言わなかった部分を察していた。もう光の玉を探している時間が、アレフガルドに残されているとは思わなかった。そのペースは大魔王ゾーマの暗黒の時代と比較するのも辛い程に早い。一体、かの時代はどのようにして闇に閉ざされる時間を引き延ばしていたのか、逆に不思議に思う程だ。何もしなければ、何も無ければ、世界はこんなにも早く闇に閉ざされてしまうのだろう。
 そうなれば、残っている手段は一つだけ。人の良いアレフには辛い選択だろう。
「どうする?」
 私は体を屈めアレフに出来るだけ顔を近づけた。アレフはスライムをお手玉の様に弄びながら、シラを切る様になんの事だか訊き返した。私が黙って返事をしないで見つめると、静寂に耐えきれなかったアレフは舌打ちをして言った。
「あの女は俺達を『敵』と言ってくれたんだぞ? 人間の守護者として助言を与えていたが、敵に塩を送るとは思えない女の言葉を丸呑みするつもりか?」
 ルビスが本当に真実を我々に告げたのか、それを信じて良いのか疑うのは当然だ。だが、私は…私だからこそ分かるのだ。あの言葉が否定出来ない。突きつけられた言葉は何処か私を納得させてしまうのだ。
 切望しているのだ。私が一体何者なのかを知りたかった。それを今まで母親に会うという目的で追いかけていた。
 私はアレフの瞳を覗き込んだ。
「証明して欲しい。私が、本当は何者なのか」
「俺にお前を殺せと、勇者になれって言うのか?」
 冗談キツい、そう言い捨ててアレフは私から視線を逸らした。彼の見る視線の先にはアレフガルドの大地がある筈だ。
 空気には淀んだ空気に混じって腐った匂いが混ざっていた。暗闇に沈んで見えないが植物が枯れ蕾の花は咲かずに腐り、果実は熟さず枝から落ちている。寒さに息絶えている生命は想像以上に多いだろうし、その死肉を貪るにも絶望に気持ちを手折られている者の溜息が満ちているのを感じる。アレフガルドは死につつある。どんなに火を起こしても、光を絶やさずに居ても、アレフガルドに住まう者の心を支配しているのは圧倒的な絶望なのだ。
 ここに戻って来た私も、既に絶望が心の中に忍び寄って来ている。
 アレフの溜息も悲観的な思いを滲ませている。
 目の前にあるのは死しか残されていないのだ。もう、アレフガルドの住民に選べるのは、死ぬ場所と死に方くらいだろう。
「………本気で殺し合ってみようじゃないか」
 私は笑ってみせた。
「もし私を殺せれば『光の玉』が得られるのだろう? だが私とて死にたくはないから本気で抵抗するぞ。それでお前が死んでしまえば、そう長く無い内にアレフガルドも私も後を追うだけの話だ」
 アレフは黙っている。だが、歯を食いしばる音が僅かに響いた。
「私は魔物を束ねる竜王だ。人間のお前が偉大な私の考えを理解する必要は無い」
「偉そうに抜かしやがってこの蜥蜴、輪切りにしたろうか」
 苛つきを見せて言い返すと、アレフはそのまま黙り込んだ。そしてどれくらい経った頃か分からなくなる程時間が過ぎて、一つ溜息を零して吹っ切れた様にアレフは言った。
「そうだな。やってみるか」
「その調子だぞ。勇者アレフ」
「勇者なんて呼ぶな」
 アレフが笑って私の爪先をロトの剣の腹で軽く叩いた。戯れ合うような人懐っこい笑みに、私も思わず笑ってしまう。
 あぁ、こんな勇者が居てくれるなら、きっと世界が救われるのも仕方が無い気がする。こんな絶望的に暗い夜なのに、彼の背中の後ろから太陽が昇って来そうな気配がする。
 私は彼に本当に勇者になって欲しいと望んでいた。