不幸の女神は嘲笑う

 オーグリードの空に突き刺さるように聳えるのが、オーグリード大陸を二分するランドン山脈。ゲルト海峡からライドン山脈を見上げれば、まるで垂直に切り立った崖のような山に見えるだろう。ランドンフットという広大な裾野からゆっくり登るガートランド側と異なり、グレン側は海峡を越えるとすぐ山脈が待ち構えている。
 小柄なプクリポのルアムは、見上げた拍子にぺたんと尻餅をつく。
「でっけーー! なぁなぁ、ルミラ姐さん、オイラ達あの山登るの?」
「そうだ。エイドス様が仰られた雲上湖はあの山の山頂付近にある」
 自分の答えに、ルアムは『そうかぁ』と感心したように山を見上げた。
 ゲルト海峡には、ランドン山脈を越える為の装備が充実している。防寒着の毛皮のコートや手袋、靴底にアイゼンを着けられる雪靴に、ピッケル、それら一式に身を包んだ自分達は何処から見てもランドン登山者だ。プクリポはもはやファーラットのような着膨れ具合である。
 自分は両手剣の他に、登山で必要な物品を背のリュックに背負っている。しかし、ルアムが背に括り着けているのは、オーグリード大陸のこれからを左右する重要なアイテムだった。
 レムルの聖杯。
 ベコン渓谷に葬られていた剣士オーレンの墓から、盗掘同然に手にいれた美しい杯。この杯に雲上湖で手に入るグロリスの雫を満たす事が自分達の目的だ。
「じゃ、行こーぜ!」
 ルアムの明るい声に引っ張られるように、自分もゆっくりと歩き出した。
 ルアムの真っ赤な尻尾が右へ左へちょこまか動く様を見て、友人に見せたら喜ぶだろうと思う。姉も友人も、プクリポなら誰彼構わず抱きしめる程の好きだった。
 ルアムはくりっと自分を振り返り見上げると、首を傾げた。
「姐さんにこにこ。どうかしたのか?」
 自分は緩んだ口元から、穏やかな声が出るのを感じていた。
「昔の事を思い出していた。自分の姉と友人と三人で過ごした頃に、プクリポに世話になったのだ」
 世話になったプクリポは、姉や友人の心を支えてくれていた。彼女達が抱かせて欲しいと言えば人形にように抱きしめさせたし、お話を聞かせて欲しいと強請れば武勇伝から子供向けのお伽噺もしてくれた。お菓子の甘い香りを漂わせたプクリポはとても可愛いが、オーガは強者であれという思想の中では可愛らしい縫い包みは御法度だった。彼女達が手に出来た、数少ない愛らしい存在だったろう。
 プクリポ本人が喜んでいたかと言うと、違う。彼は大人だったし、戦士だった。
 自分は女である事で可愛がられる事は、あまり望ましく思わない。自分は所謂『女の武器』を使う事が卑劣な行為と思っている。彼もそうだろうと、勝手な想像で決めつけてはいた。
「ルミラの姐さんをにっこり笑顔にさせるんだ、すげープクリポだな!」
 感心するルアムの笑顔に、自分は微笑んだ。
「ルアムも自分を笑わせているじゃないか」
 会ったばかりのルアムはとても硬い表情だった。とても不安で、そわそわしていて、一生懸命目の前の事を頑張ろうとしていたが、その笑顔は引き攣っていたものだった。
 この賑やかなプクリポとの二人旅の始まりは、グレンの地下牢だ。
 ウェナ諸島受け取った召集令状に応じて戻ってきたグレン城は、なんと隣国ガートランドに宣戦布告を行った直後だった。
 丁度滞在していた賢者エイドス様も、グレン国王バグド陛下の言葉を諌めんとして牢獄に入れられた程。バグド王の乱心っぷりには近衛兵達も戸惑ってはいたが、放たれた言葉は納まらず、ガートランドの不穏な動きも疑いの余地のない情報としてグレンに伝わっていた。
 最早、大地の箱船もオーグリード大陸に立ち入る事は出来ない。大地の箱船は隣国のヴェリナードと港町レンドアで、折り返し運転されている状況となった。各大陸の王達もこの突如始まった戦争に、未だ何の対策も講じる事が出来ぬ事だろう。
 自分の友はガートランドに住んでいる。戦争になれば先ず殺されてしまうような、戦う力の無い人だ。
 なんとしても戦争を回避しなくてはならない。そんな自分が賢者エイドス様が投獄された牢屋へ足を向ける事は、自然な事に違いない。
 賢者エイドス様は世界を巡る偉大なる賢者。歴代のグレン城主とも親交がおありの方だ。牢屋に入れられたのは形だけで、見張りの兵士は鍵を開け、食事も調理場からきちんと届けられているそうだ。自分もエイドス様にお会いしたいと言えば、直ぐ通してもらえた。
 牢屋の鉄格子の前に、先客がいた。真っ赤な髪に猫の耳、ふさふさの丸い尻尾。プクリポの顔は常に笑顔であるものだが、この時ばかりは滝のように涙を流していた。
『エイドスーーー!どうしよう!相棒が居なくなっちゃったんだーー!』
『落ち着け、プクリポのルアムよ』
 エイドス様の声でも、ルアムと呼ばれたプクリポは泣き止まない。
『人間のルアムが居なくなる前に、お前達は何かを手に入れたのではないか?』
 ルアムはポケットや荷物をひっくり返し始める。あの小柄な体、小さい鞄に何故入るのか驚く程の荷物が牢屋の前に広げられた。一山出来そうなお菓子の山、小さく畳まれた着替え、薬草や簡単な調理器具、獲物は爪と弓矢のようだ。全部ひっくり返してうーんと唸ったルアムは、最後に胸のポケットから一枚の大地の箱船の乗車券を取り出した。
 それは古ぼけてインクが霞んでいる、遠目からは紙切れに見えてしまいそうな箱船の乗車券だった。エイドス様はその乗車券を見せなさいと言って受け取ると、矯めつ眇めつ眺めた。1つ頷き、ルアムに返す。
『案ずる事は無い、ルアム。この乗車券にて人間のルアムは、運命の箱船に乗る事が出来たのだ。必ずや人間のルアムは戻って来る』
 でも。ルアムは尻尾が垂れ下がる程に不安そうにエイドス様を見た。賢者は断言する。
『同じ名を持つもの同士、魂が結びつく友情を結んだ者達がそう易々と別れる事は無い』
 そこでエイドス様は自分に目を止めたので、オーガの古き一礼をする。
『お話の所、申し訳ございません。自分の名はルミラ。グレンと隣国ガートランドの戦争を止める為に、高名な賢者様にお知恵を拝借したく参上致しました』
 エイドス様は帽子の切れ目から鋭い眼光を自分に向けたが、煙管の煙を深々と吐いて言う。
『ベコン渓谷に妖剣士オーレンの墓がある。墓に埋葬されたレムルの聖杯を、ランドン山脈の雲上湖で採れるグロリスの雫で満たせ。聖なる杯に満たされた力が、バグドを蝕む魔瘴の気を打ち払う事だろう』
 エイドス様は目の前のプクリポを摘まみ上げると、ぺんと放り投げた。プクリポの芸人魂が燃えるのか、態とらしい『痛い!』という声が牢屋に響く。
『荷物持ちにこの毛玉を連れて行け。泣いてばかりで五月蝿い』
『ちょーひどい!』
 こうしてルアムとの旅が始まったのである。
 ルアムは自らも『戦いの役には立たない、笑わせるだけが能のプクリポ』というだけあって戦いは不得手だった。彼が持っていた爪と弓矢は『相棒』と呼ばれる存在の獲物であって、ルアム自身が戦う事に使わないのだそうだ。
 しかし、流石プクリポ。その身の軽さ素早さは、はぐれメタル級だ。逃げる事に徹すれば、敵の攻撃は先ず当たらない。
 そんな彼がレムルの聖杯を運んでくれる事は、自分にとって大きな助けとなった。
 自分の武器は大剣。強大な破壊力を生み出す為には、常に全力である事が求められる。全力で駆け、振り抜く。少しでも躊躇い力を抜こうものなら、攻撃力は激減する。そんな自分が壊れ物を持って戦えば、例え金属製の杯であっても結果は火を見るより明らかだ。
 ルアムは『翌日にゃあフライパンになっちゃうな!』と言ったが、的を得た評価であろう。
 自分はルアムをモコモコ獣と間違えないように気を配りながら、ランドン山脈を登り始めた。
 きらきらと輝く万年雪に目を輝かすルアムを見ながら、真っ青な晴天に一安心する。雲上湖までの道程が、はっきりと青い空に白く切り抜かれていた。足跡一つない真っ白い雪原を、のしのしとイエティが横切り、もこもこ獣が犬のように駆け回っている。こちらに敵意を向ける素振りも無い平和な一時だ。
 前をとことこ歩くルアムが、『あれ?』と声を上げた。
 猫耳の形に膨らんだ、ふかふかの毛皮の帽子が上を見上げているようだ。ルアムの視線を追えば、さっきまで見上げていた雲上湖への道程を再び見上げる事になる。それは少し前に見ていた風景とは全く異なっていた。
 雲上湖のあるだろう周囲には雲が発生していた。それは、変わりやすい山の天気を思えば、極普通の光景である。
「ルアム! 自分の尻尾を掴んでいてくれ!」
 自分は即座にルアムの前に躍り出て、自分の体の幅ほどあろうかと言う大剣を大地に突き立てた。大剣の影に入り込むように身を屈めると、自分の尻尾をつかんだルアムをコートの内側に押し込んだ。
 雲は生き物のように瞬く間に巨大化して行く。自分達目掛けて、雪崩のように押し寄せる。
 あれは自分達にとって危険なものだ。そう認識し実感するのに、時間は必要なかった。
 青空は白に蹂躙され、雪に覆われた大地は吹雪の支配下に置かれる。太陽は白く霞んで雪に融け、地吹雪があらゆる音を飲み込んだ。縦横無尽に襲いかかる吹雪の風は強く、自分も地面に突き立った大剣に縋ってようやくその場に留まっていられる。強い風に拳のような雪の飛礫に目も開けられない中、ルアム温かさだけが自分を支えてくれる。
「ルミラの姐さん! なんかいる! いっぱい居るぞ!」
 尻尾をつかみ足に身を寄せるルアムが、コートの中から叫んだ。
 自分が凍る睫毛の下から吹雪を見遣ると、確かに何らかの影が見える。それらは吹雪がそよ風と言いたげに悠然と歩いて近寄ってきた。吹雪の時は身を丸くして、風が避けられる岩陰に固まっているモコモコ獣であるはずがない。とはいえ影の大きさはイエティよりも、もっと細い。
 影はこちらに向かってきていて、次第に輪郭がはっきりと見えてきた。
 彼等は鎧甲冑に身を包んだ戦士のようだ。皆が剣らしい獲物を握っている。
「ひっ…」
 ルアムが悲鳴を詰まらせた。
 吹雪の向こうから歩み寄ってきたのは、骸骨の集団。
 古めかしい戦士の装い、血と魔瘴の毒に汚れたマント、錆び付いた剣。行進の度に骨と言う骨が軋み、兜の影の更に深い闇に目玉の代わりに鈍い光が灯っている。彼等は生きている者では有り得ない緩慢な動きであったが、着実に動けない自分達を取り巻いた。
 そして骸骨達は僅かに頭を垂れて畏まる。
 自分達の前に、豪華な身成の剣士が立っていた。
『我が名はオーレン』
 人ならざる声が脳裏に響き、ルアムが自分に震えながら体を押し付けているのを感じていた。
 妖剣士の塚には、オーレンと言う名の戦士が弔われている。元々、魔瘴の濃い地域であるのと、妖剣士の塚に野放しになった数多くの屍のせいで誰も近づく事は無い。しかし、目の前の戦士の屍がオーレンと名乗るなら、墓から自分達を追って来たという事になる。
 理由は1つしか思い浮かばない。
 ルアムを意識すると、彼は背中に括り着けた荷物を腹に抱えて震えているようだった。
『レムルの聖杯は我が希望なり。窃盗は須く死を与えん…』
 吹雪を割り、避けた青空から飛び出してきたのは巨大な竜。昔、姉と友とで読んだ雲上湖に住むとされる水竜ギルギッシュそのものだ。水に住む魚のように足の代わりに巨大な尾びれで雲を掻き、海を泳ぐように空を駆けると言われた巨竜。その勇姿に見惚れたい所だが、瞳に宿った光は紛れも無い敵意だった。
 吹雪が晴れ、耳が痛い程の沈黙が自分達を包み込んだ。
 取り囲むのは骸骨の軍勢。率いるは双剣の剣士。頭上には伝説の竜。覗いた日の温かさが、眠気を誘う程に自分を温めてくれる。自分は何故、ここに居るのか分からなくなって来る程に長閑な静けさだった。全てが静止して、氷の彫像のように思える程だ。
『死ぬが良い』
 オーレンの言葉が響いたと同時に、静止していた全てが動き出した。
 敵は鎧甲冑を着込んだ骸骨。太刀筋は一流の剣士で、王宮の型を汲んでいるのか優雅でよどみない。筋肉の無い骸骨の一撃だが、魔瘴の気配が整然の形を生み出すように包み込み強烈な一撃を繰り出して来る。攻撃は強いが、防御は無い。自分の大剣の一撃は魔瘴の霧を貫通し、敵の骨を切断し粉砕する。
「姐さん頑張れ!」
 ルアムが背に括り着けたレムルの聖杯を抱え、邪魔にならないよう腰にくっ付いて叫んだ。
 空気中の水分すら凍り付く輝きに、自分が粉砕した骨の欠片が陽光に更なる輝きを添える。ルアムの歓声が上がったが、次の瞬間悲鳴に変わった。
 骨を断ち切り、粉砕し、普通は戦闘不能に追い込める。しかし、骸骨達が身に纏うどす黒い魔瘴が、切断され粉砕された骨を覆いダメージを無にしてしまう。これで痛覚が無いのだ。自分達がジリ貧の末に敗北する顛末が脳裏を過る。
 退路を見出そうとした自分達に、ギルギッシュが急降下し突風がオーガの体すら持ち上げる。
「うわぁ!」
 尻尾をつかんでいた感覚が、悲鳴と共に引き剥がされる。風に吹き飛ばされるプクリポに、自分は精一杯手を伸ばす。
「ルアム…!」
 ルアムも強風の中赤い瞳を開いて自分に精一杯手を伸ばすが、間に合わず風に攫われてしまう。まるで粉雪を弄ぶようにギルギッシュが生み出した風は空高くルアムを舞い上げた! ギルギッシュの巨体が悠々と青空の中を泳ぎ、獲物を食おうと顎を開く!
 ルアムの悲鳴が空に響き渡った!
 なんて自分は無力なんだ…! 迫って来る骸骨達の剣を弾きながら、自分は今にも食われてしまうだろうルアムを見る事しか出来ないなんて!
 瞬間、光が竜の前を横切った!
 ルアムの悲鳴は途切れなかった。自分はルアムが竜の顎に捉えられなかった事に安堵しながらも、驚きに目を見開いた。
「あれは…フルッカ殿の破邪舟!」
 金色に輝く翼を広げた大鳥が、空を泳ぐ竜と相対した。
 フルッカ殿はグレンに住む破邪舟師の一族の末裔だ。彼女の破邪舟は歴代屈指と言われている。何が優れているのか自分は知らなかったが、竜とワルツでも踊るかのように飛び回る大鳥は美しかった。
 急旋回に急制動、アクロバットな動きも然る事ながら、その1つ1つの動作が素早い。ギルギッシュの背後を破邪舟が取ったと思った瞬間に、フルッカ殿のイオラが炸裂する動作は並の魔法使いでは出来ぬ技だろう。
 しかし、自分も優雅な空中での戦闘に見惚れている場合ではない。
 目の前には夥しい骸骨達の群れが、未だにそこにあるのだ。フルッカ殿がルアムを連れてくれるのなら、自分は退路を探し逃げ易くなるはず。
『逃げ仰せると思うな』
 骸骨達が道を開き、剣士オーレンが進み出てきた。殺意を帯びた瞳に自分はにやりと笑った。
「自分が逃げられなくても、フルッカ殿がルアムと共に逃げてくれるだろう。戦争を回避する為なら、彼は果てたる自分の命を無駄にしないと信じている」
 自分の言葉にオーレンが頭蓋を天に向けた。丁度、ギルギッシュはフルッカ殿のイオラによって劈くような悲鳴を上げた所だった。
 オーレンの顎が忌々し気に打ち鳴った。
『パリン』
 底冷えする程に冷たい声が言う。そして彼の背後が僅かに揺らめいた。雪原の煌めきを反射し、古めかしいロングドレスのシルエットが浮かび上がった。うら若き女性の影が、ゆったりと呪文を放つ為の腕を差し上げた。
 頭上で澄んだ音の直後に、爆発音が響いた。
 見上げればギルギッシュに放つ為のイオラが反射され、フルッカ殿とルアムを直撃した所だった!突然の事に破邪舟の制御を失い、フルッカ殿とルアムが落下する。新雪が彼等を優しく受け止めた事だけが幸いだ。
 何があった。魔法が反射されたと言う事は、マホカンタが放たれたと言う事か…?
 誰が? 答えはあの女性の影に違いない。
 急いで彼等の元へ駆けつけようとする自分を、骸骨達が遮る。オーレンがマントを翻し悠々とルアムの元へ向かって行った。
 大剣をいくら振り抜こうと、オーレンが従えた骸骨達を抜ける事が出来ない。骨を折り振り抜いても、骸骨達は吹き飛ばず魔瘴の気をまき散らしてそこに在り続けた。がちがちと打ち鳴らす関節の音が、忌々しい程に響く。
 僅かな隙間にオーレンが、聖杯を手放さないルアムを打ち据えているのが見えていた。ルアムは悲鳴1つ上げない。その小さいプクリポは、手で持っていては奪われてしまうと杯を噛み締め只管にオーレンの打撲に絶え抜いていた。
 剣を抜き斬り殺さないのは、血によって聖杯が穢れぬ為であるのだろう。
 なんて勇敢なルアム。
 非力だと心の何処かで侮っていた自分を、力一杯殴ってやりたい。
 彼は力がなくとも、彼が出来る最大の方法で杯を守っているのだ。悲鳴を上げれば奪われるからと、力ある猛者でさえ堪える事は出来ぬだろう痛みを耐え忍ぶ。恐ろしいと逃げる事をせず、自ら杯に齧り付き決して手放しはしないと踏みとどまる。なんという心の強さ。彼こそが真なる勇者だ
 プクリポの戦士は、病弱な姉や友人にそう語っては聞かせた。
 強さが何よりも留められた時代において、姉や友人は弱者であり必要とされぬ存在だった。姉も友人も周囲から露骨に非難される事は無かったが、親でさえ無言の中に秘めた諦めを嗅ぎ付かずにはいられなかった。姉も友人も、ひっとりと涙を流していた。抱きしめたプクリポの戦士に涙の雨を注ぎ、どうして自分達が強い体で生まれなかったのかを嘆く事は少なくなかった。
『お前達はお前達にしか持ち得ない強さが在る。自信を持ちなさい』
 姉も友人も、彼の言葉にどれだけ救われた事だろう。
 自分は歯を食いしばる。
 フルッカ殿はルアムとは別の所に落下したのだろう。援護が無い今、ルアムを救えるのは自分しかいない。
 気を高め、全身に力を込める。
「ルアムゥゥウウウッ!!」
 大剣を盾のように構え、骸骨達の中に突撃する。体を容赦なく斬りつける剣を顧みず、立ち塞がる骨を跳ね飛ばす。雄叫びを上げながら骸骨達の壁を抜け、体の芯から零れる熱と血をまき散らしながら自分はオーレンに肉薄する。大きく大剣を振りかざし、粉雪を伴って彼の短剣を打ち付ける。
「貴様に、勇敢な我が友を殺させない!」
 友人はきっと逃げない。戦争になれば真っ先に殺される立場の彼女こそ、決して戦場から退きはしない。戦う戦士達の為に彼女は祈り、誇りの為に立ち続ける。
 戦争を回避させる為なら、自分は命も惜しくない。
 姉が死した後、自分は誓ったのだ。自分は友を守る為に、剣になるのだと…!
 喉が張り裂けるような気合いを放ち、自分の剣を受け止める為にオーレンはルアムを手放した。雪の中を転がり落ちたルアムより先に、オーレンは自分を始末する事を優先したのだろう。オーレンの剣の構えが変わる。本気の気迫がオーレンの衣を翻し、魔瘴の闇がより深く覆う。禍々しい長さの違う双剣が、圧倒的な力で自分を襲った。
 それは濁流のような剣術であった。盾のように剣を構えても、濁流が自分を飲み込むかのように全方位から畳み掛ける圧倒的な技量。短剣と長剣を組み合わせた、間合いを選ばない剣術は容赦なく切り裂き白に赤を飛ばした。構える事も許されない猛攻の中、喉に剣が突き刺さる道が生まれる。
 その道を阻む事が出来ない。
 それは大森林の中に生まれた木々の隙間を道に喩えた鳥の如く。白刃が瞬き、自分の喉を目掛けて駆け抜ける。
「ばかやろぉお!!」
 ルアムの声が自分の頭の中を貫く。世界が深紅に染まる。
 金属同士が打ち鳴る甲高い音が、目の前から脳天に突き抜けた。
 赤は迫り、顔面を柔らかく包み込む。鼻先に当たった丸いものは、ほんのりと温かい。思わず手を伸ばすと、それはルアムだった。驚いた事にルアムはあの一撃の軌道に滑り込み、オーレンの剣を聖杯で受け止めたのだ!
 ルアムは自分の手の中で涙をまき散らしながら叫んだ。
「殺す程の事なのかよ! 守る為に強くなったんじゃねーのかよ!? 剣を握ったんじゃねーのかよ!?」
 悲痛な声は幼い程に単純な言葉だったが、オーレンや骸骨達と言った冥府に落ちたる者の魂に響いたのだろう。オーレンの瞳に灯る魂の光が、戸惑いに揺れるのを見た。
『聖杯は希望…我が、部、下達を…救う為…に』
 オーレンがかたかたと小刻みに震えたが、魔瘴の闇が濃く彼を捉える。鈍く凍り付いたように瞳が光ると、オーレンは苦しみを吐き出すような雄叫びを上げて剣を振りかぶった。自分はルアムを背後に追いやり、大剣を盾にように構えた。
 今の自分ではとても凌げるとは思えない。
 それでも剣を握る限り、誇り高く戦う事がオーガの民の勤めだ。
「破邪の光よ!邪悪を退けよ!」
 鋭い声と共に黄金の光が吹き荒れた。フルッカ殿が生み出した黄金色の破邪舟が、破邪の光を死者達に振り撒いている。魔瘴の闇を吹き払われた骸骨達は、砕けた骨を支えられず次々に崩れ落ちる。妖剣士オーレンも膝を付く。ギルギッシュは頭上を旋回していたが、攻撃する気配はない。
 邪悪な気配は去り清々しい雪原の空気が満ちた。
 自分は立ち上がり、オーレンの前に大剣を横たえ膝を付いた。血の味がする口を励まし、どうにか言葉を紡ぐ。
「オーレン殿、我々はグレンとガートランドの戦争を阻止する為に、レムルの聖杯とグロリスの雫が必要なのです。どうか、一時だけお貸し願えないだろうか?」
「戦争を止めたら、絶対返すからさ」
 剣士は落ち凹んだ目元の光を呆気にとられたように瞬かせたが、一拍置いて愉快そうに顎を鳴らした。それは少し間の抜けたお人好しのような、愛嬌のあるようなしぐさに見えた。
『我が必殺の一撃に滑り込むとは、なかなか見所のあるプクリポだ。娘よ、剣に誓え。さすれば小さき者に免じ、聖杯を預けよう』
 自分は立ち上がり大剣を空に掲げた。オーレン殿も立ち上がり、自分の言葉に耳を傾ける。
「オーガの誇りに賭け、戦争を回避し、お借りした聖杯を必ずや返還する!」
『娘よ小さき者よ、汝等の健闘を祈ろう』
 オーレン殿は剣先で小さく呪いのような物を描くと、小さく顎を鳴らした。彼なりの餞別なのだろう。身を翻すとマントと共に魔瘴の霧が彼等を包み、骸骨達と共に列を成して雪原を歩んで行った。死者の葬列よりも雄々しく、使命感が彼等に生命を与えているように思えた。
「ありがとう!」
 ルアムの声に骸骨達の何体かが振り返り手を振った。生前の面影が、彼等を輝かせている。

 死者達の影が白の果てに消え、雪原の上に優雅に舞い降りたのは黄金色の大鳥。フルッカ殿が大鳥の横に並び、自分達に微笑んだ。
「さぁ、雲上湖へ参りましょうか」
 促されるままに大鳥に乗ると、それは本物の鳥のように温かく柔らかかった。手の平越しに鼓動まで感じられそうな光り輝く鳥は、自分とルアムとフルッカ殿を乗せるとふわりと軽やかに空に浮かんだ。ルアムの歓声が響き、瞬く間に大地を見下ろし何処までも広がって行く。
 破邪舟を制御しているフルッカ殿に、自分は訊ねた。
「フルッカ殿は…その、何故ここに居られるのですか?」
 フルッカ殿はその豊満な体格から、顔だけこちらに向ける。丸い頬に、目尻のシワ、柔らかい癖毛はとても穏やかな印象である。飛びそうになった小さなとんがり帽子を押さえて微笑んだ。
「私も戦争は望んでおりません。戦争回避の為に尽力するお二人の力になりたい、理由として不足しておりますか?」
 自分とルアムは顔を見合わせる。ルアムが傷だらけの痛ましい顔を、にっと笑わせる。自分も少しだけ表情を和らげた。
「いや、十分だ。礼を言う」
 そしてフルッカはしっかりと掴まっていて下さいと、自分達に言った。
「冥王の心臓が見えて参ります。少し迂回して雲上湖を目指しますが、やや入り組んだ谷を進むので揺れますよ」
「めいおう?」
 ぴくりとルアムが顔を上げた。
 崖の隙間から禍々しい漆黒が空を穿っているのが見えた。見ているだけで心の臓が冷え、言い様の無い恐怖が込み上げる。自分はこの感覚を知っている。死が這いよる感覚だ。
 ルアムも震えているようだった。
 いや
「あれが、相棒を苦しめてる…」
 拳を握りしめ、燃える瞳で冥王の心臓を睨んでいる。まるで憎い宿敵を見ているような眼差しだ。毛が逆立ち、尻尾が膨らんでいる。
 どうしたのか問おうとした時、フルッカ殿が声を上げた。彼女が呆然と見ている先で、青空を切り裂くように煙が立ち上っている。ザマ烽火塔はオーグリード大陸の中央にあるザマ峠に建ち、常に白色の煙を吐き出している。しかし、緊急事態になるとその煙の色は深紅となる。
 今、赤い煙が青空を切り裂き、天へ吐き出されている。
 オーグリード大陸に居る全ての者が見る事が出来るだろう。そして、望遠鏡を駆使すればウェナ諸島やレンドア島でも見る事が出来るのかも知れない。深紅の煙は高々と、この大陸に起きた異常を人々へ見せつける。
 戦争が始まる。
 その赤は、オーグリードに流れるだろう血を連想させる程に赤かった。