砂の海

 落下する感覚に、どう耐えるか。
 そんな事、リウ老師は教えてくれなかった。いや彼程の頭脳の持ち主であるなら、落下するなんて体験した事はないかもしれぬ。老師はこのように砂塵に塗れ、地べたを這うような生き方など知らぬに違いない。知識と才能がどんな金銀財宝よりも価値のあった世界で、リウ老師とは国の財産全てを引き換えにしても得難い存在だった。
 踏みしめていた地面の感覚が失せ、足の裏が空気を踏み抜いた瞬間に、言葉にしがたい恐怖が脳髄を貫いた。心の臓が縮み、体が一瞬にして冷え切る。体が強張り、視線が前方の床を捉える。それも一瞬。暗闇がそれらを上に追いやる。落ちる感覚。それを一言で表すなら、恐怖そのもの。耐えるなど、とても無理だった。
 余は肺の全ての空気を悲鳴に変えた。悲鳴を上げる事に何の意味があるのかは分からない。ただ悲鳴を上げる事が、余という一つの生命に刻まれた本能と言わんばかりに体が実行した。
 恐ろしい。恐ろしい。叫ぶ。苦しい。天と地も失せて、ぐるぐると暗闇が笑っている。もう滅茶苦茶じゃ。
 次の瞬間、見えぬ何かにぶつかったような衝撃で、体が跳ねた。胸が押されて息が詰まる。落下する感覚が終わり、ぐらぐらと頼りなく世界が揺れている。冷たい鋼の感触が気持ちがいい。
「ビャン君。危なかったのぉ。今、引き上げるでなぁ」
 遠くから声がして、ぎしぎしと何かが軋む音がする度に体が引き上げられていく。暗闇が途切れてぐるりと世界が回れば、黄土色の土を固めた煉瓦のモザイクが余に覆いかぶさってくる。ひょこりと覗き込んだのは、ヘルメットを被ったデザートゴースト!
「ヒッ!」
「怖かったじゃろう。落とし穴の上にマヌーサの幻影が掛かっておって、床に見えておったのじゃよ。盗賊除けの罠じゃろうが、床に複雑なモザイク状に煉瓦が敷き詰められておるから気が付き難い。下まで落ちておったら、ビャン君もここの住人になっておったのぉ!」
 豪快に笑うのは余の恩人であるガノだ。デザートゴーストと見間違うのも致し方ない、眉毛と髭で顔がほとんど覆われてしまっておる。砂まみれのトレジャーコートに、使い込まれた荷を背負い、余を絡め取った鞭を手慣れた様子で纏めていく。
 余が死にかけたというのに、冷静すぎて怒りが湧いてくる。
「ガ、ガノ! わ、笑い事ではないぞ!」
 余の荷物袋が動いたと思った時には、黒い影が飛び出してガノに体当たりした。ガンと音を立てて跳ね返り空中に投げ出された黒いそれは、ぱっと白い羽を広げた。ダストン殿の家に転がっていた、レプティリアと名乗る黒いメタッピーのような魔物だ。ちょっと舌を噛んでしまいそうなので、レプリアの愛称で呼ばせてもらっておる。
『ピピピ! ガノ! バカ! ビャン コロス ツモリカ!』
「痛いのぉ! 助けたのじゃから、突かんでもいいじゃろうが!」
 ががががが。痛そうな嘴を突き立てるレプリアと、逃げ惑うガノのやり取りはしばらく続いた。しかし、亀の甲より年の功なのであろう。ガノがレプリアを掴んで、瞬く間に鞭でぐるぐる巻きにしてしまいおった。
『ピピピ! ガノ! バカ! バカ! ピピピ!』
「羽も嘴も出まい! 我輩の勝ちじゃの!」
 ガノはそう高笑いをして、余が乗っていた『天翔るアストルティアの未来号』にレプリアを乗せた。小さく起動音を響かせて床から拳二つ分浮かんだ機体に問題がない事を確認したようで、しばらく見つめていたガノは小さく頷いた。鞭を解いで先ほど落ちた幻の床を打てば、鞭の先端が床に飲み込まれてしまった。
「ドルボードは乗らぬほうがいい。未知の場所では、こうやって先を払って罠を見破りながら先へ進むものじゃ」
「なるほど…」
 『天翔るアストルティアの未来号』を自動追尾モードに切り替え、余はガノの後について歩き出す。
 アラハギーロ大砂漠ほど、現在のドワチャッカ大陸を彷彿とさせる景観も少なくはなかろう。見渡す限りの黄金の海原、頭上を覆い尽くす蒼天。風向きによっては潮風すら感じられる風気は、ドワチャッカ大陸、とくにゴブル砂漠の西側を思わせてくれる。巨大なピラミッドは、どこかドルワーム王国に似た影を金の海に投げかける。
 ピラミッドは太陽の民アラハギーロの歴代の王の墓であるそうだ。歴代の王はこの地に、それぞれの王が誇る至宝を共に埋葬した。強大な魔を討伐した武器が、民を救いし奇跡が、世界中の民が富める程の黄金が王と共に眠っている。
 それゆえに盗掘は絶えぬのだろう。このピラミッドの内部の砂は、外の黄金でなく、白い。それらは賊の成れの果て。さらにそれが長い年月で砂になってしまったものであろう。
「しかし、グランゼドーラの王の子の墓を暴いた賊が、本当にこんな所に潜んでおるのか?」
「『こんな所』! ガテリア皇国の第一皇子ビャン・ダオが褒めて遣わしたと、彼奴等に教えてやらねばな!」
 カラカラと笑うガノだが、余は不安だ。
 グランゼドーラの賢者が特別な聖なる種火を灯したお陰で迷いの霧は薄れ、グランドタイタス号がグランゼドーラに向かうことが可能になった。その第一便に飛び乗って、余はガノに会いにやってきた。危険な地に赴いた彼を心配していたが、全くの杞憂。息災な様子で心の底から安堵したのを覚えておる。
 そんなガノは賊を追っておった。国を民を守り抜いた王子の墓を暴いた不届きものじゃ。余の用事よりも、その王子とご家族の無念を晴らすべきであろうと、共にここにやってきた。ガノはそれを『観光』と言ったが。
「『こんな所』であるからこそ、警戒が緩む。ビャン君が不安に思う事はない。全て我輩達が圧倒的に有利じゃ」
 ピッとガノの太い指が一本立った。
「暴かれたトーマ王子の墓の周囲は、砂が落ちてザラついていた。そこでアラハギーロ地方を根城にする者だろうと、見立てを立てた。流した副葬品から賊を辿り、情報屋に金を握らせて賊のアジトを特定した。もはや彼奴等は丸裸も同然。このガノから隠れ果せる裏社会の者などおらぬ」
「な、ならばアラハギーロやグランゼドーラの兵に任すべきだ。そちが動くより、筋が通るというものであろう?」
 賊を追わねばならぬのは、グランゼドーラだ。賊が潜んでいるならば、捕らえるべきはアラハギーロだ。一介の旅人が負うべき責務ではないし、政治的な面では拗れかねない。余の問いにガノも、『確かにそうじゃ』と頷いた。
「じゃがなぁ、ビャン君。主なら分かる筈じゃ。墓とは、棺とは、どれだけ神聖なものか。それが暴かれぬ為に、どれだけ厳重な封印が施されるか…」
 ドワチャッカ大陸では古くから棺は、神聖な器であった。時を止め、蘇るその時まで遺体を保存する特別なもの。
 このピラミッドとてそうだ。長き歴史を誇る太陽の国の王が眠る場所として、巨大で、特別であるのだ。こうして内部を歩いているというのに、部屋一つにも入ることが出来ぬ。マヌーサの落とし穴の罠だけでなく、何かから見られている気がする。まるで巨大な生物の胃の腑にいるような気分になる。グランゼドーラの墓がどのような封印で施錠されているかは知らぬが、それでも王族等の限られた存在しか立ち入れぬようにしてあるはずだ。
 特別を守る為には、簡単に破られてはならない。
「グランゼドーラは勇者の国。勇者の遺体は強力な呪力の依代じゃ。かの王家の墓の封印が、たかが賊に破られるとは到底思えぬ。我輩が賊に問う事はただ一つ」
 ガノがゆっくりと振り返った。
「誰が、トーマ王子のご遺体を持って行ったのか…じゃ」
 衝撃に頭が真っ白になった。つまり、ガノは賊を捕まえる事は二の次程度にしか思うておらぬ。グランゼドーラ王国の王子の遺体をどうしたかを、ただ確認するだけに筋を曲げてでも最速で追いかけておる事になる。
 だが、仮に賊が王の子の遺体には手を出していないと言ったなら、それが意味する事は…。
 体が震える。もはや墓を暴いた者が何者であっても、遺体を何らかに用いる事は想像に容易かった。邪悪な事じゃろう。そうとしか思えぬ。
 肩に優しく手が置かれた。置かれた手のひらの温もりが、肩を伝って巡り不安に冷えた体を暖めてくれる。
「恐れるのは事実を確認してからじゃ」

 終わる事なき回廊に果てが見えた時、そこは白い砂と瓦礫が広がっていた。ピラミッドの大空洞の最下層から、巨大な正八面体が浮かんで見える。黒曜石のような艶のある黒い石に、金の細工が魔法陣となって輝いている。あそこがこのピラミッドで最も神聖な場所であるのだろう。どのようにたどり着き入るのか、見当もつかぬ。
 無味乾燥した空気に、肉を焼く匂いが混ざる。焚き火の光が、この死者の眠る地の底に溜まった暗闇を焼べるように照らしている。人影が踊り、酒を飲んでいるのか上機嫌な笑い声が舞い上がる。
「ビャン君。ドルボードに乗って良いぞ。ここから先に、罠はあるまい」
 戦いになるやもしれぬ。ランプを消しボルカノハンマーを握ったガノに、余は小さく頷いて『天翔るアストルティアの未来号』に乗った。
「あの頭上の部屋にはすっげえ宝が眠っているはずなんだが…どうやって入ったもんかなぁ」
 渋い男の声に、若い男の声が『おったから! おったから! すっごくほしいなぁ!』とはしゃいだ。
「もう一度、あの部屋に呪文を放って落とせないか、試してみましょうよ。ねぇ、モルバ団長」
 思わず身を固くした。ガノから殺意が迸ったからだ。頭上の正八面体は、ピラミッドの最も神聖な場所を守るだけの部屋ではない。あの存在そのものが芸術であり、ピラミッドの歴史的価値の一端を担っておる。それを呪文で撃墜するなぞ、とんでもない…!
 だが、ガノは堪えた。『そうそう! やっちまいましょうよ!』という囃しを聞き流し、じっと殺気を堪えている。それも団長と呼ばれた男が、まだ賛同しておらぬからであろう。
「そうだよな! ワンゲ! ジドラ! やらないよりは、やっちまえ! 砂漠の土竜のモットーだもんな!」
 目の前の砂の山が爆ぜた!
 ガノは一瞬にして飛び出し、そのハンマーで賊を叩き潰してしまったと思った。過去の遺産や遺跡に並々ならぬ情熱を注いているが、頭に血が上り人まで殺めてしまうのであろうか! 舞い上がった砂塵が収まれば、白い砂に鮮血や肉片が花畑のように散っておろう。余はそう覚悟した。
 しかし、砂塵が収まれば、ガノは巨大な魔物と鍔迫り合いをしておる。魔神兵を思わせる巨大な影の中で光る白刃のような爪が、ガノのハンマーを受け止めたのだ。驚いた賊の悲鳴が短く上がる。
「これほどまでに素晴らしい遺跡を損壊せしめようとするなぞ、聞き捨てならぬ! 頭上の部屋の価値すら分からぬ愚か共め! グランゼドーラの王家の墓を荒らしたか聞こうと思ったが、止めじゃ! 今すぐ砂に埋もれて死ぬがいい!」
『ピピピ! ガノ! バカ! センセイ ノ チャンス ツブシタ!』
 こればかりはレプリアの意見が正しい。
 巨大な魔物は賊の仲間なのか、とても落ち着いた様子でこちらを見ている。
 賊の長らしい年配の男は、身嗜みが滞った貧相な顔を歪ませた。鼻に掛かった、明らかにこちらを見下していると分かる眼差しと声を向けてくる。癪に触るが堪える。余は寛大であるからな。
「…あぁん? グランゼドーラの王家の墓を荒らしませんでしたってかぁ? あぁ! 荒らしてやりましたとも! 王子様が死んだって大声で宣伝してりゃあ、最新のお宝がココにあります取りに来てくださいって言ってるようなもんじゃねぇか!」
 これが盗賊の言い分であるのか…頭が痛くなる。
「お宝はぜーんぶ売りさばいちゃいました! もう返しませーん!」
「団長はこのピラミッドのお宝にご執心なの。邪魔立てしないで欲しいわ」
 長が長なら、手下も手下。悪事を働いたという認識すら欠如していると言わざる得ない。
「価値だ何だと言うんなら、当然見てきたんだろう? あの空中に浮かんだ部屋、がっちり閉じられた絢爛豪華な黄金の扉をよ! あの奥で、すっげえお宝が俺を待ってんのさ! 据え膳食わぬは漢の恥! 伝統だ歴史だって飾ったまんまの方が愚かだと思うぜ!」
 ガノが魔物の爪を弾き、その脇腹にハンマーを叩きつけた。魔物は飛んで衝撃を逃したらしく、巨体からは想像もつかぬ身軽さで賊の傍に飛び退る。ガノは怒り心頭とばかりに言い放った。
「実に下らぬ! あの扉が開かれる為には、いくつかの条件が満たされねばならぬ。その工程がアラハギーロの歴史にどれほど深く食い込み、どれほどまでに彼らの信仰において重要か勉強してから出直すがいい!」
 トンブレロにホワイトパール。盗っ人ウサギに説教。まさに諺を体現したかのように、賊の長は面倒臭そうな顔で耳穴を穿る。手下共も呆れ顔でガノを見るばかりだ。
「学者かぁ? 偉そうに。ま、扉の開け方知ってるっぽいし、その方法が話したくなるようにしてやるとするか」
 長が『クレイブディガー!』と魔物に声を掛けると、魔物は待っていましたとばかりに顔をニヤつかせた。砂でゴワゴワになった体毛が顔をより大きく見せ、わずかに開いた口からはぞろりと並んだ鋭い牙。隙間から滴る涎が、獰猛さを如実に語る。
「そいつらを痛めつけろ! 殺しちまっても良いぜ!」
「返り討ちにしてくれるわ!」
 真っ向から打つかる火花。しかし、グレイブディガーと呼ばれた魔物の手数は、なんと4本! ガノのハンマーを受けた腕が2本であったなら、残り二本が悠然と振り降ろされる。余はとっさに地面に飛び降り両手を付く。
「磁界シールド、展開!」
 ガノの足元にパッと光が灯ったと思った瞬間、空間が揺らぐ。白い砂が震え、次の瞬間砂の中に埋もれていた金属が次々と飛び出した! 魔物は振り下ろそうとした攻撃を中止し、大きく下がろうとする。
「逃げるでない!」
 ガノのキャンセルショットがグレイブディガーの足に当たり、巨体は空中でバランスを崩し転倒する。例え何本も手があろうと、立て直すまでの数秒という時間はガノにとって会心の一撃を準備し叩き込むには十二分な時間であったろう。大きく振りかぶり振り下ろそうとしたガノに、手下の女がメラを放つ。
「レプリア! 賊の攻撃を妨害せよ!」
 ピピピ! レプリアから電子音が響けば、鋼鉄の鳥は流星のように闇を飛び、賊の頭上から流星群を思わせる耀く羽の雨を降らせる。妨害と命令したから殺傷能力はないが、魔物に任せてばかりで戦い慣れしていない賊は慌てふためいた。
 この隙に魔物を叩いてしまおう、そう視線を戻す。
 メラを避ける為にバランスを崩しながら地面に降りたガノの足元に、シバリアの魔法陣が展開される。グレイブディガーがバランスを崩して転倒した瞬間に設置したのか、今にも発動するまでの状態になっていた。ガノが一瞬躊躇う。その一瞬が明暗を分けたかもしれぬ。攻撃をする選択をしたガノは、グレイブディガーに振り下ろそうとした攻撃をシバリア発動で隆起した地割れに足をすくわれてしまう。それを考慮した一撃は、それなりの攻撃力を伴って繰り出されるはずだった。
「!?」
 グレイブディガーがいた場所で、シバルンバの呪文が発動した! グレイブディガーの巨体に隠れていて見えなかったのだ! ガノは魔法陣の中心で、最大威力の呪文を食らってしまいおった! 大きく振りかぶった太い腕に余の所まで吹き飛ばされる。
「ガノ!」
 倒れたガノを抱き起こすと、地面を呪文が走る。展開したシバルンバの輝き。昏倒しておるガノを『天翔るアストルティアの未来号』に乗せて逃がそうにも、余の力では持ち上げる事は出来ない。このまま呪文を食らってしまっては、戦闘不能は免れぬ…!
 余は両手を地面に付ける。他人が構築したシバルンバの術式が脳髄を貫く。歯を食いしばり、シバルンバの術式を読み取る。『良いですか、皇子。術式とは呪文という見えない力を、符号に変換したものです。正しく理解すれば、術式を無効にすることも、自分の都合の良いものに書き換えてしまうことも出来ましょう』穏やかで確信を述べる声色。あぁ、老師。貴方はいつも余を導いてくれる。全ての符号が解析できた瞬間、まるで砂嵐が去った青空のような清々しさが広がる。
「解除!」
 消えた魔法陣の輝きに、賊が驚いている暇はない。今度は賊の足元に、シバルンバが展開したのだ。
「展開! 実行!」
 逃げる隙はレプリアが作らなかった。レプリアは搭載された魔導砲の収束をあえて行わず、雨のように放って賊を十二分に足止めしたのだ。
 決まった。そう思った瞬間、敵の前に見慣れたずんぐりとした影が躍り出た。にいっと笑った口元が、三日月のように輝いた。動揺した敵を前に、十分に溜め込まれ準備された会心の一撃。それはランドインパクトとなって、発動したシバルンバと同期した。砕ける大地と共に、敵は粉砕され、瓦礫に飲み込まれていく!
 あの昏倒から戻った直後にランドインパクトを放つだなんて、なんという無茶を…! 余がガノに駆け寄っている間に、べたりと尻餅をついてしまいおった。辛そうにハンマーに凭れ掛かったと思ったら、次の瞬間大声で笑いだしおった。
『ピピピ! ガノ アタマ ウッタ! アタマ オカシイ!』
 それは大変だ! 顔を覗き込んだ余の肩を、ガノは掴んで抱き寄せた。
「いやぁ、ビャン君! 大したものじゃ。本当に大したものじゃよ、お主は! ビャン君の成長が、こうも嬉しいとは! 笑いが止まらぬわ!」
 耳元で爆ぜ続ける笑い声に、とりあえずガノの無事を認識してホッとする。暖かい息を一つ吐けば、胸が熱くなるのを否応に感じる。
 ガノは余が目覚めて初めて出会った存在じゃった。今思い返せば世間知らずで、赤面する記憶しかない。戦えぬばかりか、歩く体力すらない。日々、疲労困憊しておった余が不満を零しても、暖かい親のような眼差しを向けていたのを覚えている。そんなガノが、頼もしき者を見る目で余を把えておるのが誇らしかった。彼の眼差しが、己の成長を認識させてくれる。
 嬉しかった。こうも嬉しく感じる事が出来る今が、非常に尊く感じる。
「すみませんでしたぁ。トーマ王子の墓に手を出したのは、ほんの出来心なんですぅ」
 瓦礫の隙間から、賊の長の情けない声が聞こえてくる。
「王子が死んで王家の墓に棺が移された時、確かに棺にゃあお宝がザクザクだろうって勇んで向かいましたよ。でもね、そんときゃあ、盗めるだなんて思いもしなかったんです。だって、歴代勇者すら眠る墓所ですぜ? 盗人が入れるわきゃぁないって思ったんですよ」
 完全に涙声である。先ほどの威勢はどこに行ったのやら。呆れる余の前で、弁明はまだ続く。
「でも、扉が開いていたんですよ。開いた扉からよく見えないけど、誰かが出てきてどこか行っちまいましてね」
「扉が開いてたら、入っちゃうじゃーん」
 その気持ちは分かる。そう呟いた脇腹を突く。ガノは一つ咳払いして、瓦礫の下に問いかけた。
「で、トーマ王子の副葬品だけじゃなく、ご遺体にまで手を出しおったという訳か?」
「は? 遺体に手を出す訳ないでしょ! 墓荒らしても、人権荒らすなってモットーが砂漠の土竜にはあるんだからね!」
 女の甲高い否定に、ガノが『本当かね?』と念を押す。
「本当ですよ。王子の棺は最初から蓋が開いていましたし、遺体はどこにもありませんでした」
「でも棺の中はお宝はざっくざっくだったからー、かっぱらって売っちゃったんだー」
 ワンゲ、余計なことを言うんじゃねぇ! 鋭い叱責と共にぼかりと叩く音がする。
「盗掘団は解散して悔い改めますんで、どうか! どうか、見逃してくだせぇまし! おねがいします!」
 瓦礫の中から盛大な泣き声が響く。流石にこちらからは影になっておって、涙を流しておるかまでは確認できぬ。しかし、演技だとしたら相当の役者であろう真に迫った訴えだ。ガノはどうするのであろう…?
「砂漠の土竜よ。アラハギーロの独房の飯も、なかなかに美味いぞ。我輩のオススメはビッグサボテンのフライじゃ」
 ふらりと立ち上がり、来た道を歩き出す。そこで余は気がついた。複数の人間がこちらに慌ただしく向かっている足音が聞こえてきた。ピラミッドの警備を行う、アラハギーロ王国の兵であろう。あれだけ大きな音や振動を起こした為に気がついて、確認に向かっておるのだろう。
「え? 置いてっちゃうの? そりゃねーですよ! ほんと! たすけてくださいよー!!」
 助けを求める声はいつまでもいつまでも、余の背に訴え続けていた。

 □ ■ □ ■

 砂漠の土竜が連行されていく慌ただしさが落ち着いてから、余達はこっそりとピラミッドを後にした。待っている間に手紙をしたためておったガノは、蜜蝋の封を施した便箋に『グランゼドーラ城・賢者 ルシェンダ殿』と書いて荷物の中にしまった。
「さて、これを郵便局員に出せば、我輩の役目は終わりじゃ」
「ガノは、賊の言葉を信じるのか?」
 夜は更け、星空の光を砂漠は吸い込み銀色に輝いている。余が操縦する『天翔るアストルティアの未来号』は、銀の海を渡る小舟のように進んでいく。
「信じる信じないの判断は、我輩にはできぬ。我輩は王家の墓を荒らした犯人を特定し、その犯人はそう言ったという結果を書いたに過ぎぬ。この手紙と、砂漠の土竜の証言をどう受け止め判断するかは、グランゼドーラが行うじゃろう」
 デザートランナーよりも少し早い速度で進む『天翔るアストルティアの未来号』は、冷え始めた砂漠の空気を割って進む。風圧は疲れた体に重く響いたが、冷たくて心地よかった。
「ガノは、余の言葉を信じてくれたな」
 余は操縦桿をきつく握る。『この子は貴方と一緒が良いと言っている』そう、メンメ殿に託されたドルボードのオリジナル『天翔るアストルティアの未来号』。そうしてくれたのは、余が、ガテリア皇国の皇子だからではなかった。
「余はガテリア皇国 第一皇子、ビャン・ダオ」
 ガテリア皇国。余は故郷の敵国であるウルベア地下帝国によって、処刑される寸前であった。リウ老師の機転で救われた余は、今、3000年という未来の世界を生きている。
 この時代の者達で、余の故郷を知る者は殆どおるまい。皇子を名乗る余を、否定もしくは懐疑的に思う者ばかりだ。仕方がない。故郷が失われたのは3000年も昔のことだという。誰も信じなどしない。余も、同じ立場なら信じたりせぬだろう。
 今の余は、ただのビャン・ダオ。それを、世界を知れば知るほどに思い知らされる。かつての文明の栄華がカケラ一つ残らなかったのは、ガテリア皇国とウルベア地下帝国を奸計によって破壊へと導いたグルヤンラシュのせいであろう。
 それでも立ち、歩き続けられるのは、リウ老師とガノの教えがあるからだ。
 ガノと歩き踏みしめたドワチャッカ大陸の日々。あの日々は余に歩く体力だけではなく、歩いた先に何かがあるという事を教えてくれた。リウ老師は死を決意した余に、生き抜く力の大切さを説いた。不思議な事に二人が余に伝えたことは、同じであった。
 それでも、自分の存在が懐疑的に扱われるのは辛い。今まで皇子として生きてきた。その寄る辺が否定され、足元が失せる不安がある。落ちる。あの落下の恐怖は、余が怯えるものと同じ事なのであろう。
「ガノ。なぜ、信じてくれるのだ? 余が、ガテリアの皇子であると…」
 操縦桿を握る手が白くなる。ごうごうと過ぎ去る風の音だけが、耳を叩き、心臓の音をかき消してくれる。それでも心の臓が肥大して胸が爆ぜると錯覚するほどに、胸が苦しい。あぁ、どうか、否定してくれるな。そう願う余がいる。
「最果ての地下遺跡はな…」
 ガノの声が低く重く、『天翔るアストルティアの未来号』から這い上がるように伝わってくる。
「忘れられた地じゃ。今、ドワチャッカ大陸で暮らす者で、かの遺跡を知る者が何人おろう。ボロヌス溶岩流は生命を寄せ付けず、旅人が寄る理由もない。誰も訪れぬ。誰も知らぬ。じゃが、お主だけは訪れたことがあった。お主だけは知っておった。かつてガテリア皇国と呼ばれていたかつての姿を、最果ての地下遺跡の中に見ておった」
 余がこの人生の終わりの場に選んだ場所。訪れた時、余は死ぬ事を決めた。滅んだ故郷。親しい者は誰一人おらぬ。全て、遥かなる時間の中に消えてしまった。悲しいほどの理解は、絶望へと変わる事は必然であった。
「懐かしむ眼差し。廃墟の向こう側を、過去の栄光を覗き込んだ瞳。そして今の姿を認識してしまう悲しみと辛さ。それを、どうして否定できよう」
 二人乗れば狭い。余の足にはガノの背の温もりがあった。
「胸を張れ。ビャン・ダオ。お主がガテリアの皇子である事を、我輩は決して疑わぬ」
 星の輝きが膨らみ、感謝の念が押し寄せてくる。どう言えば、この感謝の念が伝えられるのか、余には分からなかった。