旅の終わり

 いつの間にか意識がなくなっていたらしい。体が酷く冷えて節々が疼いた。
 もう、どれくらい時間が過ぎ去ったのか知らないが、空を見上げても星一つ昇っていない。目を凝らして目を擦っても、辺りをどんなに見回しても先程昇っていた月も太陽が昇る様子も見えない。心の中で嘘だろう…と呟いた。光の玉を得たのに太陽が昇らないのか。そんな馬鹿な。
 俺は背を預けていた竜王の体から離れると、光の玉に触れた。光は目映かったし、玉は触れても消えない。
 なんで…。
 まさか騙されたのか。俺は言い様の無い不安に凍える思いだった。
 俺は思わず脱力してその場に座り込んだ。全て選択を最善と思って選んで進んで来た。竜王は決断して彼が残す最後の命を俺に託した、それはアレフガルドを照らす力となる筈だった。しかし、それじゃあ駄目なのか? 今になって冷静に考えれば、確かにロトが光の玉を持って来た直後から日が昇るのに実際に昇ったのはゾーマを退けた後。俺は酷く後悔した。光の玉を手に入れるだけではいけなかったのだ。
 なんてこった…、俺は片手で思わず顔を覆った。
 俺には知識なんてない。この先どうすれば良い? 光の玉を持って帰って、誰かに相談すれば良いのか? 湧くばかりの質問にいつもなら答えてくれる筈の竜王は、もう死んでいるのだ。俺が殺してしまったんだから…。竜王、やっぱりお前は生き残るべきだったんだ。光の玉を手に入れればどうにかなるなんて、そんな簡単な問題じゃなかったんだ。
 俺は光を見上げた。光の玉は相変わらず暖かい光を零しながら、竜王の傷口に埋まっていた。
 血の気の薄い紙のような唇が言った言葉を思い出す。『竜王を殺せばその命が『光の玉』となるでしょう』そんな意味を呟いた言葉だった。
 光の玉は竜王の命。生き返らせる事が可能かもしれない。そんなの、正気じゃない事は分かっていた。だが、共に旅をした友人を手に掛けた俺が真っ当な神経だとは到底思えない。それでも、僅かに湧いた希望の前に伸ばしかけた手は止まる。生き返らせる術なんかあるのか?
 呪文…。もしかしたら蘇生呪文とかあるかもしれない。
 俺は竜王の体から離れて、スライムを突っ込んだ岩を探した。苦労して探すと、スライムは俺が突っ込んだ状態のまま、岩の間に挟まっていた。
 俺は岩陰から引っ張り出すと力の限り引っ張って伸ばす。
「おいスライム!お前ならどうにか出来るんじゃないのか!?」
 必死でスライムを揺さぶるがスライムはただヘラヘラ笑うだけで、何の反応も示さない。俺もお前みたいに呪文の才能があったら、どうにか出来たかもしれないのに…。もっとイトニーに呪文の事について聞き出せば良かった。イトニーは結局、他の魔導師と同じく俺には呪文の才能が無いと言っていた。
 そうだ…彼女は呪文が扱えないとは完全に否定はしなかった。
『貴方にもきっと自分の力ではどうにもできないような事柄に、出会うかもしれません』
 俺は記憶の中からマイラの途中で焚火を挟んで語るイトニーを必死で探した。彼女は相変わらず俺の記憶の中でローラの横に居て、俺を見かけると遠慮がちに微笑んだ。あぁ、アレフさんも懲りない人ですね…そんな事言いながら俺に説教垂れそうだ。
『心の底から望む事が出来れば、きっと呪文を修得できるでしょう』
 望む。望むってどうするんだよ!
 俺は記憶の中で彼女に詰め寄った。頼む、思い出してくれ。彼女はなんて言った。あの時、あの焚火の炎の向こうで俺になんて言ったんだ…!
『どうか貴方に『願い』が生まれる事を、私は願っています』
 焚火を挟んでイトニーが微笑む。いつの間にかローラも起き上がって俺を見ていた。無邪気な笑みで、励ます様に。
 そうだ、竜王を迎えに行かなきゃいけないよな。俺が竜王を殺して助ける手段も何もせずに戻ったら、半殺しにされちまうかもしれない。泣かれるのだってそりゃあ嫌だが、一時だけでも共に過ごしたあの時間を懐かしく失いたく無い気持ちがやっぱりある。今までの人生でこんな気持ちが無かった訳ではなかったが、こんなに強く思う事は殆ど無かった。
 これが願いだとしたら…やるだけやるしかない。
 俺はどうすればいいか分からないが、必死に願いを込めて竜王の冷たい体に触れた。『光の玉』に、竜王の命に呼びかける。どれくらいそうしていたかは分からないが、いつの間にか視界いっぱいに『光の玉』の放つあの眩しいけど痛くはない光が満ちてゆく。手に何かを持っている感覚が生まれ視線を落とすと、光の玉を包み込むように持っていた。
 見渡す限り乳白色の霧で満たされた場所だ。霧の切れ間で遠くまで見える事もあったが、遠くまで見えても何かがある訳ではない。自分の影も薄明るさに暈けて光と解け合っている。見上げれば明るい雲が覆っているのか、俺の真上に真っ白い光りがあり丸い虹色の暈を拡げ霧も色付けた。何も無いそこは方向感覚を見失うと警戒した俺だったが、そこには一つの揺るがない法則があった。
 風は感じられないのだが、霧が流れる方向が決まっているのだ。俺は何気なく霧が流れて来る方向に足を向けると、その変化は直ぐに体に表れた。歩を進む毎に霧は重くなって液体のようにまとわりついてくる。そして最初に立った時には感じられなかった現実味が帯びて来る。言い様の無い恐怖で足が進むのを本能的に拒んでいるのが分かる。状況を考えれば、その現実味を帯びるものは『死』だろう。
 何となく思だけだ。死んだ後の事なんか分からない。
 霧が途切れると思わず意識が向いてしまう俺だが、そこに初めて人影を見た。一瞬子供かと思った小柄な影を、俺は思わず小さい魔物姿の竜王かと思って追いかけた。人影の移動する速度は早く無いから、俺は直ぐに人影の全体像を確かめる事が出来た。竜王ではない。そこに居たのは人間だ。
 量の多い黒髪の剛毛を持つ小柄な旅人の装いの人間は、俺に気が付く事無く霧に向かって歩いていた。蒼い瞳にふっくらとした頬の女は確かに旅人の装束だった。しかし、戦士の様に筋肉隆々でも、素早い動きを得意とするような者の体つきでもないし、魔法使いのような出で立ちでもない。旅行のついでに立ち寄りましたと言いたげに歩く彼女の掌には、俺と同じ様に光の玉が大事に包み込まれていた。
 俺は思わず目を見開いた。見間違え様が無い。目を痛める事の無い眩しさを放つ光なんて、そう簡単に見れる物じゃない。
 口を開き呼び読めようとした時、女と俺の間に大きな霧が割り込んだ。その霧に突っ込む様に飛び込み、彼女の居ただろう場所に伸ばした俺の手は虚しく宙を掻いた。そこには女の人影も、存在も既になかった。
 あの女も光の玉を持っていた。偽物だろうが本物だろうが、あの女は光の玉に関わっている人間なんだ。しかし、どんなに記憶を逆さに振って思い出してみようと試みるが、彼女をアレフガルドの何処かで見かけた記憶すらない。仮に関わっているとしても、勇者ロトの時代の人間の可能性だって高い。あれは幻だったのだろう。何が見えても、不思議じゃない。
 俺は早まる鼓動を落ち着かせながら、考えを切り替えた。
 竜王を探さないと。
 俺は再度、霧を掻き分けながら霧の源流を目指して歩き出した。酷く長い距離を歩いて、ついに一歩が億劫になってきた頃に俺はようやく足を止めた。
 霧の切れ目に竜王の巨体を見つけた。横たわり眠っているように瞼を閉じているその体は、呼吸をしていて等間隔に体が揺れた。俺はとにかく見つけた事に安心して、竜王の傍らに立つとある事に気が付いた。歌が聞こえるんだ。柔らかく優しい女性の声が紡ぐ子守唄が、瞼を重くさせるように心地よく響いている。
 歌は聞き覚えの無い言語で歌われていたし、どこか人ではない音域もあったのか子守唄なのか疑わしい感じがする。しかし、その歌声は俺にも眠気を誘う効果があるらしかった。思わず漏れそうになる欠伸を噛み締めると、その音色にはどこか聞き覚えがある気がした。母親が歌っていた調子と音程に似ているが、子守唄なんてどれも似たようなもんだろう。
 もう、母親も生きてはいないだろう。僅かに浮かんだ罪悪感が苦い。
 声のする方角を見遣るが霧の源流に近いせいか、全く何も見えなかった。この霧の果てにあの世があるとしたら、死者の呼び声にしてはちょっと場違いな気がする。普通は『おいで』とか誘いかけるものらしいんだがな…。慈しみ包み込む様に響く歌声は、抱く事も叶わずここで竜王を寝かしつけているようだった。
 俺は少しその方角を見ていたが、竜王に視線を戻した。このぐーすか子守唄に高鼾掻いてるいい歳こいた大人を起こしてやるのが、竜王の威厳を保つ最善の手段だ。この醜態も勿論墓まで持って行ってやろうと思っている。俺ってば、優しいなぁ!
 俺は竜王の頭に回り込むと、眉間の辺りを渾身の力を込めて鞘に納めたロトの剣でぶっ叩いた! 霧の中に鈍い音が響くと、俺の目の前で竜王がすげぇ痛そうに歯を食いしばって薄目を開ける。黄金色の瞳が俺に気付くと驚いたように見開いた。
「アレフ!?」
 俺が軽く手を挙げると、霧の流れる方向に歩き出した。『死』と『歌』から少しでも遠ざからないと、俺は膝が砕けそうだった。数歩歩いて振り返ると、竜王は戸惑った様子で霧の源流の方向を見ていた。歌は相変わらず響いている。もしかしたら竜王の母親の歌声なのかもしれないな。あの世にこれだけ近けりゃなんでもありだが、卵から孵る時には天涯孤独と訊いていただけあってちょっとメルヘン過ぎるかもな。
 俺が苦笑いして視線を戻るべき方角に向けると、霧の隙間にあの黒髪の女が見えた。悩み事なんてなさそうな笑みと辛い事なんて知らなそうな足取りで、やはり光の玉を持って霧と同じ方向に向かって歩いて行ってしまった。
「どうした?」
「母親に会わなくて良いのかなぁ…って思っただけ」
 俺は竜王の問いを意地悪い返事で濁した。光の玉を持ってうろついてる女が居たなんて言って、信じてくれると思わない。竜王が歩き出したのを見て、俺も並んで歩き出した。液体のように重かった光が霧のように軽くなり、やがて霧が光のように五感では感じられないものになる。
「きっと、私が本当に死んでしまって光の玉がお前の手に残っていたら、お前は私の母親だろう光の玉を探しに行ってくれるのだろうな」
 竜王の呟きに俺はぎくりと体が思わず強張ったのを感じた。そして脳裏に浮かんだのは光の玉を持ったあの黒髪の女の姿だった。俺がお人好しだと認めたような様子を竜王は楽しそうに笑い、そして言った。
「大丈夫。必ず会える」
 竜王の確信めいた言葉が響いた時、俺達は光を突き抜けてアレフガルドの変化を見た。
 太陽が戻って来た。紅に空を染め上げながら。