愛すべき隣人たちへ、この歌を贈ろう - 後編 -

 ウェナ諸島の主都、女王の居城ヴェリナードは広大な海の真ん中に浮かぶ白亜の貝なんだ。旅人に口で説明すると首を傾げられるけど、本当に海に浮かんだ貝そのもの。白い曲線を描いた優美なライン、周りはウェディ達が乗っている舟が泡のようにぽつりぽつり。海の上を走る大地の箱船が、滑るように白い軌跡を描きながらヴェリナードへ辿り着く。
 僕は北領からヴェリナードを見遣りながら、静かに釣り糸を垂れていた。
 背後からぱちぱちと焚火が爆ぜる音と、美味しそうな磯の薫りが漂って来る。夕暮れが近くなる、ちょっと早めの夕食の支度。野外で手の込んだおいしいご飯を用意して、案内する旅人をもてなすのもウェディ流なんだ。僕も町長さんのお願いで、他所の国のお客さんに料理を振る舞った事もあるからねー。
 ちょん。微かに糸の先を何かが突く感触がある。
 獲物だろうけど、まだ駄目だ。相手はこの餌を食べようかどうしようか悩んでる。いま、竿を引っ張ってはいけない。
 海の寄せては返す音も、海風に撫でられる椰子の木の葉擦れも、背後の焚火の音も、何もかもが遠退く。僕はこの細い糸一本で、狩るべき魚と駆け引きしなければならないんだ。
 ちょん。
 ちょん。まだまだ…。
 くん!
 確かな引きに僕は一気に竿を振り上げた。なんて強い引きなんだ…!僕は相手が引いたあまりの強さに、足を取られ膝を付いた。これ以上引き込まれたらこの先は海。逃がすもんか!
 竿を引き、時々緩め、繰り返す一進一退の攻防。その間に僕は糸で繋がっている相手を分析する。巨大で力があって、引く時間が長い。でも反動が大きくて引っ張り切って疲れると、休む時間もそれなりに長い。だが、その間隔も徐々に休む時間が長くなっているのが、糸越しに伝わって来る。
 元気な時に仕掛ければ、糸が切れてしまう。こんな大物、なかなかお目に掛からないから、絶対に釣り上げたいんだよね!
 焦るな。もう少ししたら、魚は完全に疲れ切る。勝負はそこで仕掛けるべきだ。
 ふわ。
 糸から伝わる相手の力が完全に緩んだ。
 僕は力の限り竿を引く!
「おりゃあああああっ!」
 ざばっと大きな水柱を立てながら宙を舞ったのは、大きな突撃魚だ! 僕と背後に居た仲間達が歓声をあげた!
「大量だニャー! 美味しそうな突撃魚…!」
 じゅるり。太い腕で口元を拭ったのは、猫島を追い出されたキャット・リベリオだ。リべにゃんは腰に下げた大きい刀を握ると、悪人面を遺憾なく発揮して舌なめずり。丘に上がった突撃魚は震え上がったが、最早まな板の上の鯉。観念して頂こう。
「早速、血抜きをするニャー! おさかにゃは鮮度が命、抜刀三枚下ろしなんだニャー!」
 ぎらりと輝き唸るリベにゃんの剣!
 うひゃー! ウェナ諸島の色んな料理人を見てきたけど、これ程までに手際良く魚を捌く人を見た事無いよ!凄いなー!やっぱ猫って魚が好きなんだなー!
 僕は焚火の方に目をやると、トンブレロソンブレロのレディ・ブレラを被った幼馴染みのヒューザを見遣った。
「どうー? 美味しくなってきたー?」
「わかんねーよ」
 っち、と舌打ちするヒュー君は、相変わらず柄が悪いなぁー。そんなしかめっ面じゃ、折角美味しく出来ようとしてる料理もおいしくなくなっちゃうよー。
『もう少しって所だね』
 レディがぽぶぽふとヒュー君の頭の上で跳ねると、ヒュー君は更に機嫌が悪そうに視線を逸らした。
 実は、あの後ヴェリナードへ戻る途中でこの二人と再会したんだ。ヒュー君は誰彼構わず怒らせちゃう態度とっちゃうし、リベにゃんはなんだかヒュー君をライバル視してるみたいでねー。剣を握りあって向かい合ってったら、喧嘩にしか見えないよねー。
 ルミラさんは故郷のグレンから、招集令状が届いたら急ぐって別れたんだ。グレンの王様の書状があれば、ヴェリナードの駅舎からでも乗れるってさ。
 今はどの国も色々大変そうなんだから、個人で喧嘩なんかしてる場合じゃないだろうにねー。
 そこで、僕は二人を連れてここでご飯を振る舞う事にしたんだ。ヴェリナード領の北側でも、やや西寄りのここは食材の宝庫! 鶏肉もドラゴンのお肉も狩り放題、釣り場としても穴場なんだ!
「よーし!ばっちりニャ!」
「うわー!リベにゃんすっごい!理想的な三枚下ろし!」
 そこにはヤシの葉で作られた即席の皿の上に、綺麗に部位事に並べられた突撃魚の姿があった!切れ味もとても綺麗だし、リベにゃんは返り血1つ浴びてない。なんて腕前だろう…!
 リベにゃんはふんぞり返って高笑い。
「にゃーっはははっ!俺様は猫島1、さかにゃを捌くのが上手い猫だったからニャー!」
「何にしようかなー、脂がのってる所を刺身にするか焼き魚にするか」
「カブト焼きも捨て難いけど、煮ざかにゃも捨て難いニャ」
 うーんと、悩む僕とリベにゃんに『アホらしい』とヒュー君が呟いた。ヒュー君、聞こえてるぞ。

 魚介類のパエリアはほかほかふっくら、焦げ目がぱりぱり。シーフードサラダは、ちゃんと猫が食べちゃいけない野菜は退けてあるんだ。近くで狩ってきてもらった肉は、さっと塩で焼いたのと甘辛いタレを絡めた串焼きを山盛り。リベにゃんが僕より上手に盛りつけた突撃魚の刺身が、とっても美味しそう!ヤシの実のジュースに、甘く煮詰めたココナッツを掛けたカットフルーツ、甘いのが好きじゃないって自称するヒュー君の為に飲み易いレーン村のお茶も用意してあるよ。
「はーい、かんせーい! 皆さん、どうぞー!」
 僕が座って宣言すると、リベにゃんがどかりと腰を下ろして料理の数々を見回した。そして肉球ぷにぷにの手の平で、僕の背を叩く。
「凄い美味しそうニャー! イサーク、とても料理が上手ニャ!」
「えへへー。ありがとー」
 へらりを笑う僕の横で、もそもそと無言で食べ始めるヒュー君。
 そんなヒュー君に、ウェディが見たら失神しそうな鋭い視線でリベにゃん睨みつけた。リベにゃんはヒュー君に、爪を向けて怒る。
「こら、ヒューザ! おみゃーは礼儀ってもんがにゃってにゃいニャ! 作ってくれたイサークを労うニャ!」
「リベにゃん、良い猫だなぁー。でも良いんだー、ヒュー君はいつもこうだからー、ね?」
 僕がヒュー君を覗き込むと、すっと視線を外して串焼きに手を伸ばす。
 ヒュー君は無愛想でいっつもそう。無言で食べ続けるって事は、ヒュー君なりの『美味しい』の伝え方なんだよね。美味しくなかったり、口に合わないと、全然食べない。少し前は村長の娘のルベカちゃんのご飯、全く手を付けないってガミガミ怒られてたもんね。僕が後でルベカちゃんにきちんと教えて作ったら、ヒュー君は食べてくれたし。
 素直じゃないし、愛想が悪いから、損するんだよなー。根っ子は良い人だから、勿体ないよねー。
 僕はサラダを自分の皿にとりながら、二人に尋ねた。
「二人はどうして、こんな所に居るの?」
 喧嘩してるの?って質問は意味が無い。だって、ヒュー君とリベにゃんが仲良く出来るなんて考えられないもん。
 武者修行的な事をしているヒュー君ならいざ知らず、猫島から追い出されたリベにゃんがどうしてここに居るんだろう。猫島に戻るつもりが無いのかな?
「んー、にゃんとにゃくだニャ。ぶらぶら歩いてたらヒューザがいたんだニャ」
「そいつがいきなり勝負を挑んできやがったんだ…」
 ふーん。僕はばりばりと野菜を食べながら頷いた。
 すると絶え間なく一定の間隔で響いていた波の音に、舟を漕ぐ櫂の音が混ざり始めた。そしてざわざわと人の声が聞こえだした。丁度草葉の影になっているから相手には分かり難いみたいだけど、岸辺に大きめの舟が停泊しているのが見えた。
 降りて来るのはウェディの女性と男性、衛士団らしい鎧に身を包んだ兵士が数名居るのが見える。
『ありゃあ、ウェディの女王じゃないかい? 凛とした声に海が震えているよ』
 レディ・ブレラの声に女性をじっと見る。
 ウェディの女王といえば、ディオーレ様だ。とても美しい黒いドレスに凛とした美貌の持ち主だけど、不安そうな表情が隠し切れていないと思う。隣に立っている恰幅の良い紳士はメルー公なんだろう。公爵の方がもっと露骨に、心配しては女王を励ましている。まるで表に出せない女王の不安を、公爵が代弁しているかのようだ。
 女王が不安に思う事…。
 僕は別れた頼りない王子様を思い出す。
「イサークはどうしてこんな所に居るんだ?」
 ヒュー君が低い声でぼそりと聞いてきた。そうだ、ヒュー君はジュレットで僕がアルバイトをしてるんだって知ってるんだった。僕は視線を戻してにっこりと笑って言った。ルミラさんが美人で良い子だとか、いっぱいお話ししなきゃいけない事があるんだった。
「旅行者の案内でブーナー熱帯雨林に行ってたんだ。その時、王子様と一緒になってね…」
「その王子様に何かあったかも知れねぇって、心配なんだろ?」
 僕が目を点にしている間に、ヒュー君はパエリアをかき込んだ。
「一緒に行ってやるから、飯を食っちまうぞ。ほら、豚猫お前もだ」
「命令すんじゃにゃいニャ!」
 そう競い合うようにご飯を平らげる二人は、僕のお皿にもりもり刺身やら焼き肉を乗せて言った。
「あんな蒼白な母親の顔見て、子供が無事だと思えんだろ」
「イサークが心配してるのは、俺様にだって分かるニャ。一食の恩義を果たすのは、誇り高き巨猫族の勤めニャ」
 ほれ、食べる。
 変な所で二人は息ぴったり。
 僕は笑ってありがとうと言うしか無かった。照れくさいなぁ。

 □ ■ □ ■

 腹が減っては何とやら、僕等は山盛りのご飯を胃袋の中に納めて出発した。本当は二人に後の旅の食料にと思って多めに作ったんだけど、リベにゃんは食べる食べる。あんな山盛りの半分はぺろっと食べちゃって、ヒュー君と無言の食事争いを繰り広げてた。
 殺気の女王様達と随分間を開けられちゃったけど、そこは猫族たる者の力なんだろうね。リベにゃんは匂いで女王様達が通った後を確実に追えたし、ヒュー君も足跡をあっという間に見つけてくれた。
 山に入る道はどこにもない、行き止まり。そこにひっそりと山に飲み込まれそうな遺跡があった。海の匂いもしないやけに乾燥した石畳の遺跡は、まるで時が止まったかのようだった。人の出入りがあろうと無かろうと勝手知ったると生える雑草一本も無く、海風が運んで来るだろう埃もない。
 リベにゃんが毛を逆立てて唸った。
「うぅ、にゃんだか血が騒ぐニャ」
「お前もか。どうやら相当危険な魔物が居るようだな」
 リベにゃんとヒュー君は剣を抜いては居ないけど、周囲をとても警戒しているのが分かった。僕もレディ越しに魔物達の気配を近くに感じないけど、遠くに凄く強い何か踞っている気がする。
 すると、美しい女性の歌声が響いた。
 軽快な今直ぐ駆出して行ってしまいそうなテンポ。掴むべきの希望と過ぎ去る今を歌にしたようで、それを女王は並々ならぬ決意で歌っているのが分かった。歌が流れ始めてから、大量の水が流れる音が前から押し寄せて来る。
「オーディス!」
 がたがたっと気配が動いた。
 僕達が丁度、女王様御一行に追いついたのもこの時だ。
 石畳には膝を付いて息を荒げるオーディス君やキャスランちゃん、そして黒髪の高貴な身成のウェディのお嬢さん。そんな彼等を取り囲むように、ディオーレ様やメルー公、そして衛士団の兵士達が控えている。
 流石、勤勉な衛士団の兵士は僕等に気が付いて剣を向けてきた。
「何者だ!」
「オーディス君!」
 僕が剣越しに声を掛けると、オーディス君は驚いた様子で顔を上げた。
「よかったね!その子が君が助けたかった女の子なんでしょ!?」
 オーディス君が助けたかった彼女。それがあの黒髪の美人さんなんだろう。あぁ、見てるだけで胸が締め付けられそうな、声が聞きたくなるような、ディオーレ様みたいな気高い女性だ。オーディス君が惚れて無茶するのも分かるなぁ。
 しかし、その黒髪の女性は顔を般若のようにしかめると、オーディス君に詰め寄った。
「貴方はなんと言う事を…!」
 次の瞬間、殺意を含んだ咆哮が遺跡を揺さぶった!
 僕は慌ててレディ・ブレラの帽子を抑えた。咆哮の風に吹き飛んじゃうかもって、思ったんだ。
 咆哮の余韻が耳の奥に残ってる。なんて恐ろしい声なんだろう。レディを引っ掴んだ手が、かたかた震えてるよ。
『まさか、王子が助けたがってたのが暴君の人柱だったとはね…』
 レディ・ブレラの呟きが怖れ戦いて声も出ない者達の間に、鋭利な刃物のように届いてしまった。声だけでこんなにも恐ろしいんだ。きっと、この声の主は先ず僕達をあっという間に殺してしまうんだろう。そう確信してしまう程だ。
「暴君って誰ニャ?」
 たぶん、一番動じない図太さを持ってるんだろう。リベにゃんがレディに尋ねた。
『猫魔族は多少知っとるんじゃないかね? 大昔に封印した強大な魔物さ。人間やウェディだけでなく、魔物達にも容赦がなくてね。同族殺しの暴君と呼ばれて怖れられたんだよ』
「その魔物が、何故この遺跡にいるんだ?」
『ヒューザ、あんたは本当に馬鹿だね。今、『封印』したって言ったじゃないか』
 レディの熱い溜息に、ヒュー君が舌打ちして下がる。
 僕等がわいわいし始めたけど、それもぱぁんと響き渡った音に場が再び凍り付いた。オーディスが頬を押さえ、ディオーレ様を見上げている。メルー公がどうにか間に入ろうとするも、凄まじい剣幕に気圧されて何も言えないでいる。
「お前はとんでもない事をした」
 冷たい拒絶する声に、オーディス君が震えた。
「彼女は遥か昔、暴君バサグランデを封印する為に永遠の水に入った姫君だ。お前の軽率な態度で封印は解け、暴君バサグランデは再びウェナ諸島に牙を向ける事になる。被害は想像もできぬ。今直ぐにでも再び封印せねばならない」
 ディオーレ様の言葉に、黒髪のお嬢さんが立ち上がった。冷水のように澄み渡る、凛とした美しい声で告げる。
「私が再び封印の為に永遠の水に入りましょう」
 ディオーレ様は静かに首を振った。
「良いのだ、姫。これは私の息子が犯した罪。母である私が購わなければならぬ」
「母上…!」
 オーディス君の悲痛な声が響き渡った。
 オーディス君は『彼女を助けたい』と言っていた。死にはしないけれど、助けなくてはならないと思わせる状態だったんだろう。自分の母親が自分のせいでそうなってしまうなら、それはオーディス君にとっては地獄のような苦しみに違いない。
 ディオーレ様も黒髪のお嬢さんも、暴君なんて奴の封印の為に犠牲にならない方法って無いんだろうか? 僕はレディに訊ねようと口を開こうとした時。
「ごちゃごちゃ煩いな。暴君って奴を倒せば良いじゃないか」
 苛立ちを全く隠さず言い放ったヒュー君の言葉に、一同全員が振り返った。
 集まった皆の視線を引き裂くように、ヒュー君はオーディス君の隣から奥を見遣る。さっきの水の流れが僕達の方に向かなかった事を思えば、ヒュー君が覗き込んでいるのは水を溜めていたプールみたいな場所なんだろう。一点を見て小さく頷く。
「奥へ続く道がある。いくぞ」
「にゃ! ヒューザばっかに、いいかっこさせにゃいニャ!」
 かつかつと靴音を響かせて進むヒュー君を見て、リベにゃんがどかどか追いかける。僕も彼等を追いかけて女王様の横を通る時、立ち止まってにっこり微笑んで戸惑いを浮かべる美貌に頭を下げた。
「僕はオーディス君が『彼女を助けたい』って言った言葉、凄くいい響きだと思ったんです。オーディス君を、怒らないであげてください」
「其方が無駄に命を散らす事はしなくても…」
 女王様の言葉の途中で、僕は不敬ながらに背を向けた。階段を数段降りて、顔だけ向けた。
「ヒュー君とリベにゃんが待ってるので、行きますね」
 ヒュー君の『いくぞ』は僕も込みなんだ。遠くに聞こえるヒュー君の足音がやけにゆっくりなのは、僕を待ってるからなんだよねー。酷いよなー。せめて、お前にも命を賭けさせちまって悪いなくらい一言欲しいよねー。
 階段を下りてちょっとした広間が広がっている。見上げればオーディス君達が居る場所からは、大分下がった所。大きい椰子の木の高さくらいの差がある。やっぱり水が溜っていたんだろう。壁も床もまだしっとりと濡れている。
「遅いぞ、イサーク」
 魔法陣が輝く扉の前で、ヒュー君が不機嫌そうに言う。リベにゃんも僕を待っていたようで、呑気に顔を洗っている。
「敵は逃げやしにゃいニャ。で、イサークの後ろの二人も戦うのニャ?」
 僕が振り返ると、少し肩で息をする黒髪の女の子と、オーディス君が立っていた。女の子が一生懸命『私も戦います』的な事を言いたくて頑張ってるんだけど、なかなか息が整わず。彼女の代わりにオーディス君が言った。
「是非、一緒に戦わせてくれ。この国の未来の為に、王子としてではなく一人の男として最善を尽くしたいんだ」
 かっこいー。僕が冷やかしに唇を吹くと、女の子がようやく言葉を発した。
「私の歌には、暴君バサグランデの力を抑える力があります。皆さんの力に必ずなりましょう。名乗るのが遅れて申し訳ありません。私はセーリアと申します」
 古風な礼をすると、セーリアちゃんはしずしずと扉の前に立ち魔法陣に手を当てた。染み入る美しい声で、まるで聖歌を歌うように紡がれた呪文に魔法陣は泡のように解けて消えて行く。魔法陣が消えてセーリアちゃんが1つ頷くと、突然現れた人影がセーリアちゃんを押しのけた!
 歌の美しさに反応が遅れた僕達を後目に、扉を開け放ったのはキャスランちゃん! 彼女はにやりと悪意のある笑みを浮かべて言い放った。
「役立たずの王子様だったけど、取り巻きが優秀で助かったわ! これで、暴君バサグランデ様とあたしの時代が始まるわ!」
 キャスランちゃんの背後には、巨大な獣の影に邪悪な光が二つ輝いていた。
 キャスランちゃんは暴君バサグランデだろう巨大な魔物の前に駆け寄ると、高めのテンションで騒いだ。
「きゃー! 本物のバサグランデ様、カッコイイ! 私、キャスラン。貴方様の封印を解く為に頑張ったんですよ! 一緒にこのウェナ諸島を支配しましょう!」
 バサグランデはその巨大な頭を巡らせてキャスランちゃんを見下ろしたが、次の瞬間強烈なブレスを吐き付けた!輝く突風にキャスランちゃんは瞬く間に壁際まで吹き飛ばされ、蛙の潰れたような声で昏倒した。
 その様子にレディ・ブレラはやれやれと嘆息する。
『馬鹿な小魚だね。同族にも容赦のない暴君だって、アタシは言ったよ?』
 …ってアンタは聞いてなかったわね。レディはごにょごにょ聞こえないように言い訳。
 暴君バサグランデは僕等に視線を巡らし、溜息に似た吐息を吐いた。僕達一人一人を眺め、忌々し気に瞳を細める。体全体を力ませ筋肉は盛り上がり爪は鋭く立ち、鬣は逆立ち暗い影を落とした顔の中で鋭い牙と瞳だけがギラギラとぎらついている。
『忌々しい封印が解かれ長い年月が過ぎ去ったが、こうして先ず最初に血祭りにするべき者達が雁首揃えてやって来るとはな…』
 セーリアちゃんが一歩前に進み出て、決意を秘めた声で言った。
「暴君バサグランデ、貴様の好きにはさせない…!」
 大きく息を吸い込み高々と歌い上げるのは、時が留まり今があり続ける事を願う歌。この先の戦いを怖れ、未来の希望見出せぬ時、眠りの闇が手を広げ悲しみが癒えるまで時が留まれと懇願する響き。柔らかい声は生暖かい温風のように広がり、彼女の歌の力が巨大なバサグランデの牢獄に満ちる。
 バサグランデの身体がぐらりと傾いだ。
 セーリアちゃんの顔に明るい表情が広がった。封印の力でバサグランデの力が弱まったんだ、誰もがそう思った。
 しかし、バサグランデの口元が、にやりと笑った。その背に畳んだ翼を広げると、漆黒の稲妻が牢獄全体に降り注いだ! 間一髪、オーディス君がセーリアちゃんの手を引いて下がらせたけど、セーリアちゃんが立っていた場所は黒く焦げ付きぱちぱちと火花が散っている。
「あぁ、私の歌の力が効かない」
 ヒュー君は短く舌打ちすると剣を抜いて駆出した。リベにゃんもセーリアちゃんを見遣ってから、ヒュー君に続く。
 あぁ、僕も行かないと。でも、やらなきゃいけない事がある。膝を付き項垂れるセーリアちゃんに、僕も膝を折って顔を伏せた彼女に言い聞かせるように言う。
「セーリアちゃん、諦めないで歌って。バサグランデを弱らす力なんか無くても良い。君の素敵な歌声に励まされたら、僕達は暴君って奴に負けやしないよ」
 セーリアちゃんの反応は待ってられない。僕はレディ・ブレラを深々と被るとオーディス君を見た。
「オーディス君、もしもの時は逃げるんだよ」
 ヒュー君とリベにゃんは善戦していると言って良かった。二人共一流の剣士で、瞬く間にバサグランデの身体に傷を刻み付ける。致命傷には至らないものばかりでも、圧しているように見えるのだった。
 勿論、バサグランデも黙ってやられている訳じゃない。二人を鋭い爪で引き裂こうとしたり、牙で噛み付こうとしたり必死だ。だが、どんなに力があっても当たらなければ意味が無い。その巨大過ぎる身体の動きがどんなの敏捷でも、それ以上にヒュー君もリベにゃんも身軽だった。
 バサグランデは怒りに牙を剥き出しにし、怒号を発した。
「おのれ、小癪なっ!」
 全身の毛を逆立たせ、巨大な翼を開く。
 な、何かヤバそう!
 そう思った次の瞬間、バサグランデの周囲に黒い稲妻が走る。ブーナー熱帯雨林のスコール並の土砂降りの雷は、あっという間にヒュー君とリベにゃんを飲み込んだ。二人の名前を叫んだが、雷の凄まじい音に何もかも掻き消されてしまう。
「豚猫、どけ!」
 まだ、地面を走る電気に見えないけど、先ず聞き取れたのはヒュー君の元気な声だ。あぁ、良かった。
 ヒュー君の前にリベにゃんの影が見える。でも変だ。ヒュー君はちゃんと見えるのに、リベにゃんはどうして影だけなんだろう。彼の柔らかい茶色い毛並みが全然見えない。次の瞬間、どうっと音を立てて、リベにゃんの巨体が倒れた!
「リベにゃん!」
 彼の横に膝を付いて見ると、驚く程の重傷だ。全身を雷で打たれて、真っ黒焦げ。でも、小さく弱く息がある。
 ヒュー君が小さく舌打ちして、剣を構えた。
「豚猫め、余計な事をしやがって。イサーク、頼んだぞ」
「うん、任せて」
 駆出すヒュー君を見送る事もせず、僕は早速リベにゃんを診始めた。
『流石、巨猫族。ドラゴン並の耐久度は伊達じゃないね。さっきの技をヒューザが受けていたら、きっと死んでいたよ』
「レディ、回復呪文じゃ間に合わない」
『ザオ系を使うってのかい、イサーク。相手はウェディじゃないよ?』
 回復呪文のホイミ系は、ホイミを施された相手の体力を使って回復させる呪文だ。その為に、使用された相手はその呪文の強さで強い疲労感に苛まれてしまう。また、極端に体力が減っている者にホイミを施すと、相手の体力を使い切り重篤な状態にさせてしまう事がある。ホイミは戦いにおいて非常にタイミングの難しい手段なんだ。
 しかし、蘇生呪文としてザオ系の呪文が存在する。実際は死んでしまったら、蘇生なんか出来ないんだけど便宜上『蘇生呪文』と呼ばれているんだ。これは術者の体力を施す相手に注ぎ込んで回復させる呪文になる。リスクが無く便利かも知れないけど、ザオ系は成功確率が低い呪文でもある。そして何より術者とザオを受ける者の種族が違うと、術者の力が馴染み難く失敗し易い。
 でも、細かい事はどうでも良い。
 今はそれしか手段が無いんだ。
 僕はリベにゃんの微かに動くお腹の上に手を置いて、静かに呪文を唱え始めた。
 ほろほろと光が僕とリベにゃんを包む中、リベにゃんの身体がどんどん冷えて行くのを感じていた。思った以上にダメージが大きいんだ。ザオの力が届かずこのままでは死んでしまう。僕は思わず焦る。ただでさえ成功率が高くないんだから、焦っちゃ駄目じゃん。
 力を強めて更に辺りは輝きを増し、あまりに集中しちゃったのか戦いの音も遠退いていく。
 すると、脇からぶうぶうと鳴き声がひっきりなしに聞こえて、膝を付いた僕の脇腹を何かが突いて来る。
 なんだろう?
 見下ろすと、真っ青な毛並みの豚がつぶらな瞳で僕を見上げていた。トンブレロソンブレロを被っていない豚。そう、彼こそレディ・ブレラの元々の持ち主。僕が幼かった頃に仲良しだった、トンブレロのトロだ。
 なんて、懐かしいんだろう!僕は青い豚を炊き上げて、ギューと抱きしめた。
「あぁ、トロ! 久しぶり! 会いたかったよ!」
 ロトも僕のほっぺにぎゅうぎゅう鼻先を押し付けてくれる。あぁ、可愛い。大好きな僕の友達。
「ごめんね、トロ。本当は君ともっとお話しして遊んであげたいんだけど、僕は大事な仲間を助けなきゃいけないんだ」
 そう言ってリベにゃんが倒れている所を見ると、リベにゃんの影も形も無い。ただ水の流れる音が、サラサラと白い空間に響き渡るばかりだ。
 リベにゃん、何処に行っちゃったんだ!?
 ぶう。
 立ち上がって周囲を見回す僕の腕から、トロが飛び出した。トロは一声鳴くと、そのちょこちょこ小さい足で、鼻まで浸かってしまいそうな水の中を進み始める。
 何処までも続く水の流れも太陽が暈けた白い空も雲のように過ぎる霧も、全ての境界線が無いかのように融けてしまっている。水は深い場所は膝上まで浸かる事があり、トロの後をついて行くに従って霧はまるで深海の水圧のように僕を水に押し付けようとしていた。心がざわざわする。誰かが死ぬ時に感じる胸のざわつきに、思わず逃げ出したくなっちゃう。
 すると、前からばしゃばしゃと騒がしい音が響いていた。トロを抱き上げて身構えると、目の前の霧の塊を割ってリベにゃんが飛び出してきた。抜き身の剣を持ってぜぇぜぇ息を荒げるリベにゃんは、僕と鉢合わせて隻眼が飛び出そうなくらいに驚いた。でも、僕だと分かると安心し切った様子で破顔する。
「イサーク、助けてくれニャ! おっかにゃいのに、殺されてしまいそうニャ!」
 言うが速いかその巨体を、細身の僕の後ろに隠した。ごめん、リベにゃん全然隠れてないと思うよ。
 すると目の前の霧に、リベにゃんを追いかけてきたのだろう影が映った。リベにゃんと同じくらいの縦にも横にも大きい影は、よーく目を凝らすと巨猫族なんじゃないだろうか? 大振りの剣を持っていて、しっぽゆらゆら、耳もぴーんと立っている。
『貴様はまだ、この先に進んではにゃらないニャ』
 影は我が子に向ける期待と厳しさを叱咤に込めて言う。そして霧の中で踵を返したんだろう、影はすっと消えて行ってしまった。
「ふー、助かったニャ。アイツ、すげー強くって戦っても倍返しニャ。あぁ、怖かったニャ」
 リベにゃんって、恐がりだなー。あの影、リベにゃんを殺そうとか酷い目に遭わそうとか全然思ってなかったと思うんだ。声色はとても優しい、お父さんみたいな声だったじゃん。
「リベにゃん、迎えにきたよ。早くヒュー君の所に戻らないと!」
「そうニャ! ヒューザにカッコイイとこ全部持って行かれちゃうニャ! どっちに行けば良いニャ? 早く行くニャ!」
 髭をぴんと立てて元気いっぱいリベにゃんが言うから、僕達はやや駆け足で水の流れに逆らって進む。身体は徐々に軽くなり、セーリアちゃんの歌声が聞こえて来る。でも、セーリアちゃんの歌声だけじゃない。ディオーレ様の歌声も聞こえて来る…。
 耳を澄ました時、僕の耳にふと声が触れた。
 我が子孫を頼む
 腕の中のトロが身じろぐと、ぴょんと飛び出して僕から少し離れた所で僕を見上げた。
「トロ?」
 僕が再び抱き上げようと歩み寄ろうとした時、戦いの音と歌声が僕を背後からさらった。
 セーリアちゃんとディオーレ様の歌声が、美しいハーモニーとなって空間を包み込んでいた。まるで大海原をぷかぷかと浮いているような、朝の二度寝の幸せな気分だったり、大切な人が隣にいて穏やかな気持ちで居るような、とにかくずっとこのままで居たいって気分にさせられてしまう。
 でも、目の前には顔を真っ赤にして怒り狂ったバサグランデの姿。流石に、それに浸ってられる程神経は太くない。
 バサグランデは崩れ落ちそうな身体を、どうにか支えているかのようだった。
「おのれ…忌まわしき…」
 ディオーレ様とセーリアちゃんが、バサグランデを押さえ込む歌を歌ってくれてるのは間違いない。
 僕は大きく息を吸い込むと、レディ・ブレラをぎゅっと被った。レディは準備万端と言いたげに、僕の呼吸に合わせてくれる。
 周囲の空気が冷気を帯び、渦を巻く。渦の中を細かい鰯達が駆け始め、バサグランデの周りを周回し始めた。ヒュー君もリベにゃんも、僕をちらりと見てバサグランデから離れた。びしびしぴきぴき、頭に響くような高い音が歌を掻き消す程に強くなる。
 僕は高らかに宣言し、この場の全ての冷気を解放した。
「マヒャド!」
 次の瞬間、巨大な鯨が鰯達を食べようと天井から飛び込んできた! バサグランデの悲鳴さえ掻き消す轟音。鯨はバサグランデを押しつぶし、床に激突して大きな氷塊になった。氷塊はどれもバサグランデの頭よりも大きく、翼を、手を、足を、冷たく重く地面に縫い付けた。
 砕けた巨大な氷をヒュー君とリベにゃんが駆け抜ける。
 リベにゃんがバサグランデの頭上を身体を丸めて飛び上がれば、瞬く間に抜刀された刀がバサグランデの翼を切り落とす。
 ヒュー君がリベにゃんを叩き落とそうとした、尻尾を断ち切り足の腱も切り裂いた。
 二人は小さく目配せすると、リベにゃんがバサグランデの首に巨大な鞠みたいに回転して切り掛かった。回転を加え、更にあのリベにゃんの体重を加えた一撃はバサグランデの首に深く切り込んだ。しかし、まだ首は落ちない。しかし、間を置かず追随したヒュー君が落下する氷柱のように、バサグランデの首に垂直に剣を突き刺す。
 とても、嫌な音がした。
 その音が響くと、バサグランデはぴたりと動きを止め、ゆっくりと倒れた。
 光を失いつつある瞳が、憎々し気に僕達を見た。憎悪を漲らせ、残った力で少しでも破壊を繰り広げたいと瞳の中の狂気は言った。何かを言おうと口を開いたが、言葉は漏れず赤い泡だけがごぼごぼと零れた。泡は弾ける度に自分だけが死ぬ事を許さないと、呪詛を含んでは消えて行く。
 そしてがくりと力を失った。最後に漏れた吐息だけは、自分の死が信じられない驚きを含んでバサグランデから離れて行く。
 歌が止み、静寂が包む。
 暴君と怖れられたバサグランデが、死んだ。
「ごめんね」
 手を握りしめて呟いた僕に、ヒュー君は言った。
「イサークは相変わらず甘いな」
 そして僕の肩を掴んだと思ったら、身体をむりやり回す。あたたた、乱暴だなぁ。
「お前は俺達の代わりに、感謝の言葉でも受け取って来い」
 べしっと突き出されたのは、ディオーレ様はメルー公やオーディス君、セーリアちゃんの前だ。皆、ホッとして明日からの希望に喜びが隠せてない感じ。こりゃあ、感謝の言葉が雨霰もしょうがないけど、ヒュー君もリベにゃんも一緒に言われないとね!
「だめだめ! ヒュー君も感謝の言葉貰いなよー」
 僕がヒュー君を捕まえようと四苦八苦してたら、リベにゃんも面白がって追いかけ始めた。
 こんの馬鹿野郎共!
 そんなヒュー君の機嫌の悪い声を皮切りに、僕は高々と凱旋歌を歌いだす。皆が助かって良かった! メルー公が渋く低い声で歌いだすと、気恥ずかしそうにオーディス君も加わる。ディオーレ様やセーリアちゃんも加われば、空気が輝くようだ。
 喜びと希望の歌を、ヴェリナードまで歌って帰ろう!