夜の女神の随従たち - 後編 -

 冥界の王者の居城。手荒な歓迎を覚悟しておりましたわ。
 冥王の心臓と呼ばれるは、ライドン山脈の山頂に近い場所にぽっかりと空いた異空間。己の傍にありながら次元のズレによって接する事がない、冥界の深淵へ直に繋がっているのです。生きた身で冥界に入り込むなんて、ザオ系の術者でもそうおりませんわ。
 フルッカさんの破邪舟に乗り込んで到着した場所は、冥界を形にしたかのようでしたわ。
 異形の神殿は大きく損壊し、辛うじて階段や床の石畳が残っているのが奇跡に見えます。大きな魔術の応酬があったのでしょうね。イオグランテレベルの大穴があちこちに空いておりますわ。浮島のような大地が大河のように横たわる上に点々と存在し、それを光の橋が繋いでいます。眼下に広がる水の流れに落ちたらと考えると、背筋が凍りますわ。さらに奥まった所に大きな宮殿のような影が見えますの。
 宮殿から強い視線を感じますわ。冥王のテリトリーと考えれば、こちらの来訪は把握されていると考えるべきでしょうね。
「いやぁ、冥界でもここまで深い所なんて、そう来れないよ」
 イサークさんは場違いなまでの間延びした声が響きました。青く染色した薬師のローブを見上げると、長身なウェディの男性の頭に乗ったソンブレロが見下ろしましたわ。
『冥界ってのにも、階層ってのが在ってね。普通はザオ系の術者が手を伸ばして、相手の魂を掴める浅さで無いと蘇生って難しいだよ。でも、術者として極まったり素質や加護が在ればかなり深くまで入り込める。安心おし。冥王がこの場を支配しているからか、あたし達が冥界に飲み込まれたりはしないよ』
「最も深い昇天の梯への道が閉ざされて、魂達が囚われているみたいだね」
 やや垂れ気味の目を眇めて、イサークさんは呻くように言いました。
 ルアムは悪寒でふかふかに膨れ上がった赤い毛のしたから、くりんとあざとく赤い瞳を瞬きましたの。
「ごめん。イサークの兄ちゃん。言ってる事、オイラわかんねーよ」
 ガノさんがふむと頷いて、ルアムに眼鏡を差し出しましたわ。紺色の縁の有り触れた眼鏡ですけど、レンズの反射が不思議な虹彩を帯びるのです。どうやら霊界に属する魔物が見えるオカルト眼鏡のようですわね。
「これを掛けて目を慣らすと良いじゃろう。これ程の深層なら、一度目が慣れてしまえば眼鏡がなくても見える筈じゃ」
 ルアムが眼鏡を掛けたとたん、うおーー!すげー!と大はしゃぎ。
 その様子にルミラさんも歩み寄って、次は自分に貸してくれと断って眼鏡を掛けますわ。彼女も眼鏡を掛けたとたん周囲を見回して、表情が動かない彼女が驚きからか僅かに口を開けましたの。
「エンジュも掛けるか?」
 念のために。私は魔力を高める赤い縁の眼鏡を外し、ルミラさんの差し出してきた眼鏡を掛けましたの。
 先ず見たのは、ルアムの相棒。赤い毛玉の横に寄り添うように立つ少年は、青紫の毛髪の一本一本までくっきりと見えますわ。日に焼けて健康そうな肌色、しっかり者って感じの目元と口元。皆が見て来るものだから、気恥ずかしそうにそわそわしていますわね。
 そして周囲を見回して驚きましたの。
 凄い密度とは感じていましたけれど、まるで大都市の混雑ですわ。エルフ、プクリポ、オーガ、ウェディ、ドワーフ、そして人間。この世界に存在するありとあらゆる種族が、性別も年代も問わず溢れていますの。いえ、良く見れば彼等の着ている服装に統一性が感じられませんわ。エルフなんて今の時代では見られない、古の装束を着ている方も居りますもの。
 でも、一様に共通しているのは、彼等が恐怖に怯え絶望している表情だという事…。
「な、なんなんですの!?」
『冥王に関わり命を落とした者達だ。500年前の偽りの太陽に焼かれて死んだ者から、最近の冥王の暗躍で死んだ者まで様々だ』
 そう答え進み出たのは、一人のプクリポ。
 つややかな黒髪に、黒いコートとベレー帽を被った全身黒尽くめに、大剣と二本の片手剣、そして短剣を携えている。彼はにやりと不敵な笑みを浮かべ私達を見上げた。
『長生きはしてみるものだな。もう死んでしまってるって、ツッコミはせんでくれよ?』
 ルアムが駆出し飛びついて、盛大に地面に激突しましたわ。おばかさん。魂に触れないって貴方が一番ご存知でしょうに…。呆れる傍から、ルアムは再度起き上がり悲鳴のような歓声のような何がなんだか分からない叫び声を上げましたわ。
「プーポのおっちゃあああぁあああん!」
 ルアムは涙も鼻水も涎も、顔から出るもの全部出して再び地面に激突しましたわ。
 見かねたイサークさんが、『はいはい、落ち着いてー』と抱き上げましたの。
 黒尽くめのプクリポの戦士に、ルミラさんは膝を折りガノさんは歩み寄る。その親し気な表情から知人なのだと分かりましたわ。プクリポの戦士は、プクリポにしては珍しい険しい表情を緩めましたの。
『やぁ、ルミラ。心身共に研鑽を積んでいるな。美しく強い花となった君を、私は誇りに思う』
 ルミラさんは感動に言葉を詰め、『ありがとうございます』と頭を深々と下げましたわ。そんなルミラさんの背を擦ってあげながら、ガノさんが陽気に言いましたの。
「おぉ! どうじゃね、プーポッパン! 一回死んだ気分は!」
『全く毎日毎日煮え湯を飲まされる気分だよ』
 プーポッパン。その名前に私はようやくピンと来ましたわ。プクランドのメギストリス王国の前国王プーポッパン。プクランド史上でも指折りのメギストリス流剣術の使い手で、プクリポならざる気性の激しさから『プクリポの毛皮を被ったオーガ』と評価を得る程だったそうですわ。先日、プクランド大陸が魔瘴に飲み込まれる危機に陥った時、魔物と刺し違え王家の儀式を行いプクランドを救ったと息子のラグアス王子が発表されました。
 プーポッパン様に私達は軽く自己紹介すると、イサークさんにようやく降ろされた赤い毛玉を撫でるような仕草をしましたわ。
『元気そうだな。ルアム』
 えへへー。締まりのない顔でヘラヘラと笑うルアムは、赤い瞳を瞬きました。
「なぁなぁ、おっちゃん。どうしてここに居るんだ?」
 それは、この場の誰もが抱いた問いでしょう。良く響いてしまうルアムの声に、冥界に存在した多くの魂達が沈痛な表情になりましたわ。中には泣き崩れる者も現れましたが、その諦め絶望した面持ちは長く囚われた者である程に精気を欠き人形の様に見えましたわ。
 プーポッパン様は堅い表情で言いましたわ。
『我々は冥王に魂を食われ、冥王の力にされる為に囚われているのだ』
「なんて事…」
 口元を手で覆い言葉を失う私に、ブレラさんが言いましたわ。
『冥王は冥界の主。魂となり冥界の住人になった者が、逆らう事は難しいだろうね。倒すなんて無理な話さ』
『その通り。だが、希望は捨ててはいけない。何故なら、お前達が来てくれたからな』
 プーポッパン様は深々と頷いて、私達を頼もし気に見たのです。そしてぺこりと頭を下げましたの。
『頼む。勇気ある者達よ。冥王を倒し、我々を救って欲しい』
 私達の前で、小さな赤いプクリポはドンと胸を叩きましたわ。
 全く、お調子者の楽天家ですわね。
 魔法だって全然駄目だし、物理攻撃力だってガノさんやルミラさんにはてんで及ばないプクリポ。でも、そんな彼が放っとけなくて付いて来たのは、私ですの。他の方々はどう思っているのかしら? でも、皆、彼の笑顔に、彼の行動に引っ張られているんだと思いますの。
「当たり前だろ、おっちゃん! なにせオイラは、王様直々に魔王退治をお願いされちゃうルアム様だからな!」
 その言葉に、プーポッパン様は声を上げて笑いました。あぁ、本当にそうなったなと、心の底から愉快そうに笑うのでした。その笑顔に釣られて、魂達もそっと笑顔を見せてくれますの。
 あぁ、この絶望しかない冥界に、小さいけれど花の香りがしますわ。
 いいえ、花の香りだけではありません。乾いた砂漠を彷彿とさせる砂の香り、海の煌めきが遠くへ闇を押しやるように瞬き、荒々しい荒野に降り注ぐ太陽の陽炎が、そして深き森が包み込む生命の気配…死すべき生命の辿り着く先である冥界が、まるでアストルティアの一部になったかの様ですわ! その事を本能的に察した魂達が、希望に輝くのが見えました。
 絶望を退ける希望。私は本にも記せない現象に、心から感動しましたわ。
『ルアムちゃん…!』
 突然上がったまるで幽霊でも見たような、悲鳴を飲み込むような上擦った声。
 その声の方向に顔を向けた二人のルアムでしたけど、赤い毛玉は声の主を見てもピンとは来なかった様子ですわ。人間のルアム君が息を詰め、棒を飲み込んだように直立したのです。彼の驚きが私達に疑問を齎し、何事かと探る異様な沈黙が包み込んだのです。
 青紫の瞳から、はらりと涙が一つ落ちましたの。
 次の瞬間、駆出しました。足が追い付かなくて縺れそうになりながら、宙を掻いて空を飛んで一秒でも早く辿り着こうとするかのように。そして彼が辿り着いたのは、似たような茶色い布の民族衣装をまとった人々の中でした。彼等は優しく、飛び込んだルアム君を抱き留めました。
 人々は泣きじゃくるルアム君を暖かく迎えました。
 『無事で良かった』『元気そうで良かった』よかった、よかったと言葉が桜の花弁のようにルアム君に降り注ぐのです。
 それを見て、プクリポのルアムが言いました。
「きっと、相棒の故郷の人達だ。皆、冥王に殺されたって言ってたから…」
「冥王のせいで死んだ者達に、冥王のお陰で再び相見えるなんて皮肉ですわね」
 再会を喜ぶ声が静まってきた頃、ルアム君は青紫の髪を左右に振って人々を見回しましたの。
『テンレス兄さんは…?』
 あのしっかり者とは思えない、まるで迷子になって親を求める幼子のような声。その声に人々は互いの顔を見遣り、労るようにルアム君に話しかけましたわ。
『いや、テンレスはここにはいない。アバ様もシンイもそうだ』
 『きっと、死んでいないのよ』『あのお調子者が死ぬ訳が無い』『あのアバ様が黙って殺される訳が無い』『シンイはしっかり者だから心配ないさ』『どこかでテンレスが失敗した噂を聞かないのか?』口々に発せられた言葉に、ルアム君は目尻を拭って頷きました。出会えなかった残念さと、出会わなかったからこその安堵がその表情を複雑にしました。でも、彼は力強く笑って、故郷の皆に宣言したのです。
『ありがとう、みんな…。僕、冥王に負けないから。皆を助けて、テンレス兄さんとアバ様とシンイさんを探し出してみせるから。皆で僕等の村に帰って来るから…』
 私は微笑みが少し切ない物になるのを、堪えずにはいられませんでした。
 それは私が孤児で故郷がないからか、冥王に負けないでいられるかどうかすら定かでないからか、この広い世界で探し人が見つかるのかどうか、果ては滅んだ村に帰還して感じる感情に明るいものが見出せないからか、はたまた全部か…。私には分かりませんでしたわ。
 でも、思うの。
 その笑みを浮かべる事が出来るのは、私達が、そしてルアムがいるからなのでしょう。
「よかったな。相棒よかったなぁ」
 ルアムの純粋な声が、私の心に希望のように響きましたの。