正義の女神は刃を濡らす - 前編 -

 ものすごい密度だなぁ。僕がまず冥王を見て思ったことだ。
 昇天の梯を遮る形で魂達を捕らえ、それらを食べて強くなってるって聞いたけど確かにそうみたい。それは、まるで鰯の群。小さくて弱い魚だけど、群で海を泳ぐ姿は竜巻や積乱雲のようなんだ。魂達で紡いだ鎧を纏い、魂と肉体を繋ぐ銀の鎖を断ち切る鎌を構えている。格式高い服を纏って玉座に座っている姿は、魔族の王様を自称して当然ってくらい威厳があった。
 勿論、魂の密度が鰯みたいであって、全く弱くないだろうけどね。
「我は冥界の王。冥王ネルゲル…」
 黄金の玉座にゆったりと座り、足を組んだ男は流氷から漂う冷気の声色で名乗った。声を掛けた者を海底に引きずり込むような、酷く冷たい海のような恐ろしさがある。しかもその海は冥王と名乗った男を中心に、この冥界全体に幅を広げている。冥界の深部はそう簡単に入り込む事は出来ないけれど、こうまで好き勝手リフォームしちゃうんだ。ただ者じゃないね。
「我に魂を捧げに、遠路遙々よくぞきた」
 口元が愉悦に歪む。待ち望んだ恋人が現れたかのように、冥王は言う。
 その発言に真っ向から反発したのはルアっちだった。赤い毛並みはデイン系の呪文を浴びたみたいにバチバチと逆立ち、真っ赤でふさふさのちょんまげは怒髪天って勢いで上に引っ張られている。尻尾も柔らかい毛玉ではなく、まるでたわしのようにトゲトゲしていた。
「相棒はお前の為に来たんじゃない! オイラ達が、お前をコテンパンのギッタンギッタンにしちまうんだからな!」
 いやぁ、これだけ圧倒的な相手を前に、威勢の良い啖呵切れるって凄いなー。コテンパンのギッタンギッタンって響きがいいね! 冥王の気配に呑まれつつあった仲間達の呼吸が、穏やかになるのを感じた。流石、プクリポの癒し系オーラは凄いね!
 冥王は愉悦に目を細め、くつくつと喉を鳴らした。
「冥王を前にして、そのような威勢が何時まで続くか…」
 まるで差し招くように腕が持ち上がる。
 何かをしかけて来るのかな? 頭に被ったレディがきゅっと布地を引き締め、ルミ姐さんやガノさんやエンジュちゃんが身構える。
「見せてもらおう」
 冥王はニイっと口元を歪めると、ぱちんと指を弾いた。
 冥界は世界中のありとあらゆる所に繋がっているんだ。生の隣り合わせにある死の世界だからね、生きている存在が一つでもある世界には簡単に手を伸ばす事が出来る。冥王は指を一つ鳴らしただけで、生者の世界から生き物を呼び出した。魔瘴の突風が渦を巻き、巨大な何かの影が目の前に2体現れる。
 吹き荒れる漆黒に抗うかのように、冴え冴えとした青い光の魔法陣が床を走る。暴走魔法陣が展開し、エンジュちゃんが吠えた。
「メラゾーマ!」
 炎の精霊が換気の雄叫びを上げ、魔瘴の竜巻を吹き飛ばし影に迫る。魔瘴の闇の中で爆ぜた炎の中から現れたのは、二体の大柄な魔物。メラゾーマは高等魔術だし、エンジュの攻撃魔力は暴走魔法陣と相まって非常に高められていた。それでも、黄金の皮膚を煤塗れにさせる事も、赤黒い毛皮を縮れさせる事も出来ていない。魔物達はにたりと笑い、レディ・ブレラが僕の上で舌打ちした。
『ベリアルとアークデーモンだよ。これまた厄介な手合いを呼びつけたじゃないか』
 ルミ姐さんとガノさんが、屈強な体格を誇るだろう魔物の前に立ちはだかるように立った。ルミ姐さんは戦士としての高揚感に尻尾の毛先を膨らまし、ガノさんがフワフワな口髭に納めきれない笑みで顔を歪ませる。互いに不敵な笑みを見せて、軽く頷き合う。
「行くかね、お嬢さん」
「貴公の足を引っ張らぬよう、努力させて頂く」
 謙遜は結構。ガノさんはそう笑うとボルカノハンマーを担ぎ、ルミ姐さんもグロズナー陛下から賜ったデーモンバスターを構えた。全く、なんて頼もしいんだろうなぁ。僕が袖を引かれると、エンジュちゃんが眼鏡の奥の瞳を眇めて言う。
「何をしているんですの? ほら、貴方と私は援護ですわ」
 更にローブの裾を引かれると、プクリポが僕を見上げている。
「なあなあ、オイラは何をしたら良いんだ?」
「ルアムは黙って見てらっしゃい。冥王の狙いは貴方の中のルアムなんですからね!」
 赤い瞳が一つ瞬いた瞬間に青くなり、プクリポは不安で仕方がない表情を浮かべた。僕はしゃがんで赤いフワフワした毛並みをそっと撫でた。
「大丈夫だよー。心配しないでー」
 にっこりと笑って言った言葉は嘘じゃない。
 ガノさんもルミ姐さんもとても強いし、エンジュちゃんやレディの力を借りた僕の力も相当なものだ。世界中を旅するアストルティアの旅人達の中じゃあ弱いくらいだろうけど、強い奴等にルアムを守る役を譲るつもりなんてないよ。
 僕の特製ペロリンステッキと取り出して、僕は敵を見て微笑んだ。ゴメンネ。僕は譲らないから、負けてちょーだいね。
 盾代わりに放ったマヒャドの壁が、粉々に砕け散る。
 ルミ姐さんのデーモンバスターとべリアルの槍が、雷光のように鋭く交差し砕けた氷を虹色に色付かせた。ベリアルの鋭い五月雨突きが姐さんの身体に迫る直前、僕のスクルトの光が赤い肌を覆う。女の肌に傷を付けさせたら、ウェディ男子の恥さ!淡い光は穂先を掠め、火花のように輝き微量の血液を振り撒いて逸れる。その傷も予め掛けておいたリホイミの光が綺麗に拭い去って行った。
 姐さんは僕の補助に心を預けているのが分かる。
 僕はそんな姐さんの背を見ながら、ぎゅっとレディのツバを引いた。レディは分かったと言いた気に、その帽子の布の目を詰めて僕の頭を締める。
 視線をすっとガノさんとエンジュちゃんの方へ向ける。僕等は賢者みたいに攻撃も回復も両立しているように見えるけど、レディ・ブレラが氷と闇属性を中心とした魔法使いの役を、僕が回復魔法を得意とする僧侶の役と分担している。これ程の強敵相手では一撃は致命傷の直結する。必要なのは致命傷を瞬時に癒す事の出来る、膨大な魔力の練り上げになるんだ。
 ガノさんがアークデーモンに肉薄し、振り下ろされようとしている拳を避ける事もしない。彼は恐ろしいまでの冷静さで眼前に迫った拳よりも素早く、鞭で敵の頭部から生えた雄々しい角を絡めとった。ガノさんはいつの間にかハンマーに結び付けた鞭ごと、敵のない地面に叩き付ける。びんと音を立てて張ったしなやかな力の線に否応なく引かれ、アークデーモンは姿勢を崩す。ガノさんがさっと避けた瞬間に、エンジュちゃんのメラゾーマがアークデーモンに襲いかかった。
 暴走魔法陣の光を帯び、魔力覚醒で身体から視認出来る程の魔力を溢れさせた彼女が妖艶な笑みを浮かべた。
 でも、その表情が一瞬で凍り付く。
「そんな…だって、私の覚醒暴走メラゾーマで…普通は死んでしまうはず…!」
 ガノさんは落ち着いたまま、再び拳を振り上げたアークデーモンの腕を打ち砕いた。顔はメラゾーマに大きく抉り取られ残った片方の瞳からは命の光が消えているというのに、その口からは苦悶の怒号が響き身体は動き続ける。僕は小さく唇を噛み締めた。昇天の梯がない。それはこの世界に死が存在しない事を意味していた。魂は留まり続ける…!
「身体を破壊するんだ…!敵は冥王だから、身体の生命が維持出来なくても魂を留めさせられるんだ…!」
「い、言われなくても、わ…わかってますわ!」
 エンジュちゃんの身体が震えている。彼女は僧侶の導きをも担うエルドナ神を種族神とするエルフだ。命の本質をねじ曲げる行為に、怒りを抑えられないんだろう。だけど、それは僕だって同じだ。僕は正規の僧侶の修行はした事はないけど、僧侶達が魂を導き命を助ける事を尊敬している。
 氷が舞い炎が踊り暴力が交差するその向こうで、悠然と玉座で寛ぐ男がにやりと笑みを浮かべるのを僕はしっかりと見た。
 なんて奴なんだ。召喚したとはいえ、手下が苦しむ事に笑みすら浮かべているのか…!
「レディ…ちょっと頼むよ」
 僕は目元を眇めた。最早、魔物達の魂は肉体の損傷に引かれ酷く傷ついている。本来なら肉体と魂を結ぶ糸は断ち切られている状態であるのに、冥王は糸を無理矢理繋げ操っている。魔物達から迸る叫び声は魂の苦しみそのものだった。
 手が冥界の深みに触れる。指先が凍り付き、毒蛇の牙に触れてじわじわと侵蝕して来る死に、魂が拒絶し逃げたがるのを感じていた。すっと意識を拡げ目を開けると、冥界と現が溶け合っている僕達が入る次元よりも一つ冥界に近い世界が広がった。黒い水が静かに広がる空間に、うっすらと仲間達の魂が透けて見える。
 目の前に巨大な鎌を肩に掛けた男が、足を組んで浮かんでいる。冷酷な光を帯びた瞳が、まるで鋭い刃のような視線で僕を見つめた。彼はワイングラスを弄ぶような優雅な指先に、魔力の糸を絡ませていた。糸は魔物達の魂に伸び、絡めとり、肉体と無理矢理縫い付けていた。
『魂の糸を切りに来たか…』
 冥王が微笑んだ。
『冥界は誰のものでもない。ただ、アンタが都合よく歪めて、この場の主になっているだけなんでしょ?』
 僕の両手に纏わり付いた闇が、尚暗く沈む。
 命を導くエルドナ神、ウェディの種族神たるマリーヌ様…どうか魂を救済する為に命を奪う事をお許し下さい。僕は祈り、そして手を水面に押し付けた。
『ザラキ…!』
 二匹の巨大な漆黒の鮫が、水面を背びれ切り裂き冥王から伸びた糸に迫った。この冥界の層は浅いように見えて非常に深い。浅い場所を知らねば、生命と繋がった魂は底なしの水面に沈み魂の糸が断ち切られてしまうのだ。鮫が大きな口を開け、糸に食いつこうとした瞬間黒い風が鮫をバラバラに引き裂いた。
 流石、冥王と名乗るだけあって、死の呪文を妨害出来るなんてね。普通は当たるか、制御が難しいから当たらなかったかだけ。妨害や死の呪文を返す事は、相当難しい。かつては神の両手を握る者として、生と死を司る修行があったらしいけど今は聞いた事もないからね。
 まるで海の中から上がったばかりのように、身体が汗でびっしょりだ。
 だが、僕はにやりと笑みを浮かべた。こんな事は予測済み。オーブンの温度が高過ぎてオードブルが焦げ付くのが分かる位、分かり切った事だった。
 バラバラになった鮫の身体を擦り抜けて、二匹の飛び魚が糸を切った…!
『ほぉ…』
 冥王の感嘆の声と共に、魔物達の魂が水面に沈んで行くのが見えた。半眼になって現を覗けば、ルミ姐さんとガノさんの前で倒れた魔物達の姿がある。
 ぱちぱちと軽い拍手が響いた。現で冥王がその整った手の平を打ち合わせ、軽快な音を響かせていたのだった。
「なかなかやる…では…これはどうかな?」
 ぱちんと指が鳴らされる。
 周囲に夥しい気配が沸き上がるのを感じた。僕が冥界の方に視線を向ければ、そこは蜘蛛の巣のようだった。糸に繰られ夥しい魂達がルアム君の魂を目掛けて押し寄せていた。
 現のルアっちの深紅の毛皮が、ぼわっと膨らんだ。警戒に目は尖り、急いで人間のルアム君の魂を自分の中に引き入れた。
 一つの器に二つの魂が共存出来るってことは、なかなか出来る事じゃない。元々一つの魂が分かれた双子であったり、魔術でも使わない限り難しい。恐らく、彼等が同じ名前である為に器と魂が同居しやすい環境なんだろう。だけど、それだけじゃない。
 プクリポが元々、魔力に秀でている種族だからかルアっちの魂は大きかった。恐怖に震える人間のルアム君の魂を、すっぽり覆ってしまう程だ。
「みんな! やめろよ! めーおーなんかに、負けるなよー!」
 ルアっちが叫んだ。魂を輝かせ、迫り来る魂達の攻撃を耐え忍んでいる。
 冥王に操られた魂達は、一種のパニックに陥っていた。冥王に捕まり喰われる恐怖に泣き叫ぶ者、冥王の魔力に激しく魂が傷つき消滅しかけている者、ルアム君の故郷の者達は逃げなさいと叫び、意識を保てた猛者達はどうにか自分の魂を保とうと無駄な抵抗と足掻いている。
 そんな魂達が一気に押し寄せたルアっちの周囲に、ガノさんがハンマーを振り抜いた。現に属するハンマーは、魂達を擦り抜けただけだった。
「どうするかね!? このままでは、ルアムが引きずりだされてしまうぞい!」
 ガノさんが鎚を握りしめて叫んだ。ルミ姐さんも大剣を冥王に向けながらも、背後のルアっちの様子を見守る事しか出来ない歯痒さに唇を噛む。エンジュちゃんが炎の呪文を繰ろうとしたのを、レディが諌めた。
『お止めよ、お嬢ちゃん。確かに精霊に通じたあんたの火炎なら魂達を追い払う事が出来るだろうけど、その火は魂達を傷つける。傷ついた魂を癒すのは、ホイミみたいに簡単じゃないんだよ?』
 エンジュちゃんが燃える瞳でレディを見上げた。彼女の怒りと闘志に、炎の精霊達が荒ぶっているんだろう。高い温度に嬲られて、僕は思わず半歩引いた。
「では、どうすれば良いんですの! このまま黙って見守ってろとでも言いますの!?」
「ザラキを使うしかないのかな?」
 僕は独り言のようにレディに囁いた。レディはこれでもかという程に生地の目を詰めた。
『昇天の梯がない。彼等の魂を冥界の水面に沈める事になる…』
 僕はぎりりと頭の奥で響いた音を聞いた。
 それは魂として最悪の結末。古の言葉を借りるなら『冒険の書が消える』という事だった。魂がこの世に生を受けると、一人に対して『冒険の書』と呼ばれる一つの本が与えられると言われていた。日々の人生を書き込み、時にその時代を振り返る事の出来る、もっとも大事なもの。それが消失する事は何よりも恐ろしいと、昔から語り継がれていた。実際、そんな本が存在するのか不明だったが、古くから信じられた事だった。
 今なら分かる。冒険の書と呼ばれたそれは、魂なんじゃないだろうか。
 昇天した先の事は誰も知らない。転生を信じる者、神に抱かれ眠ると信じる者、消滅すると言う者、様々だ。だけど、それはどうでも良い。昇天の梯を登る事が出来ず、この冥界の水面に沈む事がどれだけ恐ろしいのか、それは蘇生を試みた術者なら誰もが分かっていた。
 誰もが冥界で魂を屠る事を忌諱するだろう。底なしの漆黒の海底を彷彿とさせる、墓所にもなり得ない圧殺された魂達の残骸がある場所。昇天も叶わず、ただ停滞し続ける恐怖。刻まれた本当の死を魂は怖れているのだ。
『イサーク、あんたにその覚悟、あるのかい? ここにいる何千何万の魂を、この冥界の水底に沈める覚悟があるのかい?』
 僕は自分の手を見下ろした。
 たった一人の為に、今、この冥王に囚われた夥しい数の魂を殺めるのか。
 それとも魂達を殺さない為に、一人の友人を見殺しにするか。
 僕は答えを紡ごうと口を開いた。
『我等を殺すんだ! 神の両手を握りしウェディの若者よ!』
 はっと顔を上げた。プクリポの王の鋭い視線が僕を射抜いていた。彼は必死に冥王の魔力に抗い、プクリポの種族神ピナヘト様の力を膨らませて僕に訴えていた。元々、激情家として知られていたプーポッパン王の激しい口調は、現の空気をも揺さぶって響いた。
『ルアムを殺したら、冥王を我々を解放すると思っているのか!? そんな事は有り得ない! 我々は冥王に囚われた時点で、もう、こうなる運命だったのだ!』
「いやだ! そんなの嫌だよ!!」
 ルアっちが叫んだ。彼も大きく通る声が衝撃波のように冥界を駆け抜けた。
「皆が死んじまったら、誰も笑えねーよ! おっちゃんが天国でかーちゃんと幸せにしてるって思ってる、ラグアスと団長が泣いちまうよ! 他の奴等だってそーだろ! 皆、それぞれに大事な人がいるのに、泣かしたら駄目だ!」
 ルアっちの声に魂達の悲しみの声が細波のように広がって行く。冥王に操られ彼等の本意でなく他者を苦しめているのが、魂の彼等を酷く傷つけているのが分かった。この状況から解放されたい切なる願いが、冥王から逃れる事の出来ない恐怖と、本当の死の恐怖との間で揺れている。
 僕は拳を握り、決断した。
 背後で剣撃の音が響いた。振り返ると冥王とルミ姐さんとガノさんが切り結んでいる。ルアっちがルアム君の魂をがっちり掴んでいて、操った魂達が引きずりだせないのに業を煮やしたんだろう。現のルアっちの肉体を殺して、ルアっちの魂を鎌で切り裂こうとしているんだ。
 冥王の鎌は特別だ。あの鎌は現と冥界に重なって存在している。あんなものに切り裂かれたら、肉体も魂もひとたまりもないだろう。ルアっちに切り掛かろうとして、操られて群がっている魂達も巻き添えになってしまう!
 僕はエンジュちゃんの頭にレディ・ブレラを乗せた。彼女達にまるで子守唄を聴かせるように、穏やかに安堵させるように声を掛ける。
「僕に考えがある。時間を稼いで」
 エンジュちゃんは赤いフレーム越しに鋭い視線を向けて、小さく頷いた。
「生と死の呪文の領域は私にはわかりません。貴方を信じますわ」
 だから。エンジュちゃんは懇願するように、掠れた声で言った。
「ルアム達を、皆を、救ってあげてくださいまし」
『無茶はおよしよ、イサーク』
 小さく頷いて、僕は振り返り海に飛び込むようにさっと足を踏み切った。長い手足を全て使って、あっという間にルアっちの目の前に踏み込んだ。驚くルアっちを抱き上げると、ばたばたともがくプクリポをぎゅっと抱きしめる。柔らかいパンケーキと蜂蜜の匂いがする。
「ルアっち、祈ってて。心を込めて、歌うから」
 大きく息を吸う。時計回りの大地の箱船が到着すると、沢山やって来るプクリポ達。彼等は海風が吹き渡るウェナ諸島にはあまりない、草原と花の匂いを漂わせていた。甘いお菓子の礎になる様々な花の香り、プクリポ達の大地の恵みが彼等から溢れて酒場に満ちていた。ルアっちのふさふさな髪から吸い込んだ息は、胸いっぱいに花と草原を乾いた風に乗せて満たした。
 なんて優しい気配。僕は波紋一つなく広がる湖面のように心が鎮まるのを感じた。
 そっと喉を震わす。
 澄んだ透明な声色が、まるで揺りかごの歌のように広がって行く。母の胎内に抱かれるような、暖かく柔らかい水、心臓の鼓動に寄り添うように寄せては返す波。紡ぐ言葉は古の言葉で構成された精霊の歌。言葉として切り取られ意味に縛られた詩とは違い、意味のない音は時代や言葉の垣根を越えてあらゆる魂達の中に響き入って行く。
 歌は徐々に言葉が混ざって行く。聖なる言葉のアナグラム。賛美歌の高らかな響き。
 ただ、只管に全ての幸福を願い歌い上げよと、孤児院に訪れた旅の僧侶の言葉と合唱が響く。僧侶の巡礼地として名高いシエラの近くの宿は、孤児院の子供達の肝試しの場所だけではなく、ウェナで屈指の美しい歌声を聴く場所だった。病気の者は治り、傷は速く癒える。
 聖者の詩がルアっちに集まった魂達を包んで行く。
 ふと、僕じゃない声が混じり出した。
 顔を上げると、古の尼僧の衣を纏った人間が美しい声で歌い出した。レンダーシアの変わった抑揚だったが、彼女の救済を求める声は水面に向けて駆け上がる泡のように美しく登る。振り返ればエルフの僧侶達も声を合わせていた。偉大なる僧侶を多く輩出した一族の彼等は洗練された歌を浪々と歌い上げエルトナ神の加護を秘めた風をそっと押し出した。雄々しい声に驚けば、オーガとドワーフの武僧の歌が守るべき者を守りたい決意をもって風を強めさらに拡げる。プクリポの僧侶達は厳かな歌には不釣り合いなあどけない響きだったが、希望の光を更に輝かせた。
 聖者の大合唱が広がる。
 聖者の詩を知らない者も、声を上げて加わった。歌詞なんて知らなくていい。意味も分からなくていい。ただ、生きたいと願う声を導く為に、僕は歌い続けた。
 歌はこの場を冥界でなくした。プクリポの声が輝く花となって一面を花畑に変え、エルフの歌声が風となって蕾を撫でると花が開いて美しい光を舞い上げた。ドワーフの歌声が砂塵のように光をまとい、オーガの声がオーグリードの空っ風のように上へ上へと舞い上げた。ウェディの歌声が海のように穏やかに満ちるなか、人々の声が森のように育ち光を育てた。まるで種族神様がいらっしゃる聖域にやってきたかのような、美しい世界だった。珊瑚礁の美しいウェナのダイビングスポットだって、これほど美しいとは思えない。
 光が渦を巻き、魂達に満ちる。希望の光を取り戻し、力を取り戻した魂達が自分達の力で冥王の魔力の糸を断ち切るのが見えた。
「やった…!」
 ルアっちが僕にぎゅっと抱きつくのを感じた。皆の喜びを代表したように、その感触は誇らしく僕の心を掴んだ。