いつかあの樹の下で もう一度あなたに会いたい - 前編 -

 今日は特別。運命の日だ。
 こんな日に限って、雲一つない晴天になりそうだ。
 俺は真っ白いコックコートに袖を通し、スカーフを首に巻く。コック帽に耳を押し込み、コートの裾を三回腕まくりするのも、毎日毎日欠かさず繰り返した日課だ。
 まだまだ夜明けまで時間がある早朝にも拘らず、厨房には明かりが付いていた。俺が扉を開けると、先客はひょこりと顔を上げて元気に挨拶する。
「団長さん。おはようございます。いつもよりも早いですね」
 猫耳と真っ赤なちょんまげで、蒸しパンのように膨らんだ白いバンダナ。人なつっこい笑みを浮かべて挨拶したのは、最近入団したプディンの知人のルアムだ。プクレット村で演芸の勉強をしていたようで、演芸大会三回連続優勝殿堂入りと言う輝かしい履歴を持っていやがる。サーカス団がちょっと忙しい時期で、臨時の手伝いをしてもらってるんだ。
 この臨時の手伝いが、とてつもなく有能なんだよ。
 運動神経はバツグンで綱渡りもブランコも玉乗りも、ちょっと練習すりゃ直ぐ出来る。特に凄いのは弓。今では舞台に立つピエロが頭に乗せた林檎を、サーカステントの入り口から射抜く人気のショーの担当だ。テントを笑いの渦に巻き込んだと思えば、固唾を呑ませる間もきっちりと心得る磨き抜かれたトークセンス。これでまかない飯は美味いわ、洗濯掃除もプクリポとは思えぬ完璧さ。俺は自分のコックコートに、アイロンが掛かっているのを初めて見た。
 万能過ぎて不気味なくらいだが、三度の飯より笑顔が大好きなスタンダードなプクリポだ。
 俺はルアムに挨拶を返しながら、今日納品分のケーキを作る為の準備に取りかかる。朝早くに農家さんが届けてくれた新鮮な卵を厨房に持って来て、棚の中からオーガ一人分に相当する小麦粉と砂糖を、スライム4匹分のバターを持って来る。朝食の用意をするルアムと他愛もない会話をしながら、俺の手は別の生きもんみたいに泡立て器で生地を混ぜる。
「今日は俺にとって大事な日なんだ。サーカス団を作ろうって決めたのが、15年前の今日。ナブナブ大サーカス団の誕生日ってところだな」
「へー。だからオルフェアの子供達を、全員招待してあげたんですね」
 ルアムは鍋に放り込んだレッドベリーのジャムを掻き混ぜながら、愛想良く答えた。紫を含んだ青い瞳が鍋に向けられながらも、手だけはオーブンの方を指差した。
「オーブン、もう少しで温まりますよ」
「おう。ありがとな」
 ルアムが朝食のジャムを拵えると、生クリーム作りの準備を始める。ヒャドで作った氷をタイガークローで粉々にする手際の良さには、感心するばかりだ。泡立て器で数キロ単位のスポンジ生地やら生クリームを混ぜる様が、バギクロスだと揶揄される俺が言えた事じゃねぇが…。
 こうして厨房の甘い空気が、お菓子の町オルフェアを目覚めさせる。朝ご飯のパンケーキの香りがそれぞれの家から立ち上り、挨拶の後にはジャムの蓋を開ける音が響く。バターやジャムやウィンナー、あっちの目玉焼きがでかいだなんだって大騒ぎの食卓が終われば、扉が開け放たれてプクリポ達は飛び出すんだ。
 旅人バザーが本日の素材のレートを黒板に書き付ければ、それぞれの商店も客が集まり賑やかしい。裏通りにはランプの煙と鍛冶の音。タンバリンの広場には料理ギルドの開場が待ちきれずに、野外バーベキューを始め壷職人が食事テロだと喚く。広場で1人踊りだせば、輪は広がって大騒ぎ。
 大地の箱船が定刻通りに駅舎に止まり、様々な種族が町にやって来る。オーガやウェディの足下に群がっちゃあ、間違って蹴られちまうガキ共の多い事多い事。ドワーフが泣く子を抱き上げ、エルフが回復呪文を掛けてくれる。笑顔になったガキ共は蹴られた事なんか忘れちまって、再び巨人達に群がるんだ。
 俺はピンクのスターコートに着替えスターハットを深々と冠りながら、この光景を目に焼き付けようって見つめてた。町の真ん中にあるサーカステントから浮かせたバルーンからは、町だけじゃなくてオルフェア地方が一望出来るんだ。真横の光の河が眩し過ぎるけど、大した問題じゃねぇ。
 足下のテントではサーカスの催しもんが、今までにない最高の出来で繰り広げられてるはずだ。
 見なくても分かる。
 あいつらの練習が日に日に最高のパフォーマンスとして完成しているのは分かったし、今日の体調もテンションもばっちりだ。ルアムが作った浮き輪タワー並みのパンケーキが瞬く間に消えちまって、俺が心配しているのは団員達の腹が風船になって浮いてないかって事だけだ。
 俺は笑顔の口元が、歪んでしまうのを堪えられなかった。
 この愛しい日常は今日限り。約束の為に全てを賭け、そして棄てる覚悟はしてきたってのに、いざ当日になるとすげー苦しい。
「おーい! ナブレット団長! いつでもオッケーだよ!」
 幕が少し開いて、ピエロのメイクばっちりのルアムが顔を覗かせた。手招きする手に誘われて、俺は慣れた調子で地面に飛び降りた。ルアムが作った隙間からは、レミーラの照明を落とされて暗くなった舞台がある。闇の中でガキ共の賑やかな期待の声が溢れている。
「待たせちまったようだな」
 俺は手袋を嵌めながら、光に飛び込んだ。響き渡る拍手、期待にきらきらと輝いた笑顔の観客達。何度見ても、胸が高鳴っちまうよ。
 ぴしっと踵を揃え、流れる動作で左足を半歩後ろへ。優雅さを何気なく隠しながら、右手をすっと左胸に当てて深々と一礼する。団員達が静粛にってジェスチャーをすれば、観客達の声は細波のように顰められる。俺は顔を上げて観客達に告げた。
「レディス アンド ジェントルメン! そしてオルフェア チルドレン! ナブナブ大サーカス団15周年の特別公演に、ご来場ありがとうございます!」
 わっと弾ける歓声を、宥めるピエロ達の大変な事。
 だが、俺が静まるのを待っていると、次は何をやるのかって期待に観客達は次第に静かになって行く。口は閉じない。プクリポだからな。
「本日の最後に、私、ナブナブ大サーカス団の団長であるナブレットの、最高の奇術をお見せしましょう!」
 打ち合わせ通り全体を灯すレミーラの光が落とされ、オルフェアのガキ共の上にピンポイントで光が落ちる。ガキ共はこれから何が起きるのか、期待と不安にきょろきょろだ。
「本日集まったオルフェアの子供達全員を……消してご覧に入れましょう!」
 カウントダウンも奇術の為の掛け声も、煙幕も全くクソみたいな演出だ。誰だよ、最高の奇術って言ったのは。俺の人生で最低最悪の演技だっつーの。最早、勢いでやったがどうなったかなんて、数秒前でも忘れたいね。
 俺は煙が晴れてガキ共が全員綺麗さっぱり居なくなって感心する観客達が、ガキ共は何処に行ったのかって不安を見せ始める。ついでにいうと、奇術で俺の姿も観客からは見えない。不安は不安を呼んで、大人達は我が子を大声で呼び始めた。
 俺は彼等に一番分かり易い演出を示してみせた。つまり、悪党宜しく高笑いをするってことだ。
 だってそうだろ。俺がする事は、つまり、誘拐なんだから。
「残念ですが、オルフェアの子供達は、もう戻りません」
 浴びせられる罵声が、本当に辛い。町長、団長と俺を呼んだ優しい響きが、強い憎悪と非難を纏ってナイフのように突き刺さる。
 俺は『悪い悪い。これは単なる悪ふざけだったんだ』って言いたい気持ちを、力一杯押さえつけた。
「これにてナブナブサーカス団の公演は終了です。オルフェアの皆さん、さようなら」
 緞帳が落ちる如く。暗転した世界に響いた俺の別れの言葉は、俺を構築していた何もかもに向けた言葉だった。
 そのたった一言は何もかも変えてしまった。
 分かっていた。
 それでも、泣き喚きたくて仕方がねぇよ。

 ■ □ ■ □

「おうちに かえしてー!」
 わんわん泣き叫ぶガキ共を目的の場所に連れて行く事が、これ程大変だったなんて計算外だったぜ。オルフェアを飛び出して何時間経ってるんだ? 一刻も早く銀の丘にたどり着かなきゃ行けねぇってのに…。
 俺は泣き叫ぶちびっ子の一人が、怪我をしているのに気が付いた。キメラに追いかけられた時に転んでしまったんだろう。柔らかいマシュマロみたいな手の平が、ざっくりと切れてしまっている。
「手を切っちまったのか。ホイミしてやるから待ってな」
 いたいの いたいの とんでけー
 ちゃんとホイミは発動したが、その詠唱にちびっ子は目を丸くした。他のガキ共も俺がまだまだ優しい町長さんって印象は棄てきれないみたいで、プク溜まりになりながらもガキ共は座って休みだした。ガキ共を急がせ過ぎちまったんだろう。俺はガキ共が泣かない程度の距離に腰を下ろして、街道の往来を注意深く見る。
 銀の丘に向かうまで、俺は人目が届き難い森や林を選んで進んでいた。『まだ悪漢ナブレットはオルフェアに潜んでいるに違いない!』と握り拳を作って家捜ししているだろう、パクレ警部に追いかけられると面倒だ。プクリポのネットワークは広大かつ早い。街道を使って見かけられでもしたら、あっと言う間にオルフェアの住人達にも知れ渡っちまう。
 何か凄く大事な事を忘れている気がしたが、どうにも思い出せねぇ。
 ふと、オルフェアの町から駆け足で南を目指すプクリポ達の姿が見えた。真っ赤なちょんまげをゆさゆさ揺らしながら、オレンジ鈴蘭の染めに失敗したのが奇抜な迷彩柄に見える前座芸人服が嫌にも目立つ。その直ぐ後ろには普通のプクリポの服を来た、まるでプリンみたいな毛色の子供が続いている。
 …って、あれはルアムとプディンじゃねぇか!
 俺が焦って身を隠そうとする視線の先で、プディンが転けた。ルアムが慌てて足を止めて、街道の脇…俺達が身を潜めている林の前に腰を下ろさせる。プディンは足を怪我したのか、ルアムが手際よく薬草と包帯で手当てしてやってる。
「ねぇ、ルアムさん。本当に団長さんはこっちに向かったのかなぁ?」
「当たり前だろ。ハカルの兄ちゃんが『団長はきっと銀の丘に向かったんだろう』って言ってたんだ」
 ハカルの野郎。口が軽すぎてヒーピに引っ叩かれてるのを笑ったのを、そんなに根に持っていやがったか…。それは滅多な奴に言うんじゃないと、あれだけ言ったのに…。
「それに相棒がナブレット団長っぽいプクリポと子供達が、光の河に掛かる橋を渡ったのを見たからな。光の河を越せる橋は、この辺じゃオルフェアにしかない。大地の箱船使われるならともかく、子供の足ならそんな遠くにゃまだ行けねーよ。相棒もハカルの兄ちゃんの言葉の『しんぴょーせー』が出て来たって頷いてたし」
 なんてこった。俺はルアムの言葉に、頭から血の気が引いて行くのが分かった。
 橋を渡る俺達を見ている者は居なかったはずだ。この計画は15年前から練られていたからこそ、俺は橋が見える全てのポイントを確認していた。その何処にも人影はなかった。小さいプクリポだって、俺は見逃したりはしねぇ。それに銀の丘に向かってるってまで割り出されちゃ、こそこそしている意味がねぇ。
 …しかし、相棒って誰だ? ルアムとプディンは一緒でも、他に友人って奴は居なかったぞ?
「それにしても、パクレ警部は本当にムカつくなー。せっかんしてやるだってよ! 相棒がやる気だったらボコボコ間違い無しだぜ!」
「ルアムさんはそんな事しないよ」
 ガードから右ストレートとシャドウボクシングをするルアムに、プディンは苦笑いしながら言った。そしてしょんぼりと、茶色い耳先が垂れる。
「団長さんは、子供達を攫ったりする人じゃない。ボク、何かの間違いだと思うんだ」
「プディンは攫われなかった、唯一のオルフェアっ子だからな。団長庇って、実はお前も仲間だって疑われると逃げるしかねーもんなぁ」
 俺は大声を出しそうになるのを、必死で堪えた。
 そうだ…!
 プディンもオルフェアの子供だった!
「うっかりしてたぜ…」
 俺はがさがさと薮を掻き分けて、二人の背後に立った。俺は腕を組んで、目を丸くしたルアムとプディンを見下ろした。
「他所から来たとはいえ、プディン、お前もオルフェアの子供だ。お前を忘れちゃ、意味がねぇな」
 一気に間合いを詰めて、プディンをかっさらうつもりだった。驚いて動揺しているルアムを出し抜くなんて、簡単だ。
 するとルアムの深紅の瞳が一気に青紫に変わり、俺よりも早くプディンを掴み上げやがった。そのまま見事な空中三回転を決めて、街道の砂利の上に着地。油断なく身構えるルアムの腕の中で、もぞもぞとプディンが身じろいだ。
「団長さん!」
 青紫の瞳をぱちくりさせて、ルアムはプディンを抱えていない方の手をゆったりと差し出した。
「団長さん。子供達と一緒にオルフェアの町に帰ろう」
「ルアム。プディンを寄越すんだ」
 俺は差し出された手を拒むように言い退けた。
 俺の言ったさようならは、本当に別れの言葉だったんだ。今さら何事もなかったようになる訳がねぇ。
「プディンまで誘拐するつもりなんですか? 駄目ですよ、団長さん」
 首を振るルアムを俺は注意深く見た。先程までのルアムとは全く別人だが、俺はこのルアムを知らない訳じゃない。団員が遠慮なんて言葉も知らず攻撃呪文のようなおかわりに応じる時、見事なアクロバットを決めて照れくさそうに笑う時のルアムはきっとこいつだ。今朝会ったのもこっちだろう。
 逆にあの見事な話術を発揮して観客の心を掴む時、他のプクリポと混ざって和気藹々と笑うルアムはさっきまでの奴だ。
 俺は瞳の色が変わった事も無関係じゃねぇと思ってる。『相棒』って言葉も、ルアム達の中身の事に違いねぇ。
「すまねぇな。時間がねぇんだ」
 俺は一気にルアムの間合いに飛び込んだ。青紫って事は運動神経の良い方か。
 ルアムはプディンを抱え直すと、俺の正拳突きをバク転で躱し流れる動作でムーンサルトを繰り出した。浮いた帽子を俺は掴むと、そのまま高く放り上げる。帽子は回転しながら、ばらばらと多量のボールを吐き出す! 避けようのない無数のボールに対し、ルアムはバギで絡めとりめった打ちになるのを回避しやがった。
 ルアムは俺から十分な間合いを取って離れると、焦ったように呟いた。
「どうしよう。団長さん強いや」
 あたりめーだ。何年、個性の強い団員達をまとめて来たと思ってる。
 俺は内心ツッコミはしたが、運動神経が良い方のルアムが手強い事を再認識するだけだ。かなり痛め付けねぇと、きっとプディンを手放す事もしないだろう。プディンだけ連れて行けないなんて失態は出来ねぇ。全員。全員連れて行かねぇと意味がねぇんだ。
 ルアムは考え込むように黙り込む。そして瞳の色が青紫から深紅に変わると、プディンを抱えたまま俺に背を向けた。たったったって駆出して…
「…って、こら!」
 ルアムの野郎! 逃げ出しやがった!
 追いかけようと駆出そうとした足に急制動が掛かって、俺はつんのめって両手をばたつかせた。
 ここでプディンを奪う為にルアムを追いかけちまったら、林の中に隠れてるガキ共が危険に晒されちまう。町から一歩でも出れば、モンスターはうじゃうじゃいるんだ。しかもこっちはオルフェアの東側。西側に比べれば強い魔物だらけだ。空から急降下してプクリポの耳を啄むキメラ、3匹でぽよぽよ襲いかかるスライムタワー、ぶーぶー鼻息が炎のトンブレロ。熟練の旅人ならともかく、ガキ共にとっちゃ凶悪この上ない魔物達だ。
 ガキ共からも離れられず、挙動不審の俺を見てプディンがルアムに何か言ったみてぇだ。ルアムも俺を見て逃げる足を止めて、ぽよんと振り返る。ついには人気がない街道の真ん中で、プディンと何か話し込み始めた。互いに熱くなって来ているみてぇで、内容までは聞き取れないが言い争いにまでなってる。
「うわああああ!」
 後ろからガキ供の悲鳴が上がる。しまった! 目を離し過ぎちまった!
 俺はスターコートの中に忍ばせていたキラーピアスを抜き放つ。ジャンプ一つで茂みを飛び越えると、ガキ共に迫ろうとしているトンブレロの黄色い帽子が見えた。俺は帽子を蹴り上げ青い猪みたいな部分を曝け出すと、上から鼻の横の小さい牙を両手で掴む。そのまま飛んだ勢いが死なないうちに脇に滑り込み、大地を踏み込みトンブレロをぶん投げた。
 ぶーぶー不満げな鼻息が遠退いたと思うと、ふわりと宙を舞った帽子が俺を睨んで来やがる。黄色い帽子の根元ががぱりと開き、帽子の中の暗闇からぼっと赤い光が灯った。
「ガキ共! 逃げろ!」
俺の声はまともに浴びせられた火の息で掻き消された。手で庇った目元から背後を素早く伺えば、ガキ共は茂みから飛び出したのかほとんど居ない。それでも火の息で周辺の枝や葉が燃えて、3人のガキ共が固まって怯えている。
 ちくしょう! 俺は何やってるんだ!
 判断ミスを嘆く暇だって惜しい。地面に積もった枯れ葉に火が燃え移り始めて、全く間に子供の背丈程の茂みが火に食われている。黄色いソンブレロをキラーピアスで切り裂くと、俺はコートの内側に来るように三人を抱え込んだ。
「熱いよぅ! 恐いよぅ!」
 はしっと俺にしがみついて来るガキ共を、俺は励ますようにコートの上から抱きしめた。
「しっかり掴まってるんだぞ!」
 消火用の魔法の詰まった玉を地面に投げつけると、奇術の演出みたいに火の精霊達を鎮める力が広がる。それでも火は腹が減って不満そうだと言いたげに、良い匂いのするガキ供や俺に手を伸ばそうとしやがる。俺は地面を蹴って低い枝に手を掛けると、撓る枝を利用してくるりと一回転。勢いを付けて火の壁を飛び越えて、俺は街道の上に転がり落ちた。
 熱に焼けた喉の痛みで咳き込みながら、俺は踞りながらもガキ共を見回す。全員無事か。よかった。
「本当に何がしたいんだよ、ナブレット団長」
 鎮火してぶすぶす煙る林を見ながら、俺の横にルアムが歩み寄って来た。プディンが少し離れた所で泣いてるガキ供を慰めている為に、両手はガキ共にくっついた木の葉や砂を落とすので忙しいようだ。
「プディンは団長が悪い奴じゃないの一点張りだしさ、命はって子供達を守ってるのを目の前で見りゃあオイラも信じたいけどさ…。黙って、強引に、大事な子供達を誘拐して何になるんだよ。ちゃんと話してくれれば、町の人も子供達も誰も怒ったり怖がったりしねーんだぞ」
 ルアムは俺の帽子を掴み上げ、ぼふぼふと煤を払うと再び俺の頭に乗せた。
 分かってる。ガキ共が泣いているのも、町の人が俺を憎んでいるのも、ルアムが俺に苛立ちをぶつけているのも、全部俺の言葉が足りねぇからだ。
 そして全部話して、誰も信じてくれないってのも分かってる。
 アルウェ…。本当にお前はすげぇよ。兄ちゃんは潰れちまいそうだよ。
「信じてくれなくていい」
 俺は立ち上がってルアムを、そしてガキ共を見た。
「憎んでくれていい。恨んでくれていい。馬鹿な奴だと笑たっていい。意味が分からないと、そっぽを向いてもいいんだ。ただ…。今日、この日だけはオルフェアのガキ共を、何があっても絶対に銀の丘に連れて行かなくちゃいけねぇんだ」
 ルアムの紅い瞳は俺をじっと見つめて来た。じっと見つめて逸らさぬまま、ルアムは言った。
「わかった。じゃあ、オイラも一緒に行く」
 その瞬間から銀の丘まで、俺の苦労が無意味な位に順調だった。
 ガキ共が泣かずに歩いてくれるようになったのは、ルアムとプディンのお陰だ。
 ルアムは殿を務めてくれて、ガキ共に面白可笑しい話を聞かせて歩いてくれた。オーガとバトルレックスが薪割り対戦をする話だったり、お姫様が焼いた真っ黒なクッキーを食べた勇者が倒れる話とか、先頭を歩いている俺でさえ思わず肩が震えちまう程だ。それでもぐずるガキ供の隣には、プディンが付き添った。プディンは優しく勇気づける言葉を掛けて、同じくらいの手の平を握って歩いてやるんだ。
 ルアムはガキ共の疲れた様子を察するのも、殿とは思えない程に早かった。
 休憩時に俺が帽子からビスケットを取り出して見せると、ガキ共は俺が誘拐犯だって事を忘れちまう程にはしゃいで取り合った。ガキ共は湖をキラキラした瞳で見て、遠くに見える屋敷に胸を躍らした。
 幼いガキ共にとって、両親に内緒の冒険気分だ。まるで遠足と錯覚するような、長閑な時間だった。
 随分と久しく行く事はなかった銀の丘への道を、身体はしっかり覚えていた。俺はまだ焦げた臭いがコックコートに染み付いた、駆け出し時代の頃に戻ってまだまだ幼い妹の手を引いているような気がする。妹のアルウェはオーブンに入れる前から、『その すぽんじは まっくろけっけ』とか『くっきーが おいしく やけるの』って百発百中の予言をしていやがったなぁ。
 そして、ついに銀の丘にたどり着いた。
 見渡す限り銀色に見える草原に、巨大な樹が一本生えている。その隣に、不思議な扉が一枚。そこが目的地だった。
「なんだ? 扉だけ?」
 ルアムもガキ共も興味津々で扉を突き、ぐるっと一回りしてみる。ステンドグラスのような綺麗な装飾を施された扉はあるが、その扉は押しても引いても動かない、ドアノブも存在しない地面から突き立った板みたいな存在だった。ガキ共がへんなのへんなのと大合唱だ。
「この扉は開くべき運命の時にしか開かない」
 俺は扉の前に歩み寄ると、扉にそっと手を伸ばした。扉はキラキラと輝きだし、光の粒子が集まって伸ばした手の先にドアノブを作った。俺が扉を引くとドアノブの光は扉全体に行き渡り、扉の重さを感じない程に軽やかに開いた。
 扉の向こうに銀の丘の光景はない。見える限りでは青白い光があるばかりで、地面も天井も地平線も何も分かりゃしねぇ。振り返ると光に照らされて伸びた俺の影が、ガキ共の所まで届いていた。
「ここに入るんだ」
 さっきまで笑顔だったガキ共が急に怯えだした。無理もねぇ。仕方なく嫌だ嫌だと言う子の一人の腕を掴むと、横からさっとルアムの腕が伸びた。青白い光に瞳の色まで分からなかったが、鋭い視線に懇願するように俺は言った。
「この扉は運命の時にしか開かない。この扉の向こうは、然るべき時が来ない限り世界で一番安全なんだ」
 ルアムは迷ったように扉の奥を見る。俺を遮るように立ち続けたルアムの袖を、プディンが引いた。
「ルアムさん。ボク、団長さんを信じる」
 そう言うとプディンはひょいっと扉の奥に入って行った。青い光の中に浮かぶように立つプディンは、訴えるようにその場全員に言った。
「団長さんは優しい人なんだ。おいしいケーキを焼いてくれて、町の為に一生懸命で、親戚に引き取られた他所の村の子供のボクも団員にしてくれたんだ。理由を教えてくれないのは悲しいけど、それもきっとボクらの事を考えての事なんだ。だから、ボクは信じるよ」
 にっこりと笑うプディンを見てか、ガキ共が意を決したように頷き合った。次々に扉の中に飛び込んで、光の中から俺達を見る。
 恐かったろうに、酷い事をされてるってのに…。それでも俺を信じてくれるなんて…。
「ありがてぇ…。本当にすまねぇ…」
 俺は絞り出すように、そう言うしかなかった。
「プディン!」
 ルアムがプディンに何かを投げた。
 キラキラと銀の丘の不思議な空気に光るのは、プクリポの紋章。笑顔と泣き顔が描かれたプクリポが簡略化された紋章が、金の箔で捺された一人前の証だった。その証は『この者は信頼に足る人物である』という、数少ない有力者の推薦を形にしたものだ。旅人にとっては命の次に大事な物で、時と場合に因るが王城の出入りすら認められる。
 そんな大事な物が扉の中に入るプディンの胸元に投げ入れられた。
「明日、それ取りに来るから預かってるんだぞ! すげー大事だから、なくしちゃ駄目だぞ!」
 ルアムがぶんぶんと両手を振りながら、屈託無くプディンに言う。プディンも一人前の証がどれだけ重要かって分かってるんだろう。驚いた顔がルアムの姿を見て綻ぶ。
「うん! 団長さんとルアムさんが迎えに来るの、ボク待ってるから!」
 ゆっくりと扉が閉まって行く。ガキ共が口々に『まってるからー』と言っている。
 そしてぱたんという音を境に、銀の丘に吹き渡る風が草や葉に触れる音だけしか聞こえなくなった。