天気晴朗なれども波高し

 グランドタイタス号といえば世界宿屋協会が保有するクイーンセレシア号と並ぶ、世界最大級の豪華客船だ。レンダーシア大陸のグランゼドーラ王国と港町レンドアを、定期で往復しているレンダーシアへの唯一の交通手段だ。レンダーシアが『迷いの霧』と呼ばれる紫色の雲に覆い尽くされちゃうまではな。
 迷いの霧はレンダーシア大陸をすっぽりと覆っていて、霧の内側は酷い嵐が吹き荒れている。小舟なんか木の葉のようにもみくちゃにされて沈められ、鯨みたいなグランドタイタスでさえ引き返さなきゃいけない。ルーラの力も届かず、陸路はなく、海路は使えず、レンダーシアの道は閉ざされてたんだ。
 今も迷いの霧はあるんだけど、グランドタイタスは再びレンダーシアへ出航する。
 ついに、迷いの霧を突破できるようになったんだって!
 グランドタイタスは島のように大きくて絢爛豪華な船体はまるでお城のようだ。磨かれた木材は飴色に輝き、窓は金の装飾で縁取られ、尖塔のような煙突には色とりどりの旗が翻っている。今回は一年ぶりにグランゼドーラ王国を目指すために、5大陸の王国の旗と、5種族の守護神の加護を願う刺繍が施された旗が棚引いて祭みたいだぜ。
 しかも、地上はお祭り騒ぎなんだ。
 イサーク兄ちゃんが言うには『船ってのは丘に繋ぎ留められて飾られるものではなく、海の上を泳ぎ渡って太陽と波と共に輝くもの』なんだって。なんだかよくわかんねーけど、皆がグランドタイタスが出航するのが楽しみでならねーみたいなんだ。
 吟遊詩人がリュートを掻き鳴らし、踊り子のステップに誘われて旅芸人達が自慢の芸を披露する。火吹き芸で飛び出した熱を料理人がすかさず拾い鉄のフライパンで目玉焼きを作っちゃえば、ジャグリングのボールで太鼓を叩いてリズムを刻んじゃう。道具職人達が花火を持ち寄って打ち上げれば、魔法使い達も負けじとイオ花火を打ち上げる。戦士とバトルマスターが誇りを賭けて飲み比べをする横で、僧侶と魔法使いと賢者がお茶とお菓子に舌鼓。とにかくお祭り騒ぎでドンちゃん騒ぎ、オイラだって混ざりたい!
 でもでも、残念。
 オイラ達はお祭りの主役なんだ。
 グランドタイタスが巨大な煙突から鯨の潮噴きみたいに煙を吹き出しながら、大きな大きな汽笛を鳴らした。大地の箱船も応じるように汽笛を響かせる。レンドアだけじゃない、隣のオーグリードやエルトナにまで届いてしまうような力強い音色だ。
 汽笛に引き寄せられるように人々が動き出す。力強いオーガの雄叫びの横で、ドワーフ達は穏やかに話しながら好奇心に瞳を輝かせている。ウェディ達は船じゃなくて海に飛び込んじゃいそうで、とにかく血が騒いで仕様が無いみたいだ。エルフは高揚した気持ちを抱きながらゆったりと歩き始め、足下をプクリポ達が駆け回る。人間達も故郷へ向かう旅に、感慨深い様子で荷物を持った。
『兄さん』
 相棒がオイラを見下ろして来る。幼さから抜け出したばかりの柔らかい輪郭の人間の男の子。青紫の髪と瞳が期待と不安に揺れている。でも、オイラは知ってる。相棒を殺そうとしていた冥王が倒されてから、相棒が張りつめた気持ちを緩めて穏やかになったって事。オイラは相棒ににっこり笑って見せて、荷物を担いで船を目指し始めた。
 ついにこの時が来たんだ。
 レンダーシアに旅立つ日が。
 船に乗る旅人達は、皆胸を張って、見送る人達と抱き合ったり背中を叩いたりして再会を約束して前に進んでいく。船に乗り、急ぎ足で甲板へ向かうんだ。
「すげー 眺め!」
 眼下のグランドタイタス専用の桟橋には、世界中からこの瞬間を一目見ようと人が押し寄せていた。誰もが、船を、旅立つ旅人達を見上げている。その顔が希望に溢れて笑顔で、なんていい眺めなんだろう!
 今はグランドタイタスに良いとこ譲ってやってるけど、いずれオイラの芸でこんな光景を生み出してやるんだからなー!うう!オイラ、燃えてきたぞ! オイラは甲板から身を乗り出して、大声を張り上げた!
「いってくるぞー!」
 皆が「行ってらっしゃい!」って返してくる。盛大な汽笛の音が再び鳴り響き、花火の音が空を覆い、船がゆっくりと滑り出した。子供達が桟橋の端まで走って追いかけ、ウェディは勢い余って海にまで飛び込んだ!もう、追いかけて来れるのはカモメ達だけだ。
 離れていくレンドアから、旅人達は一人一人と船首の方へ視線を向ける。行く先を紫の霧が覆っているけれど、誰一人怖じ気付く者はなく挑むような眼差しでみていた。
 ふと、背後から視線を感じて振り返る。
『兄さん?』
 後ろには船員さんや他の旅人でごった返していた。別にオイラに用がありそうって奴は、いないみたい。
 オイラはなんでもないって、視線を戻した。
「ルアム!」
 横からだった!
 オイラが声に横を見上げると、黒鉄の鎧のオーガのねーちゃんがいる。真っ白いお砂糖みたいなさらさらな髪が腰まであって、赤い瞳の片方がゴツいカメラで遮られてる。パシャリと一枚。勿論、瞬時にポーズを取るのは忘れねーぜ!
「ルミラ姐さん、この前は絵手紙ありがとうな!」
 ルミラ姐さんはにっこりと微笑んで、背負ったデーモンバスターが邪魔にならない鞄にカメラを仕舞った。冥王との戦いの後も、姐さんは世界中を旅して武者修行の傍ら写真を撮っているらしい。ゼラリム姫って病気のお姫様に写真を送るついでに、オイラ達にもお裾分けしてくれるんだ。この前、メギストリス城が映った写真送ってくれたぞ!知ってる場所が映ると嬉しいな!
「おやおや、ルアム、ルミラ、久しいのぉ」
 じゃりじゃりと砂混じりの足音を響かせて近付いて来たのは、ガノのじっちゃんだ。トレジャーコートセットは年季が入っていて、新調したボルカノハンマーとサイドワンダー、身体と同じくらいの大荷物で見た目も雰囲気もベテラン冒険者だ。じっちゃんは賢者ホーローのお手伝いをしていたみたい。今回のグランドタイタス号のレンダーシアへの出向の、影の立役者だ。迷いの霧を抜ける為の魔法の羅針盤の開発に関わってるらしい。
「相変わらずルアムの声は響きます事ね」
「いーことじゃーん。エンジュちゃんは素直じゃないなー」
 エンジュの姉ちゃんが見慣れたマスカットリップとピュアスノーリリィで染めた呪い師のローブセットを翻し、魔導師の杖でイサークの兄ちゃんの鳩尾を突いた。トンブレロソンブレロのブレラのおばちゃんがやれやれと顔をしかめる下で、語り部の服セットを着込んだイサーク兄ちゃんが悶絶している。
 イサークの兄ちゃんはバイトでグランドタイタスの厨房に居たって聞いてるけど、エルトナに帰ったエンジュの姉ちゃんが居るって吃驚だぜ!オイラは嬉しくなってぴょんぴょん跳ねる!
「皆と再会出来てうれしーぜ!」
 グレンの駅で別れてから手紙やばったり再会はあったけど、全員集合は冥王討伐以来だ。皆元気そうで、オイラはそれだけで嬉しいぞ!
「よくよく考えてみれば、我輩達は全員王国の恩人じゃったな。冥王討伐の功労者以前に、キーエンブレムを授与されても可笑しくはない連中ばかりだからの。ここに集うのも当然じゃろう」
 そうヒゲをもじゃもじゃしながら言ったガノのじっちゃんの横で、ルミラの姐さんが頷いた。
「やはり、皆も招集されたのだな」
 そう皆が懐から出したのは、金の封蝋が捺された白い便箋。
 実はオイラはラグアスから頼まれてここにいた。世界中から優秀な冒険者や学者を募って、迷いの霧の中のレンダーシアの状況を調査しようという話が上がっていたんだ。確かに、迷いの霧の近くでさえ、海と空が泡立て器で掻き混ぜられるような大嵐なんだもん。中がどうなってるかなんて、考えるだけでも怖いよな。色々理由はあるんだろうけど、グランドタイタスが最初に運ぶお客さんは調査の為に集まった30人の冒険者なんだ。
「それはそうと調査隊の説明まで時間がある。ホーロー様の作った魔法の羅針盤、興味ないかね?」
 あるに決まってますわ! 写真は撮っても良いんですか? 操舵室凄く見たいな! 皆でいこーぜ! 返事をしてる最中だってのに、オイラ達は足早に操舵室に向かって歩き出した。

 操舵室へ向かう階段を登っていると、イサーク兄ちゃんが怪訝な顔をした。原因はオイラ達も直ぐ分かった。操舵室ががやがや騒がしいんだ。
 ちょろっと覗き込んだら、操舵室はキラービーの巣を突いたような大騒ぎだった。殴り合いの最中みたいな怒鳴り声が響く中、船員達は操舵室をひっくり返していた。あったか? ありません!そんな応酬を繰り返している間に床に落ちた海図で誰かがすっ転び、工具の箱を打ちまけた轟音が響き渡る。こりゃあ、中に入らねぇ方が良さそうだ。
 扉から身を離したガノのじっちゃんが、むぅと唸った。
「魔法の羅針盤が無くなっておる」
 オイラ達が驚く前でじっちゃんは続けた。
「ちょっとした丸盾程の大きさじゃし、羅針盤は操舵室の前方中央の台座に納められておった。台座が空になっておって、船員達が大騒ぎ。魔法の羅針盤が船員達の与り知らぬ所へ、持ち去られたと考えるべきじゃろう」
「しかし、調整の為に持ち出したという可能性がありますでしょう?」
 エンジュの姉ちゃんの震える声に、イサークの兄ちゃんが神妙な表情で首を振った。
「もう迷いの霧は目の前だからねー。こんな土壇場で羅針盤を調整するなんて有り得ないよー。レンドアに戻る事になっても、こんな大きな船で迷いの霧を避ける為に大舵をきったら船が横転しちゃうよー」
『魔法の羅針盤が無ければ、迷いの霧は突破できないんだろう? 引き返すなら大嵐の中で、舵をきらなきゃ駄目なんだろうねぇ』
 船員達に話を聞いて捜索に加わるべきかのぉ。引き返すなら一秒でも早い方が良いから、船長に直訴しようよー。レンダーシア逃げないからさー。ここまで来て、引き返せるものか。魔法の羅針盤が無ければ、突破は無理ですわ。この船には私達だけが乗っている訳ではありませんのよ。あーだ。こーだ。
 オイラ馬鹿だからあんまりわかんねーけど、船が沈んじゃったら死んじまうなー。プクリポ、泳ぎ上手じゃねーんだよな。
「おやおや、どうされたんですか?」
 酷く落ち着いた声が、階段の下から掛かった。皆が一斉に見下ろせば、茶色いツバの広い帽子を軽く持ち上げ、長身の人間の男が緑の瞳でオイラ達を不思議そうに見上げていた。紫の外套と茶色の旅装束、ベストは竜の鱗が編み込まれて頑丈そうだ。金色のサラサラとした髪を潮風に遊ばせ、胸元の巨大な牙のアクセサリを無骨に揺らしながら彼はゆっくりとした歩調で階段を上がって来た。
「冥王を討伐した冒険者が、何をそんなに揉めているんですか?」
 ルミラ姐さんが大剣に手を掛けた。
 実はオイラ達が冥王を討伐したって事は、ごくごく一部の人しか知らない。オイラ達は当然として、討伐に協力してくれたホーローのじっちゃんやフルッカのおばちゃん、各大陸の王様や、オイラ達の親しい知人くらいだ。世界中の人々は冥王が世界を滅ぼそうとしていた事も、冥王が倒された事すら知らない。だけど冥王に加担している魔物達には、オイラ達ちょー有名だろうな。
 油断なく身構えたオイラ達に、緑の目の男は飄々と唇の端を持ち上げてみせた。
「そんなに警戒しないで下さい。私の名はクロウズ。貴方達の敵ではありませんよ」
 そう慇懃に畏まってみせると、クロウズはオイラ達の間をするりと抜けて操舵室の扉を開け放った。操舵室の騒ぎはクロウズが立ち入った程度では揺るぎもしなかった。オイラが舞台に立ってこれだったら、もう立ち直れねーな。
『クロウズさん…何者なんだろう?』
 青紫の髪と瞳の少年を見上げて、オイラはさぁ?と首を傾げた。
 オイラ達は自信満々で堂々としたクロウズの後ろ姿を食い入るように見ていた。クロウズは操舵室に入って、先ず体格の良い制服姿の男性に声を掛けた。白い制服は船員達よりも豪華だし、目深に被った帽子の影から輝く瞳は戦士のように鋭い。杖をコツコツと板床に打ちながら、足を重たそうに引いて向き直る。イサーク兄ちゃんが、あの人がエイブラム船長だよと皆に説明してくれた。
 エイブラム船長はその巨体に見合った、響き渡る声で言い放った。
「誰だね君は!今は操舵室の見学は遠慮してもらおう!なにせ、魔法の羅針盤が無くなってしまったんだからな!」
 船長の声で船員達がぴたりと動きを止めた。勿論口も動かない。耳を塞ぐような大騒ぎから一転、耳が痛くなるような沈黙が満ちる。
 ふわりと、鼻先を風が掠めた。
 変だ。こんな海の上なら扉から吹き込んだ風なら磯の香りでいっぱいの筈なのに、その風は匂いなんかなくて身体がざわざわするような変な気持ちにさせられる。目の前のクロウズのマントが翻り、長い髪が舞い上がる。
 奇妙な程にゆっくりと、それが凄く大事な儀式の一部のような厳かさで、クロウズがエイブラム船長の肩に手を置いた。
「盗まれたのは偽物で、本物の魔法の羅針盤は無くなってなどいません。隠してあるのです」
「な…?」
 クロウズがひたと船長を見た。その瞳の色が、金色になっている。
「本物の魔法の羅針盤は隠してあるのです」
 大事な事のように、クロウズはもう一度言った。船長の目の光が鈍る。オイラもなんだか頭がぼんやりして来る。だって、だって、船長がなんかされてるのに、なんでオイラはボーっと突っ立ってんの? 今のオイラなら一瞬でクロウズの顔に殴り掛かれる筈だ。どうして、誰も動かない。オイラの手も足も、どうして力が入らない?
「かくし…て…ある」
 その一瞬は凄く長かったようで、一瞬だった。呻くように呟いた船長の瞳に、急に光が灯った。
「そうだ! こんな事もあろうかと、本物の魔法の羅針盤は隠してあったのだよ! 盗まれたのは偽物なのだ!」
 まるで忘れていた事を思い出した時に出る大声そのままに、船長は操舵室を揺るがす程の大声で言い放った。船員達はそりゃもう吃驚。オイラ達も雄叫びに腰抜かしちゃったみたいに吃驚。でも次の瞬間、一生懸命探しまわってた船員達はホッとした様子で笑いあった。
「さぁ、諸君! 元の業務に戻るんだ!」
『了解!』
 なーんだ。無くなったのは偽物だったのか。ホッとしたよ。さっさと本物の羅針盤を設置して、迷いの霧に突入する準備をしなくちゃな! そんな言葉がやり取りされる中、操舵室から一人の船員が飛び出した。
「ぶふぁっ!」
 操舵室の扉の真ん前に陣取っていたオイラを、蹴っ飛ばしていきやがったぞー! せっかく顔のド真中にヒットさせて、ギャグ的にちょーオイシイ状況だってのにツッコミ1つなしかよー! ちょーノリ悪い! 階段を駆け下りたモヒカン頭の船員を、オイラは不満げに見送った。
「で、船長! 本物の魔法の羅針盤はどこにあるんですか!?」
 船員の声にオイラ達も扉の外から耳を峙て中を覗き込む。船長は皆に見つめられて、吃驚したように身体を強張らせたのが見えた。そしてたじろぐような逡巡の果てに、一言ぽつりと言った。
「何の話だね?」
 えぇ!!オイラ達も船員達も皆吃驚!ひっくり返りそうなオイラの顔に、再び食い込む長い足!
「ふぎゅあ!」
「あぁ、ごめんなさい」
 こんのー! また顔のド真ん中っつーギャグ的にオイシイ場所にヒットしたってのに、平謝りとか冷水頭から掛けさせられる罰ゲームかよ!って勢いだぞ! せっかく決めたオイラの方が恥ずかしいってーの! 顔を擦ってヒーヒー言ってるオイラの頭上を、ルミラ姐さんの闘気を滲ませた視線が射抜くように通過する。
「いったい、船長に何をした? 本物の魔法の羅針盤を隠してあるなどとほざくなら、何故、貴様が持って来ない」
「船長さんの状態を鑑みるに、呪文の影響を受けたとしか言い様がありませんわ。とても正常な状態とは言えませんわよ」
 エンジュの姉ちゃんも加勢して問いつめたけど、クロウズは右から左へ流して悠然とオイラ達の間を擦り抜けた。振り返ると緑の瞳が穏やかにオイラ達を見回している。妙に得意げで、もう答えを知っているみたいな感じで気味が悪い。
「百聞は一見にしかず。気になるなら、一緒に参りましょう」
 クロウズは紫の外套を翻し、足早に歩き出した。オイラ達はそれぞれ顔を見合わせたけど、結局一人一人とクロウズの後を追って歩き出した。甲板でマグロを釣り上げた冒険者を横目に中に入り、船の揺れでただのしかばねになっている冒険者と介護するコンシェルジュをの横を通り過ぎ、オイラ達は船の船尾に向かって進んで行く。そして船の航跡が遠くまで見通せる船尾のテラスに出た。
 そこには、さっきオイラを足蹴にして飛び出したモヒカン頭の船員が立っていた。オイラ達に背を向けているが、何かを手に持って矯めつ眇めつ覗き込んでいるみたいだ。オイラ達には気が付かず何かをぶつぶつ呟く男に、クロウズは声を掛けた。
「やぁ、こんにちわ」
 船員は驚いた様子で振り返って、オイラ達も驚いた。だって、船員の手にはキラキラに輝く円盤があるんだからな! 出航前にホーローの爺ちゃんから見せてもらった、金色に緑の大きい宝玉が嵌った美しい羅針盤だ! 見つかって良かった! オイラは嬉しくなって飛び跳ねた!
「魔法の羅針盤じゃないか! そうか、隠していたというのは、信頼出来る船員に預けていたという訳なのじゃな!」
「マボックさんは真面目に働いてる船員さんだからねー。なるほどー」
 ガノのじっちゃんが納得したように叫び、船で働いてモヒカン頭の船員を知っていたイサーク兄ちゃんが心得顔で頷いた。そんな彼等にモヒカン頭は『うるせぇ!』と怒鳴った! ホッとした空気がピシリと凍り付く。
「おい! 長髪野郎! これは本当に偽物なのか? 本物の魔法の羅針盤は何処に隠していやがるんだ!」
 モヒカン頭は金色の円盤に折れそうな程に強く指を押し付ける。血走った目で殺気立つモヒカン頭に、クロウズは涼し気に言い放った。
「いいえ、貴方の持っているのが本物の魔法の羅針盤です」
 モヒカン頭は真ん丸く目を見開き、キッとオイラ達を睨みつけた。
「なんだって! そうか! 俺はお前の策にまんまと乗っちまったって訳か!」
 魔瘴の霧がモヒカン頭を中心に沸き上がる。濃密な霧にモヒカン頭の姿が呑まれ、潮風が吹き払った時には巨大な体躯を誇る魔獣が立っていた。手に摘んだ魔法の羅針盤がきらりと光る。 汽笛を打ち消す程の雄叫びが、グランドタイタスを震わせた。
「俺様は冥王ネルゲル様に、レンダーシアには何人たりとも入れるべからずと命じられた! 魔法の羅針盤さえ葬れば良いと思ったが、気が変わった! この船を破壊し、有能な冒険者諸共滅ぼしてくれる!」
「ここで暴れるというんかい! ルミラ嬢!」
 ガノのじっちゃんの言葉に、ルミラの姐さんが駆出した。
 魔獣はガノのじっちゃんの鞭を素早く身をかわし、大剣と魔獣の太い腕が交錯する。ここは船の上。ガノのじっちゃんがハンマーで殴らないのは、エンジュの姉ちゃんが得意な炎と爆発の呪文を使わないのは、イサークの兄ちゃんやブレラのおばちゃんが黙って見守ってるのも、全ては船を壊して皆死んじまわないようにする為だ。
 それはオイラ達には不利な方向に傾いた。
 魔獣に殴られルミラ姐さんが後退し、ガノのじっちゃんも鞭では決定打になり得ず機を窺う。魔獣のペースの戦いにブレラのおばちゃんが呻いた。
『あんまり戦いが長引くのは得策じゃないね。一撃必殺の決め手があると良いんだけど…』
「では、私の魔力覚醒メラゾーマで…」
「船で炎の呪文なんか使っちゃ駄目だよー。この大海の上に逃げ場があると思うのかい?」
「でも!」
 エンジュの姉ちゃんが杖を構えようとした時、ふわりと翳された手があった。
「メラゾーマ」
 高らかに宣誓された呪文、放たれた魔力が暴走する! 炎は駆け出し、勢い良く魔獣に襲いかかった! 魔獣は雄叫びを上げて火だるまになって、魔獣から燃え上がる炎が甲板や天井を舐めようと伸び上がる。ブレラのおばちゃんが大きく口を開けて、ヒステリックに叫んだ。
『阿呆かね! エンジュ、手分けしてマホカンタを船に掛けるよ! イサークはマヒャドで船を守るんだよ!』
 マホカンタは呪文によって生じた熱は防いでくれるけど、魔獣を焼く為に魔法から自然の炎に移り変わったものは防ぐ事は出来ない。不思議な光沢に包まれた船の上を、沢山の亀が連なって鱗のように覆い出した。そんな見事な連携に拍手したのは、メラゾーマを放った張本人クロウズだ。
「流石、冥王ネルゲルを滅ぼした一流の冒険者達! 頼りになりますねぇ!」
『誰かに頼らなきゃ出来ない事は、勝手にするんじゃないよ小僧!』
「それは申し訳ない。でも、ほら、魔物はそろそろ死にそうですよ」
 ブレラのおばちゃんの焦げ付かせるような説教もどこ吹く風、クロウズは涼しい表情で目の前の魔物を指差した。それはエンジュの姉ちゃんの魔力覚醒メラゾーマ並の威力がある火炎球で、魔獣は炎に炙られ瀕死に追い込まれていた。口がぽかりと恐ろしい洞窟のように黒々と開いた。
「おのれ…せめて、らしんばん…」
 魔獣が身も凍る断末魔を迸らせ、大きく腕を振った。炎の中からきらりと光った金色を見て、オイラは考えも無しに飛び出した!
 バギの力を利用した身軽のプクリポだからできる俊速の動き。オイラは海の上に放り投げられた円盤に直ぐさま追い付く事が出来た! プクリポだと一抱えはある魔法の羅針盤に抱きつくと、一緒にくっ付いて来てくれた相棒が叫んだ。
『兄さん! イサークさんが釣り竿で拾ってくれるみたい!』
 あーでも、オイラ後ろ見えない! 目の前にはもう海が迫っていて、バギで方向転換している暇がない!
「相棒! オイラの手を使って、イサーク兄ちゃんの釣り糸掴んで!」
 オイラの言葉に相棒の気配がぴたりと寄り添って来る。そして右手がぐっと後ろに伸ばされると、くりんと何かが絡まった。迫って来た海が、オイラを引っ張る力でぐんぐん遠ざかって行く。空が見えて太陽がきらりと光った瞬間、ぼふんとルミラの姐さんがキャッチしてくれたぞ! 姐さんがオイラの顔を見てにっこり!
「ルアム、勇敢な働きだった。尊敬するぞ」
 へへへー、恥ずかしいなぁ。相棒が居なかったら、きっと海の上で待ってなきゃ駄目だったろうけど、羅針盤がずっしりしてるから海の底に引きずり込まれてたかも。イサーク兄ちゃんが飛び込むべきだったのかもしれないけど、羅針盤が海に落ちたら泳ぎが得意なウェディだって追い付けない程に早く沈むかもしれない。
 でも良いんだ。だって魔法の羅針盤を取り戻せて、皆ホッとしてレンダーシアに行けるって笑ってくれるんだもん。
 オイラ、皆が笑ってくれるなら命賭けるのなんかへっちゃらなんだ!
 魔獣は魔瘴の霧になって吹き払われちまったみたいで、微かに残った魔瘴の残り香が鼻先を過ぎて行った。
「さぁ、ルアム君。早くその羅針盤を船長に届けてあげて下さい。私は何が何でもレンダーシアに行かねばなりませんからね」
 そう朗らかな表情でクロウズが言うと、マントを翻し船内に入って行ってしまった。そんな背中を見送る面々は、胡散臭い男だったのぉとか、もう少しで船が燃えてしまう所でしたわ。思慮がたりませんとか、結局船長に使った術はメダパニだったのかねぇとか、殺す事なかったのになぁとか、口々に言いながら船内に向かい始めた。
 オイラも皆に続こうとして、相棒が足を止めているのに気が付いた。
「相棒、どしたの?」
 相棒は吃驚したように青紫の瞳を瞬かすと、不思議そうな顔をした。
『クロウズって人がルアム君って言った時…なんだろう、良く分からないんだけど懐かしい感じがしたんだ』
 でも、クロウズが相棒の事を知ってたら、相棒と同じ名前のオイラで何らかのリアクションしてくれそうだよな。なーんかクロウズって芝居掛かって、反応狙い難いんだよなぁ。故郷が近いと言葉も似るもんだし、5種族よりも相棒には近い存在だから懐かしくも思うんだろう。
 オイラはそっかって笑って、相棒を手招いた。

 □ ■ □ ■

 グランドタイタスは予定通り、レンダーシアのグランゼドーラに向けて航行を続ける事になった。迷いの霧は濃い魔瘴の霧で出来ている為に、突入の時は冒険者達は船内にいるように言われている。パーティすら開かれるらしい大きな広間は、窓に鎧戸が閉められて、強まり出した風にガタガタと音を立てる。揺れる床にころころ転がりながら、テーブルや椅子なんかは危ないから別の部屋に仕舞われてがらんとしていた。
 そこに、今回招集された冒険者達が集まっていた。
 如何にもベテラン冒険者って人から、討伐隊、学者さん、郵便局員、世界宿屋協会から派遣されたコンシェルジュ、ルーラストーンタクシー協会の腕章を付けている人もいる。今回の調査団は各種族5人ずつで30人と聞いているから、職業もそうだけど種族も偏りがない。てんでバラバラな面々を見回しても、クロウズの姿はなかった。
 冒険者達の前に、種族が違う6人の討伐隊員が進み出た。そして人間の男が一歩前に出て、ぺこりと会釈した。
「私はライヴァス。第一回レンダーシア調査団の統括調整を行わせていただきます」
 ライヴァスの兄ちゃんははにかむように微笑んで、頼もし気にオイラ達を見回した。
「先ずは各国の有力者の推薦で選ばれし精鋭達と、迷いの霧に覆われ内部の状況が一切不明瞭なレンダーシアへの調査に向かう事をとても心強く感じております。今回、集まって頂いた方々には詳細なプロフィールを書いて頂きましたが、どれも素晴らしい実力を備えた猛者ばかりと確信しております」
 そんなすげー連中にオイラも混ざってんのかー。なんだかすげーなー。
 ライヴァスの兄ちゃんは、これからの事について色々と説明してくれる。
 今回は情報の収集を第一に考慮し、各国から多種多様な人材を募りました。皆様にはそれぞれの視点で多角的にレンダーシアに起きている事を分析し、5大陸に持ち帰っていただきたい。討伐隊はレンダーシアの中継地点の宿に駐在します。もし問題があった場合の応援の要請、依頼書の発行が可能です。場合によっては困難な事態の打開の為、各自が提出してくださったステータスを元に招集を掛ける場合があります。その時は出来るだけ応じてくださるよう、お願い致します。2名の郵便局員が、レンダーシアをそれぞれ時計回りと反時計回りに巡ります。手紙は彼らに出してください。グランドタイタスは満月の日に、レンダーシアに到着します。任期である1年以内に戻る必要がある場合や、5大陸に物資を請求した場合に活用してください。
 なんだか大事な事なんだろうけど、プクリポに難しい説明しても聞いてねーよ。あー、相棒は外に行っちゃってるんだった。こんな時に雨風嵐に影響されない幽霊みたいな姿って羨ましいなー。
 後でエンジュの姉ちゃんに要約して教えてもらおう! 調査団の証って事で、魔法の羅針盤のレプリカメダルを受け取りながら思うんだ。
 するとぴーんぽーんぱーんぽーん!ってベルの音が鳴った。壁に取り付けられた伝声管に耳を傾けていた船員が、オイラ達に伝わるように声を張り上げた。
「もう直ぐ迷いの霧に突入します! 皆様、船が大変揺れると予測されますので、掴まれるものにしっかり掴まって下さい!」
 変化は直ぐに訪れた。地面がぐらぐらと揺れ始めプクリポ達がポップコーンみたいに転がり始めて、オーガやドワーフが捕まえくれた。皆が手摺や壁際に掴まる頃には、頭上に巻き上げられたシャンデリアを灯していたレミーラの輝きがちらちらと揺らぎ出す。鎧戸はガタガタと揺れて、外の大嵐の音が貫通して船をミシミシと軋ませる。時々大きく揺れて床に投げ出される者も現れ始めた。
「ちょっと揺れ過ぎじゃないのー!」
 薄暗い広間に悲鳴が響いた。泣き言を言うなと怒鳴り返す声、ヤケになって笑い出す声、もうだめだーと上がる悲鳴と、気持ち悪いと吐く音まで阿鼻叫喚の地獄絵図だ。でも、皆一流の冒険者だ。今まで自分の力で切り開いて来たものが通じない、運を天に任すじゃないけど、船長や船員を信じるだけって状況がもどかしいんだ。
 周囲から音が押し寄せる世界で、目を閉じてじっと堪えているとふと暗さが変わったように見えた。
 濃密な黒い霧が前から後ろに凄い勢いで流れて行く中で、ぐらぐらと揺れる甲板が見える。慌てて壁に付いた手が透き通った人間の手で、もしかしたら相棒の視点なのかもしれない。頭上がふんわりと明るくなり始め、見上げると操舵室の窓から金色の光が漏れ始めた。この暗闇の荒波で沈没の恐怖を味わっている中で、突破出来る、オイラ達を目的の場所に導いてくれるって思わせてくれる。光は徐々に強くなり周囲に淡く漂っていた光が、一点に集まって行く。
 次の瞬間! 光は矢のように放たれ、黒い霧を貫いた!
 大きなトンネルみたいになった迷いの霧の中を、船が全速力で走り出す!
 オイラはがばりと起き上がって、駆出した! 船員の制止を振り切って、広間の扉を開け放ち、階段を駆け上がる。だって、もう揺れも、酷い音も、絶望した思いもない!
『兄さん!』
 オイラは驚いた表情の相棒ににやりと笑いかけて、その横を駆け抜けた!
 今まさに、呪いの霧を抜けようとしている所だった。グランドタイタスに食らいつき絡み付こうとした霧を振り払い、魔法の羅針盤から迸った光は一直線に霧の果ての明るい場所を指している。光が迫る!迫って、近付いて、手が届いて、オイラ達を包み込んだ!
「迷いの霧を抜けた!」
 歓声がわっと沸き上がった! 皆、オイラの後を追いかけて甲板に飛び出して来たんだな!
 薄曇りの空の下に広がる、緑の大地。迷いの霧の鼻にこびり付いた魔瘴の匂いが、潮風に吹き払われてサッと散って行く。カモメ達が歓迎の挨拶と言わんばかりに、グランドタイタスの周囲を旋回し始めた。冒険者達が手を叩き合って喜び、楽器を掻き鳴らし、歌って踊って、誰か開けたか酒樽の横で祝杯をあげ始める。
『ついに…来たね』
 相棒の言葉にオイラは深々と頷いた。オイラはグランゼドーラの王立劇場に行きたくって、相棒は故郷のエテーネ村に帰る為に目指したレンダーシア。でもレンダーシアは迷いの霧に阻まれて行く事は出来ず、オイラ達は周囲に浮かぶ5種族の大陸を巡った。沢山の人に出会って、仲間と冒険して、おっかねー魔物だけじゃなくて冥王までやっつけちゃった。その全部が寄り道だなんて言わない。出会いや冒険がなければ、オイラ達は今、ここにはいなかった。
 全ては、ここに来るために必要だったんだ。
 オイラ達が目指したレンダーシアが、ついに目の前に現れた!