運命の女神は賽を振る - 後編 -

 爽やかな海風が頬を撫でる。広大な大海原を背後に従え、巨大な城下町を臨むグランゼドーラ城が目の前にあった。三対の塔を支える重厚な城、青々とした海の色の屋根瓦、様々な色の旗に彩られたレンダーシア最大の大国だ。世界の中心、勇者の王国。
 僕のお父さんは、そんなグランゼドーラ直属の王宮魔導師だった。
 僕は大きな背に背負われていた。鼻を掠める魔術で使う香木の香り、長い髪は僕に掛からないように軽く結って前に垂らしてある。父さんに背負ってもらうなんて、どれくらい久しぶりなんだろう。
 僕は父さんの背中に顔を押し付けた。心臓の音が僕の耳に木霊する。
「エルジュ、大きくなったな」
「そ、そうかな?」
 父さんは笑いながら僕を背負い直す。力強い父さんの腕。大きな手。
「破邪舟を生み出せるようになったのだろう? 知っているよ。お前が私の跡を次ごうと、四術師達の元へ継承の義を受けに行ってくれている事をね…」
 僕の一族は破邪舟師と呼ばれる特殊な魔法を使う一族だ。一子相伝の秘術で、僕は父さんの跡継ぎとして破邪舟師になるつもりだ。父さんの跡継ぎになる為には、世界にある4つの秘術をそれぞれに継承した四術師から継承の義を受ける必要がある。僕は父さん以外の術師に出会って、破邪舟を作れるようになった。
 僕は奥歯を噛み締め、苦々しい顔になって俯いた。
「父さん。破邪舟が作れるようになったのは、僕の力じゃないよ」
 僕は大きな背中にしがみつくと、小さい声で言った。
「ルアムのおかげなんだ」
「友達かい?」
 僕は首を横に振った。
「友達じゃないよ。お人好しの馬鹿。僕にしっかりしろとか、我が儘言うなって説教するんだ。大嫌いだよ。少し年上だからって、兄貴面するんだ。あぁしろこうしろ煩くて、嫌になっちゃうよ」
 ルアムは僕が破邪舟師になる旅に勝手に付いてきた、人間の男の子だ。僕よりちょっとだけ年上で、青紫色の髪と瞳を持っている。しっかり者で強くて旅慣れてるけど、お前は僕の母親かよ!ってレンダーシアの王立劇場で見た芸人みたいにツッコミしたくなるくらいだ。
 ルアムにはケネスとアインツっていう旅慣れた仲間がいたけど、この二人は僕にあれこれ言ったりはしない。ケネスは凄く強い戦士であらゆる魔物を切り伏せはするけど、戦い以外では怠そうに煙管で煙を噴かしていて会話もあまりした記憶が無い。アインツは料理と作ったり旅を快適にする為に世話を焼いてくれる。まるで宿屋のコンシェルジュのような細やかな心遣いで、僕が話さないのがいけないんだろうけどあまり喋らなかったな。
 だから、僕の隣には大抵ルアムがいた。
 いっぱい喧嘩した。
 顔を合わせればお互いそっぽ向いて、口を開けば罵りあう。ルアムを傷つけるような酷い言葉をいっぱい言った。寄るな触れるな面倒くさいと、ケネスに引き剥がされた回数なんて、一日に何度あった事だろう。
 でも
「レイダメデスを破壊する為に、ルアムは僕の未完成の破邪舟に乗ってくれたんだ」
 最後の術師は継承の義を断った。全ての継承の義を行えなかった僕の破邪舟は、未完成だ。僕でさえ、何時消えてしまうのか分からない舟には怖くて乗れない。
 その僕の破邪舟に、ルアムは乗ってくれた。アインツが先に乗り込んだ破邪舟に足を掛けたルアムが、振り返って僕に言った言葉が蘇る。
 『エルジュ。僕が帰って来れたらさ、笑ってよ』
 どういう意味なのか聞いたけど『兄さんの影響かなぁ』って訳の分からない事を言って濁すだけだった。
 本当に馬鹿な奴だよ。本当に…
「エルジュ、お前は良き友を得た。例え離ればなれになっても、絆は失われない。そう、お前と私のようにね」
 父さんは立ち止まると、僕をそっと下ろした。僕を正面に見ると僕の頭を撫でて、抱きしめてくれた。大好きな父さんの匂いに、大きな体に僕も抱きついた。何故だか、今こうしておかないと二度と出来ない気がしたんだ。
 父さんは身体を離すと、僕の顔をじっと見た。力強い声で、僕に語り掛ける。
「エルジュ。友を得たお前なら、これから待ち受ける困難を乗り越える事が必ず出来る。自分を友を信じなさい」
 急に父さんが遠くへ行ってしまう気がした。目の前に居るのに、手を伸ばしても届かない。そうだ、父さんは死んでしまった。偽りの太陽を破壊しようとして、失敗して、死んでしまったんだ。
 行かないで父さん!
 僕は叫んで手を伸ばしたけど、その手は空を掴んで届かなかった。

 □ ■ □ ■

「おい、暴れるなよ」
 真横から声が響き、頭の直ぐ横にあった赤い頭髪からは染み付いた煙草の香りがした。
 見なくても分かる。ルアムの仲間のケネスだ。まるで町で暮らす住民の服装のような簡素な布の服に、ボロボロの外套を羽織る。彼が冒険者だと分かるのは、根無し草の風来坊を絵にしたような佇まい。煙管を片手に煙を吐き、腰に固定した冒険者の愛用する丈夫な鞄と二本の隼の剣。
 ケネスは僕を背負い直し、紫煙が荒野の強風に吹き払われながらもしっかりした足取りで先を進んでいた。
 僕はどうやら夢で父さんに手を伸ばそうとして暴れたんだろう。寝言を言っていないか心配しつつ、ケネスの背に恐る恐る凭れ掛かった。何も言わない背に体重を預けると、疲れが解けて行く気がした。
 何故、こんなにも疲れているのだろう。背負われてるって事は、僕は気を失っていたんじゃないだろうか。
 僕は意識を失う前の事を思い出す。空を駆ける偽りの太陽、レイダメデス。そこへ乗り込むルアムとアインツを破邪舟に乗せ、ギリギリ届くだろうと燃え盛る太陽に向けて飛ばした。不完全な破邪舟は、僕の生命力を湯水のように消費して行く。ふつりと、意識が途絶えるまで、僕は破邪舟を生み出そうとしていた。
「なぁ、ケネス」
 僕を背負って歩く熟練の冒険者は、『んー?』と緊張感が欠片も無い様子で相槌を打った。
「ルアム達はレイダメデスへ無事に着いたのか?」
「あぁ、無事に着いてる」
 ケネスは笑うと、片手で煙管を持ち上げ煙臭い息を吐いた。
 レイダメデスにルアム達を送り届ける為に、僕はライドン山脈の頂上から出来るだけ偽りの太陽に近づいた。山頂に気絶し居続けていたら、偽りの太陽に焼かれて今生きてはいない。人を殺すには十分過ぎる熱から、ケネスは気絶した僕を守ってくれていたんだ。
 ケネスの不揃いな赤い髪の向こうに、レイダメデスに焼かれた大地が広がっている。赤く焦げ付き、大地はひび割れて所々硝子のような輝きを放っている。木々は炭化し無造作に転がり、仙人掌も水分を奪い尽くされて岩のようだ。
 グレン城の影が嫌みなくらいに青い空に切り抜かれている。僕等はグレンを目指しているのに、ようやく気が付いた。
「後はお前次第だぜ?」
 ケネスが赤い瞳を細め、いきなり身体を回転させた。いきなり加わった遠心力に僕が慌ててしがみつき、何をするんだと怒ろうとしたが目の前の光景に言葉を失った。
 そこには、沢山の人が歩いていた。
 レイダメデスに焼かれ故郷を捨てて逃げた5つの種族。彼等の先頭を歩くフォステイルが控え目に笑い、ガミルゴが憎しみを込めて僕を見ていた。僕は声なく驚き、うっかりタバコの煙を吸い込んで噎せた。
 フォステイルが眠気を誘う程に優しい声色で『大丈夫かい?』と労る。
「『どうして』という君の疑問に答えよう。僕達はケネスの声掛けに応じて、ここに居るんだ」
 プクリポの小さい身体を包む重いローブが、歩調にさらさらと美しい音色を奏でる。彼が背に背負ったリュートを爪弾かなくても、彼が歩く独特の歩調で生み出される音楽は退魔の音楽となって災いを退けていた。継承の義を受けるべく四大術師の一人として相見えた時より、柔らかい視線を僕に向けている。
「レイダメデスは地表に接近している事に気が付いたのは、君やベルンハルトだけではない。僕等も偽りの太陽が、大地に激突し想像もつかない破壊を世界にばらまく事を察知している。しかし、僕等はその破壊を受ける前に、間近に迫った偽りの太陽に焼かれて死ぬ。水も無く乾いた大地にへばりつく僕達の真後ろに、死神は鎌を構えて立っているのだよ」
「ケネスの誘い等なくとも、我々はグレンに行くつもりだった」
 魔導師の衣を身に纏ってなお、戦士のような気迫でガミルゴが言った。四大術師の一角を担う魔術師だからこそ、その言葉1つ1つに耳を塞ぎたくなるような呪詛が籠っている。あまりの憎しみの濃さに、隣を歩くフォステイルが神経質に耳を動かしていた。
「忌々しい人間共が、我等オーガの城を奪ったのだ。命を賭してこの雪辱を果たさなくてはならん」
 僕はガミルゴの背後に付き従うオーガを中心とした種族達の殺気を感じて、冷や汗が吹き出た。
 天を偽りの太陽が駆け巡った時、多くの種族がその行き場を失った。偽りの太陽から逃げ回る救いの船の噂もあれば、故郷が捨てられず運命を共にした者も少なくない。命辛々、グレンに逃げ延びた者達は本当に幸運だった、父さんはそう言った。
 しかし、グレンにやってきた人間達は、人間の事しか考えなかった。
 人間以外の種族を、グレンから追放した。城の持ち主であるオーガさえも。
「まぁ、待てよ」
 ケネスが殺気と不安に満ちた空気の中で、呆気にとられる程に呑気に言った。
「エルジュの男気の結果次第だ。それまでは、ガミルゴだっけ…お前の出番はねぇぞ」
 なんだと!とガミルゴの取り巻きが息巻いたが、彼等を諌めたのはガミルゴ本人だった。不満そうな取り巻き達だったが、彼等は一度ケネスに負けている。一瞬の太刀筋で彼等の獲物を叩き落とし、尻餅をつかせた事で一目置かれているらしい。
「あぁ、いいとも。ベルンハルトの息子の手並みを拝見してやるさ」
 いったいどうなっているんだ。僕のする事次第では、5種族と人間の戦争が始まるって事? こんな時に、いったい何をやろうとしてるんだ!
 僕はケネスの背で、いきなり背負わされた事の重大さに震えていた。

 グレンへ続く道に、多くの人々が亡霊の影のように佇んでいる。互いに無事である事に安堵する事も無く、疲れ切った顔で僕達を向かえた。北に逃げ延びていた四大術師の1人ヤクルは砂埃にぼさぼさになった髪だったが、疲労を感じさせない凛とした佇まいで僕等を迎えた。
「君の所も随分人が死んだようだね」
 フォステイルが痛ましさを声に乗せて言う。
 ヤクルは胸元に苦し気に押さえ、喘ぐようにフォステイルの言葉を肯定した。彼女の愛娘ヒメアが拙い口調で『おかあさま いたいの?』と心配そうに言う。柔らかいバニラリリィ色の髪に顔を埋め、ヤクルは娘を掻き抱いた。
 僕は悔しさに歯を噛み締めた。
 僕が継承の義の為にヤクルの元を訪れた時、彼女は継承の義などどうでも良いと拒絶した。それよりも水が無くて沢山の人々が死んでしまうから、水を分けて欲しいと訴えられた。
 でも、僕は水なんかよりも早く継承の義をして欲しいと言ったんだ。だって、偽りの太陽レイダメデスのせいで水が枯れて人々が死んでいるんだ。レイダメデスをどうにかする方が先じゃないか。僕は破邪舟を作って、偽りの太陽を破壊してみせるとヤクルに言った。
 だけど、ヤクルは頷かない。僕は苛立った。どうして何もしないんだって。
 今なら、ヤクルが術よりも水を優先したのか分かった。ルアム達が水を分け与えていなければ、彼女等は全員今生きていなかったかも知れない。
「どうした、ヤクル。グレンに先に着いたのではないのか?」
 ヤクルは無言で道を開けると、彼女の背後に居た人々もまた次々と退いた。僕は退いた人々の顔に深い絶望がべっとりと塗り付けられているのを感じた。その答えは直ぐ目の前にあった。
「人間の指導者、シオドーアめ。清々しいまでに魂胆が腐っているな」
 ガミルゴが怒りに拳を握りしめ、フォステイルが悲嘆を織り交ぜた溜息を吐いた。ケネスは煙管キツく噛み締めたようで、僕だけが異様な歯軋りを聞いた。光景を見た誰もが、怒りに吠え、終わる事の無い苦しみに唸り、絶望に膝を折った。
 グレンは巨大な大岩を刳り貫いて作られた要塞だ。まるで大地に突き刺さった剣と呼ばれ、オーガの長い戦いの歴史で難攻不落の代名詞とされる。その原因が特殊な地形。起伏の激しいグレンの谷底に徒で入る事は出来ず、地を伝って侵入する事は出来ない。グレンに立ち入る方法はただ一つ。グレンから伸びる桟橋だけだ。
 桟橋は断ち切られ落ちていた。
 人間は5種族を見捨てた。失われた桟橋が、言葉よりも強く僕等にその事を突きつけた。
 どうすれば。そんな悲嘆の声が人々から木霊する中、ガミルゴがすっと崖の下の方を指差した。
 崖の底が見えない漆黒の空間の上に、真っ直ぐな道が走っている。良く見れば立派な石造りの橋が、グレンの崖を貫くように渡されている。随分と昔から長い年月を掛けて作られた、五大陸を繋ぐ鉄道の高架橋だ。線路はまだ作られてはいないが、立派な石橋は偽りの太陽に焼かれても崩れ落ちる事無くそこに在る。
「偽りの太陽が昇る前にほぼ完成していた、大地の箱船の高架橋だ。鍛冶の炎を消した人間共では、頑丈な高架橋を壊す事は不可能だ。グレン駅舎もほぼ完成していて城下町へ繋がっている」
 ガミルゴの隣から高架橋を見下ろしていたフォステイルは、ふむと唸った。
「ここからでは、随分と距離がある。ゲルド海峡まで戻って伝って来るでは、途中で焼かれるかもしれないか…。危険だがここから降りるのが賢明な判断かもしれないな」
 フォステイルが数人のプクリポに声を掛けると、彼等は互いの身体に命綱を付けて真綿のように軽々と崖を下り始めた。身の軽いプクリポを支えようと、屈強なオーガ達がその命綱を握り支えた。ガミルゴがドワーフ達に梯子の板を作るよう声を掛け、緑の小さい身体を転がすように荒野に材料を探しに駆出した。残った人々の不安を慰めるように、ヤクルを中心にエルフが糸を紡ぎウェディが網を作る歌を歌いながら梯子の縄を作り始める。
 僕もケネスの背から下ろされて、僅かな水分を分け与えられた。乾いた喉に滑り落ちる水の有り難さに、僕は小さく息をついた。
 皆、必死だ。生きるとか死ぬとか、もうそんな事はどうでも良いんだ。
 与えられた仕事は絶望から眼を背けられる。自分が出来る事は小さくても希望になる。
 でも、このままじゃ、皆死んでしまうだろう。
 僕が
 僕が破邪舟を生み出して、父さんが果たせなかった偽りの太陽を落とさなくちゃいけないんだ。
 拳を握り、奥歯を噛んで居たんだろう。そっとゴツゴツした手が僕の頭を撫でた。見上げればケネスが煙を噴かして見下ろしている。
「気張らんで良い。俺達はお前の味方だ」
 怪訝な顔で見上げていたんだろう。ケネスは僕の顔を一瞥すると、苦笑いを浮かべた。真っ青な空に切り抜かれたケネスの影に光る赤い瞳に、ちらちらと碧の光が揺れている。
「俺達は『誰か』さ。どうにも出来ない事が起きると、人は居もしない『誰か』を頼る。それは奇跡とか可能性とか言うのかもしれないが、それは違う。『誰か』が必ず存在する。皆、『誰か』を覚えていられないだけなんだ」
 ケネスは寂しそうに笑い、空に向かって煙を吐き出した。
「俺の天使様は『大丈夫』と言った。だから、大丈夫だ」
 それから半日を掛けて鉄道の高架橋から辿り着いたグレン駅は、物置のように資材が置かれていて誰もいなかった。ひんやりとした空気や暗闇が、疲れ果てた僕達を優しく包み込んでくれる。グレン駅の外は偽りの太陽の照りつける野外に直結する為か、バリケードは作れなかったようだ。
 扉から外を伺ってきたケネスが煙管を弄びながら言った。
「エルジュ。そろそろ行くか」
 まるでケネスは近所に買い物に行こうと誘っているようだ。緊張感が欠け落ちた気怠い気配だったが、やはり世界の命運が掛かっているからそうはいかないみたいだ
「僕達も行かせてもらうよ」
 美しい声色でフォステイルが告げ、ガミルゴが部下に残された者達を守るよう指示を出す。ぐずる娘を優しく諭すと、ヤクルも立ち上がった。ケネスが煙管を銜えてにやりと笑うと、たった4人の進撃が始まった。
 再び戻って来たグレンは、驚く程に狭く感じた。大通りはゲルド海峡を越える自然の橋よりも狭く、階段はライドン山脈の山道と比べるのも申し訳が無い程に短い。こんな小さい世界に身を寄せ合って震えている人々に、何故、僕は怒りをぶつけ憎んでいたんだろう。
 父が死んだ時、彼等が父の名誉を知る限りの暴言を尽くして傷つけた事を昨日の事のように思い出す。
 でも、彼等は偽りの太陽に焼かれて死ぬ未来しか今はない。水があって追い出された者達より多少マシなだけであって、地面に偽りの太陽が落ちれば死ぬのだ。何も出来ず死ぬのを待つだけの彼等を、僕は初めて不憫に思えた。
 悠々とケネスを先頭に城門を開ける。
 兵士達は剣を向け、呪文を唱えたがどれも無意味だった。唱えられた呪文はフォステイルの歌に全てが掻き消え、兵士達の剣はケネスによって全て退けられた。それでも敵意が消えない者は、ガミルゴが倒す。敵であるのに傷つけばヤクルが癒した。
 死者の葬列のように静かな前進だった。いつの間にか人々は僕達を妨げる事無く、まるで壁のように両脇に退いた。
 階段を上り謁見の間の扉を開け放つと、3人の魔法使いと護衛の兵士2人とシオドーアが立っていた。
 なぜか僕は昔話に聞いた狐の城の話を思い出していた。豪勢な城の幻を見せて、狐達は楽しく旅人達を騙して遊んでいた。ベッドで寝ていた筈なのに、翌朝には地面に横たわっていたのに困惑する人間の阿呆面を腹を抱えて笑う狐達。そんなある日、騙そうと招いた商人が連れた犬に狐達は驚いて逃げ惑う。猟犬に押さえつけられた狐は商人に命乞いをする。『私はもう、人間を騙したりしないコン!』商人が信じて犬を下がらせると、狐は二度と人を騙す事は無くなった。そんな話だった。
「シオドーア、逃げなかった事だけは褒めてやろう」
 ガミルゴが噛み付くように言ったが、シオドーア本人は言葉を聞いていないかのように言った。
「何をしにきた?」
 あんまりにも酷い問いだ。井戸の水を独占したいが為に他の種族を追放し、見殺しにする為に吊り橋を落としたシオドーア。父を英雄扱いで見送り、失敗したら手の平を返したシオドーア。臆病で現実から逃げてばかり、酷い大人だ。
 だけど、そんな奴ばかりだ。
 現実に立ち向かう事がどれだけ大変か、どれだけ勇気があっても恐ろしい事か、僕は知ったんだ。
「シオドーア。オーガ達に城を返してやって欲しい」
 返答は当然『いいえ』だった。ガミルゴの闘気が背中を向けていても感じられる。
「エルジュ、貴様はもう分かっている筈だ。この地を棄てたらもう生きていける場所は何処にも無い。勿論、他の種族を死に追いやる事を承知で追放した事は悪いと思っている。だが、それは人間を我々の仲間を想えばこそだ。井戸の水を巡って殺しあいになる前に、手を打たねばならなかったのだ」
 無様な言い分。神経を逆撫でるような上擦った声は聞くに堪えられない。
「口を閉ざすんだ。ガミルゴは貴方の首1つで納得するだろう」
 フォステイルが呆れ果てたように言った。
 ガミルゴが杖を手に前へ出る。杖の先に火が灯る。それは小さい炎だったが、とても練り込まれ太陽のような凄まじい密度を保っている。指先で触れようものなら腕が炭化する程の力を感じた。ケネスは煙管を片手に静かに煙を吐くだけで、止める様子は無い。
 一歩一歩ゆっくりと近づくガミルゴに、シオドーアは悲鳴を上げて怖れ戦き喚き始めた。恐怖に塗れた瞳が僕を見つけ、引き攣った声で訴える。
「そ、そうだ、エルジュ。私に一生の忠誠を誓うなら、城を返してやっても良い…! た…たす」
「待ってくれ」
 僕の声に、ガミルゴが歩みを止めた。
 僕はガミルゴの横を通り、シオドーアの前に出た。そして膝を付こうとするのを、フォステイルの涼し気な声が諌める。
「彼の卑劣さは我々も十分に承知している。君が彼に忠誠を誓う必要は無い。ガミルゴの気が済めば、君に最後の継承の儀式をしてくれるさ」
 僕はひたとシオドーアを見た。怯えて震える年配の男が、僕の目に映る。今まで王のように振る舞っておきながら、今まであんなにも父を侮辱しておきながら、今まで僕の事を嘲笑っておきながら、全てをかなぐり捨て僕に命乞いをしようと震える男。哀れな程に情けなかった。
「皆そうなんだ」
 僕の呟きは緊迫に引き絞られた空気に響く。
「偽りの太陽に焼かれた皆がそうだったんだ。殺されたくないと願い、死にたくないと叫び、助けてくれともがいた。でも、無情にも殺されてしまった。その死に悲しむ家族がいるのに、救えなかった事を僕は心の底から申し訳なく思う」
 そう、それは目の前のシオドーアも例外じゃない。シオドーアに娘がいる。偽りの太陽に両足を焼かれ、歩くのに不自由している彼女の話し相手に良くなっていた。互いに自分の父親自慢をして、熱くなり過ぎて喧嘩になる事だってあった。
 シオドーアの死をこの場の誰もが望んでいたが、彼女だけはシオドーアが死んだら悲しむだろう。そして父さんが死んだ時に感じた僕の苦しみと憎しみを、彼女は味わうのだ。
 させたくない。そんな事をさせてまで、僕は破邪舟の術を手に入れなければならないのか? そんな事をしなくても、ガミルゴが継承の義をしてくれる方法はあるじゃないか。
「これから先 誰一人、偽りの太陽で死ぬ事はあってはならない」
 僕は一歩前に進み出た。シオドーアが悲痛な叫び声を上げた。そんなシオドーアの前に膝を付き、僕は頭を垂れた。
「シオドーア、僕は貴方に忠誠を誓おう。グレンを、オーガ達に返してやってくれ」
 シオドーアはへたり込み、情けない声で了承した。ガミルゴが術を解いたのを背後で感じて、放心し切った様子の新しい主から背を向ける。
 オーガの魔術師に僕は言った。
「ガミルゴ。早く儀式を行って欲しい。僕は一刻も早く、偽りの太陽に乗り込んだルアムの元に駆けつけたい」
 ガミルゴは不敵な笑みを浮かべて頷いた。

 グレン駅宿舎はかつて無い賑わいを見せていた。戦士達が何故かそこに集まっていたんだ。聞けば偽りの太陽には、冥王という魔族の王の誕生を見守る沢山の魔物達がいるのだという。皆で殴り込みに行こうと赤い髪の人間が誘って歩いているのだそうだ。
 駅舎には松明が新たに設置され、赤いグレンの岩を雄々しく染め上げる。
 プクリポ達は応援の舞いを踊り、ウェディ達はお囃子を賑やかに奏でる。エルフ達が自慢の薬草を袋に詰めて戦士達に手渡せば、ドワーフ達が新たに火を入れたグレンの炉で鍛えた武器を配って歩いている。オーガ達が武具を運んでいる横で、人間達も料理を運んで戦士達に振る舞う。まるで祭のような状況だ。
 継承の義を終えて、新たな破邪舟師になった僕はケネスに声を掛けた。
「よう、破邪舟師様」
 振り返ったケネスの瞳は、片方が本来の赤でもう片方がアインツの碧に輝いている。マントがふわりと軽やかに広がり、煙管の煙を穏やかに吐き出した。
「準備は万端だ。偽りの太陽に乗り込んで、この世界を賭けて魔族と全面戦争しようじゃないか」
 僕は思わず顔を顰めた。
「何を言ってるんだ。破邪舟は4人が精々乗れる程度だぞ」
 父さんの破邪舟を見せてもらった事があるし、僕自身も後継者となるべく様々な事を伝え聞いていた。術者の魔力で生み出される破邪舟は、そんなに巨大になる事は出来ない。ここに集まった戦士達だって、数十名って規模だ。箱船でなければ運べないんじゃないかってくらいに、多いぞ。
 線路を見下ろす場所に立っていたケネスの横に並ぶと、ケネスは微笑んだ。
「『大丈夫』だ。俺達は可能性を信じる者の味方だ。不可能を可能にしたいと足掻く者に、俺達は惜しみなく協力する」
 僕の背後に回ると、ケネスは僕の肩にそっと手を置いた。
『エルジュ。立派な破邪舟師になったお前を、心から誇らしく思う』
「父さん…?」
 それは死んだ筈の父さんの声。背後にケネスが立っている筈なのに、どうしてだろう、父さんがいる。
『さぁ、エルジュ。最高の破邪舟を作ろう!』
 父さんの声と共にケネスの手が肩から離れ、僕の頭上に優雅に構えられる。父さんの魔力に、僕の魔力が音楽のように共鳴しハーモニーとなって広がって行く。目の前の線路上に描かれた美しい黄金色の魔法陣の上に、金色の風が吹き込んで来る。いや、それは流れ星だ。燦然と輝くそれらは魔法陣の上で渦を巻き、形を整えて行く。
 星屑を宿した車輪を繋げるのは、彗星の尾。真っ白い壁面は夥しい数の小さい純白に輝く星達で、黄金の大粒の星達が小さい星達を見守るように縁取っている。窓の深淵の奥には、座り心地の良い深紅のクッションが敷かれた座面。磨かれた床の木目は鏡のように、天井から下げられた月の明かりを移している。先頭の流線型の黄金の装飾には、きつい日差しを彷彿とさせるライトが前方を照らしている。
 汽笛が高らかに鳴り、煙突から星屑をまき散らした。
「天の箱船…!?」
 それは伝説の天の箱船。
 人の地と神の国を行き来する、光り輝く箱船だ。
 誰もが驚き、目の前に現れた希望に目を輝かせた。心に光を灯し、雄々しい声が勝利の雄叫びを叫び、歓声が駅舎を揺らす。
 フォステイルも、ガミルゴも、ヤクルも、大きく頷いた。それぞれに溢れる力を持て余しているように自信に顔を高揚させ、自分達の相棒と呼べる武器を握りしめた。ケネスが両手に隼の剣を抜き放ち、煙管を銜えた口元を歪ませて僕の背を叩いた。
 僕は高らかに言った。
「行こう! この世界を僕達の手で取り戻すんだ!」
 その場の誰もが武器を掲げ、雄叫びを上げた。
 ルアム。この戦いは、君の復讐なんかじゃない。僕達の戦いなんだ。それを僕達が理解するのに随分と時間が掛かってしまった。
 君を迎えに行って、笑ってやるんだ。
 僕は破邪舟師になったんだって。