いつかあの樹の下で もう一度あなたに会いたい - 後編 -

 真上は青空だというのに、遥か北の空は誰かが落書きでもしたかのように黒雲がくるくると渦巻いやがる。それがオルフェアの真上で非常に局地的だってのは理解出来た。黒雲は稲光に時折光り、南風と北風を取込んでどんどん大きくなろうとしていた。北風が俺等に吹き付ければ、尻尾が縮む程に寒い。
 俺が休みなくオルフェアに早足で向かう事に、ルアムは何一つ疑問を問いやしなかった。ヤバい事が起きてるってのは、黒雲を見れば説明なんて必要なかったからな。
 俺は昔から種族当てを外した事はねぇ。その俺の研ぎ澄まされた勘が告げるのは、後ろに付いて来る種族がプクリポと人間って事だ。振り返れば、後ろを付いて来るのはルアムただ一人。変な事もあるもんだ。そんな事を考えながら、俺はルアムに訊ねた。
「ルアム、俺に協力する気があるか?」
「んー?」
 ルアムはくりくりの目を斜め上にやってじっくりと考えていたが、俺を見てパイナップルの葉っぱみたいな結った髪を掻いた。
「正直な話、オイラの目的はプディン達を迎えに行く事になっちまったからなー。団長の手伝いは、プディン達を迎えに行くのに必要だったらかなー。実はオイラも相棒も、団長の事あんまり信じきれてないんだよねー」
 そうだよな。どう弁明しようが、俺はガキ共をかっさらった誘拐犯に違いねぇんだからな。
 俺はがっかりした気持ちをどうにか表に出さないようにして、再び歩き出そうとした。
「本当は扉の中に入れちゃうの反対だったんだ。でもプディンはプーポのおっちゃんに勇気貰ったから、すげー強くなったし大丈夫だろ。そうじゃなきゃ、扉の中からオイラ引っ張りだしてたもん。オイラは頑張ってプディンを迎えに行けるよう、扉が開く時ってのが明日にでも来るようにしないといけないや」
 プーポか…。
 俺が一番真っ先に名前を思いついて、真っ先に否定した男だ。
 プーポはガキの頃から強かった。俺がオルフェアのケーキ屋の看板を新調する頃には、プクランド史上最強の剣士にまで上り詰めていたからな。あいつが作り出した討伐隊貢献記録は、もう既にプクリポ10人分の一生涯に相当するらしい。討伐隊員達は、さぞかし頭が上がらんだろう。
 一月程前に汚れ谷の大蛇討伐に失敗したと、あいつは仕事終わりのケーキを買いに来ていた。あいつはガキの頃から仕事終わりはケーキ2切れ、失敗の時は1切れ、大物討伐成功時は1ホールが定番だったからな。失敗すればどんよりしているか苛立って眉間に皺が寄ってるかのどっちかだったが、今回はやけにすっきりした顔をしてやがった。そして珍しく4切れ買って、オルフェアで食わずに直帰するらしい。どうしたのかと、勿論訊いたさ。
 『久々に息子の分も、買って帰ろうかと思ってな』
 照れくさそうに笑ったプーポに、どうして誘拐の片棒担げって頼めるよ。
 俺達の付き合いは長い。頼めない理由は色々あったが、それを退けても本当は頼みたかった。あいつが手伝ってくれりゃあ、トロルに金棒プクリポの鼻先にケーキ。成功も間違い無しだ。だが、照れくさそうなその笑みは、俺に協力を諦めさせるには十分だったんだ。
「でも団長手伝っても、プディン達が痛がったり酷い目に遭わされたりしないのは分かった」
 足が思わず止まってしまった背中に、ルアムの喋り声が続く。
「団長は大丈夫じゃねーから、手伝ってやるよ」
 振り返ると、にっかりとルアムが笑っていた。
 俺は気持ちが凄く軽くなっているのが、嫌でも分かった。本当は誰も巻き込みたくないかったし、俺が全て一人で片付けるつもりだった。勿論、不可能でないにしろ刺し違える覚悟は必要だったし、それで良かった。オルフェアはもう、俺の帰る場所じゃないだろうから。
 だが、今はルアムが力を貸してくれるかもしれない。結局巻き込んだ事は悪ぃと思ってるが、誰かが居るって事は心強ぇのさ。
「お前に昔話をしてやろう」
 俺は足の速度を緩める事なく、歩きながら話し始めた。
 15年前の今日、妹の言葉が俺の運命を変えてしまった昔の話を…。
 その頃の俺はメギストリスの王城に献上するケーキも作る、オルフェアでは有名なケーキ職人だった。竃のご機嫌もツーカーで分かる、スポンジ焦がす事も滅多にないベテラン職人さ。料理ギルド、パティシエ協会なんかにも顔が知れて順風満帆。俺はこのままオルフェアでケーキ焼いて、皆に喜んでもらえりゃそれでいいって思ってた。
 そうそう、その時のオルフェアにはサーカステントって奴がなくてな。大道芸が毎日のように繰り広げられてたんだ。旅人バザーや素材屋のような簡単な出店が、ちょっと広過ぎる噴水広場をぐるっと囲んでてな。俺のケーキを含む町の料理や、行商人が運ぶ古今東西の香辛料や珍しいアクセサリー、数人集まりゃ噂話、ガキ共は大道芸を見ながら心行くまで一日を過ごしてた。今程に栄えちゃいないが、プクリポらしい町さ。
 丁度良い時代でな。先代国王が王の儀式を行って割と直ぐだから、魔物も大人しかったし平和だったんだ。
 そんな時に、嫁いだ妹が帰って来て俺にこう言ったんだ。
 『お兄ちゃん、ケーキ職人辞めてサーカス団やってよ』
 ケーキ職人辞めて、サーカス団だって? 俺は根っからのケーキ職人だ。サーカス団なんて無理無理。
 俺は首を横に振ったよ。
 それでも、妹は一歩も譲らない。15年後の今日に、オルフェアの子供を一人残らず銀の丘に連れて行くのに、ケーキ屋さんよりサーカス団の方が良いって言い張るんだ。
 妹の言う事は百発百中だ。晴れてても雪が振ると言えば、天気はどんどん下り坂って雪が振る。新婚さんを見れば、二人の間に授かる赤子が男の子か女の子か何年後かまでどんぴしゃで当てやがる。俺は妹の予言を疑うつもりはなかった。ただケーキ職人として歩んで来た人生を無駄にするのには、抵抗があったんだ。
 『お兄ちゃんはサーカス団をやるの! そしてオルフェアの子供達を、みーんなさらっちゃってね! 約束だよ!』
 あの時のアルウェの顔は忘れられねぇ。あんなに必死なアルウェを俺は初めて見たからな。
 だが、今になると分かるんだ。
 あの時にはもう、アルウェは知っていたんだ。もう、15年後の今日には自分が生きていない事を…。だから15年後の今日、生きている奴で頼めるやつが俺だけだったんだ。
「妹さんのお願いなのは分かったけどさー、何で誘拐しなきゃならなかったのさ?」
「そりゃあ…」
 俺はそこで足を止めた。オルフェア西側は、キラキラ大風車に続く道へ何度も枝分かれしている。大きい道は農業地帯を通って大風車へ続いているが、他の小道は果樹園やミュミエルの森の方を迂回して大風車の道に合流している。俺が足を止めたのは、ミュミエルの森へ迂回する道だ。トンネルが真っ暗い口を俺に向けて開けていやがる。
「協力してくれるのなら、ミュミエルの森のフォステイルの広場で落ち合おう。俺はオルフェアに一度戻ってから、そこに行く」
 そこで俺は振り返り、厳しい口調でルアムに言った。
「ただし、とても危険だ。命の保証は出来ねぇ」
「団長、今更何言ってんだよ」
 ルアムは笑った。
「後の笑顔の保証の為なら、オイラは命も賭けるよ」
 さも当たり前に言うもんだから、俺は情けない顔になってから弾けるように笑っちまった。ルアム。お前さん、とんでもねぇプクリポだ。
 俺は簡潔に協力して欲しい事を説明した。説明している間にルアムの顔はきらきらに輝いて来る。そんなルアムをどうにかミュミエルの森に送り出すと、俺は急ぎ足でオルフェアに向かった。
 大地の箱船の高架橋を並走し、今にも土砂降りの雨や嵐が起きそうな真っ黒い雲の下を駆けて行く。オルフェアに向かうかどうかで街道で足を止めている旅人達を追い抜いて、オルフェアから逃げるように去る旅人達と擦れ違う。オルフェアの門を潜り抜けた時には、邪悪な気配は吐き気すら感じる程に強かった。俺は光の河の上に架かる橋を超え、サーカステントの上に軽々と飛び乗った。テントからロープで留めたバルーンにまで上り詰めれば、オルフェア上空に浮かぶ元凶を良く見る事が出来た。
「騙したな!アルウェ!!」
 びりびりと空気を震わせ稲妻が落ちれば、兎耳のプクリポなら耳がもげちまいそうな轟音が響く。稲光の中で羽ばたく巨大な暗幕のような翼、ぬらりとエメラルドに光る肌、巨大な何かの獣の毛皮の衣を粗雑に着こなした裾から悪魔の尻尾が蛇のように揺れている。巨大な三つ又の槍を振り回し、巨大な悪魔は耳元まで避けた口を限界にまで開けて大声で叫んだ。
「この町に子供など一人も居ないではないか!」
 ぷくくくく。
 アルウェの言う通りだが、ここまで綺麗に言い当てられると逆に面白くなっちまう。滑稽な安っぽい演劇みてぇだ。視線を下げると、街灯の影に隠れきれてないパクレ警部ががたがた震えていやがる。こっちの方がよっぽど役者だぜ。
「貴様、何を笑っている!」
 いつの間にか大声で笑っていたらしく、アルウェの話では悪魔ザイガスという奴は俺を怒鳴りつけた。俺は笑い過ぎて喉がひりひりするのも構わず、悪魔の旦那に大声で言い返した。
「ちゃんちゃら可笑しいじゃねぇか! 悪魔の旦那、あんたが血眼になって探しているガキ供なら…」
 15年もサーカス団やってると、そしてプクリポだからこそ、びしっとここで決めポーズよ!
「このオルフェアの町長にしてサーカス団の団長、ナブレット様が全員さらっちまったんだからな!」
「何だと!」
 あーもー、そんな安っぽい反応してちゃ、俺のサーカス団でも雇ってやれんぞ。
 ガキ共を誘拐したりルアムに疑いの視線で見られた今までが、よっぽど苦痛だったんだろう。こんなストレートな憎悪を向けられて、殺す気満々の悪魔が清々しい程だ。俺は15年間待ちわびた悪魔を迎える事ができて、とてもご機嫌だった。
「そんなにガキ共の命が欲しいなら、俺から奪ってみやがれ!」
 おぞましい咆哮を轟かせたと思うと、悪魔は口から巨大な火球を吐きだした! 大人サイズのプクリポも一瞬で丸焦げにしちまうような、メラミよりもでかいそれがもの凄い速度で向かって来やがる。
 だが、残念だなぁ。悪魔の旦那。
 こちとら生まれも育ちもオルフェア。次々と放たれる火の玉をバルーン渡って避け続ければ、ひょいっと乗り込んだ奴を吹っ飛ばすホルンに乗り込んで悪魔の背中に蹴り一つ。悪魔が怒って突き刺し損ねたのは、残念、俺様が考案したケーキ神のミニチュア縫い包みよ。
 オルフェアの住人達も俺が悪魔を軽くあしらっているのを見るや、料理上手な女将はフライパンとお玉を打ち鳴らして見渡す限りのプクリポを鼓舞する。テンション上がったプクリポが暴れる様は正にお祭りさ。魔法が得意な種族だから、魔法が雨霰と降りやがる。キラージャグリングのボールのボールに混じって、植木鉢や鍋が飛ぶ事なんてざらだ。打ち上げ花火が悪魔のケツに会心の一撃を決めやがる。裏路地を駆け抜けりゃあ、ランプの職人は態と失敗させて爆発に巻き込んでやるわ、鍛冶職人は溶けた鉄を容赦なく打ちまけてやる。
 俺は橋を渡ってタンバリンのステージの上に飛び乗ると、しゃんしゃんと足下を鳴らしながら尻を叩いて挑発してみせた。
「悪魔の旦那! こーこまで、おーいでー!」
 思う存分馬鹿にされて、悪魔は緑の肌が真っ赤になりそうだ。俺は満足げに笑みを浮かべて、オルフェアの町を再び飛び出した。
 悪魔ザイガス一匹様を、フォステイル広場までご案内!

 悪魔を引き連れミュミエルの森まで辿り着くと、脇の茂みからルアムが飛び出してきやがった。
 森に入り込んで俺を見失っても見つけるのは時間の問題だろう。悪魔の気配を感じるのか、ルアムは周囲を警戒しながら緊張した声で言った。
「団長さん、お帰りなさい。準備はばっちりだよ」
 真っ赤なちょんまげに木の葉を付け、頬には泥がくっ付いて、服は木の枝に引っ掛けたのかボロボロで、爪と即席の蔦の鞭が腰に括り付けられている。青紫色の瞳のルアムは俺に水筒を差し出しながら、先を歩き出した。川の水で冷やしたのか、濡れた水筒の中身はギンギンに冷えた紅茶だ。うめー。
「もう準備ができたのか? かなり大量だったと思うが…」
「この森、あんまり人の手が入ってないから、集めるの大変じゃなかったですよ。兄さんは団長さんの提案が相当気に入ったみたいで、多過ぎる位に集めさせられたけどね。あーあ、戦う前からくたくただよ」
 がっくりと項垂れるのを見る視線はそのままに、意識を集中すると人間の気配がする。俺は再び真っ赤なちょんまげを見ながら声を掛けた。
「お前さんがルアムの言ってた『相棒』か?」
「あぁ、そうです。一緒に戦うのは僕の方なので、宜しくお願いしますね」
 にっこりと笑うルアムは、そのままフォステイル広場に踏み込んだ。
 そこは小さい可憐な花々が咲き誇る、森の開けた場所だった。鬱蒼として暗いミュミエルの森で、燦々と日が降り注ぐ場所はここ位なもんだろう。小さい花園を見下ろすように、端整な顔つきのプクリポの石像がある。この石像こそプクリポの英雄フォステイルだ。涼やかな甘いマスクがリュートをつま弾けば、どんな困難もたちまち解決する子供の昔話でも定番の英雄様である。
 ここは銀の丘と同じくらい、妹と遊びに来た場所だったなぁ。俺が昔を懐かしんでいると、森がざわめきだした。木々が揺れ、鳥達が飛び立ち、獣や魔物達が右往左往と駆出す。
 悪魔の旦那がようやくお出ましのようだ。悪魔ザイガスは太陽の光に真っ黒い影を落として、俺達の前に現れた。
「ようやく見つけたぞ! さぁ、アルウェとの契約を果たしてもらおう! 俺に子供を差し出すんだ!」
「いやいやいや、旦那。そんなに急がなくたって良いでしょう…」
 俺は人差し指を立て、横に振ってみせる。
 そしてばっと両手を挙げてみせる。
「旦那には是非、ナブナブ大サーカス団の特別公演の最後の演目を堪能して頂くんだからな!」
「何だと!」
 そう、ナブナブ大サーカス団には欠かせない演目って奴がある。俺がケーキ職人の人生も棄てきれず、アルウェの約束も果たしたいそんな両者の想いが歩み寄った形の演目だろう。それは今やサーカス団のトリを飾るに相応しい、観客の目も舌も楽しませる俺の十八番の演目だ。
「さぁ、旦那!骨の髄まで楽しんでいきやがれっ!」
 俺は一気に薮の後ろに下がると、ルアムが準備してくれた石をザイガス目掛けて投げつける。石つぶての要領だが、石の大きさが半端ない。プクリポの大人並みの大きさが10個程だ。ザイガスが翼を広げて飛び上がり、石というか岩は当たらないが問題はない。
 空中に浮かんだザイガスの足下には、だいたい円形に岩が積み上がった。
「こらこら、旦那! 旦那の特等席はそこじゃないぜ!」
 俺はにやりと笑みを浮かべ、スターハットを天高く舞い上げた!
 スターハットから、これまたルアムが用意したイガイガ毬栗やらカチコチ胡桃が飛び出してザイガスをめった打ちにする。ルアムも地面から上手く避けつつザイガスにウィングブロウを決めて、その黒い翼を切り裂いた!
「おのれ! こしゃくな!」
 岩の上にこんもり積もった毬栗や胡桃に埋もれたザイガスは、俺に向かって火の息を吐き出す! 丁度フォステイルの像の真上に立っている俺に、逃げ場が無いと思ったんだろう。深紅の火球が俺に迫る。
「団長さん!」
 避けられないとルアムが焦る声が響いた。
 俺を飲み込まんとした火の玉は目の前で四散した。青い壁がフォステイルの像全体を、薄らと包み込んでいる。ザイガスは驚いた様子だったが、それは火の玉が消えちまっただけではない。悪魔は鋭い爪が付いた手の平をまじまじと見つめた。
「これっぽっちだと…! そんな馬鹿な…!」
「ここは、プクリポの聖地…。プクリポの未来を脅かす存在が、好き勝手出来ると思ってんのかい?」
 15年前には既に、俺とアルウェはこの計画の大まかな筋書きを決めていた。サーカス団を設立した俺は、15年目の今日にガキ共を集めて誘拐する。悪魔の力であれど運命の時以外は決して開かぬ、銀の丘の扉にガキ共を避難させる。そして、このフォステイルの広場で悪魔をやっつけるんだ。
 この地は英雄フォステイルが属するプクリポに、強い加護を齎してくれる。今回は悪魔の力が封じられたって事だろう。
「さぁさぁ、見所はこれからだぜ! 目ぇかっ穿じって、とくとご覧あれ!」
 俺はザイガスの頭上に飛び上がると、バギクロスを唱える!
 竜巻は広場全体を包み込み、巧妙に隠された棘のある蔦が巻き上がる。その蔦はミュミエルの森の奥深くに自生する、棘に毒がある危ない蔦だ。竜巻をコントロールし、瞬く間に蔦はザイガスに巻き付き深々と棘を差し込んだ。
 端から見れば不気味過ぎるが、モンブラン。オルフェア名物アクロバットケーキは、サーカスの最後に俺が作る超特大ケーキの事なんだ。サーカステントぎゅうぎゅうのケーキ神の前で作り上げられたワンホールは、観客でも食べきれない程に巨大なんだ。
 痛みのあまり咆哮するザイガスに、俺は心底悲嘆に暮れたように言い放った。
「あぁ、旦那! 俺は一生の半分以上ケーキ職人やってるし、サーカスの公演のラストにゃあこのアクロバティックなケーキデコレーション術を披露してる! だが、これ程酷いのは初めてだ! 心からお詫びするぜ! ルアム!」
 ぱちんと指を鳴らせば、ルアムは見事な捻りを加えた宙返りで俺の前にやって来た。
 ルアムは気合いを十二分に溜めると、両手の爪が金色に輝きだした。それが太陽と見間違える閃光になると、ザイガスに向かって駆出した。気合い一閃。ゴールドフィンガーがザイガスを苦しめていた、デコレーションをひっぺがした!
「さぁ、旦那! フィナーレだ!」
 悪魔ザイガスは全身から紫色の血を流し、それらが地面に滴る前に魔瘴の霧となって霧散する。よろよろと立ち上がった悪魔は、空気を震わせ今まで何百何千という人々を恐れ戦かした咆哮を上げた。凄まじい顔でキラーピアスを構えて突撃する俺を迎え撃つ。
 15年前、アルウェはこうも言っていた。
 『15年後のその日に、お兄ちゃんの前にすっごく強い旅人さんが来るの。顔はイマイチでちょっと頼りない感じだけど、すっごく強いの! その旅人さんの力を借りてね!』
 それはきっと、ルアムの事だ。
 誘拐犯を信用するなんて正気じゃねぇ。ガキ共が閉じ込められるのなんざ、普通は見てらんねぇ。運命の時に開くって扉が本当に開くのか、どうやって開くのか誰に分かるってんだ。それを『後の笑顔の保証の為』って言い切っちまうなんて、生半可な心の強さじゃねぇ。
 こんな恐ろしい悪魔に立ち向かうって、無謀って笑って普通は逃げちまうもんだ。準備だけするだけして、隠れたって誰も笑いやしねぇよ。それを『一緒に戦うのは僕の方』って頭下げやがって、お前ら揃いも揃って強過ぎるぜ。
 俺がここで悪魔と戦う事が出来るのも、お前らのお陰なんだ。アルウェ、ルアム…そしてガキ共。
 俺が、絶対に悪魔をやっつけてやるからな!
 走り込む軌道に、避けられない程的確に悪魔の爪が滑り込む。確実に俺の胸を挿し貫く事を、悪魔は確信しただろう。だが
「残念だったな、旦那」
 俺は一瞬にして悪魔の背後を取った。世の中、身を軽くするステップってもんがあるんだ。習得して奇術も使えば確実に避けられる。
「アルウェにオルフェアのガキ共を15年後食っていい…そんな契約を結ばせた事、しっかり後悔してくれ」
 俺のタナトスハントが悪魔の背中から胸に貫通した。悪魔の身体の中を回った棘の毒を刺激し、悪魔の身体が燃えてるのかってくらいの黒い煙が吹き出した。ザイガスは倒れない。身を捩り、俺にじわじわと手を伸ばす。
「こんな事になるなら…」
 ザイガスの爪は俺の鼻先に触れそうな程に迫っていた。俺は動かず、悪魔の視線を睨み返す。
「15年前に…オルフェアのガキ共を…残さず…食っとくんだった…」
 俺の目の前で煙が膨れ上がった。そして一陣の風が吹くと、そこには何事もなかったフォステイルの広場と主である石像が俺達を見下ろしていた。

 ■ □ ■ □

 俺達は夜通し歩いて、明け方に銀の丘にたどり着いた。
 薄らと夜の闇を押しのけて、曙の美しい光が地平線に一本の線を引く。銀の草原は黄金色や赤金色に燦然と輝き、まるで輝く海に浮かぶ島の上に立っているかのようだ。扉の横に生えた銀の樹は、まるで水晶で出来ているかのように神々しい。風はあれど音を潜めて、静寂に満ち満ちていた。
 ルアムは緊張感なんてまるでないように、扉に手を掛けた。光が扉全体を覆いルアムが光の把手を引いて、ゆっくりと扉は開く。
「団長さん! ルアムさん!」
 先ずはプディンの声が響く。そしてガキ共は元気な様子で扉から駆出した!
 あぁ、全員無事だ。生きてやがる。俺は飛び込んで来たガキ共の感触を、とてつもない安堵の中で感じていた。
「団長さん。もう、僕達帰って良いの?」
「あぁ、勿論だ! 全員オルフェアに帰ろう!」
 ガキ共にはいずれ、この日を迎える事になった何もかもを話してやろう。悪魔との契約をアルウェがどうして結ばなくてはならなかったのか、俺がアルウェと交わした約束を、そして勇敢なルアムの事、ガキ共が助かるまでの経緯を全部。こいつ等には、それを知る権利がある。
 でも、まぁ。先ずはガキ共を親の所に帰してやって、安心させてやるのが先だな。
 俺はもう荷造りを済ましていた。もし、生きてオルフェアに帰る事が出来たなら、俺はサーカス団を畳み町長の役職を返上し旅立つ事に決めていた。家の玄関の直ぐ横一つ転がったトランクを引っ掴んで、世界中を歩くのも悪くない。荷物の中は使い慣れた調理器具と、コックコート、少しのゴールド。俺は何処でも生きていける技術を、15年間の間に手にいれた。信頼を失ったが、ガキ共は助かり自由になったと思えば悪くない。
 成長したガキ共が俺を捜し出して、真相を聞きに来るのも一つの楽しみだろう。
 ルアムが大袈裟な身振りでガキ共に、何かあったかを聞かせてやっている。悪魔の恐い顔をしてやると、何人かのガキ供は腰を抜かし、小さい子は震え上がった。全く、元気なもんだ。俺は小さく苦笑する。
 すると背後にプクリポの気配がするのに気が付いた。
 扉の中に誰か残ってたか? 全員出て来ている筈だとガキ共の頭を数えながら、俺は振り返った。
 扉が小さく開いていて、小さな女の子が俺を見上げていた。つぶらな瞳に長い睫毛、直ぐ大きくなっちまうからって、ぶかぶかのプクリポの女の子用の服を着ている。俺は驚きで息が止まった。見間違える事は有り得ない。だが、どうして…?
「お兄ちゃん…?」
 今でも鮮明に思い出す懐かしい声。何度、もう一度会いたいと思っただろう…!
 俺は笑って妹に頷いてみせた。彼女は俺を頭の先から足の先まで眺めて、そして嬉しそうに笑った。
「ありがとう、お兄ちゃん! アルウェのお願い、叶えてくれて!」
 スターハットを脱ぐと、俺は幼いアルウェの前に恭しく片膝を付いた。大き過ぎる帽子を彼女の頭に乗せてやる。ふわりと帽子から溢れたのは、アルウェが大好きなケーキの香り。俺はアルウェににっこりと笑ってみせた。
「当たり前だろ、俺はお前の兄貴なんだからな」
 アルウェもにっこりと笑みを返してくれた。そして『そろそろ帰らなくっちゃ!』と言って、扉を閉めちまった。もう、扉は開く事はねぇだろう。
 瞬き一つ目を離したら、扉はもともと存在しなかったかのように無くなっていた。扉が突き立っていた場所には、柔らかい銀色の草が茂っている。そうだよな、アルウェが死んで5年になる。今更、どうして子供の姿で俺の前に現れるってんだ…会いたいからって幻見ちまってしょうがねーな。
 太陽の光はいよいよ明るくなって来て、俺は眩しさから手を翳した。
「あっれー? 団長、帽子どうしたのさー? 風で飛んでちゃったのかー?」
 ルアムやガキ共が首を傾げるのを見下ろして、俺は15年振りに腹の底から笑った。