地に落ちた一粒の麦 - 前編 -

 特に美しいのは実りの季節を迎えた秋。何処までも連なる実を丸まると太らせ頭を垂れた麦の穂は風に撫でられ、黄金の海と例えられる。その実りを製粉する為の風車が、雲一つない青空の下でのんびりと羽根車を回す。そんなメルサンディ穀倉地帯は変わり果てていた。収穫の時期を終えた寂しさなんて生易しい程、大きな存在を失ってしまったの。
 大地を揺るがす轟音が響いて、私達は足を止めた。
 破壊された風車が強い風に獣の遠吠えのような音を立てて軋み、厚い雲が垂れ込めた薄暗い空の下を強い風が吹き荒れている。轟々と唸る風を押し退け、大木を囲んだ村から轟音と煙が沸き出していた。
 メルサンディ村が、襲われているんだわ。
 一刻も早く崩れかかる故郷に戻ろうと、私達は自然と駆け足になっていた。喘ぐように息を継ぎ、水の中を歩くように身体が心許ない。そしてメルサンディ村の入り口のアーチを潜るのには勇気が必要だった。だって、村が酷い有様になっているって、わかってしまうから。
 今までの度重なる襲撃で家々は壊され、今も人が住める家は指折りで数える程度。でも今はその家々も魔物に壊されて、建っている家を探すのが困難な程だった。教会が入っている巨大な大木の枝がへし折られ、畑は抉られ、鶏達の鳴き声が土煙の向こうから響き渡っている。
「な…なんてことじゃ…」
 コペおばあちゃんがその場にへたり込み、弟のラスカが折れそうな足を堪えて立ち尽くしている。そんな2人を私は抱き留めた。
 そんな私達の前に進み出たのは、大きいのと小さいのの二つの影。独り暮らしするコペおばあちゃんが暮らすメルサンディに流れる川の源流メルンまで、一緒に付いて来てくれた旅人さん達だった。漆黒にまでに日焼けた筋肉隆々のラチックさんの肩に、小さいプクリポサイズのピペさんが乗っている。
 ピペさんがウェスタンハットを押えながら飛び降りると、ラチックさんの膝にちょんちょんと触れる。ラチックさんが気が付いてしゃがみ込めば、彼女はその丸太のような腕に妖精の粉で光る線を描いた。瞬く間に描き上がったバイキルトの紋様が、ラチックさんの両腕で輝いた。
 スキンヘッドに巻いたバンダナをぎゅっと締め直し、サングラスを指先で押し上げ、不敵な笑みを浮かべたラチックさんは鬼の金棒を構えた。
「よーし! いっちょやるか!」
 英雄ザンクローネ様の石像が見下ろす広場の真ん中に立つ私達は、とても良く目立っていた。巨大な黒い手が、地面を叩いたり家を薙ぎ払って獲物を求めて宙を漂っている。私達を見つけるまでに、時間は掛からない。
「うわあああ!こっちに来た!」
 空を滑空し私達に向かって来る敵を見て、ラスカが悲鳴を上げた。
 メルサンディを襲っている敵は、成長し切った雄牛ですら掴んでしまう程に巨大な手の平だった。紫色に節くれ立った関節、ナイフのように尖った爪、手首の断面は魔瘴が靄のように覆い血が流れる事はない。今までも、巨大な足や顔の襲撃があった。身体がバラバラになっている化け物は、空を滑空し人々を殺し村を壊しているのだ。
 理由は分からない。でも身を守らなくては、殺され、住む場所を奪われてしまう。話し合いなんて無理なのはわかりきっていた。
 弟の肩を抱きかかえた私の前を、ピペさんが足早に歩き回る。彼女は地面に複雑な模様を書き込みながら、あっという間に私達の回りを一周した。途中で大柄なラチックさんに線を踏まれて、声は出さないが怒って書き直している。
 完成した模様が繋がると、淡く光を放ち始めた。手が見えない障壁に当たって、虹色に光る火花を散らす。それでも弾き返す事は出来ず、じりじりと指が障壁に食い込んで来る。
「スクルト 魔法陣 今日も 絶好調」
 そう舌なめずりしたラチックさんが、ぐっと力を溜める。瞬く間に膨れ上がる闘気と共に、彼はにやりと笑みを深くする。黒く日に焼けた筋肉が、何倍にも大きくなって見えた。下段に構えた鬼の金棒を力一杯振り抜いた!
「おおおっらぁぁぁあっ!!!」
 会心の一撃だわ!
 メルサンディを襲っていた敵が宙を舞って、地面に激突した! 私とラスカとおばあちゃんは、思わず歓声を上げたの! でも、その歓声もラチックさんの『まだだ!』の声に抑えつけられる。
 指が広場の地面を抉りながら、じわりじわりと動きだす。まだ、死んではいないんだわ。
 油断なく金棒を構えたラチックさんが、ふと顔を上に上げた。次の瞬間、手は天から降り注いだ光り輝く矢に大地に縫い止められる!
「遅いぞ」
「ごめんなー! 村の人逃がしてたら、遅くなっちゃったよ!」
 大木の枝からひらりと身体を踊らせたプクリポは、私達に向けた笑顔を拭うように消して矢を番える。一瞬にして稲妻の力を蓄えた矢が光り輝き、ビリビリとした風が声の主を中心に渦を巻く。矢が放たれたと同時に、目の前に雷が落ちたような轟音と閃光が迸った! 敵が縫い止められていた地面に着地したプクリポは、赤と青紫の瞳を素早く巡らせて西の方へ向けた。
 手が大急ぎで飛んで逃げているのを見て、彼は弓を下げた。
「逃げられちゃった。やっぱ、ザンクの兄貴がいないと、火力が足りねーなー」
 だいじょーぶか? そうにこりと笑ったのは、メルサンディ村の護衛をしているルアムさんだった。

 □ ■ □ ■

 メルサンディ村の最も奥まった所に根ざす大木に寄り添うように、村長の家がある。今は木の温もりに、美味しそうなコペおばあちゃん特製のパンの焼ける匂いが漂っているの。メルサンディの豊かな恵みがテーブルの上を彩っていて、ルアムさんが涎を垂らして見ているわ。
 近所の人々も招かれて、大きなパーティみたい。酒場のマスターがお酒をふるまい、吟遊詩人のパニーノさんが楽器を奏でて歌っている。奥樣方が自慢の料理を持って来て、料理を片手に井戸端会議の続きに忙しい。そんな様子をラチックさんの肩に乗ったピペさんが、凄い勢いでスケッチしているの。皆、化け物が逃げて行った事に安心して、表情が明るいわ。
 小川を遡る卵をいっぱいお腹に抱えた鮭を茸と野菜の包み焼きは、包みを解いた瞬間に良い香りがふわっと広がるの。美味しい卵で作ったフワフワのオムライス、まんまるポテトがゴロゴロ入ったシチュー、エッグタルトや美味しい卵と牛乳で出来たプリン。どれもとても美味しそう!
 勿論、コペおばあちゃんのパンは最高よ。木の実を混ぜたパンも焼いてくれて、私は胡桃入りのパンが大好きなの!焼きたてだし、お供の牛乳だって今朝牛さんから頂いたばっかりだもの。ジャムもバターも準備万端。おばあちゃんのフワフワコッペパン、久しぶりだなぁ!
 私とラスカのお父さんが、痛めた足を引きずりながら大きなテーブルの前に座った。痛そうに足を擦るお父さんに、ルアムさんが駆け寄ってそっと回復呪文を唱えてくれたみたい。はらはらと光が包帯で固定された足に降り注ぐと、お父さんの表情が柔らかくなった。
「ルアム。ご苦労だったな」
「ミシュア達が来てくれなかったら、オイラ二度とメルサンディに戻れなかったよ!」
 ルアムさんがにっこりと私達に笑顔を向けた。その頭にコペおばあちゃんが拳骨を落とす。ルアムさんは大袈裟な悲鳴を上げてひっくり返った。
「ふん! こんな赤い毛玉なんぞ寄越さず、お前が直に来れば良いじゃないか!」
「母さん、俺だってそう思う。でもな、俺はこの前の魔物の襲撃で足をやられてしまったんだ」
「そんなのは関係ないね!」
 ふん!とそっぽを向いてしまったおばあちゃんの横で、ルアムさんは頭を抱えて涙目だわ。お父さんも参った様子でおばあちゃんを見ている。
 メルン水車郷に一人で暮らすコペおばあちゃんを迎えに行ったのは、元々ルアムさんだったんだ。メルンへ向かう山道は魔物が沢山いて、村の人だけではとても危険なの。だから、熟練の冒険者で、メルサンディの用心棒をしていたルアムさんに行ってもらっていたんだ。
 でも、ルアムさんは帰って来ない。
 心配して私とラスカ、偶然立ち寄ってくれていた旅人のラチックさんとピペさんが訪れた時は吃驚してしまったわ。だって、あのルアムさんがおばあちゃんにこてんぱんに言い負かされて、顎でこき使われてひいひい言ってるんですもの! 『水車の掃除で拾った金の石をかえせー』って泣き叫んでるの! 確かにおばあちゃんは気難しい所があるから、ただ単にお願いしただけじゃ駄目だったかもしれないわね。
 でも、おばあちゃんは孫の私達のお願いはきちんと聞いてくれるのよ。
「孫達がどうしてもメルサンディに来て欲しいって言ったから、来てやったんだよ。そうしたら、なんて有り様だい!豊かな黄金の穂も土色で、風車の手入れも出来ないのかい? 家だってぼろぼろで、あんたは足を大怪我だって!? 村長をしておきながらなんてザマだい!」
 面目ない。お父さんが申し訳なさそうに俯いた。でも、表情を引き締め、周囲を見渡した。
「ようやく村人が全員揃った。大事な話をしなくてはならない。皆、聞いてくれ」
 その真剣な声色に、鬼気迫った表情に、村人達の安堵の表情は不安そうに陰った。
「ザンクローネ様が魔物に倒されて、大分経つ。今の村の状態がどれほど悲惨なものかは、皆痛感しているだろう」
 そう切出したお父さんの言葉に、村人達の痛切な想いがひしひしと伝わって来る。
 メルサンディの英雄、ザンクローネ様。
 魔炎の大剣『火燐刀』を携え、深紅と金の縁取りの鎧をまとう戦士。メルサンディの実りである小麦色の髪に深紅の鉢巻きを翻し、村に遅い来る魔物達を鮮やかに撃退した英雄。この話は弟のラスカの方が詳しいわね。
 そんなザンクローネ様は、顔だけの化け物に食べられてしまった。
 それからというもの、メルサンディの村の襲撃は日に日に酷くなって行く。最初は牛や鶏程度だったものが、徐々に住民も被害に遭うようになった。村を襲った時に食べられてしまった人、農作業の合間に手に掴まって誘拐されてそれっきり、森の中で帽子だけ残されていて行方不明って人もいる。それは用心棒をしてくれていたルアムさんだけでは、どうしようもない事だった。だって、生きていく為には食料を得なくてはいけないし、水も汲みに行かねばならなかったんだもの。
 お父さんは村人達の沈痛な想いを受け取りながら、重い口を開いた。
「このままでは魔物にメルサンディを壊されるだけでは済まない。村人全員が殺されてしまうだろう」
 誰も動揺はしなかった。それは薄々感じていた事だったから。
「だから、我々は一度、この村を出て行こうと思う」
 どよめきが上がった。互いの顔を見合わせ、これからの不安を言わずにはいられなかった。
 何処へ行くのか? 村の外は街道であっても安全なのか? 家の財産は大丈夫なのか? 牛や鶏はどうするんだ?
 様々な意見が飛び出した。お父さんが手を挙げて制しようとした時、ラチックさんが口を開いた。彼の声は低く、とても響いて人々の声を押し退けた。
「何処 行く? グランゼドーラ 今は 無理」
 数日前に村にやって来たラチックさんの言葉に、ピペさんも頷いた。
 メルサンディに最も近い大国は北方にある勇者の国グランゼドーラだ。だけど今はレンダーシア全体が不安定な為に、グランゼドーラの安全の為と王国に通じる三門の関所は堅く閉じられている。実はルアムさんもグランゼドーラへ向かう冒険者なのだけれど、門が閉じられている為にメルサンディ村に流れて来たのだ。門に足止めされている冒険者達が、門の周辺にキャンプを張ったりして混雑しているらしい。
 ラチックさんの言葉に、ルアムさんが渋い顔をした。
「あの門、まだ閉まってるんだ。助けも呼べねーのか?」
「門番には懇願したが、王国から助けが来るかは期待出来ない」
 お父さんが首を振ると、ピペさんが大きな羊皮紙を広げた。それは決して消える事はないパオームのインクで描かれた、精密なレンダーシア大陸の地図だった。隅っこに彼女のサインがある所を見ると、彼女が複製した地図なんだろう。広げられた地図を覗き込む三人の冒険者達、その外側から村人達も覗き込んだ。
 ドーナツのように真ん中の大海を囲むレンダーシア大陸、その西側にメルサンディ穀倉地帯がある。北方には立派な三対の塔が聳える城が描かれていて、それが話題に上がったグランゼドーラ王国だ。南には巨大な山脈に囲まれた神殿があり、海を挟んだ東には砂漠を臨む城が描かれている。
 ラチックさんは神殿と砂漠の城を指差し、小さく首を振った。
「アラハギーロ王国 ダーマ神殿 無理。遠過ぎる」
 ピペさんはスケッチブックに美しい文字で、『街道の直ぐ側にまで魔物が現れています。沢山の村人を移動させるのは、難しいでしょう』と書いて同意した。ルアムさんが青紫の瞳を瞬かせて口添えした。
「でもやるなら、人手がある今しかない。3人くらいなら、僕1人でもワルド水源を抜けて三門まで護衛出来ると思います。三門に仲間がいれば連れて戻る事も出来るでしょう。その間、ピペさんとラチックさんで村を護ってもらって魔物の襲撃に耐える…どうでしょう?」
「時間掛かる でも 確実」
 三人の冒険者が頷き、お父さんも頷いた。村人達も選択がない為に諦めの空気が流れている。
 皆がこの村を捨てる方向に考え始めた時、大きな怒声が響いた。
「勝手に決めるんじゃねぇよ!」
 声を張り上げたのはラスカだった。黒い目に涙を溜めて、黒髪を振り乱してこの場に集まった村人達に言い放った。
「悪いのは魔物だろ! 俺達がどうして村を出て行かなきゃならないんだよ!」
 ラスカの悲痛な言葉に何人かの村人が、そうだと同調した。だけれど、その言葉は弱い。だって、村人達は皆、村に襲い来る魔物の恐ろしさが骨の髄にまで染み込んでいるんだもの。でも、今までメルン水車郷にいて魔物の恐ろしさを知らないコペおばあちゃんが、そうだと力強く加勢した。
「そうだよ、ガッシュ。ラスカの言う通りじゃ!」
「母さん…そうは言っても…」
 お父さんの言葉を遮って前に進み出たのは、青紫の瞳を悲しく伏せたルアムさんだった。彼はコペおばあちゃんとラスカの前に進み出て、村人達を見回してから放し出した。
「故郷から離れる事が、凄く辛い事だってのは良く分かります」
 それはとても辛い声色だったわ。本当に彼自身が故郷を離れ、今、辛い思いをしているんだろうって思う程に同情の籠った声色だった。
「故郷に誰もいなくなって、村が壊れ、再建できないかもしれないって思う人もいるでしょう。でも、一番大事なのは、皆さんが生きる事です。村人の一人でも良い、誰かが生き延びて村を蘇らせようとすれば必ず蘇るのです。今は、生き延びる事を第一に考えるべきです」
 自分に言い聞かせるかのような言葉だったわ。
 そしてルアムさんの言葉は、村人達の背を確実に押した。皆それぞれに、顔を見合わせ旅立つ準備を話し合い始めた。
「ルアム!お前がしっかりしてないからいけないんだ!」
 ナイフを突き立てるようなラスカの叫びは、止める暇も無く矢継ぎ早に放たれた。ルアムさんに詰め寄り、更に声を張り上げる。
「お前がもっとしっかりしていれば、ザンクローネ様はあんな魔物に負けなかったんだ! ザンクローネ様は俺達の助けを求める声にすぐ戻って来て、俺達を苦しめるあの魔物をけちょんけちょんのバッキバキのメコメコーってやっつけちゃうんだ! それなのに来ないのは、お前が魔物の仲間だからだろう! お前はメルサンディを滅ぼす為に入り込んだ悪い奴だ!」
「ラスカ!やめないか!」
 お父さんが身を乗り出し、ラスカを押し退けた。無理に怪我した足に体重をかけたものだから、ラスカが尻餅をついたと同時にお父さんも痛そうに椅子に凭れ掛かった。お互い強い視線で睨み合っていたが、最終的に視線を逸らしたラスカは家を飛び出してしまった。ラスカが走って行った床が点々と濡れている。
 複雑な顔で沈黙する空間に、はあーと大きな溜息が漏れた。
「あぁ、相棒がしょんぼりー。オイラもしょんぼりー」
 がくりと肩を落としたルアムさんに、お父さんは労るように声を掛けた。
「すまない、ルアム」
「いーって事よ。オイラ達は結局余所者だから、ちょっと出しゃばり過ぎちゃったな。ぶっちゃけ、オイラ達がザンクの兄貴がいる時に魔物を仕留められなかったってのが、一番悪い今に繋がっちゃってる訳だしさー。責められても文句言えねーわ」
 そう、ルアムさんがぱたぱたと小さい手を振る。
 ラスカを含めて誰1人、本当はルアムさんが悪い奴だと思う人はいない。だって、ザンクローネ様がいた頃から、彼はこの村に滞在して魔物と戦ってくれていた。とても危ない目に遭ったし、怪我だって何度もしている。彼が魔物相手に手を抜いているとしたら、当時のザンクローネ様が指摘したに違いない。農作業の手伝いだって、体調の悪い人の看病や治療だって、泣いてる子供のお守りだって、彼は率先としてやってくれている。確かに彼は余所者だ。でも、今は村人の誰よりも頑張ってくれているんだもの。
「ミシュア」
 お父さんがちらりと私に目配せした。何をお願いしたいか分かってる。私は小さく頷いた。
「分かってる。ラスカの事は任せて」

 ラスカがお皿を割ってしまったり、お手伝いから逃げ回って昼寝をしたい時、隠れている場所があるの。村外れの大木の下は、村の方からは丘になっていて見えにくいし日当りの良い場所なの。
 案の定ラスカはそこにいて、おばあちゃんから貰った金色の石を眺めていたわ。でも探していた私を見つければ、必死で訴えたの。
「ザンクローネ様がいれば、あんな魔物あっという間に けちょんけちょんの バッキバキの メコメコーって やっつけちゃうんだ! 火燐刀をぶぅんって一振りして、ザンクローネ様が鋭い目で一睨みしたら、魔物は震え上がってちびって森の奥に大慌てで逃げて行っちゃうんだ!」
「うん、そうだね」
 私がニコニコと頷きながら、ラスカのザンクローネ様語りに耳を傾ける。ラスカは本当にザンクローネ様が大好きなのよね。大好きだった牧羊犬が死んでしまった時も、友達と喧嘩してしまった時も、この弟は励ます事よりも大好きな英雄の事を話させると元気になるの。まるで自分の事のように戦い振りを語って、誰よりも嬉しそうに勝利を喜ぶの。
 元気になった彼の手に握られた、おばあちゃんの水車小屋に落ちてたって宝石が光っているように見えるわ!
 もうすっかり元気になったみたいね! お姉ちゃん、安心したわ!
「ねぇ、ラスカ」
「分かってるよ、ミシュア姉ちゃん」
 ラスカは村の方を見て、神妙な声で言ったの。ちらりと横顔を窺えば、どっきりするくらい真剣な顔をしているわ。
「ルアムが魔物の仲間なんて有り得ない事だって分かってるんだ。父さんの言ってる事も、ルアムが言った事も村人の皆を守るためだ。間違ってない、正しいことだって分かる…」
 そうね。私は頷いた。ラスカはザンクローネ様と同じくらい、村の事を考えているわ。
 ラスカは大きく息を吸って、張りつめた声で言ったの。
「でも、ザンクローネ様が守ろうとしたものが、何一つ無くなっちゃうのが悔しいんだ」
 私はラスカの肩を抱いて、『そうね』と同意した。
「でも、ルアムさんの言う通り、誰かが生き残って村を蘇らせる事はできるわ。諦めない為の行動を、ザンクローネ様は許して信じて下さる筈よ」
 このまま村の人達が全員死んでしまう事を、ザンクローネ様こそが一番望んでなんていない。生き延びて時間が掛かっても帰ってくれば良い。村人の為に魔物と命を賭けて戦ってくれるルアムさんの言葉だからこそ、そして彼の悲し気な響きの言葉だからこそ、私達は決心出来たんだと思う。
 私は弟の肩に手を置きながら、ゆっくりと村を見回した。もしかしたら暫く見る事が出来ない故郷だもの。まだゆっくりと回っている風車の羽根の奏でる音を、収穫した麦が山と積まれた馬車を、それぞれの家から漂う夕飯の支度の良い香りを、夕焼けの最後の光で輝くメルサンディ村を目に焼き付けようとした。
「一番許せないのは、俺なんだ」
 ラスカが絞り出すように言った。
「父さんやルアムにあんな酷い事言った俺、魔物に立ち向かう事も出来ない弱い俺、そんな俺が一番許せないんだ」
「ラスカ…」
 まだ幼いラスカ。これから強くなれば良いって、どれだけ残酷な言葉なんだろう。私は弟の肩を抱いて傍にいてやる事しか出来ない。
 夕焼けが陰る。
 一瞬で戻った黄金色の輝きに、私は思わずラスカの背を勢いよく押した。ラスカの身体が宙を舞う。彼の手から金色の石の光を散らしながら転がり落ちて行く弟を見遣り、素早く背後に視線を向ける。
 視界に黄金色の夕焼けは飛び込んで来ない。
 黒い巨大な手の平が、私の視界の外から指を掛け掴む。夜ではない黒い帳が落ちたように、そこで途切れた。