彷徨える子羊は

 乾杯の音頭高らかに、杯が掲げられ打ち合う。木造の酒場を照らす照明は暖かい光の色で、夜も更けてきたのに日向の中にいるようだ。テーブルから転がり落ちそうな程の料理の数々を、テーブルを囲む皆が奪い合うように摘んでいる。メルサンディの食卓を懐かしく感じる、美味しそうなパンの籠。川魚のフライと細切りにしたフライドポテトを立てるように盛り上げた、ドラクロン盛りにルミラさんがカメラを向けている。アラハギーロのスパイスの香る肉料理と、セレドの山の恵みの煮込み料理が中央の覇権を争っている修羅場に、しれっとグランゼドーラ産の馬刺しが乗り込んでくるのだから大変だ。
 グランゼドーラはピアノバーなど御洒落な酒場が多いが、宿と併設された市街地の酒場は乱闘も見世物のような大賑わいだ。どこかで楽師が楽器を奏でれば、イサークさんを含めたウェディが大合唱。プクリポはなぜか集まって踊り出す。レンドアとグランゼドーラ間の定期便が再開された事もあって、酒場は5種族の冒険者でごった返している。
 ヒゲに泡をこれでもかと付けて、白い面積が倍に膨れ上がったガノさんが小さい樽のようなジョッキをテーブルに叩きつけた。
「いやはや! やはりレンダーシアは麦酒よ! 大穀倉地帯であるメルサンディの黄金を思わせる琥珀の色味、かの地の清流の美味を説くと讃えよと我らがワギとて言わざる得まい!」
「嫌ですわ、ガノさん。一杯目から酔っておられますの? 貴方の若いご友人は何処にお暇してしまいましたの?」
 眉根を寄せて白酒を啜るのはエンジュさんだ。彼女の言う『ガノさんの若い友人』とは、僕達と合流する前に行動を共にしていたビャン・ダオさんの事だろう。エンジュさんの問いに、湯浴みをしてきたルミラさんが答える。
「ビャン殿なら、明日の早朝にはソーラリア渓谷に向かうと早めに就寝したぞ」
「僕らと一緒に行けばいいのにー」
 そうひょいっと木製の大皿に雪に閉ざされた大森林を表現したかのような、てんこ盛りのコールスローサラダを持ち込んだイサークさんが笑う。手際よくそれぞれに分けるローリエの菜箸は、昼間に転んだ子供にホイミかけるのに使ったスティックじゃなかったかな?
『そんなんだから、モテないんだよ。イサーク。旧友達の再会の場に、水を差さぬよう遠慮したんだろう』
 頭の上でぱかぱか笑うように動くトンブレロソンブレロに『レディ、ひどいよー』と涙目で訴える。
「しかし、ソーラリアは自然と古い遺跡が混然一体となった明光風靡な場所だが、魔物も多く出没して観光に行くような場所ではない。イサークの言う通り、単独で行くのは危険ではないか?」
 ルミラさんの生真面目な心配に、ガノさんは同意しつつも笑った。
「イサークやルミラ嬢の言うことは理解できる。じゃが、ビャン君は一端の冒険者。レプリアという仲間もおるし、あのドルボードがあれば逃げ切ることも容易かろう」
「あの浮いているカラクリ、面白かったな! じっちゃん、オイラもあれが欲しいぞ!」
 ビャンさんに散々乗せてもらった兄さんの横で、エンジュさんが首を横に振った。エンジュさんはほんの少し乗っただけで、転げ落ちそうになったんだもの。この宴席が始まるまで、ひどい顔色だった。
「ビャン君の乗っているドルボードは、古代ウルベア帝国時代に存在したオリジナルじゃ。とても賢いシステムが収まっておるブラックボックスはとんでもなく頑丈でかつ、厳重な施錠の魔法陣が施されておって未だ覗けぬが、『低空飛行をする』に限ったシステムの複製には成功しておる。今、ドルワーム王立研究所が量産型ドルボードを開発していて、数年内には中堅の冒険者が購入できる程度の費用で発売したいと院長君が言っておったぞ」
 他愛のない話が皿が空になり、新しい料理が運ばれるように次々と交わされていく。
 僕は幽霊みたいで皆には見えないし声も聞こえないけれど、兄さんが時々僕のことを見て気にしてくれる。他の皆も僕の存在のことは知っているから、僕はここに居て良いって思えて居心地が良い。
 欲を言えば、美味しそうなご飯だから食べたいなぁ。
「何はともあれ、みんな無事で良かった! みんなに会えて、オイラ、とっても嬉しいぞ!」
 兄さんの言葉に、各々が嬉しそうな笑みを浮かべた。
 全員が一堂に会したのは、グランドタイタス号を降りて三門の関所で別れて以来だ。迷いの霧を抜けたレンダーシアに満ちた不穏な空気、勇者の大国グランゼドーラが拒絶とばかりに硬く閉じた扉。それらを見上げて、僕らはこの先は何が起こるか全くわからないと覚悟を決めた。もしかしたら死ぬ事すらあるかもしれない。互いに遺言と呼べる手紙を預けあって、別れたのを昨日の事のように思い出す。
「結局、調査団は全員生還だったんだってねー。本当に一人も死者が居なくって、良かったよー」
 スパイスを効かせてパリパリに皮を焼いたタンドリーチキンを頬張ろうとしたイサークさんの鳩尾を、ルミラさんが容赦無くついた。青い肌のウェディの肌は真っ白になって悶絶。ルミラさんは俯いたエンジュさんの肩を労わるように抱き寄せた。
「すまない。ガノと合流する前に、ルーラストーンタクシー協会を通じてセレドの町へ行ってきたんだ」
 子供しかいない、セレドの町。なぜ、大人が消えてしまったのか。その調査をする為に滞在したエンジュさんとルミラさんは、最終的にその真相を見つけた。でも、それはとても喜べたものじゃない。子供達は死んでしまっていた。生者と死者は共存できない。親の元に帰るりたい子供達の願いを叶えることが、不可能だと確信するようなものだった。
 すんと鼻を啜ったエンジュさんは、僕らに言う。
「セレドの子供達は立派ですわ。真実を知っても、生きて行くと前を向いているんですもの。あの子達のお墓に花を手向けただけで、べそべそ泣いていては笑われてしまいますわ!」
 そう笑いながら兄さんの果実酒を奪って飲み干せば、兄さんはひどい返せと大騒ぎ。
 笑って流されそうになるけれど、エンジュさんはきっと子供達のことを想って泣いたんだろう。子供達が親元に帰れないことを嘆かないで前を向いて歩こうとすればするほど、その胸の中に燻っている悲しみを感じずにはいられなかったんじゃないか。死んでしまった者は蘇らない。会ってきた親達は死んだ後の子供達と過ごしてくれた事に、感謝すらするかもしれない。感謝される事じゃない。きっと彼女らならそう思う。だからこそ、苦しい。こんな結果を悔やんでいるんじゃないかって思うんだ。
 でも彼女らが子供達と会った時には、迷いの霧がレンダーシアを包み込んだ頃には、もう、全てが遅かった。彼女らが親と子を一瞬でも再会させることができた、どう頑張ったって それ以上のハッピーエンドなんか存在しないじゃないか。
 そんなこと、僕が言える立場じゃない。過ぎ去って取り戻せないものほど、後悔しちゃう事を僕は知ってるから。
「なんにせよ、我輩とイサークが無事にこちらのレンダーシアに来れたのは、種族神のご加護であろうな」
「ほんとーだぜ! じっちゃんと兄ちゃん、死んじゃうかもしれないって見送るのとっても辛かったんだからなー!」
 ぽかぽかとガノさんとイサークさんを叩く兄さんだけど、旅の扉の奥に消えていったのを見送って、アラハギーロに戻るまでの間は碌に食事を摂らなかった。心配で食欲が湧かないって、あの食いしん坊の兄さんが言うんだ。二人とこうして生きて再会できた事を、一番喜んでいるのは兄さんだろうね。
「でも、向こうからこちらのレンダーシアに来れたの、僕らだけじゃなかったんだって。行方不明になってたアンルシア姫も、向こうのレンダーシアに迷い込んでたらしいよ」
「噂は聞いている。なんでも先日、グランゼドーラに強力な魔力の衝突があった後に、アンルシア姫が城下町の広場に立っていたそうだな。結局、あの固く閉ざされた門扉の奥の勇者姫とは、アンルシア姫ご本人だったのやもしれぬな。オーグリードにも勇者として名を馳せた兄上の死を乗り越え、偽りの世界を形成していた魔を討ち取ったのだろう」
 言葉の最後でソーセージを齧れば、ぱりっと音が響く。
 調査団が最後にグランゼドーラを偵察し、偵察隊が情報収集し撤退と同時に調査団も撤収となった。グランゼドーラが追っ手を放ち、調査団と交戦する可能性もあったからだ。僕らの目的は情報の収集と回収であって、敵と戦うためじゃない。ドラクロン山系を越えてグランゼドーラ領に侵入した偵察隊は、おぞましいものを見たという。魔障に満たされ廃墟となったグランゼドーラだ。人の営みも魔物の影もなく、恐ろしい戦いの跡だけが色濃く残った世界を顔を青ざめて伝える調査団員に疑いの眼差しを向ける者は誰もいなかった。
 今まで鎖国同然に閉ざされていた王国の判断を批判していた調査団員も、この被害が外に及ばぬよう封印する為だったのだろと意見を改めた。勇者姫と名乗った勇者の妹が魔物の軍勢と戦い続けていたのだろうと、褒め称える声が次々と上がった。結局、偵察隊はお姫様を見つけることができなかったが、そのお姫様は一足先に凱旋していた。
 勇者の国のお姫様は、勇者でなくても強いのだろう。
 僕は勇者の父が描かれた、5番目の神話を思い出す。生まれた双子のうち、兄が勇者であった。しかし妹も類稀なる才能を持っていて、強力な魔力と呪文で勇者の傍らで魔王と戦ったという物語だ。
「でもさー、お姫様の兄ちゃんが勇者だったんだろ? 兄ちゃん死んじゃって、大魔王って奴は誰が倒すんだ?」
 確かに、アンルシア姫は帰還した。でも勇者であるトーマ王子がお亡くなりになった事実が覆るわけじゃない。魔王軍との戦いが依然続いているグランゼドーラは、勇者不在のまま大魔王と戦わなくてはならなくなるのだ。
『誰かが倒すさ。アタシ達だって、勇者でもないのに冥王なんて大それた存在と戦ったじゃないか』
 ブレラさんの言葉に、兄さんがそうかーと納得した顔になる。
 確かに僕らは勇者じゃない。ただ、僕が『冥王ネルゲルと必ず会える運命』を持っていただけだ。ホーローさんがキーエンブレムを託してくれて、ガノさんが意図に気づいてくれて、皆が勇気を振り絞ってくれた。この世界を救う英雄になるのに、勇者である必要はないのかもしれない。
「じゃあさ! じゃあさ! ついに出来るんだな!」
 兄さんがはしゃいだ様子で椅子の上を跳ねる。
「ようやくじゃろうて!」
「随分と遠回りしてしまいましたわね」
「いやぁー、長い道のりだったねー」
『これからじゃないか。過去形に勝手にするんじゃない』
「うん。心が奮い立つな…」
 皆がそれぞれに笑みを浮かべて頷きあってる。あれ? なんの話をしてるんだろう?
 首をかしげる僕に向かって、兄さんが笑った。
「相棒! なに、ボーッとしてるんだよ! ようやく探しに行けるんだよ! 相棒の故郷を…!」
 僕の故郷。
 滅んだ、エテーネ村。
 僕はすごく驚いてる。驚いてて、頭が上手く働いてくれない。兄さんは確かにグランゼドーラ王立劇場に向かうついでに、僕の故郷を探してくれるって言ってくれた。でも、どうしてそんな事を信じてくれるんだろう。僕が出任せを言っているかもしれないじゃないか。この世界の何処にあるかも知れない、滅んでしまった小さい村を、探そうだなんて…。
 兄さんが僕の横に歩み寄って、触れないけどぺしぺしと腕を叩く。
「んもー! しっかりしてくれよ相棒! 相棒が主役なんだぜー?」
 なー? そうくりんと猫耳が皆を向けば、皆がうんうんと頷いた。
「レンダーシアの考古学者様に会って、エテーネについてご存知ないか聞いてきますことよ。こちらに到着して直ぐに文を差し上げた所、ぜひ意見を交わしたいとお返事いただきましたの」
「その考古学者は、あの廃墟となり魔物も闊歩するリンジャハルに乗り込んで、現地の文献を収集しているそうではないか。学会からは高い評価を得られていないと聞くが、心意気は天晴れ! 海運に適した立地条件で大都市の発展の形跡がある場所ならば、エテーネの記録の一つくらいは残っておるじゃろうて!」
 いやいやいや。エンジュさん。ガノさん。僕の故郷探しより、考古学の先生に会うのがすっごく楽しみって顔に出てるよ。乾杯しないで。
「自分はガートランドで参謀として王に仕えている、マグナス殿の紹介状だ」
 そう兄さんに向けて、金箔で模様の描かれた美しい紙で巻かれた巻物を渡してきたのはルミラさんだ。
「マグナス殿はグランゼドーラの名家のご出身でな。彼の祖父母の時代…今から60年ほど前に、グランゼドーラで大流行したメラゾ熱を撲滅したのが錬金術師であると教えてくれたのだ。その錬金術師がルアムの兄上ではないだろうが、同業の横の繋がりで見出せるやも知れぬ。故郷への道に、これを生かしてほしい」
 うぅ。こんな真面目に言われると、こっちが恥ずかしくなっちゃう。聞こえないけど、お礼まで口籠っちゃう。
「僕は移動手段探しー。もうレンダーシアで行ったことのない場所って、険しい山岳地帯と、内海くらいだからね。内海は潮の流れが複雑で、一流の船乗りでも連れて行ってくれる人見つけられなかったんだよねー」
 だからー。イサークさんがにっこり。
「ドラクロン山で飛竜をてなづけてみようと思うんだ!」
「イサークの兄ちゃん、スケールデケー!」
 いやいやいや。どう考えても無理じゃないの?
『今は滅多に聞かないが、大昔は人間が飛竜に乗って空を舞っていたんだよ。まだ、山には竜守りが居るみたいだし、行ってみる価値があると思うよ』
「自分も同行するつもりだ。イサークでは心許ない気がするのでな」
 兄さんがルミラさんから渡された巻物を振り上げて、椅子の上に立ち上がった。
「よーーーーし! みんな! 相棒の故郷を! 絶対に! 見つけるぞー!!!」
 わーーー!待って!兄さん待って!
 僕は兄さんを捕まえると、強引に入れ替わる。肩に漬物石を乗せられるような重さを体全身で受け止めながら、小さいプクリポの手がテーブルを叩いた。ばぁん!がしゃん!テーブルの上にあったお皿が跳ねる!
「ど! どうして!」
 兄さんの体はとにかく声が大きくて響く。僕の声は酒場全体に響き渡ってしまって、他のお客さんが振り返ってしまうほどだ。でも、僕はそれよりも次の言葉を吐き出していた。本当にプクリポって種族は舌が回る。噛んだって良いくらい急いても、言葉は濁りも淀みもしない。
「僕の故郷を探そうとしてくれるの? だって、何処にあるかもわからないんだよ? もう、滅んでしまって、なくなってるんだよ? 僕だって幽霊みたいで、皆には見えないし声だって届かない。そんな僕の言葉を信じちゃうの?」
 酷い質問だ。皆が僕の言葉を疑う訳がないじゃないか。
 涙が出てくる。視界がぼやけて、テーブルの上に乗ったオムライスのデミグラスソースがけのホワイトソース部分みたいにぐにゃぐにゃしてる。
「僕、本当に故郷に帰りたいのか、実はよくわからない。もう、冥王は倒されて、殺される心配もない。レンダーシアを旅したように、僕は兄さんと一緒に、皆と一緒に旅ができて普通に幸せだし楽しいんだ」
 そう、僕は今の旅が凄く幸せだと思う。頼もしい仲間達、優しい兄さんは、僕を一つの存在として扱ってくれる。このまま幽霊みたいでも良いかもって思えるようになっていた。
 冥王ネルゲルに滅ぼされた村を探して、それを見て、僕は何を思うんだろう。
 多分悲しくなる。誰も待ってない廃墟だ。虚しくなる。
 そんな気分なんか、正直要らない。向き合いたくない。
「このままで…。このままで、良いんじゃないかって、僕は思ってるんだ」
 自分のことしか考えてない、なんて嫌な奴なんだろう。兄さんにこんなに迷惑を掛けているのに、兄さんだったら『いいよ』って言うだろう言葉に甘えている自分が情けなくて仕方がなかった。
 ぽふっと頭の上から白い世界が上から降って包み込まれると、柔らかいもので頭も顔もわしわしと拭かれる。これは、タオルだ! 手が増えてきて、軽いプクリポの体は持ち上がり、もみくちゃにされてる!
「まぁまぁ! ルアム君はしっかり者だと思いましたけれど、可愛らしいところがありますのね!」
「ルアム君、知ってるー? そういうの、結婚前夜の花嫁の憂鬱って言うんだよー」
『魚どもは適当に解釈してあまり理解はしておらぬが、まぁ、それがかえって良かろう』
「はっはっは! 若者は悩むが仕事じゃ! 悩め悩め!」
「紹介状は好きに使えば良い。自分達はしたい事をするだけだからな」
 そうやってコロコロ転がされて、お子様は早く寝なさいと食堂を追い出されてしまった。
 宿の廊下は中庭をぐるりと囲んだ回廊になっていて、ひんやりと濡れた頬を夜気が撫でていく。僕が下がると、兄さんが戻ってくる。兄さんは手すりに座って、きれいに手入れされた中庭を眺めていた。小さい池には花が浮かび、花壇の花々は蕾になって寄り添って朝が来るのを待っている。遠くで聞こえる鳥の声、近くで鳴く虫の声、それらを自分の不安がありもしない心臓の音のように踏み砕いていく。
『ごめん』
「謝んなくていーよ」
 とても兄さんの横に並んで顔を見るなんてできない。
 誰よりも早く僕の故郷を探そうって言ってくれたのに、僕が故郷を探さなくて良いだなんて否定した。なんて酷い奴なんだろう。兄さんの気持ちを、皆の気持ちを踏みにじってる。吐き出した言葉を、皆は聞かないふりをした。でも、僕は吐いた言葉を無かったことに出来ずにいる。
『僕、皆と一緒にいる資格ないかもしれない』
 兄さんは無言だ。ぶらぶらと足が揺れている。
 扉が開いて閉まる音が響くと、こちらに向かって足音が向かってくる。僕も兄さんもそちらを向くと、宿に備え付けられたナイトキャップとパジャマの装いのドワーフの青年が向かってくる。やや吊り目がちの凛々しい眼差しは、真っ直ぐ兄さんに向いている。
「そちは確か、ガノの友人のルアムであったな」
「うん。こんばんわ、ビャンの兄ちゃん」
 エンジュさんが言っていたガノさんの若い友人、ビャン・ダオさんだ。ガノさんは彼の事を見込みのあるライバルって笑ったけれど、ビャンさんはガノさんを親や師匠のように慕っているのがわかる。古風な喋り方に、兄さんがツボにはまって一時間は笑っていたっけ。それでも怒りを飲み込んで穏やかに接してくれるあたり、とても育ちのいい思慮深い人だと分かる。
 彼は真摯な眼差しのまま、挨拶を返して言葉を継いだ。
「実はそちの相棒であろう、ルアム…に話したいことがあるのじゃ。話すことは可能かえ?」
 兄さんがちらりと僕を見た。僕が頷くと、すっと身を引いていくれてすんなりと入れ替わる。気温や匂いが鮮明になって、世界がより濃く感じられる。ぺこりと僕は頭を下げた。
「こんばんわ。ビャンさん」
「ほほう。瞳の色と印象が変わりおった! 実に興味深い…」
 ガノさんそっくりに瞳を輝かせて、本題を忘れそうになったのだろう。こほんと咳払いを一つ。
「ルアム。ガノから聞いておる。そち、滅んだ故郷を目指しておるそうだな」
 小さく頷いた。ガノさんは今後の予定として、僕の故郷を探す程度のことは話しているだろうと思うから。
「そちは今、心の中で何百何千と故郷を滅ぼしていることだろう。実際に滅んだ故郷に相対した時、己が心の中で描いた故郷と類似しておれば、想像した通りと準備したままに受け入れられるからの。実に苦しいことだろう」
 息が止まった。
 誰にも話していない。兄さんにすら。それなのに、僕の心の内を見たようにビャンさんは語る。
 赤々と燃える炎が全てを飲み込んでいた。黒々とした燃え尽きたものが倒れていた。その跡がどうなっているのか、僕は知らない。でも、アルウェ王妃の別荘の廃屋を見て、棄てられた城の朽ちていく様を見て、なんとなくこんな風になっているだろうと想像だけはした。でも、それらはエテーネ村とは違う。
 記憶の中の村に何度も火に焼べた。
 なんのために。何度もそう思ったけれど、夜、焚き火を見る度に、家で暖炉や竃の炎を見る度に思っていた。苦しかったけれど、止めることはできなかった。止められないものなのだと、諦めすらしていた。
 ビャンさんに言われて、意味の分からない苦行の答えをはっきりと知った気がする。
「そちの想像の通り、故郷は酷い有様であろう。たとえ全てが無となり広大な野原が広がり花々が咲き誇っていようと、そちのかつて暮らし愛した故郷はこの世界には何処にも存在しない故に慰めにもならぬ」
 それは分かっていた。
 冥王ネルゲルが死んで、殺されずに済むと心の底からホッとした。でも、結局は故郷の皆は天の箱舟に乗って昇天の梯を昇ってしまった。故郷に帰っても、住む人は誰もいない。僕の故郷は滅んだまま消えてしまうだろう。
 冷たい手が僕の手を取った。握った手が小刻みに震えている。
「ただただ苦しかろう。見ずとも、見たとて、苦しみはつきまとう」
「ビャンさんは、どうして故郷に行ったんですか?」
 苦しみに身を絞るような声に、僕は彼も同じ苦しみを知っているとようやく分かった。脂汗を額に浮かべたビャンさんは、弱々しくも笑っていた。
「愛した故郷の、愛した人達に最も近い場所で死ぬつもりであった」
 あぁ。ビャンさんは僕だ。兄さんに出会うこともなく、ネルゲルに殺される恐怖に追い詰められていたら、僕がエテーネ村を探す目的は死ぬ場所を求めることになっただろう。僕がエテーネ村のルアムのままでいられるのは、同じ名前の兄さんの存在があるからだ。もし、兄さんと出会えなかったら、そう考えるだけで腹の底が冷える。
「だが、余は幸運であった。そちの想像の通り、独りであったなら今の余はおらぬ」
 ビャンさんにとっての兄さんは、ガノさんなのだろう。ビャンさんの心が救われたことを、僕は自分のことのように嬉しく思う。その喜びが、希望になって暗い気持ちの中に星のように輝いた。
「余はガテリア皇国第一皇子ビャン・ダオ。例え故郷が灰燼と化し滅び忘れ去られたとしても、それは揺らがぬ。余は根無し草にはならぬ。最早何も残っておらぬガテリアという荒地に、第一に芽吹く若葉となろう」
 力強い笑みだった。
 そんな笑みを浮かべるビャンさんを、誇りにすら思う。
「ルアム、心を強く持ってたもれ」
「僕は…」
 冷えた手は離れ、そっと肩を押される。
「今一度、そちの傍に誰がいるか見るが良い」
 傍に。そう、傍には兄さんがいる。エテーネ村を離れて、ずっと、過去に迷い込んだ時以外はずっと一緒だった。同じ名前で、テンレス兄さんに似ていて放って置けなくて、僕のことを考えていてくれて、わがままもいっぱい聞いてくれた。一緒に世界を旅して、僕のせいで冥王ネルゲルと戦わなくちゃいけなくて、死ぬような危険な目にあっても笑っていた。
 兄さんは猫耳で、丸くなると赤い毛玉になる。赤い瞳はいつも情熱で燃えていて、なんにでも一生懸命だ。
 僕にとって世界で一番特別な存在だろう。
 親友、うぅんそれ以上。血が繋がっていない、種族すら違うけど家族のような人。兄で、時々弟で、親みたいな時もある。
 兄さんは笑っている。いつでも、いつもの笑みで僕を見守ってくれている。
『相棒。オイラは相棒の笑顔が見れるなら、どんな選択をしても良いぞ』
 どうしてそんな風に言うのさ。
 あんなに迷惑かけたんだから、恩返ししなきゃいけない。僕はこれ以上兄さんに迷惑かけちゃいけないとすら思っているのに、どうして『甘えていい』みたいなこと、言うんだよ。
「いっしょに…」
 これが最後。最後のわがままにしたい。
 最後。今までが終わって、新しいことが始まる。それは今までの僕らの関係が終わってしまうかもしれない。それが凄く怖くて、でも今がずっと続くことはないって心の何処かでわかってる。皆、前に進んでいってしまうんだから。
 兄さんの体はなんて涙脆いんだろう。どんどん大粒の涙が出てきて、口の中があっとういう間にしょっぱくなる。
「一緒に…エテーネ村に行ってくれる?」
 兄さんが笑うと顔がぱっと光るようだった。
『あったりまえだろ! 皆で一緒に行こうな! ルアム!』
 触れる訳がないのに、抱きしめてくれた兄さんの温もりは焼きたてのパンケーキのようだった。