破滅の女神は軽やかに - 前編 -

 オーグリード大陸の南半分を統べる大国、ガートランド王国より更に南。入り江の集落で、可愛らしいくしゃみが響き渡った。
「なんて災難! こんな事があり得るなんて、信じられませんわ!」
 宿のテントで若葉色の髪を肩の長さでざっくりと切りそろえたエルフの女の子が、滴る海水をタオルで拭いながらもう一つくしゃみ。魔導師の杖を頭上に一振りすると、キラキラと赤い光が降り注ぎ、瞬時に湿った彼女の髪を乾かした。
 レディ・ブレラが僕の背中で『ほぉ』と笑う。僕もなかなか見た事の無い、火炎系に秀でた魔法使いみたい。すごいなー。
 そんな彼女から少し離れて、連れのドワーフが大口上げて大笑い。
「言ったじゃろう! あのバシっ娘のバシルーラでは常識じゃぞ!」
 お嬢さんの熱に瞬時に乾いたお爺さんは、まるでイエティみたいに髪と眉と髭がふさふさになる。とても旅慣れた様子で、防水加工の施した大きな布からリュックサックを取り出してみせた。壊れたものが無いか確認する、老冒険者の背中を若いエルフの言葉が叩く。
「だからって、海に落とすなんて非常識ですわ!」
「我輩がハンマーを新調せんかった理由が、よう分かったじゃろう? 次いでに浮き輪も持って来て良かったじゃろう?」
 あぁ、なんて屈辱! エルフのお嬢さんが、頭を掻きむしった。
 僕がこの入り江の集落近海で釣りをして、釣り上げたのはこの二人の冒険者だった。プクリポを釣り上げた事はあったけど、エルフとドワーフの連続ヒットは始めてだったかなー。
 オーグリード大陸にある、北のグレンと南のガートランドって二つの国が戦争状態なんだ。
 その関係で、大地の箱船も隣国のウェナ諸島のヴェリナード王国とレンダーシアの窓口である港町レンドアで折り返し運転をしている。実質的な鎖国状態のこの国に来る方法は二つ。1つはルーラストーンタクシー協会の協力を得る。でも、それぞれの王国で圧力がかかって応じてくれないだろう。残る1つが、バシルーラの使い手に頼む事。レンドアに住まう通称『バシっ娘』バンリィちゃんは、お金さえ積めば世界中の何処にでもぶっ飛ばしてくれるんだ。
 僕も耳にした事はあるんだけど、バンリィちゃんってかなり おっちょこちょい らしーよ。
 行き先告げたら確認せずにぶっ飛ばすから、間違って口走って死にかけた冒険者のなんて多い事。砂漠に飛ばしてもらえば上半身が砂に埋もれ、海辺が近けりゃ海水に着水、雪原に飛ばされれば雪だるま、光の河の近くならお約束と言いたげにきわどい位置に飛ばしてくれる。兎に角、彼女にバシルーラしてもらうなら、自衛策を万全にしてからというのが常識なんだってー。
「まぁ、ガートランドの南はまだ戦火が届いておらんかったし、こうやって救いの手も直ぐさまやって来た。これも互いの種族神様と女神ルティアナ様の加護じゃろうて。感謝感謝じゃ」
 お嬢さんの嘆きを他所に、お爺さんが朗らかに笑った。
「僕の名前はイサーク。帽子がレディ・ブレラ。で、お爺さん達は何をしに来たのー?」
 僕が名乗るとお爺さんはふかふかと真っ白い髭を動かして笑い、ドワーフの伝統的な仕草をした。
「おぉ、釣り名人。自己紹介がまだじゃったな。我輩はガノ。知人がグレンに行っておるので、無事かと心配になっての」
「私はエンジュですわ。私が向かうべき理由を作ってしまったものなので、自責の念くらい湧きますわ」
 二人の自己紹介にレディ・ブレラがふわりと僕の頭に乗った。
『もう、グレンには行けないよ。戦争が始まる。ザマ烽火台の深紅の煙を見なかったのかい?』
「存じていますわ。戦争が始まると精霊達が騒いでいますもの」
 エンジュちゃんが目を細め深刻そうに呟いた。ガノさんも腕を組んで考え込む。
 オーグリード大陸は、ゲルド海峡で大きく二つに分けられている。グレンとガートランド結ぶ街道はただ一つで、そこが戦場になるだろう。その街道を避けて両国を行き来する事は、戦場を抜けて行くって事で無謀以外何ものでもない。
 案が浮かばない様子の二人に、僕は『ねぇ』と声を掛けた。
「今直ぐ出来る事が無いなら、僕に協力してくれない。僕ね、ゼラリム姫からお使いお願いされてるんだー」


 ■ □ ■ □


 遠くで海賊達の成れの果てが、恨めしそうに髑髏を向けている。冥界の気配が近く、海の近さや洞窟とは違う肌寒さを感じていた。浄化と昇華の願いを込めた歌を響かせ、彼等の無念を労る。朽ちた船の骨組みを超え、僕達はかつて海賊達の根城だった地下洞窟の最深部と言える場所にやって来た。
「お姫様の御遣いにしては、随分と物騒な場所ですのね」
「うん。僕とレディだけでは危険だし、兵士も戦争で出払ってるから困ってたんだー」
 吸い込むだけで口の中に小さい入り江が出来るんじゃないかってくらい、湿度と磯の香りがする。広々とした空洞には踝あたりまで海水に浸され、天井から落ちる雫が土砂降りの雨のように振り注いでいる。天井が崩れて緑が茂る一角に、お酒の瓶が乱雑に積み上げられたテーブルと1脚の豪華な椅子が置かれていた。差し込む光に、闇に沈んでいた鉄格子の鈍い光が反射する。
 誰の姿も無い広間の岩陰から、ガノさんが白い髭に触れながら鉄格子を見遣る。ドラゴンゾンビの丈夫そうな肋骨を失敬して肩に担き、ふむと唸る。
「あそこに捕らえられとるのかの? ただの牢屋ではなさそうじゃな。そもそも、炎の民オーガの盾パラディンを担う者が、たかが鉄の格子と鉄の錠前を破れんとは考え難い。魔力が施されておるじゃろうが、破るのにどれくらい時間が掛かるか分からんぞ?」
「先ずは話しかけてみるね」
 僕等は顔を見合わせると、ゆっくりと牢屋へ歩み寄った。僕等が牢屋に歩み寄ると、中から緊張した気配と呼吸が響いた。磯の香りに血と怪我が悪化しているのだろう良くない臭いが鼻を突く。僕は癒しの歌を歌うような、穏やかで優しい声で語り掛けた。
「こんにちわ。僕はゼラリム姫の使いです」
 ゼラリム姫?
 ざわめきが細波のように牢屋の中に広がった。そう、僕はルミラさんの友人、ゼラリム姫の依頼でガートランド領内で行方不明になった人々を探しにやって来たんだ。僕は国と関係がない、ただの冒険者だからね。それに可愛い女の子のお願いを、断るなんてウェディの男子がする訳がないじゃないか。
 入り江の集落に重傷のパラディンが居るって聞いてねー。治療も兼ねて来たらビンゴ! なんとこの地下洞窟に、神隠しにあったパラディン部隊が監禁されてるんだってさ! 安否を気遣っていた彼やゼラリム姫の表情を思い出し、僕は彼等が生きている事にホッとした。
 希望と不審に満ちた声色が、闇の中から響いて来る。助かるかもしれないのに、なんでだろう?
「貴様がゼラリム姫の使いだと、証明出来る物はあるのか?」
 え、えーと…。僕はガノさんとエンジュちゃんに振り返る。小さく首を横に振ると、僕は更に牢屋の奥の闇に声を掛けた。
「ごめんなさい。ないです。でも、貴方の仲間なら僕が入り江の集落で治療して無事です」
 ざわっ。囚われた騎士達の気持ちが揺れた。希望と不安、疑心暗鬼が彼等の心を揺さぶっている。僕達ウェディは声に感情を願いを呪いを、ありとあらゆる物を込める事が出来る種族だ。だからこそ僕は、闇に溶けた彼等の心を手に取るように感じていた。
 嘘だ!拒絶の声が響いた。
「そうやって騙して、俺達の心を操るつもりなんだろ!」
「あーもう、埒が開かんわい」
 ガノさんが僕を押し退けると、錠前を調べ始めた。苛立つ声で闇の中の騎士達に言い放つ。
「信頼等せんでいい。我輩はこの扉を開ける。開けた後は逃げるも、留まるもお主等の好きにせい。イサークもそれで良かろう。姫君には出来る事を成したが、彼等の選択を尊重したと言えば良いのじゃ」
「でも、ガノさん」
「ガノさんの言う通りですわ。私達には私達が成さねばならぬ事がありましてよ」
 エンジュちゃんが凛とした声で、僕に言った。
「あらぁ。放っておけば死ぬような手負いを逃したら、まさか仲間を差し向けて来るなんてね。きっちり、殺しておくべきだったわ」
 油断無く魔導師の杖を構えたエンジュちゃんの視線の先には、床に着いてしまいそうな長い長い髪の女性が居た。妖艶な悩ましい肉体を見せつけるような露出の多い服。唇と目元に施した化粧は好戦的な印象を与える、深紅で鋭い線を描いて顔を彩っている。悩ましげに身体に絡めた鞭が振るわれると、水飛沫がぱっと広がった。
「このジュリアンテの魅力に跪かない男は、死ねば良いわ」
 そう微笑んだ口元は、暴力的な魅力に満ちていた。
 僕はレディ・ブレラを深々と被ると、僕はゆったりと歌いだす。足下に広がる海水に小魚が群れ始める。
「とても魅力的な女性に、手を上げたくないんだけどさー」
 目の前を跳ねた氷の鯛に、僕の顔が映り込んだ。ウェディの種族が持つ甘い顔が、うっとりとした表情でジュリアンテと名乗った女性を見ていた。分かるよー。分かる。とっても綺麗で魅力的、こんな場所じゃなかったら口説いてるって自信あるよー。
 でも、僕は『ごめんね』と囁いた。
「もう、ゼラリム姫と約束しちゃったんだよねー」
 凍り付く甲高い音が響き始めると、氷の飛沫を上げて巨大なマグロが跳ね上がった。僕が大きく下がると、エンジュちゃんが巨大な氷の魚にイオラを放った!砕け散り鋭いナイフの雨霰が、ジュリアンテに降り注ぐ。面の攻撃に避ける事は不可能の筈だ、そう思った時だった。
 ジュリアンテがその長く豊かな髪を振り、すっぽりとその髪に身体を隠す。次々と襲いかかる氷の雨を、髪が受け流した!
「髪は女の命っていうけど、本当だったんだねー」
 僕のボケにエンジュちゃんがツッコミを入れた。昔、プクリポの芸人に会心のツッコミ入れられたような衝撃が走る。
「冗談はおやめになって!」
 はーい。こうなったら、動けなくしちゃうしか無いね。
 僕はレディ・ブレラの長い日除けに手を掛けると、彼女が僕の魔力に直ぐさま合わせてくれるのを感じていた。呼吸一回分ゆっくりと練り上げた魔力が、足下からミルクのように白濁して水面を覆って行く。足下の水は海水だ。塩分濃度を操作する事で、僕は強い氷の呪文を生み出そうと声を張り上げる。
 ジュリアンテが鞭を振るった。弾ける水飛沫が衝撃に反応して、たちまち凍り付いて珊瑚の檻に早変わりだ! 僕は彼女をひたと見つめ、高らかにマヒャドと唱えようとした。
 僕が呪文を発動させる直前に、ジュリアンテはしなやかな指を唇に添え、ちゅっと投げキッスが放った。瞬間、衝撃が走った。
「あ…れ」
 僕は瞬きした。僕は一体何をしようとしたんだろう。こんなチャーミングな女性にマヒャド唱えよとしてたとか、嘘でしょ?あぁ、その切れ長な瞳に見つめられるだけで、僕の心はグラグラに沸騰した鍋に茹でられたファルファッレみたいに飛び回っちゃいそうさ!その指先で触れられたら、チーズフォンデュのチーズみたいにとろとろかもね!あぁ、可愛くて愛しいジュリアンテ様…
「なーに魅了されとるんじゃあ!」
 ぐふぁ!
 背後からとんでもない衝撃が襲って来て、正直、肋骨が何本か嫌な音を立てたよ。倒れ込んだ拍子にズレたレディの隙間から後ろが見えると、僕の尻の上に片足を掛け、ごりごりと腰をドラゴンゾンビの大腿骨で押すガノさんがいる!それで殴ったの!?ツッコミってレベルじゃない痛みなんですけどー!
「エンジュちゃんのツッコミなら喜んで受けるけど、ガノさんのツッコミマジ棺桶だからー!冗談抜きでー!」
『棺桶に入ってろ!』
 僕以外の全員、ジュリアンテも声を揃えた。ひ、ひどいなー!
 でも、ガノさんも参戦出来るようになったら一気に勝機が見えて来るね! エンジュちゃんのヘナトスがジュリアンテの鞭の鋭さを奪って行く。僕はまだまだ温度の低い魔力を帯びた海水に浸かりながら、再びマヒャドを唱えようと魔力を高める。どんなにジュリアンテの髪が高い防御力を持っていようと、ガノさんの圧倒的な攻撃力の前には成す術が無い筈だ。氷でジュリアンテの動きを封じれば、ガノさんなら会心の一撃を確実に出せる。
 海水を重い何かが踏みしだき進んで来る音が聞こえる。ドラゴンゾンビのような地響きを伴う足音に、ジュリアンテも僕達も思わず動きを止めた。
 何事だろう? 水滴は地響きに叩き落とされ土砂降りのように降り注ぎ、水溜まりは荒波の海のように波立っている。ガノさんが身構え、エンジュちゃんも魔力を高め待ち構える。
 ジュリアンテの背後に、巨大な影を伴って足音の主が現れた。
 僕は思わず目を丸くした。これ程の体格を持つ存在をオーガで見た事はあったけど、人間では初めてだった。身長はオーガ並で失礼だが体格も大樽並だが、長身と相まって恰幅が良過ぎる体格には見えない。胸は抱きしめられたら圧死出来る程に豊満で、不敵な笑みがこれ程似合う女性は居ないだろう女傑の雰囲気がある。
 彼女は背負っていた武器をジュリアンテ目掛けて振り下ろす。ガノさんの一撃に匹敵する震動に洞窟が悲鳴を上げた。
「癒しの賢者様自らご登場か…これは分が悪いね」
 ジュリアンテが強がった笑みを浮かべ、リレミトの光がぱっと広がると渦潮のように豊かな長髪も巻き込んで消えて行く。これ以上、この女傑に戦ってもらってたら、僕等は生き埋めになっていたかもしれないからねー。ジュリアンテ、ありがとうねー。
 女傑は武器を背に納めると、のしのしと歩み寄ると僕を見下ろして言う。
「おや、青魚。肋骨が何本かいってるみたいだね」
 ご明察。僕が答える前に、女傑は手の平を僕に向ける。淡いホイミの光がはらはらと落ちて来ると、鈍く続いていた痛みが解けて行く。凄いホイミの精度と回復量だ。
 見た目は戦士系だけど、一流の癒しの術の使い手だ。一流の癒しの術の使い手は薬草学にも通じているけど、実は材料調達も自分でやっているから一流の冒険者である事も珍しくないんだよねー。この女傑もそうなんだろうなー。
 僕はホイミによる疲れも無く、むしろ調子が良くなった身体を立ち上がらせると女傑に頭を下げた。
「ありがとうございます」
「気にしなくて良いよ。それが仕事だからね」
 そう言って奥の牢屋を目指す巨大な背中を見送る僕に、ガノさんとエンジュちゃんが並んだ。
「癒しの賢者マリーン様。回復治癒に関わる呪文と薬草学の第一人者ですわ」
「確か、ガートランドの王女の主治医を任されておったと聞いておる」
 なるほど、ゼラリム姫の主治医をしているんだー。ゼラリム姫は昔は病弱だったけど、今は良い先生に出会えて人並みの暮らしが出来るって喜んでた。マリーンさんがお姫様の言っていた『良い先生』だったんだね。
 賢者は基本的に中立を求められるから、マリーンさんも姫君にお願いされてここに来たのかもしれないねー。あんなに僕等を不審に思っていた騎士達が、警戒を解いたのが遠くにいた僕達にも分かった。歓声を上げ、マリーンさんに感謝の言葉を浴びせるように告げる。
 まぁ、あの包容力の前に悔しいって気持ちも湧かないけど、騎士達も素直に牢屋から出て来て治療して本当に良かったよ。入り江の集落で僕が治療した騎士だってかなり重体だったから、牢屋の中の騎士達もすっごく心配してたんだよねー。
「ゼラリムが頼んだルミラの友達ってのはアンタ達の事だね?」
 マリーンさんの問いに僕は頷いた。僕はルミラさんの誘いでガートランドへやって来た矢先に、グレンの宣戦布告が響き渡っちゃったからね。ルミラさんの紹介状でお友達だっていうゼラリム姫に会って、今回の騎士捜索のお願いをされたんだ。ゼラリム姫はマリーンさんを信頼してるんだろう。お父様にはナイショ、二人だけのヒミツって言われてたんだけどなー。
 レディ・ブレラが頭をきゅっと締めつけた。
 余計な事を考えてるんだろって言いたいんだね。仕様がないじゃん。可愛いゼラリム姫の信頼が、マリーンさんを越えられないって男として切ないじゃん。
 そんなレディと僕のやり取りを誰も知らないまま、マリーンさんは言う。
「ガートランドがグレンと戦争するなんて、全く困った話さね。聞けばグレンのバグド王が魔瘴に犯された後遺症で、狂ってしまっているって話じゃないか。ガートランドに来る前に魔瘴を取り除いて治療したんだけど、侵蝕が深かったみたいで取り除ききれなかったみたいだね。このアタシとした事が、治しきれないなんてね」
 マリーンさんは小さく溜息を吐いた。鋭い視線と不敵な笑みが似合う女傑だが、その溜息には悲嘆が籠っていた。
「賢者殿はどうお考えじゃね。戦争を止める手立てがあるのかね?」
 ないねぇ。ガノさんの問いに、マリーンさんは苦笑した。
「アタシは傷を癒し病を治すのが本業だ。戦い策略を謀るなんて畑違いも甚だしいよ。出来る事をするだけさ」
 そう言って、牢屋から出て来て身支度を整える騎士達を見遣る。皆、傷が癒えて元気そうだ。僕はマリーンさんが目を細めるのを見た。
「グロズナー陛下はガートランドの道を、マグマの杖で完全に閉ざすらしい。オルセコ高地に本陣を敷いて、グレンの進軍をザマ峠で迎え撃つらしいよ」
 そこで彼女は僕等を見た。
「アンタ達も来るかい?」
 僕等は顔を見合わせて頷いた。

 ■ □ ■ □

 オルセコ高原への道はとても穏やかだった。
 マリーンさんはダッシュランを移動中に捕まえて馬の代わりにし、騎士達を乗せて駆出した。それを見て目を丸くしたエルジュさんだったけど、レディ・ブレラを被ったダッシュランがすり寄って来て悲鳴を上げた。レディ・ブレラは被った者を操る力があるんだよね。
 僕等がいたギルザッド地方から北が、グレンって北の大国に戦線布告されたガートランドの領だ。巨大な岩山を刳り貫いたようなカルデラの中に造られたガートランド城下町と城、その外側は一周するのに数日を必要とする程に広大だ。カルデラの裾野を伝ってガートランド領の西に聳えるオルセコ高地を目指すが、戦火はまだやって来ない。ガートランドの魔物達の気配も穏やかで、ザマ烽火塔の煙は赤いままなのを思えばまだ戦火はザマ峠を越えていないのだろう。あそこが、恐らくガートランドの最終防衛戦だ。
 流石、ダッシュランは足が速いねー。馬でかかる日数の半分でオルセコ高地に到着しちゃったよー。
 古のガートランドの歴史を知る事が出来るコロシアムを見つけた時、ガノさんが歓喜の声を上げた。ホント、好きなんだなぁー。
 僕はここまで運んでくれたダッシュラン達に労いの声を掛けながら、ご褒美の御馳走を振る舞っていた。もう、レディの力がなくても十分に懐いてくれてて、可愛いよねー。エンジュちゃんは、全然可愛くないって逃げるのが困っちゃうよねー。
 流石、戦争の陣を敷いているだけあって、とっても賑やか。コロシアムを外から見上げる時点で、もう内部のオーガ達の闘志がメラメラ感じちゃう。修錬をしているのか武器がぶつかり合う音が響き、雄々しい気合いが響き渡る。
 でも、僕はその時不思議に思った。
 足を止めた僕に、ガノさんとエンジュちゃんが振り返る。
「イサークさん、どうかされまして?」
「なんか変なんだよねー」
「何がじゃね?」
「声にさ気持ちが入ってないんだよ。『グレンの奴をぶっ転がしてやるー!』とか『我等ガートランドに喧嘩売るとは良い度胸だこらー!』とか『誇り高きオーガの意地を見せてやる!』、果ては『戦争嫌だなー』とか『怖いなー』って気持ちもない。何の感情もない平坦な声は、正直気持ち悪いよ」
 僕は魚の鰭のような耳を押さえた。
 ウェディは歌を歌う民。空中も水中も僕等の歌を響かせるステージ、観客も一流の歌い手達だ。その声に籠められた感情を感じ取る程に、その聴覚は優れている。だから何の感情もない、かといって無心とは違う声達を心の底から気味が悪く思う。まるで死者の国の民の声のようだ。
 聞いていられない。耳を押さえる僕に、ガノさんが真っ白い髭を擦り、エンジュさんが眼鏡を押し上げた。
「イサーク、そのダッシュラン達を見えない所で、待たす事は出来るかの?」
 僕は歌うようにダッシュラン達に声を掛ける。懐いた様子で頬を擦り寄せる彼等を見て、僕は頷いた。
 エンジュちゃんも、ガノさんも緊張した面持ちで頷き合った。

 中には沢山のオーガ達がいた。その賑わいは擦れ違うのも大変ってくらい。
 誰も彼もが武器を携帯しているし、オーガはその恵まれた体格から扱う武器も凄くでかい。プクリポが大剣と称して振るうのが、オーガにとっての片手剣ってくらいの違いがある。マリーンさんの背後にいないと、ガノさんやエンジュちゃんが蹴飛ばされるっていうのも言い過ぎじゃないよ。
 そして、僕の予想は的中した。
 コロシアムに集ったオーガ達の目が虚ろだ。瞳はどんよりと濁った光を宿し、熱にでも浮かされているかのように焦点が合っていない。だが、マリーンさんの為に道をあけ恭しく頭を垂れている。僕等の前を歩いている救出された騎士達も、コロシアムに集った仲間達の異変に気が付かないのを見ると、騎士達もなんだかおかしいのだ。
 僕等は異様な緊張を抱えながら、マリーンさんと救出した騎士達の後に続く。
 マリーンさんが足を止めたのは、巨大な闘技場を見下ろす観客席だった。眼前の円形の剥き出しの土の上には多くの戦士達が剣を振るい、戦闘の訓練をしている。指揮をしているのは樽のような体格だが、ガートランドの兵士長を担っているスピンドルさんだ。ガートランドの兵士だけじゃない、旅人なのだろう旅装束のオーガも数多く混ざっている。その殆ど、いや、全員が男性だ。
「マリーン様だ!」
 闘技場で剣を振るっている者の誰かが声を上げ、手を止めてマリーンさんを見上げる。戦士達はまるで恋人でも見つけたような満面の笑みで、こちらを見て欲しいと懇願するような声を張り上げてマリーンさんの名前を呼ぶ。余りの大音量に頭が痛くなって来るよ。
「マリーン様! なんてお美しいんだ!」
「マリーン様! 万歳!」
「俺の命はマリーン様の為に…!」
 賞賛と忠誠の声にマリーンさんが満更でもないように笑った。
「可愛いだろう? こいつ等はあたしのために何でもしてくれるんだよ。そう…なんでもね」
「何をしてもらう つもりなんじゃね? 癒しの賢者殿?」
「勿論、グレンと戦ってもらうんだよ。アンタ達もね」
 油断なく訊ねたガノさんの横で、エンジュちゃんが眼鏡の奥から鋭い視線を向ける。炎の精霊に愛された彼女の周囲が、陽炎のように熱気に炙られ歪んで行く。僕は思わず一歩離れた。焼き魚になっちゃ洒落にならないよ。
 ジュリアンテ様だ! 戦士達が名を叫び賞賛を浴びせる先、僕等の背後にジュリアンテが立っていた。目を奪われるナイスバディ。まるで魔瘴の靄の中で稀に輝く紫の光のように、瞳が仄暗い光を放っている。
『おやおや、グルだったんだね。ってことは何かい?この一連の騒動の黒幕は、あんた達って事かい』
 レディ・ブレラの呆れた声を肯定するように、マリーンは不敵にジュリアンテは妖艶な笑みを浮かべた。
 ガートランド領地で多発している戦士の誘拐事件も、あの囚われていた騎士達も、グレンの王が狂ってしまったのも、そして戦争が始まろうとしているのも、全部彼女達の仕業だったのか? 女性を疑いたくはないんだけどさ、その全部に関わっていると思うと全ての女性の味方ウェディの男子である僕も否定が出来ない。
「貴方達も私達姉妹の魅力に気が付いたら、喜んで戦ってくれるわ」
「そして、オーグリード大陸全土を戦火が覆う。二つの国は共倒れさ」
 あーあ。フォローの余地なし。魅力的な女性なのに残念。
「そんなの、嫌だなぁー」
 僕がのんびりと言い放つと、高らかに口笛を響かせた。その音は、この空気の薄いオルセコ高地の空に吸い込まれるように響く。どしどしと地響きを響かせて、僕等を乗せてくれたダッシュラン達が闘技場になだれ込んだ。魅了の術に嵌っているんだろう。マリーンとジュリアンテを賞賛するのに忙しい戦士達を、その尾で容赦なく薙ぎはなう。
 エンジュちゃんのイオラが炸裂し、マリーンとジュリアンテを大きく下がらせた。
 ガノさんが先に駆け寄って来たダッシュランの首根っこに掴まって飛び出した。僕もエンジュちゃんを横様に抱きかかえると、もう一匹のダッシュランの背に齧り付いた。置き土産とエンジュちゃんが背後にイオラを放つ。そのイオラの轟音の間から、マリーンの狂ったような高笑いが聞こえていた。
「逃げるのかい!? 好きなようになさい! アンタ達はあたしがぶっ殺してやるよ!」
 青い鱗を太陽反射させ、青い彗星のようにコロシアムからダッシュランが飛び出した。追っ手が居ない事をレディ・ブレラが教えてくれたのを聞きながら、エンジュちゃんが縋り付いて来るのをちょっと嬉しく感じちゃう。この子、乗り物系苦手なのかなー?
「さぁて、どうするかのぉ!」
 ガノさんが豪快に笑いながら北に向かう。
 赤い煙が空へ吹き出すザマ峠、オーグリード大陸の運命が重なる場所へ…。