望みを叶える力を最初から持っていたのに - 後編 -

 王都カミハルムイの宮殿の廊下に、私の大声が響き渡ったんですの。これは宣戦布告ですのよ!
「あんの小娘…! 見つけたら魔力覚醒でメラゾーマの刑ですわ!」
「ちょ、エンジュのねーちゃん、落ち着けって!」
 私のまじない師のローブに縋り付いたルアムを叩き落とすと、鞠みたいに転がり落ちましたの。私はマスカットリップとピュアスノーリリィで染め上げた裾を翻すと、プクリポ特有の愉快な鼻先に魔導師の杖の先端を突きつけてやりましたわ!
「私があの調合配分の結論に至るまで、どれだけ徹夜を費やしたか分かりませんの? 正直、私寝不足過ぎて全ての呪文が暴走出来ましてよ! あぁ、それなのにあのリタの小娘…! 私の手帳を持ち出して…!」
 思い出しただけでも、腑が煮えくり返りますことよ!
 私は学びの庭では首席の成績を修めましたし、薬剤師としての腕も悪くありませんの。病人を治す薬を調合して欲しいと頼まれて、私が断る訳がありませんわ。
 それなのに、王妃様の娘であるリタ王女の悪戯好きは容赦なりませんわ…!
 王妃様の病を治す薬の試作にまで漕ぎ着けた調合配分を書き付けた手帳を、持って行ってしまったのよ…!
「さぁ! リタ姫をとっちめて、手帳を取り返して薬の試作品を作りますわよ!」
 足早に歩を進める私の足下を、ルアムがちょこちょこと付いて来ますの。
 磨かれた板張りの床はまるで鏡のよう。光と風を取込む透かし彫りの彫刻は、荘厳さにさり気ない遊びが溶け込んでいます。吹き抜ける風の爽やかさは、冬を超えて芽吹いた初々しい若木の匂いを含んでおりますの。手入れされた庭園はどの角度からでも一幅絵の如く整っていて、敷かれた白い玉砂利と飛び石、そして苔むした緑の対比が素晴らしさをより一層引き立てますの。鳥達のさえずりが宮仕えの者達が床板を鳴らす音と混ざって、人工物の中なのに森の中に居るかのようですわ。
 カムシカも自由奔放に城の中で暮らしていますわ。折角剪定した庭の葉が食べられてしまって、庭師の方がぼやいてらっしゃいます。
 カムシカを見ていると何か大事な事を忘れているような気がするのだけれど、全く思い出せませんわ。それはルアムも同じ思いを抱いているけれど、結局思い出せずじまいで日々を過ごすばかり。単調で、穏やかな平和な日々。
 兵士や侍女達と何度も擦れ違い、カミハルムイ城を捜索しているとルアムが声を上げましたの。
 ぽよんと渡り廊下から飛び降りると、ルアムは犬みたいに真っ直ぐ少年の所に駆け寄りましたの。やや赤みを帯びた肌色に、真っ白い髪、ぱっちりした大きな黒い瞳の少年は動き易そうでも上質な絹織り物の服を着ておりましたの。彼はニコロイ様。リタ姫の弟君になりますわね。
「ニコロイ様、リタ様をご存知ありませんこと?」
 私も渡り廊下を降りて戯れ合う二人の下に歩み寄ると、そっと膝を付いて視線を合わせました。ニコロイ様が首を横に振ると、私は務めて穏やかに言いました。
「実は王妃様の病気を治すお薬の調合を書き留めた手帳を、リタ様に持ち出されてしまって困っています」
「姉上の部屋には、屋根裏部屋があるんだ。そこに姉上は集めた資料とかを置いてて、たまに拾って来た猫とかも匿ってるの。エンジュさんが来るよりもずっと前から、母上の病気を治そうって必死だったんだ。エンジュさんの手帳もそこで読んでいるのかも…」
 あら、リタ姫の部屋を一見しただけで居ないと判断するのは早急でしたわね。もっと隅々まで調べ尽くすべきでしたわ。
 ニコロイ様が立ち上がると『僕も探すの手伝います』と先を行き始めました。ニコロイ様の案内で示されたリタ姫の屋根裏部屋は、巧妙に隠されていましたの。押し入れの戸を開けて直ぐ横の板が動かせると知ると、ルアムは目をキラキラに輝かせて猫のように動いた板の奥へ消えて行ってしまった。そして頭上からリタ姫の可愛らしい悲鳴が上がりましたの。
「すげー! カミハルムイ一望出来るぞ! あ、あっちのどんよりしてる方角って暗黒大樹が居る方角? なぁなぁ、リタ。文字と睨めっこしてねーで教えてくれよー!」
 全く、ルアムったら大人げないですわよ。
 思わず笑ってしまった口元を引き締めると、ニコロイ様がひょこりと前に進み出ました。隠し戸は油で滑り易くしてあるのか、音も無く大人一人が悠々と通れる幅に開きましたわ。そして梯子と見間違えそうな急な階段が、人一人やっと通れる幅で上へ続いていました。ニコロイ様は数段上がって言いました。
「エンジュさん。急だから気をつけて。この前、姉上が転げ落ちちゃったんだ」
 良い気味ですこと。
 それでも女性に優しい言葉を掛けてくださるニコロイ様の紳士っぷりに気分を良くしながら、私は階段を上りました。確かに誰でも転げ落ちてしまうような、危ない階段ですわ。隠し階段であるから明り取りの窓はなく、屋根裏部屋と今開けた戸から差し込む光だけ。一段一段の幅はとても狭くて、子供ですら爪先で登る必要がある程ですわ。手摺はなく、細身の私ですら肩に壁が当たってしまいますわ。
 階段を上りきると、そこは思った以上に明るい空間が広がっていましたの。低い天井に届く本の山が幾つか、座布団と小さい机が一つ。机の上は調合の道具でごった返しておりますわ。他にも恐らくプクランドから取り寄せたんでしょうね。エルトナでは珍しい可愛らしい若草色の塗料が塗られ、花のペイントが施された箪笥がありますわ。ルアムはしゃがむ事なくぴょんぴょんと部屋を動き回ってますけれど、私は膝を付かねば頭を打つけてしまいますわ。
「もう、ルアム。少しは大人しくしてくださいまし!」
 ごちんと魔導師の杖の先端で叩くと、ルアムが大袈裟に転がった。しょうがないと言いたげに、今度は座布団の下に潜り込んでほふく前進し始めましたの。まぁ、先程よりかは静かになったので良しとしましょう。
 私はこの部屋の主の前までにじり寄ると、ニコロイ様が用意してくださった座布団の上に正座しましたわ。やっぱり天井に頭が当たってしまうので、少し正座を崩してリタ姫を正面に見ました。
「リタ様。私がここに来た理由は、勿論理解しておいでですわね?」
「勿論よ、エンジュさん」
 そう言ってリタ姫がこちらを向いた。
 初めてリタ姫を見る者は、その姿に息を呑む事でしょう。彼女は色彩を全くもたないのです。髪は白髪、瞳は銀、肌も新雪のような白さ。唇や頬に僅かに赤みだけが、彼女の持つ色彩なのです。リタ姫こそカミハルムイの王家に極稀に生まれる、聖地の守護者『白き者』なのです。聖地に危機が訪れようとする時、必ず一族から生まれるのです。故にカミハルムイ王族はエルトナの守護者と称されるのです。
 リタ姫は白い美しい手に、調合したのだろう薬を包んだ紙を乗せた。リタ姫はとても嬉しそうに微笑んだ。
「ちゃんと調合出来たのよ!」
 私は薬が包んであっておいそれと飛び散らない事を確認し、その真っ白いおでこに杖を振り下ろしたのです。
 ぱこんと良い音がしましたわ。
「何がちゃんと調合出来たよ…ですの!」
 私の怒りに満ちた声が、さらさらのリタ姫の髪に強風のように吹き付けますわ。エルフの長い耳が可哀想な位に大声を受け止めて居る事でしょうけれど、そんな事はどうでも良いですわ!
「卓上の論理だけで作った薬は、未だ薬ではありませんのよ! そんな未完成の薬を、誰かに飲ませられませんわ!」
 今では薬草やら毒気し草やら色んな薬がある時代ですけれど、この程度に至るまでに何百何千と言う積み重ねがあったという事を理解しなくてはなりませんわ。私は調合で大きな失敗をした事はなくて、大抵の人々を癒す事が出来たのは先人の経験と結果があってこそなのです。
 新しい薬。誰も試した事がない効果。それは軽々しく扱って良い物ではありませんのよ!
 私の剣幕にルアムもニコロイ様も震え上がりましたの。そしてリタ姫は半べそですわ。
「でも…この薬があれば、お母様は何処にも行かなくて済む」
 蚊の鳴くような声で言った言葉は、母を思う気持ちで溢れていました。私は一つ息を吐き、諭すようにリタ姫に言いました。
「王妃様には癒しの術で悪くない状況を保って頂きながら、慎重に薬を試して行きましょう。この症状の治療薬は未だ先例がありませんの。効果が不十分であったり、副作用も未確定では王妃様の病気が悪くなる事だってありえますの」
「…駄目! お母様はアズランに行ってはいけないの! ここで…ここで私が病気を治すの!」
 調合した薬を握りしめ、リタ姫は屋根裏部屋を飛び出してしまわれましたわ。ぱたぱたと床板に雫が落ち、姫を追いかけてニコロイ様も階段を駆け下りてしまいましたの。
「泣ーかしたー」
 生意気な座布団の上にどかりと腰を下ろすと、蛙が潰れたような声がお尻の下から聞こえましたわ。淑女としては恥ずかしい事ですけれど、腹の虫が収まりませんわ。アズランの僧侶は世界屈指の実力者であるのに、何がいけないのかしら?
 私は徐に腰を上げると、生意気な座布団を抱えて姉弟の後を追いかけましたの。
 新緑の香りは風に流され、いつの間にか緑の葉は赤く色付いていました。赤く黄色く橙と染まる木々の葉は風に揺らめき、白い玉砂利を思い思いの色に染め上げましたの。夕餉の支度をしているのか、秋の恵みを調理する香りが風に乗って鼻腔をくすぐってくれますわ。
「お母様、お願い! いかないで!」
 それは胸が張り裂ける程に悲痛な声でしたわ。リタ姫の声だって一瞬分からない程ですの。
 私達がカミハルムイの正門に辿り着く頃には、懇願の声は枯れ果て嗚咽ばかりが聞こえていましたわ。アグシュナ王妃の素晴らしい紅い絹に、この季節に相応しい風情を金糸の刺繍に宿した衣。リタ姫は早過ぎる新雪のように深紅の衣に縋り付き、どうかいかないでと叫んでいたのです。
 王もニコロイ様も、そしてアグシュナ王妃もどうしたら良いものかと困惑する程だった。
「リタ。私はもっと貴方達と共に生きていたい。だからこそ病の症状を和らげてくれる癒し手の元に、馳せ参じなくてはいけないのです。私達の地位で呼ぶ事は容易いわ。でも、癒し手の力はエルトナの民に平等に振るわれるべきなのです。王族だからと特別に招いて独り占めしてはいけないのですよ」
 王妃様の声は、それはもう美しくて優しい。私の胸が痛む。その声を掛けてくださるリタ姫に、嫉妬してしまう程でしたわ。
 リタ姫は首を激しく振って、王妃の衣を握る手を強めたのです。
「エンジュさんが薬を作ってくれるのよ。アズランに行かなくても、お母様の病気は良くなるわ」
 衣に顔を埋めるリタ姫に、王妃様は侍女の静止を押し止め膝を折って抱きしめたのです。白髪を優しく梳き解すようになで、耳元で何度も愛しい娘の名前を呼びます。王が娘の肩を優しく抱き、弟が強張った手を包み込みました。時が止まったかのように、時間が進むのを拒んでいるように、互いの温もりを手放したくないのです。
「姉上」
 ニコロイ様がリタ姫に言う。
「母上は元気になって帰って来るよ」
 空気が冷えてきました。傾いていた日が暮れて、夜が訪れようとしていました。紅葉は消え、木々には何時の間にか雪が積もっていました。月も星も目映いばかりに輝く澄んだ空の下で、粉雪が風に吹かれて舞っています。
 その様子にリタ姫は明らかな恐怖の表情を浮かべていました。彼女が愕然とした様子で王を弟を見遣り、そして自分の手元を見下ろしたのです。王妃の衣の裾を手放した事が、有り得ないと表情が物語っています。
「ほら、帰って来たよ」
 ニコロイ様が微笑んだ。正門の向こうからアグシュナ王妃が、こちらに向かってやって来る。
 リタ姫は悲鳴を上げたのです。魂が引き裂かれる程に、悲痛な声でした。まるで森が焼き払われるような音のように、まるで湖が蒸発する音のように、まるで廃墟が崩れ去り人々の生きた証が消え去るような音でしたわ。そして、無風な程の痛い沈黙が包み込んだのです。
 リタ姫は震えていました。信じられない様子で、目の前に歩み寄って来たアグシュナ王妃を見上げていたのです。
「私がここに居る事が、不思議かい?」
 アグシュナ王妃は微笑みました。しかし、その微笑みは酷く邪悪でした。
 ばきり。枯れた枝を踏みしだくような音が響き、私とルアムは何処から聞こえるのだろうと視界を巡らしました。空は満天の星空を抱いた漆黒、水平線に近い部分はどの方角もぼんやりと曙色に染まっています。雪を冠していた木々は、美しい水晶の枝になっていました。
 再び響いた音を頼りに見たのはアグシュナ王妃でした。
 いえ、アグシュナ王妃だったもの。
 王妃の深紅の衣の背後が異常に膨れ上がり、次の瞬間突き破ったのは節くれ立った黒い虫の足。その足の先端に付いた爪は、紫色に光り短剣のように鋭いのです。足は王妃の背中から生えて、まるで蛇の鎌首のように伸び上がりました。
 ルアムが叫ぶ声が響きました。
 黒い足はまるで槍の鋭い一突きのように、王を貫いたのです。王は悲鳴もなく雪の上に倒れ込んでしまいました。リタ姫は真っ青な顔でニコロイ様を抱えて駆け寄って来る。ニコロイ様が居た地面に、いつの間にか黒い虫の足が突き立っていたのです。
 ニコロイ様を私達の目の前に下ろすと、リタ姫は呪文を放ったのです。それはエルトナの古代語の言葉で、まるで風が木々の葉を揺らすような音を奏でたのです。王妃は雷に打たれたかのように、その場に崩れ落ちました。
 リタ姫は涙を流していませんでした。酷く悲しい顔で、王妃に成り代わっていた何かを見つめています。
「もしかして、これがリタ姫が王と王妃を殺してしまった真実? 治療の為に出掛けていた王妃が魔物に殺され、その魔物が王妃に成り代わって都の中に入り込んでしまった…?」
 思い出した。私が呟いたと同時に、ルアムの表情が変わる。
 ここで違和感無く過ごせていたのは、幻に支配されて記憶を呼び起こすのを妨害されていたからです。私達は呼吸をするが如く、この捨てられた古きカミハルムイで過ごすまでの全てを思い出したのです。
「オイラ達、夢幻の森に入って滅んだカミハルムイ城を目指してたんだ」
 そして啜り泣くリタ姫の背を擦っているのは、もう幼い子供のニコロイ様ではありません。初老の名君、カミハルムイ国王ニコロイ様は先程貫かれた父王の声とそっくりの声で言ったのです。
「姉上、貴方は父上も母上も殺してはいなかったんですね?」
 リタ姫は頷くばかりだった。悲しさに喉を詰まらせ、言葉を紡げない代わりに大きくなった弟の胸で何度も何度も頷いた。ニコロイ様はあの日から時の止まった小さな肩を抱きしめ、呟いた。
「…良かった」
 ニコロイ様はずっと叫んでいたのでしょう。姉上はそんな事をしない、と。大人達はニコロイ様の言葉を否定し続け、まだ幼い王は主張する事に疲れてしまったのでしょう。私よりも長い間、それこそ50年の月日を只管信じ続ける事は容易い事ではありません。
 その言葉は、私の心も代弁してくれました。白い子が罪人ではないと知って、私は心の底から安堵したのです。
 不意にざりざりと水晶の地面を踏みしめる音を響かせたのは、ガノさんでした。
 ガノさんががしがしとルアムの頭を撫でる。パイナップル頭が更に爆発してアフロみたいになってる様子を、さも楽しそうに笑って見ていましたの。
「おぉ、ようやく見つけたぞ迷子共!」
 全く、私は笑っている場合ではありませんことよ!
「ガノさん! 酷いじゃありませんか! 幻に惑わされた私達を、どうして正気に戻してくださらなかったの!?」
「すまんすまん。我が輩とて幻惑・混乱・転び・踊り・眠りに怯えに麻痺やら呪い、果ては即死に封印とありとあらゆる厄災から自らの身を守る術は施してあるのだが、他の者まではそれは及ばんでなぁ…」
 さも困った顔で笑いながら、両手を合わせて頭をぺこぺこ下げますの。平謝りも良い所ですわ!
 きっと私達が夢幻の森に囚われたのを、黙って見送ったに違いありませんわ! 泳がせて情報を集めていたのよ! 私だったらそうしますからね! 私がかんかんに怒っている前で、ガノさんは周囲をしげしげと見回しました。
「ここがエルトナの聖地か。ドワチャッカ大陸の数多の遺跡を見て来たが、ここまで素晴らしい所は数える程しかなかったわい。恐らく、聖地がエルフ達に信仰され守護する者がいるからこそ、生きておるのじゃろう」
 そこは棄てられた旧カミハルムイ城の中ではありませんでした。水晶の枝が果てまで続く、朝焼けのような澄んだ空気に包まれた場所。包み込む噎せ返る程に強い新緑の香り、風が光の種を運び地に落ちれば新たな命となる。文献では『聖地』とだけあった場所は、言葉にするのは難しい程に美しい場所でした。
 ガノさんが『卓上の研究者が童話作家』と言った言葉が、今の私だったら少しだけ理解出来ます。
 ニコロイ様が手に嵌めた指輪を見て、それからガノさんに視線を向けた。
「どうやってここに立ち入る事が出来たんだね?」
「エンジュの嬢ちゃんが、知人に根回ししてくれたお陰じゃよ。エルトナの樹の守護者が王族であるならば、風の守護者は風乗りであろう?」
 私がその言葉の意味を理解する前に、舞う風と戯れるようにカムシカが降り立ったのです。フウラは私を見つけると、嬉しそうに笑って手を振ってくださいましたわ。緑の髪を風に靡かせ背筋を伸ばし、凛とした堂々たる姿でカムシカの上に股がるフウラの誇らしい事! あぁ、やっぱり風乗りって憧れですわ!
 実は暗黒大樹の葉を求める輩を案内していたキュウスケさんに昔のよしみと、フウラへ使いを頼んだのですわ。世界樹の葉と風の守護者である風乗りの協力を、漕ぎ着けて欲しいってお願いしたんですの。キュウスケさんったら優しいから、私がメラミを掲げて小首を傾げるだけで直ぐ了承してくださいましたのよ。
「で、あれが50年前にカミハルムイを滅んだ原因の魔物かね?」
 そう言ってガノさんがリタ姫の魔法で打ち拉がれた魔物を見る。魔物は最早、アグシュナ王妃の姿ではなかった。巨大も巨大、見た事も無い大きさの毒蜘蛛ですわ。その足は丈夫な枝を沢山茂らせた樹の幹のように太く、硬質な表皮を覆う体毛はまるで槍の先端のように鋭く太いのです。見るだけでもおぞましい邪悪さを感じて、震えますわ。
「気をつけて」
 リタ姫が木々に止まる鳥のように美しい声で言う。
「聖地を狙う魔物、アラグネに施した封印は弱まってた。その為に貴方達がアラグネに操られて、ここに来た時、私は皆を守る為に結界を弱めてでも匿うしかなかったの。私が家族を失った記憶に動揺した瞬間を狙って、アラグネは封印を破ってしまった」
 幹のような足を地面に突き立て、アラグネと呼ばれた魔物が身を起こした。輝かしい聖地ではどす黒くさえ見える、濃い紫の体躯に黄色に光る目がいくつも瞬いている。口が開き漏れた吐息は、濃い瘴気に黒く見えましたわ。
 私は杖を構え、敵の前に立ちはだかります。この破壊の力は、きっとこいつを倒す為にあるんですわ。
 隣にルアムとガノさんが並んでくれた事が、今まで感じた事のない程に心強かったのです。
「聖地は遺跡も同じ。あまり派手には暴れられんじゃろうな」
 そう言ってガノさんはハンマーを腰に固定すると、鞭を解いて軽く振ったのです。剣よりも大きく風を切り裂く音と、扇よりも響く衝撃の音が木の葉擦れする音のみの聖地に響き渡ります。彼は何度か鞭を振るい感触を確かめると、ふさふさの眉毛と髭に隠れた表情に粗野な笑みが広がるのを感じました。
「まぁ、嬢ちゃん。魔法は確実に当てにいっておくれ。我が輩が狙い易くしてやるからのぅ」
「あの蜘蛛、硬そうですからね。魔法で手堅く攻める方法は良いと思います」
 ルアムが先程までの適当な雰囲気を引き締め、青紫色の瞳を尖らせてアラグネを見遣りました。魔除けの爪を油断無く構え、ガノさんの言葉に頷きました。
「僕はちゃんと避けられますので、遠慮なく呪文を唱えちゃってください」
 ぽんぽんと身体を弾ませると、ルアムは飛び出しましたわ。プクリポの身体は軽いと聞いているけれど、まるで木々の間を器用に渡り歩く栗鼠のようですわ。アラグネの太い脚を踏んで飛び上がり、意表を突いて滑り込み、関節に爪を挿し入れてみせるのです。
 もちろん、アラクネは黙っている訳ではありませんの。脚を振り上げ、何度もルアムを打ち据えるところまで行ったのです。
 しかし、その寸前にガノさんの鞭が滑り込みます。あんな重い脚を、鞭の先端が打ち据えると軽々と弾かれてしまう。ガノさんは動きが速いお方ではありませんが、ルアムの動きを予測して動き、鞭の素早さで距離と速度を補うのです。その戦いの強かさは私の頭の回転の速さでも追いつかない程ですの。
 そんな二人が私に魔法を当て易いように動いてくださるのが分かる。
 私は静かに目を閉じ、地面に魔力増強の魔法陣を描きます。白い地面に尚白く、明るい空間に尚明るく、私の描いた魔法陣が輝きますの。
「さぁ、参りましてよ…!」
 私は杖を振りかざし炎の精霊に呼びかけました。
 風が舞い上がり樹が恐れる炎達が、聖地に今までにない程に迫ったのです。赤く遮る視界の中で、脚に遮られていた黄色い光が見えました。私はその黄色い光に向けて、高らかにメラゾーマの呪文を唱えましたのです…!
 アラグネの頭に命中したメラゾーマ、その力は瞬く間にアラグネの身体に燃え移りました。轟々と音をたて、深紅の炎に身を焼かれアラグネはのたうち回りましたわ。
 大ダメージですわね。これで、倒されたも同然ですわ。
 私も、その場に居た誰もがそう思った事でしょう。だから次のアラグネの行動に、誰もが度肝を抜いたのです。
 アラグネは心臓すら凍らすような咆哮を上げると、炎に身を包まれ焼かれているにも拘らず駆出したのです。白い水晶のような樹は火に舐められ、葉が次々と燃え落ちて行きます。唖然とする私達の耳に、狂ったようなアラグネの高笑いと、燃える炎の音が包み込んだのです。
「な…なんてこと…!」
 私は取り返しがつかない事態に、血の気が音を立てて引いて行くのを感じましたの。
 このままでは、聖地が燃えてしまう…!
「とりあえず、あれをふん捕まえるぞい! 我が輩は本気出すから、間違っても巻き添えるで無いぞ! 冗談抜きで命の保証はないぞい!」
 ガノさんがそう叫ぶと、腰の固定してあったハンマーを地面に降ろしましたの。ごとんと重たい衝撃が地面に鈍く響いたと思うと、ガノさんはご自分のハンマーから離れて鞭を振りますの。ガノさんが不思議な手首の返しで鞭を振るうと、鞭の先端が不思議な結び目でハンマーの柄に絡まりました。
「皆十分離れておきなさい。我が輩の真・アースブレイクは、本気で手加減出来んからな」
 にやりと極悪人のように笑うと、ぐいっと鞭を引きました。重いハンマーが地面を擦るのもほんの少し、ハンマーは地面スレスレを滑空し強風を伴ってガノさんに振り回される。風が吸い寄せられ、竜巻になってしまいそうですわ。最早、ハンマーの形状すら見えなくなるのも、誰もが状況を飲み込む前。ガノさんは轟音の外にまで気合いの声を轟かせ、ハンマーを高く放り上げた!
 ひゅうんと高い音を置き去りにし、ハンマーは聖地の空に消えて行く。
 しかし、ガノさんの手元は止まらない。ガノさんは卵のような物をアラグネに放り投げると、その卵を鞭で粉砕するのです。卵のような物から溢れ広がったのは、マダラ蜘蛛の糸ですわ!アラグネの真上で霧雨のように降り注ぐ糸に絡めとられ、熱で溶かされようとその動きが明らかに鈍る。
 ガノさんが会心の笑みを浮かべましたの。
 音が迫って来る。
 見上げる間もなく、直線の尾を引いて重力に引かれ最高速度で落下するハンマーがアラグネに激突したのです! その揺れは私が彼から受けたアースブレイクの比ではありませんわ! 全ての音を砕いて無音とし、地面が失われ、衝撃波に身体が薙ぎ払われ持ち上がってしまいます!
 聖地の果てまで吹き飛ばされそうなルアムの足を捕まえ、私は風が止むまで耐えましたの。地面に激突するのか、樹の幹にあたっているのか、身体がめった打ちですわ! でも、ルアムの足を離す訳にはいかない。私は痛みよりも手を離さない事だけに意識を集中していましたの。
 ガノさん、手加減出来ないとは言いましたけど、こればかりは酷過ぎではありませんの?
 風の勢いが弱まり私が怖々顔を上げると、木々を焼き付くさんとしていた火まで衝撃波は薙ぎ払ったようでした。あれほどの強風であったにも拘らず、聖地の木々は地面に根を張り変わらぬままにそびえ立っています。
「アラグネは…?」
 私の呟きにルアムは気絶しているのか、ぐったりしていて返事をしていません。ぽよんと丸いお腹は、呼吸でちょっと膨らんだりしてますわ。見回してもガノさんも、ニコロイ様やリタ姫やフウラ達は見えないのです。
 鼻腔を木々が燃えた焦げた匂いと、先程の衝撃で舞い上がった埃っぽさが掠め流れて行きます。
 聖地の静かな空気に、アラグネは倒されたのだと安堵しましたわ。
 息を吐いて、ぞわりと悪寒が走りました。目の前に落ちた聖地の樹の葉が、真っ黒く変色していたのです! 炎に焼かれて焦げた色ではありません。それは瘴気によって変色していたのです!

 小脇に抱えていたルアムが意識を取り戻したようで、ばたばたと暴れますの。痛い痛いという合間に状況を聞きたがるルアムですけど、私は息を切らしながら走っていてあまり受け答え出来る感じじゃありませんの。プクリポって思った以上に重いんですのね。
「だって、瘴気が沸き出しているんですのよ! どうにか、どうにかしなくては…!」
 聖地の純白の雪原のような水晶の砂は、瘴気を吸って黒く変色しています。漂う空気に霧のように瘴気が流れ、木々は瘴気を吸って色を変えてしまった葉をはらはらと散らしているのです。空は曇り空のように薄暗く、空気は悪くなっていくのが分かるのです。
「ねーちゃんってさー、オイラの知り合いのおっちゃんみたいな考えだなぁ」
 焦ったってしょーがねーよー。
 そんなルアムの真っ赤な真ん丸尻尾を、私は力一杯引っ張って差し上げましてよ! 痛い痛いって喚きますけど、それは自業自得だってご理解頂かなくてはなりませんわ!
 ルアムは私の腕から逃げ出すと、少し先を駆け始めましたの。
「一人一人はそりゃ弱いし、オイラも全然弱っちーけどさ。弱くても弱いなりに、強い奴らが持って無いものを持ってる。エンジュのねーちゃんがあれもこれも全部どうにかしようとしなくても、誰かが ねーちゃんの代わりに助けてくれたりしてくれると思うぞ」
 元々プクリポは魔力に秀でていて、優秀な魔法使いを多く輩出しているのです。でも、プクリポという種族の全員が魔法使いかと言えば違います。プクリポは武術に向いた体つきではありませんが、メギストリスの国王様は剣術の達人だと噂は聞いております。
 ルアムは確かに弱いと思いますわ。動きも鈍いし、戦闘もお世辞にも得意ではありません。戦闘の時に人が変わるのは、彼の近くに漂う気配の力を借りているのだと察しています。でも、底抜けに明るくて、彼が居ると何故か心強くて気持ちが軽くなるのです。
 でも、私はルアムではないわ。私はエンジュなのです。頭が良いなら賢さを生かして人の為にならねばならないし、呪文に秀でていれば役立てなくてはならない。倒せる魔物はぶっ飛ばし、救える命は助けなくてはならないのです。
「皆居るんだからさ、頼ろーよ。皆、ねーちゃんの事を絶対助けてくれるからさー」
 そんなこと。私は口を開こうとしました。その言葉を、ルアムはぴしゃりと遮ったのです。
「皆、エンジュの事大好きだから。大好きな奴が困ってたり辛かったりしてたら嫌なのは、オイラだけじゃない。助けるくらい、させてよ」
 私は唇を引き結んだ。
 勉学が捗らないと嘆く学生に勉強を教えて、病が治らなくて薬を求めていた人の為に何度も徹夜した。悩みがあれば一緒に悩んで、嬉しい事があれば一緒に喜んだ。あまり料理は得意じゃないけれど、美味しいって言われるように勉強して頑張ったわ。でも、他人の役に立つ事が私にとっては使命だった。精霊達の声もあって、私は自分の存在意義を他人の役に立てる事に求めていたの。
 だから、決して私から他人に助けを求めなかった。一度も無いわ。分からない事は全て本が教えてくれたんですもの。
 助けるくらい、させてよ。その言葉は思った以上に、私の心の中で反響していたんですの。
「貴方じゃ、助けになりませんわよ」
 そういって早歩きでルアムの前を歩き出しましたの。泣きそうで歪んでしまっている顔なんて、見せられませんもの!
 歩いているうちに、聖地に満ちていた瘴気が薄れているのを感じましたの。地面は歩を進める毎に透明になっていき、木々は輝き、空気は澄んで行きました。どうやら、誰かが浄化しているようですの。
 誰か。ニコロイ様やリタ様、フウラの顔が浮かびましたわ。
「お姉様!」
 梢を渡り、カムシカに股がったフウラが駆け寄って来たのです。彼女はアラグネが倒された事を先ず告げて、ゆっくり道案内をするように先を進み始めたのです。
「暗黒大樹が葉を介して魔瘴を吸い取ってくれて、世界樹が葉を介して清めてくれてるの。ニコロイ様が癒しの呪文を唱えてくれて、燃えちゃった樹も少しずつ癒されて行くとおもうわ。そう、風が言ってるの」
 風が豊潤な緑の匂いを含んで舞い込み、聖地の力を含んで旅立って行きます。私は聖地の力がここに留まらず、エルトナへ流れ始めているのを感じたのです。旧カミハルムイ城が棄てられた原因は、聖地の力が失われたとの事でしたが復活の兆しが感じられて来たのです。
「アラグネが倒されたから、侵略者の為に聖地の扉を閉ざす必要が無くなったってリタ様が言ってたわ」
 そうして、聖地の中心になるのでしょう。一際大きな巨木が聳える根元に、皆が集まっていました。私達を見つけてガノさんが、小さく詫びるように手を挙げましたわ。そんな風に謝っても許しませんわよ。
 リタ姫もニコロイ様も特に言葉を交わす事はありませんでした。無言で見つめ合い、ニコロイ様の瞳に浮かんだ後悔の色を察してリタ姫が小さく首を振ったのです。そして歩み寄って来た全員を、リタ姫はゆっくりと見たのです。
「ニコロイ、エンジュ、皆さん、信じてくれてありがとう」
 リタ姫は、私が幼い頃から見かけていた真っ白い子は、嬉しそうに笑ったのです。
「ニコロイだけでも守れて、凄く嬉しい。だって、私はニコロイのお姉ちゃんだもの…」
 そうして聖地の空気に白い子は融けて行きました。
 彼女の笑顔が、私は本当に嬉しかった。
 本当に、嬉しかったの。