まいごのこねこ

 色とりどりの風車の羽が立てる、重い音や軋む音が波音と潮風の音と混ざり合う独特の音で満ちている。
 漁から帰って来た船の横で、井戸端会議のついでの網の手入れをする賑やかしい女性達の姿もない。擦れ違うのは俺と同じく武器を持ち、警戒に目を光らす戦士達ばかりだ。
 ジュレー島の崖に作られた都市ジュレットは、今 猫に悩まされている。
 擦れ違うウェディ達は、耳の部分や背に魚のヒレのようなものが生えている。太古の昔は海で生活していたと言われるウェディは、泳ぎがとても上手い。身体から生えているヒレは、耳に入る水を防ぎ、方向転換を容易くさせる。
 猫族はウェディを補食する事は殆ど無いが、涎をだらしなく垂らして見て来る。ウェディも太古から刷り込まれた本能なのか、猫を嫌う者は多い。
 最近頻繁に町に出没するようになった猫達。事態の対応にヴェリナードの衛士団も動き出しているが、解決の糸口も掴めていない。町に近寄る猫を追い払う、いたちごっこを繰り返している。
 先程、ウェディの戦士がへっぴり腰で猫を追い払っていたのを思い出し、俺は思わず鼻先で笑った。情けない奴らばかりだ。
「おぉ!幼馴染みのヒュー君じゃん!」
 背後から聞き慣れた声が響く。俺は無視して足を進めようとしたが、駆けつける足音は直ぐに追いつき追い抜いた。
「やっぱり! せいかーい!」
 深い海底の様な長髪を無造作に長し、ウェディ独特の整った目鼻立ちをしている。肩には釣り竿を下げ、ウェディ族が着る一般的な普段着をひらひらと海風になびかせている。満面の笑みを浮かべて俺の顔を見る幼馴染みに、俺は腕を組み溜息混じりに話しかけた。
「なんだよー、久々に会っていきなり『何か用か』はないだろー? 孤児院出て、何してるんだ?僕は…」
 幼馴染みのイサークは、女のようにべらべらと喋りだそうとする。俺と同じく孤児のイサークとは、物心付いた時から一緒だった。コイツの方が少し年上だそうだが、孤児院を出るタイミングは殆ど同じだった。昔から変わった奴だ。
『おやおや、誰かと思ったらヒューザじゃないかい』
 なんとも不思議な声色も、また懐かしい。
 俺が振り返ると、まだ幼さの残るウェディの少女が大きな黄色いソンブレロを被っている。豚の魔物がこういう帽子を被っているのだが、それだ。ソンブレロは日よけのツバとの境にある模様を開き、まるで口のように動かした。
『懐かしいじゃないか。魔物達から、お前さんが手強いと評判を聞いているよ。乱暴なだけだとは思うけどねぇ』
 けらけらけら。帽子が笑う。
「まだ解れてくたばらないのかよ、ブレラ」
『ふん! たかだか10年ちょっとの小魚に言われたか無いね!』
 唾を飛ばすような剣幕だが、飛んで来るのは火花だ。俺は舌打ちしながら半歩下がって、口煩いブレラに剣先を向ける。ソンブレロを被っていた気の弱そうな少女が『や、やめようよブレラさん!』とソンブレロのツバを掴んで宥めていた。
 そんな俺達の様子を、イサークは手を叩いて朗らかに言った。
「さぁ、ご飯にしよー! お天道様が天辺に到着されたからねー!」
 イサークの言葉に俺の腹は思わず唸った。久々にイサークの飯が食えるのだけは、まぁ、良しとしよう。
 何度見ても頼りないイサークの後ろ姿を追って進めば、最近有名になった料理屋である。小さなステージにはピアノやリュートが立てかけられていて、今夜も喉に自信のあるウェディが愛の歌を歌うのだろう。真っ白い石壁に青を基調としたタペストリーで統一感がある、如何にもウェディが好みそうな洒落た内装だ。金属のフレームの上に板を置いたテーブル席に、イサークは手慣れた様子で案内した。
「少し待っててー。ちょちょいのぱっぱで、イサーク様のお任せプレート作って来るねー」
 へらんと笑って厨房へ消えて行くと、イサークの脳天気な挨拶が聞こえて来た。
 俺は同じテーブル席に着いた小娘とブレラを見た。少女は肩でざっくりと切った褪せた亜麻色の髪を伏せ、仕草も様子も自信が無い事が分かる。少女の自信の無さから来るおどおどとした態度は、イサークのへらへらっぷりを見ているのと同じくらい俺を苛立たせる。
「おい」
 元々低い声で声掛けると、小娘は椅子から跳ね上がる程にびくりと身体を硬直させた。
 怒らせる事を何もしていやしないのに、怒られるのかとびくついているかのようだ。こういう奴が、俺はすごく嫌いである。もっと堂々とすれば良いのだ。
 続きを口にしようとする俺に、ブレラが口というか帽子を挟む。
『ヒューザ。お前さんは粗暴過ぎるよ。可哀想に、ソーミャが怖がっているじゃないか』
「声を掛けただけじゃねぇか」
『声色に苛立ちが滲んでいるよ。ウェディ族は耳が良いが、お前さんの感情はきっと他種族だって感じ取れる程にあからさまだよ』
 ふん。俺が鼻から息を吐いて、姿勢を斜に構えた。
 ウェディ族は歌の種族でもある。昔は海で生きて来た名残なのか、声の中に織り込まれた僅かな感情も感じ取る事が出来る。ウェディの昔話では魔女が呪いの歌を吹き込み続けた水を美しい姫に飲ませ、永遠の眠りにつかせたと言う話もあった。王族はその力を強力に残した血筋で、その声を歌に変え水に融かして祝福や加護を授ける事が出来るのだ。
 当たり前の事とは言え孤児院を出てからまでも、ブレラの説教を聞く羽目になるだなんて御免被る。俺が視線を外して黙りを決めた事を察してか、ブレラはソーミャと呼ばれた小娘にぱたぱたと説明しだした。
『ソーミャ、このくそ生意気な小魚はイサークの悪友のヒューザだよ。どんな奴かは…もう十分知ったようだね』
 ブレラの説明にソーミャは視線をどうにか持ち上げて俺を見た。暗く不安に陰る瞳がよく見える。
「初めまして、私はイサークお兄ちゃんと同じ下宿に住んでいるソーミャと言います」
「あぁ、そうか」
 俺がひらひらと手を振ると、すっと影が差す。イサークが半眼になって俺を見下ろしていたのだ。
「ヒュー君はもうちょっと優しくても良いんじゃないかなぁー」
「うるせぇなぁ」
 孤児院ではいつものやり取り。何を言っても決して態度を変えない幼馴染みに、いつも通り心の底から煩わしそうに言い放った。
 テーブルに載った沢山の料理が、競い合うように香りを放ちながらハーモニーを奏でている。ウェナ諸島の海の恵みをふんだんに使った料理の数々は、磯の香り、太陽の匂い、鮮やかな色を木製のテーブルの上に齎した。
 鮮やかな黄金色のパエリアには、大雑把に、しかし隠し包丁を入れて食べ易くカットされた海産物。今日漁師が釣ってきた魚は刺身にして、頭の部分はエルトナ大陸の特産物の味噌で作ったスープ。様々な野菜と共に鮮やかな色で食卓を賑やかすカルパッチョ、薄焼きのピザをなれた手付きでカットすると、イサークは『さぁ、どうぞ』と微笑んだ。
「あ、オルフェアからプクプクピーチのジェラートが入ったらしいから、デザート欲しい人は言ってねー」
 へらりと優男の笑みでイサークが言う。
 昔はこの食卓の料理を、孤児院の連中は奪い合うように食べて戦争みたいだった。俺はそんな奴らから少し離れた所で食べていると、良くイサークは料理を取り分けて持って来ていた。『ヒュー君は大きいんだから、そんな少しじゃ足らないでしょ?』結局俺は拒絶できずに取り皿を受け取ったものだ。
 ソーミャもイサークと同じくらい心配りが出来る娘で、何くれと皿が開けば『何か取る?』と訊ねてきた。
「そーんな事言って、1時間後にはお腹の虫ぐーぐーなんだからー」
 イサークが問答無用で俺の皿にパエリアを山盛り盛りつけ、けらけらと笑う。太陽のように眩しく、穏やかな波のように何を考えていやがるのやら…何も考えちゃいないだろうけどな。
「ソーミャちゃん、子猫ちゃんは元気そうだったー?」
 ソーミャが少し不安そうに頷いた。
「でも、元気が少しずつ無くなってる気がするの」
「だよねー。まだママのおっぱいで生きてそうだもんねー。レディ、どう思うー?」
 帽子に性別があるのかは疑問だが、イサークは出会った頃から『レディ』と呼び、ブレラも俺から見れば男勝りの女傑という印象だ。まだ青い子豚の上に乗っていた頃から、ブレラはその呼び方を満更ではないようだった。女心は複雑である。
 イサークの隣の椅子に置かれたブレラは、イサークを見上げて言う。
『事態はそんなに簡単じゃないようなんだよ、イサーク』
「ヴェリナードの衛士団が猫の事件で船を寄せようとしたもんなら、メラの雨霰だって聞いたよー。衛士団も島には手も足も出ないから、寄って来る猫を追い払うのが精々って話らしいねー」
 イサークが苦笑すれば、ブレラは『分かってんじゃないかい』と熱い息を吹きかける。イサークは仕事柄人前に立つ仕事が多いのだろう。俺ですら知っているような噂を、知らない訳が無い。俺はエビの殻を向きながら会話に耳を傾ける。
『海際で寝てたトンブレロに聞いた話じゃあ、猫島の中も大騒ぎらしいよ。巨猫族のお世継ぎが消えたらしいからね』
「巨猫族?」
『魔猫族では極稀に生まれる、図体でっかい樽猫の事さ。耐久力も体力も生命力も、ドラゴン族と競い合える程にあるんだよねぇ。猫族の王様みたなもんで、今の猫島は巨大猫族のキャット・マンマーって女王が納めているのさね。誇り高いメス猫さ』
 俺は良く冷えたレモン水を傾けながら、恐らく衛士団よりも事態を掴んでいるだろう二人の話を整理していた。なぜなら、そうしておかないと…。
「ま、大丈夫!ヒュー君いるから!」
 ほら、来やがった。
 満面の笑みで俺を見るイサークに、俺は溜息吐きながら睨み返してやった。
 ヒュー君!ちょっと手伝ってよ!
 そう言われて『ちょっと』で済んだ事等ない。
 イサークは器用で多才な男だ。孤児院に居ながら様々な将来の道を選べる事が出来た。料理の腕が秀でていて、オルフェアの料理ギルドへ推薦状を出そうとか言われた事もある。釣りの腕も一流で、漁師が養子に欲しがった時期もある。縫い物は院長や他の女性よりも上手で、裁縫ギルドは未だに彼を狙っているそうだ。それでも、イサークは孤児院から離れなかった。
 今も彼が選ぶ事の出来た未来は、選ばれないままだ。この料理屋もイサークには雨宿りの軒下程度にしか思っていない事だろう。
 イサークが出来ない事は、ただ一つ。戦う事だ。
 要領の悪い素人だが、運動音痴かと問われるとそうではない。イサークは、傷つけるのが嫌なのだ。斬れば痛い事を、呪文を浴びせれば苦しむ事を、死んでしまった命を自分の事のように嘆いてしまう。
 器用で殆どそつなくこなすイサークが、協力を求める事は『ちょっと』では済まないのだ。
 俺達は食事を済まし、ラーディス王島へ向かう定期船の船着き場付近にやってきていた。日はまだ高い為に、うずたかく積まれた木箱の底は明るかった。
 にゃーん
 ソーミャが大事そうに持ち上げたのは、ふかふかのコットンタオルで包まれた猫の赤子だった。
 もはや大きく育ち切ったプリズニャンと変わらない大きさだったが、あどけない顔立ちやふかふかな毛皮は赤子だと思う。子猫はソーミャの頬を舐め、そのざらりとした舌にソーミャはいたいよと笑った。
「あの子は、ソーミャが拾った赤ちゃんなんだー。海をぷかぷかしてたんだってー」
「魔物と言えど子供じゃないか。何の力も無いソーミャが、餌をやって齧られたらどうする?」
『その為にあたしが一緒なんじゃないか。五月蝿い小魚だね』
 イサークの背中にぶら下がったブレラが、ぎゃんぎゃん喚く。イサークが俺とブレラの間に入って、まぁまぁと笑った。
 そして、ソーミャに聞こえないように声を潜めた。
「ヒュー君も見て分かったろうけど、あの子大きいでしょー?」
 言わん事は分かったので、俺は頷いた。子猫にしては大きい赤子を、イサークとブレラは先程話した『巨猫族のお世継ぎ』ではないかと疑っているのだ。しかも世継ぎが海に流されてしまっていたとなれば、誰が流したかという話になっている。猫しか居ない猫島に居る赤子だ。恐らくも何も赤子の事を快く思っていない、猫がやったに違いない。
 イサークが手伝いを求めるのも仕方が無いだろう。
 猫がうろうろしているのは『巨猫族のお世継ぎ』である赤子を捜しているのだ。
 理由は二つ。
 一方は猫族の長である母親の元へ返す為。
 もう一方は生きてては都合が悪いから殺す為に探しているのだ。そっちに見つかっては、赤子は殺されてしまうだろう。
 どちらの考えを持っているかは、流石にトンブレロソンブレロのブレラにも分からない。
 俺は剣の握りを確認して、イサークを見た。
「どうやって、島に入るつもりだ?」
「さっすが、ヒュー君、話が早くて助かるなぁー」
 ヘラリと笑ったイサークは、こう考えている。確実に赤子を守ってくれる存在…、母親に直に返しに行くのだ。

 これから日差しが傾き、空も海も赤く染めるまで時間がある頃合い。俺達は泳いで海を渡っていた。
 俺とソーミャが周囲の猫達を警戒しながら泳ぎ、ブレラの下に赤子を隠したイサークが続いている。猫島の島影は遥か遠くに見えるが、泳ぐ事が得意なウェディなら一時間足らずで辿り着く事が出来る。衛士団見張っているだろう海域をゆっくりと抜け、俺達はいよいよ猫島に近づいてきた。
 猫島から、翼を羽ばたかせ1つの影が向かってきた。俺とソーミャは深く潜って息を潜め、イサークは立ち泳ぎをしてブレラの影に隠れる。間抜けなキャットフライはイサークには気が付かないようだ。
「トンブレロ、猫島に何の用なんだみゃー?」
『ちょっと拳骨茸が齧りたくなっちゃったんだ』
「そうみゃら、早く齧って帰るんだみゃー。リベリオ様の機嫌が良くにゃいから、見つかるとローストポークにされてしまうにゃー」
『ありがとん。気をつけるよ』
 ブレラが軽く礼を言うと、キャットフライの影は遠ざかって行った。
 イサークがこの作戦を切出したのも、ミューズ海岸に居るトンブレロが海を渡る事は別に珍しくない事なのだ。海水にぷかぷか浮いて、小さい手足をちょこちょこ動かし溺れずに何処へでも辿り着いてしまうらしい。ブレラの下に子猫を隠せば、濡れずに猫島まで運ぶ事が出来るしな。
 本当にイサークの根回しの良さには感心する。俺には決して出来ない芸当だ。
 そして、イサークの本領はここから発揮される。猫島に上陸し、さぞや敵意剥き出しの猫共の出迎えがあると思ったのだが、そんな事は無かった。イサークは猫砂を頭から被り、匂いを少しでも誤摩化す為だからとソーミャと俺にも打ちまける。そして猫達の往来を横目に見遣りながら、繁みを進んで気が付いた事があった。
「猫共は酔ってるのか?」
 俺の呟きにイサークはそれはねーと、警戒心の欠片も無く答えた。
「猫島に来る予定が決まった時に、キメラの友達にお願いして『ネコマンマの実』を届けてもらったんだー。マタタビの匂いをすこーしだけ付けさせてもらっちゃった。かわいーよねー」
 イサークは本当に魔物の生態に詳しい。ブレラの入れ知恵も少なからずだが、イサークの観察眼と好奇心が成せる業だ。
 魔猫族が『ネコマンマの実』に目がない事は有名だし、マタタビの匂いで酩酊状態になる事も知られている。しかし、猫島の猫達は警戒心が強く、人間のように1つの国家の形式ができあがっているのだ。罠をホイホイ受け取ってくれる程に馬鹿ではない。
 遠くで猫達が鳴く。
 もう、マンマー様の愛しい子供は帰って来ない。マンマー様には申し訳ないけれど、そろそろ気持ちを入れ替えよう…と。
 子猫を亡き者にしようとする連中の言葉に、イサークの謀も混ざっているに違いない。
 ウェディであれば逃げ出したいだろう、獣臭さに猫の声。四方八方から山彦の様ににゃーにゃー響き渡る中、ソーミャは子猫に顔を埋め震える足を励まして進んでいる。少しの段差を先に降り、俺はソーミャに手を差し出した。
 ソーミャは小さく目を見開いて、俺の手をしげしげと見つめる。ウェディを見れば齧りたがる猫の巣窟では、その一瞬すら惜しい。俺は硬直するソーミャの両脇に手を差し込んで持ち上げる。小柄なソーミャは子猫を抱いていても、羽の様に軽かった。
「声を出すな」
 驚きから来る小さい悲鳴を鋭く制すると、ソーミャは怯えるように身を硬くした。腕の中の子猫が、不満そうに鳴く。俺が思わず舌打ちしたのを、まぁまぁとイサークが嗜める声が聞こえてしまう。俺は、こういう子供の世話が嫌いなんだよ。
 地面に降ろしても固まったままのソーミャに、ふわりと黄色いソンブレロが乗った。
『ほらほら、先を急ぐよ』
 ブレラは女子供の守護者だ。誰でも被れるし、被っている対象の魔力に依存せず帽子だけの力で呪文を放てる。ちょっと子供だけでは危ない場所に行く時の護衛に、ストーカー撃退の戦力にブレラを借りたいと言う奴は多い。
 今までも何度も頭に被ってきたんだろう。ブレラが頭に乗って、ソーミャは緊張を僅かに解したように見えた。
「もうそろそろ、巨猫族の巣だと思うんだー。ヒュー君、頑張ろうねー」
 スティック代わりのローリエのお玉を持って、イサークは俺に笑いかける。野営の時は平然とそれでスープを注いだりするのだから、この男は本当に何も考えていないのだと熟思う。
 イサーク、それは戦いの武器じゃねぇ。
 プクリポならば突っ込む所だが、俺は無愛想に頷くだけだ。そう何度注意しても改善されず諦めたのは、俺が木の枝を剣の代わりに振っていた遠い昔の事だ。その反応にイサークだけはにっこりと笑ってくれる。
「レディ、ソーミャちゃんの事宜しくね。きっと子猫ちゃんが一番危ないだろうから」
『あたしを誰だと思ってるんだい、イサーク。任せておきな』
 その時だ。強い視線を感じて見遣ると、隻眼の大猫が俺を見ていた。残った瞳で信じられないように、ソーミャを、いや…子猫を見ている。
「ミャ…!? ジュニア…様!?」
 隻眼の厳つい顔にしては、間抜けな声。埃にまみれた薄汚れた大猫だが、その鋭い視線は戦士そのものだ。背丈はオーガ並み、胴回りは大樽のような豚猫は、小さく見える程の三日月刀を振り抜くとどしどしと迫って来る。力は大層ありそうだ。
 俺は敵のお手並みを拝見する為に剣を抜いた。
 見た目を裏切らない強力な一撃を真っ正面から受け止めて、筋肉がぶるぶる震えやがる。俺はにやりと笑って、豚猫の大剣を弾き返した。
 もう、俺達の周りは猫達に囲まれて、ちょっとした舞台みたいになっていやがる。ソーミャは子猫を抱きしめて、不安そうにイサークの横に立っている。イサークは笑みを崩さず猫達を見ている。そして猫達は豚猫に、にゃーにゃー応援しまくりで騒がしい。
「リベリオ様!」
「何をぼさっとしてるニャ! あいつ等がジュニア様を攫った誘拐犯達だニャ! さっさと捕まえるニャ!」
 太い腕をぶんぶん振り回し、リベリオという名前らしい豚猫が叫ぶ。猫達の視線が一斉に、子猫に集中した。
 どんなに弱かろうと獣の魔物には、爪や牙が存在する。海を泳ぐ関係で防具を身につけて来れなかったが、本気で噛み付かれれば深々と傷を負わせる事が出来るだろう。
 まぁ、イサークの奴がいるんだ。どうにかしちまうことだろう。
「えー! 僕、誘拐犯なの? じゃあじゃあ、早速、この子を猫鍋にしないとねー!」
 わきわきと怪しい指の動きで、イサークはソーミャに向き直ってにじり寄った。涙目で猫達を見回していたソーミャは、イサークからじりじりと遠ざかる。ついに猫達の真ん前まで下がったソーミャだが、猫達もウェディの異様な雰囲気に圧されている。
「イサークお兄ちゃん! この子を猫鍋になんて、絶対にさせないよ!」
「でもでもー、ほら、僕はわるーい誘拐犯らしいしー、それっぽくないと駄目じゃーん!」
 笑顔を崩さないイサークに、猫達がソーミャと子猫の前に躍り出た。
「さかにゃめ! ジュニア様は渡さないにゃー!」
「ふっふっふー、猫ちゃん達にできるかなー?」
 果敢に飛びかかった猫達は、イサークの巧みな指さばきにゴロゴロと喉を鳴らして眠りこける。面妖な妖術にでも見えたのか、猫達は挙って震え上がった。
 ややこしくなってきやがったなぁ。
 豚猫が駆けた。想像以上の軽快さに横を抜かれると、豚猫が大剣を振りかざす。
 その太刀筋は俺が剣士だから分かるが、イサークを狙っていなかった。猫達は向かって来る豚猫の大剣の軌跡に羽の様に逃げ惑い、取り残されたソーミャが悲鳴を上げる。ブレラが強力な呪文を放とうとしたのを割り込む形でイサークが、ソーミャを抱えて間一髪抱えて巨大な泉の中に放り投げる。イサークは避けきれずに横っ腹を切り裂かれ、椰子の木に叩き付けられた。
 そのまま、イサークに追い打ちを掛けると思いきや、豚猫はソーミャを追おうと泉に足を向ける。
「おい」
 俺が猫の背に切り掛かると、豚猫は俺の一撃を流し返す刀で切り掛かる。豚猫は力で、俺は技量で同等に切り結ぶ。
「お前だろ、子猫を海に流しやがったのは…」
 剣士達の踊りの最中、俺の問いに豚猫はにやりと笑った。俺は全ての謎がぴったりと合致して、やはりと納得した。
 海に流して先ず助からない。そう確信していたのに、俺達が連れて戻ってきたのは誤算だったに違いない。豚猫はこの騒ぎに乗じて、仕留め損ねた子猫の息の根を止めようとしていやがる。侵入者であり誘拐犯に仕立て上げたい俺達を、撃退する最中に『手が滑った』とか言って子猫も巻き添えにしちまうつもりなんだ。周囲の猫達も疑いやしねぇ。俺達に罪を着せて、豚猫は足りない脳みそで考えた筋書き通りに物事進んで高笑いってか…気に入らねぇ。
 俺は大声で叫ぶ。
「ソーミャ! 子猫を連れて母親の所に駆け込め!」
 こうなったら、最初の予定通り。俺達の目標を達する他ねぇ!
 俺の声に泉に浮かんでいたソーミャは表情を引き締めた。幼くて臆病だろうが、ソーミャは立派なウェディだ。子猫を沈めないように持ち、泉を滑るように泳いで行く。
 豚猫が追いかけようとするが、その尽くを俺は遮った。
 猫島の猫達は何がなんやら訳が分からず、おろおろそわそわするばかりだ。
「きゃっ!」
 ソーミャの悲鳴と、豚猫がぎくりと身体を強張らすのは同時だった。
 攻撃の手をぴたりと止め戦意を喪失した豚猫から注意深く視線を外すと、泉の対岸で巨大な猫にソーミャが抱き上げられている所だった。豚猫と同じかそれ以上に恰幅の良い、メス猫だ。真っ白いふわふわの毛並みに、ウェディ族にも通じるような布を合わせた衣を身に纏っている。仄かに香草の香りを漂わし、包容力がある胸元にすっぽりとソーミャと子猫を抱き寄せた。
「あぁ、ジュニア。妾の愛しい子供。よくぞ、帰ってきた」
 巨大なメス猫は腕の中へ愛おしい視線を投げ、優しく微笑んだ。
「猫ちゃんのお母さん?」
「妾はジュニアの母。キャット・マンマーじゃ」
 ソーミャが恐る恐る訊ねると、巨大なメス猫は穏やかに頷いた。その返答にホッとしたのか、ソーミャが腕の中の子猫に優しく囁いた。
「貴方はジュニアちゃんって言うのね。お母さんに会えて…よかったね」
 にゃーお。
 子猫の声が響くのを嬉しそうに確認し、キャット・マンマーは子猫を抱いたソーミャを地面に降ろした。
「もう少し預かっていておくれ。妾は一仕事せねばならぬ」
 マンマーはリベリオと同じか、少し大きい猫だ。鉄の女を彷彿とさせる堅牢な意思、猫達を束ねる威厳と判断力を兼ね備えている瞳だ。おそらくもなにも、この猫島の猫達を束ねている王と呼べる猫なのだろう。
 ゆったりと優雅な足取りでリベリオの前に、マンマーは歩み寄った。そして冷たい瞳でリベリオの隻眼をじっと見つめる。
「リベリオ…其方がジュニアを誘拐したのであろう?」
「ニャ…! マンマー様、俺は…」
 慌てて畏まるリベリオだが、そんな態度はマンマーには全く通じなかった。
 マンマーは我が子が居なくなって錯乱する女ではない。冷静に変化を感じ、誰かが我が子を連れ出した裏切り者であるかを探っていたに違いない。誘拐され見返りを求めないと分かれば、殺されたと判断しても可笑しくはない。そして、彼女は既に裏切り者の目星をつけていた。何時でもリベリオを始末する事は出来た事だろう。
 そうしなかった事は、魔猫族の事情があるに違いない。その事情を優先し、我が子の事で取り乱さないマンマーは正しく上に立つ者の器を持つ者だ。
 猫達や俺達はマンマーの言葉を聞く為に静まり返った。遠くにあるだろう浜辺に打ち寄せる波の音が、嵐の前の静けさのような穏やかさだ。
「其方は巨猫族でも、長になれぬ事に不満を抱いていたのは知っていた。また、ジュニアが次代の長になる事に納得出来なかった事も知っておる。今回の其方の謀り事の全て、妾にはお見通しであった」
 リベリオはぎょっとした様子だったし、猫達も驚きを隠せない様子だった。
 考えれば分かるだろう。バカなのは猫達の気質なのかもな。
「本来なら死を持って償うべき所。しかし、其方は魔猫族一の剣士として、長らく我等の為に剣を振るった功績がある。其方を慕う猫が居る事が何よりの証拠であろう。故に、命までは取らぬ」
 ほっと溜息が細波のように広がった。リベリオを慕う猫は、俺の想像以上に多いのだろう。
 しかし、そんな安堵を薙ぎ払うように、マンマーの冷たい判決が響いた。
「だが、この島に足を踏み入れる事は今後あってはならぬ」
「マンマー様!」
 抗議の声がにゃーにゃー上がる。
 リベリオもようやく自分が犯した罪の重さを自覚したのか、泣きそうな顔でキャット・マンマーを見上げていた。しかし彼女は、決して態度を崩さない。
「去れ、リベリオ。ジュニアを殺そうとした事、妾は決して許さぬ」

 ■ □ ■ □

 猫島の奥地。巨猫の巣の玉座の前に、俺達は通された。ここにウェディがやって来る事は、大変久しぶりの事だそうだ。
 キャット・マンマーは腕の中で眠るジュニアを愛おし気に見つめ、そして俺達ににっこりと微笑んでみせた。リベリオに見せた鉄の女の顔を微塵も感じさせない、愛嬌のある可愛らしいと思う笑顔だ。
「ジュニアが行きて戻ってきた事、それが其方等の尽力あってである事に心から感謝する」
「よかったねー!」
 にっこりとイサークが笑ってソーミャを撫でた。大きく切り裂かれて血まみれの服の下は、もう傷跡すら無い。
 イサークは実際かなりの重傷だったが、この男は回復呪文が得意だから自分で直したのだろう。職業で言えば僧侶に分類されるだろうし、ブレラは魔法使いと変わらないくらいに魔法が得意だ。戦うのが嫌いなだけで、誰もイサークの実力を知らないだけなんだ。
 暗い顔のソーミャは、小さくうんと頷いた。
「ソーミャ、お前はもう独りで生きて行ける」
 俺は腕を組み、ソーミャを見下ろした。
 ソーミャは子猫を手放したくなかった事は、この場の誰もが分かっていた。だが、ソーミャ自身が子猫と共に生きて行くのが難しい事もわかっている。彼女の瞳は俺の言葉に不安そうに揺れた。
「お前が望む事が出来るよう、強くなれ」
「ヒュー君はキツいなぁ。ソーミャちゃん、独りじゃ出来ない事いっぱいだからさー、ちゃーんと皆の力を借りなよー。持ちつ持たれつ、だよー」
 俺がイサークの頭を叩くと、イサークは態とらしい悲鳴を上げた。
「イサーク、お前は甘過ぎる」
「じゃあ、ヒュー君も甘いよー。僕の『手伝って』を手助けしてくれたでしょ?」
 イサークはとっくに成人しているくせに、頬をふっくりと膨らませる。こんのやろぉ。俺は苛立ちからイサークの胸ぐらを掴んで睨みつける。
『五月蝿い小魚達だね。ちっとも成長してない』
 イサークの頭に乗ったブレラが、はーーーっと熱風を吐き出した。
 あっつ! 俺達ウェディは暑いのが苦手なんだよ、この帽子! 俺はブレラを引っ掴んで、あらん限りに引き延ばす。この帽子、見た目は普通に布っぽいのに、俺の全力でも千切れやしねぇ! 何で出来ていやがるんだ!?
『こんの生魚! あだだだだ! 覚えておきな! …ソーミャ、親元から離れて生きる者は大変だろうけど、猫島の友達に会いに行く程度は独りで出来るようにお成りよ』
「ジュニアも喜ぶだろう。ソーミャ、其方をいつでも歓迎するぞ」
 キャット・マンマーはソーミャに優しく微笑みかけ、そして俺達にも笑みを向けた。それはソーミャに向けた母のような笑みではなく、信頼に足る戦士に向けれ笑みだった。
「我等巨猫族はウェディ達と遥か昔、ある約束事を交わした。長い年月に忘れ去られようとしていたが、これも導きなのであろう。双方に幸を齎す切欠となること、心から願っておる」
「大丈夫大丈夫。猫もウェディも仲良くやっていけるってー」
 にこにことマンマーの言葉を返したイサークの頭を、俺は叩いた。魔物を簡単に信用しやがって、本当にコイツは大馬鹿やろうだ。
 景気の良い音と笑う声が弾けて、俺はようやく居心地の悪さを感じた。俺は根っからの戦士なんだと、そう思う。