最後の戦い

 細い月がアレフガルドを照らしている。僅かな光だったが、夜目が利く俺には十分な光だった。
 吐く息は白く底冷えする程に冷えた体を、俺は少し体を動かして暖める。スライムを適当な岩の隙間にねじ込んで荷物が火炎に黒こげにされない様に埋めておく。こんな事態になっていても、体に染み込んだ傭兵としての感覚はそう簡単に無くさないらしい。どこかそんな行動を笑ってしまうが、頭は異様に冴えている。
 鋼鉄の剣の柄を握りしめる。俺の傭兵人生の半分以上を共にした相棒で、こいつで切り開いた道は沢山あった。竜王には傷一つ付けられないというのは分かっていたが、どうにも鋼鉄の剣を置いて行くつもりにはなれない。ロトの剣を主に使うとしても、相棒はやはり定位置に居るべきだものな。兜のベルトを締め直し、手袋の弛みを直す。そして、俺はロトの剣を構えて竜王に向いた。
 リムルダールへ向かう海峡の洞窟で対峙したイトニーと比べれば、数倍と言って差し支えない巨体が垂直に立ちはだかる。漆黒の鱗は白い月明かりに、真珠のような淡い色合いに縁取られ光っていた。黄金の瞳は穏やかな感情を宿して俺を見下ろしていたらしい。竜王は待ちかねた様に、俺がロトの剣を構えるのを認めて厳かに言い放った。
「では、行くぞ」
 一瞬にして空気が変わった。まるで突風のように殺気が吹き付けて、背筋が凍り付く程寒くなる。竜王の黄金色の瞳にさっきまで浮かんでいた感情は無く、冷たく感情の窺い知れない視線で見下ろしてくる。俺は吹き出た汗でロトの剣を握り直した手が震えているのに気が付く。
 これが本来の竜王の殺気か。流石、魔物の王様やってるだけの事はある。
 僅かに風が竜王の方角に流れる。見上げると、その風は竜王が大きく息を吸い込んでいるから生じた者だった。竜王が仰け反る程に吸い込むと、僅かに開いた口元から赤い光が漏れる。炎だ。竜族が炎を吐く事は有名だし、イトニーよりも巨大なその体が生み出す炎は熱も量も比較にならない筈。
 俺は直ぐさま周囲を見回したが、隠れる事の出来る岩は無い。視線を巡らすうちに、辺りは夕焼けかと思う紅に包まれ俺の影が長く背後に伸びる。闇に馴れていた視界に広がる高熱の炎の光で目が眩む。風が含んだあり得ない熱気が迫り、耳に炎の唸り声が轟いた。
 このままタダで焼き殺されるなんて傭兵の恥だ。
 傭兵は最後まで足掻いて敵に一矢報いなくてはならない。俺は正面から炎に向き合った。炎は視界に納まらない程巨大な火の壁になって目の前に迫っていた。俺はロトの剣を上段に構えて、勢い良く炎を切り裂く事を願って振り落とす。炎は変わらず迫り、俺の周囲を包み込んだ。服が焦げ付く音が轟音を退けて耳に届き、体が持ち上がるような熱気に足を意識して踏ん張る。永遠に感じてしまうような長い一瞬の間が過ぎ去り、俺の体は燃え尽きる事無く地面に立っていた。
 地面から焦げ付いた匂いが熱気と共に立ち上がる。闇に隠れている所の殆どは黒こげだろう。
 ロトの剣が竜王の火炎を切り裂いた。
 竜王はその事実を見届けると翼を羽ばたかせる。あの巨体が持ち上がるだけの浮力を生み出す風圧に、俺は体が持って行かれそうになるのを地面に突き立てた鋼鉄の剣にしがみつく事で堪える。動きが鈍ったのを認めて、竜王が巨体を捻る! 家一軒を吹き飛ばすだろう巨大な尾が俺に迫って来た!
 ちっくしょ! でたらめだぜ!
 俺は尾の速度とタイミングを合わせ、飛び上がって尾の丸みにロトの剣を這わす様に受け流す。生み出された風圧と衝撃に完全に体が浮き上がった。ベルトに巻き付けてあった命綱用のロープを鋼鉄の剣に素早く巻き付けると、俺が浮き上がったのを認めた竜王の腕が切り裂く為に突き出される。ロトの剣でその鋭い爪を弾いて、質量的に俺が弾き飛ばされる形になる。鋼の剣を竜王の腕目掛けて放つと、引っかかった衝撃で飛ばされた勢いが消え迫って来た次の攻撃も真下を通り過ぎて行く。
 大きさの違いは圧倒的だ。そこを上手く利用する必要があるが、相手も当然そこを狙って来る。
 地面に着地出来るかどうかの間に、竜王は再度羽ばたいた。何処かに縋り付く術もない状態で、なす術無く風圧に体が吹き飛ばされる。
 息を堪え必死に目を開けて状況を確認しようとする視界に竜王が動く。次の瞬間、体の下に何かが滑り込む…!
「……ぐっ!」
 体を丸め衝撃を備える動作の合間に、体の下に滑り込んだ何かが俺の体を高々と跳ね上げた! 骨が何本もいっちまう衝撃に声すら失う。体が浮き上がる感覚と回る世界の中で、月だけが薄く嘲笑う様に輝いている。
 とことん、俺を地上に降ろしたくねぇってか…!空が飛べる竜王に比べれば、地上戦は小回りの利く俺の方が有利だからな。
 下から竜王が飛び上がって来た。金色の殺意の間に、真っ白い鋭い輝きに縁取られた深紅が俺を捕らえようと大きく開かれた。咆哮が空気ごと体を揺さぶり、頭の奥で鈍い音が響いた。本能的な恐怖と、この一瞬が勝負と嗅ぎ取る理性が俺を叱咤した。俺は喉が張り裂ける程に大声で、竜王の咆哮に抗った。
 鋼鉄の剣を竜王の口目掛けて力一杯投げる。
 口腔内に消えた剣は致命傷にはほど遠くとも、人間でいう喉に魚の骨でも引っかかる違和感を齎したんだろう。僅かに閉じた口に飲まれるのを免れれば、俺の体は重力に引かれて竜王の体の上落ちる。金色の合間。眉間に力一杯体を落下させると、俺はロトの剣を精一杯鱗に突き立てた。
 ロトの剣は名剣だった。
 マイラの伝説では、世界一堅いオリハルコンを日の出ずる国の人間が鍛えた至高の宝剣だ。だが、今の俺なら分かる。これはあの神々の力が宿っている。ルビスの奴が『竜王を殺すか決めろ』言うだけあって、この剣は普通の人間に神の力を与える。圧倒的な力の差を強引に平等にしてしまう。
 鋭い切っ先が竜王の鱗を突き破り、深々と刺さった。俺が落ちる勢いと竜王の飛び上がって来た勢いが加わって、竜王の眉間から首筋を切り裂いて行く。引っかかる事を剣の刃は知らない様に、無情なまでに竜王の鱗を紙の様に切り裂き続けた。竜でいえば核の部分。そこまで切り裂き続けた時、何かに初めて引っかかった。
 眩しくとも目が痛く無い…あの光の玉の輝きが剣の切っ先から漏れた。
 暴れる様にもがき竜王が地面に落下した衝撃に、俺はついに剣から手を引き剥がされた。吹き飛ばされ地面に叩き付けられる衝撃に体がバラバラになる程の痛みを感じ、俺は意識を手放しそうになる。朦朧とする視界の中で金色の光が見えた。それをぼんやりと見ているうちに光は細くなり消えて見えなくなった。
 次の一撃は来ない。
 待てど暮らせど、竜王が起き上がる気配がない。その時になって俺は竜王が死んだ事をようやく知った。
 殺したか。死んじまったか。
 脳髄を揺さぶるような何かと体を叩き付けられた衝撃に起きる気もなかった。倒れ込んでいると、要らない事も頭に湧いて来る。
 言い様のない感情の中で一番最初に首をもたげたのは、傭兵らしくこの先の事だった。ローラやイトニー、魔物の連中になんて報告すれば良いんだろう。何から…話せば良いんだろう。あの女達の事だ、泣いて俺を責めるなら気が楽だが一生懸命受け入れようとするに違いない。魔物達も誇らしい王の最後に感謝の言葉も俺に述べるだろう。畜生、俺の回りはどうしてそんな奴ばっかりなんだよ。
 傭兵はどんな仕事も不平不満言わねぇで実行するもんだ。
 犯罪まではいかなくても汚い仕事だって、そりゃあそれなりにやって来た。それでも、神々のお願いなんて二度と聞きたくねぇな。ロトの剣を持つ俺を使って竜王を殺させた。自分達が忌み嫌うたった一つの汚名を、勇者という操り人形で晴らしてしまった。導いて、追いつめて、俺達にはもう選択肢なんかなかった。
 自分達の手を汚さずに手を下し、奴らの思い通りだ。
 竜王が流した多量の血溜まりが広がっていて、いつの間にか気怠い顔の半分が浸かっていた。もう、生暖かくも無い。体を起こすと、竜王の血飛沫で上から下まで濡れていて、体を重くしていた。俺は血溜まりの中を進み、服から多くの竜王の血を滴らせて波紋を広げながら横たわる巨体に向かった。ようやく傍に辿り着いて見上げると、光は見えない。ロトの剣も見えない。
 俺は苦労して竜王の体を回り込んで、反対側に辿り着いた。
 闇の中に光があった。
 ロトの剣に引っかかる様に竜王の体にあったのは、光り輝く玉。あの洞窟で竜王に見せてもらった光の玉よりも、もっと暖かい光を放つもの。龍神の末裔の命が生み出す至高の宝玉がそこにあるって事は、やっぱり竜王は神々の一族の一人だったのだ…。
 『光の玉』がそこにある。
「竜王…手加減しやがって」
 そう言ったつもりだった。だが何も聞こえない。俺は自分の鼓膜が破れていて聴覚がぶっ壊れているんだと知った。
「大馬鹿野郎…」
 俺のその言葉に、光は笑う様に輝き続けた。