蛇のように賢く、鳩のように素直であれ - 前編 -

 レンダーシアの内海の南側の海岸一帯を、人々はリンジャハルと呼んでおりました。グランゼドーラが所有する最も古き地図に、既にリンジャハル海岸と書き込まれている。その海岸一帯には、高度な文明の名残であろう廃墟が数千年の歳月を風雨に晒されても倒壊することなく佇んでおりますの。海中に没している遺跡も含めれば、その都市の規模はグランゼドーラ領に匹敵する規模と推測されましょう。
 古くから存在するその遺跡が、今も廃墟であり続けるのには理由がございますの。それは塔の内側から湧き続ける魔物達。内海に面した廃墟を我が物とし、レンダーシアの流通を支配しようとした王国はいくつもありました。ある王は千とも万とも言える多くの兵を連れて掃討作戦を行い、ある王はダーマ神殿に助力を求め神の力で魔物を払おうとした。しかし、それらは上手くいかなかったそうですわ。
 セレドの子供達を追って来た時とそう変わらない、朽ちた塔の林の陰を抜け、中央塔と呼ばれる巨大な塔へ向かう。人の生活している気配は全く残っておらず、風雨に晒されて朽ちつつある棚に、触れただけで崩れそうな本が沢山収まっていますわ。綺麗そうなクローゼットは開けてはいけません。あれはパンドラチェストでしょうから。ステンドグラスの美しい光を踏みしめ、階段を登って上を目指していくと人影が私達を迎えましたの。
「手紙をくれたエンジュさんとガノさん?」
 まだ声変わりが終わっていなさそうな幼い声色に頷けば、潮風に揉まれる黒髪の下の瞳が和みましたの。
「遠路遥々ようこそ。僕はクロニコ。ヒストリカに雇われて助手をやってる」
 こちらが手短に挨拶を返せば、開けた場所にある古い誘いの石碑の傍へ歩いていかれます。誘いの石碑は朽ちた祭壇の上に鎮座するように設置されている為、もともとリンジャハルにあったものなのでしょう。ルーラストーンの着地点に設定できる誘いの石碑は素材の入手の難易度も手伝って、限られた場所にしかない。このリンジャハルが当時の立地上ではとても重要な場所であると、それだけで理解できますわ。
 今も稼働していて淡い光を放つ誘いの石碑の傍にある扉を開くと、体に電流が走るような強力な結界を抜けましたわ。決して大きくはない部屋の天井まで本棚がそびえ立ち、ぎっしりと本や巻物が詰まっている。無造作に積み上がった木箱の中には、リンジャハル近郊の魔物の生態や植物の分布などが書かれた紙。水の入った樽、パンなどの食料の入った袋、食器の類を見ると、ここがヒストリカ博士の研究拠点のようですわね。
「そこにいるのが、ヒストリカだよ」
 そうクロニコさんが示す先には、明かりのランタンがなければ机があると認識できない本の樹海の奥地が広がっておりますの。その机に熱心に向かっている華奢な背中は、来訪した私達には気がついておりませんようね。何かを呟いているようですけれども、何なのかしら?
 ガノさんが少し後ずさる。何事かとヒゲに埋もれた顔を見やると、ドワーフ特有の大きな耳を掻きながら仰いますの。
「な、なんとも気難しそうな女子のようじゃな。嬢ちゃん、お主が話しかけた方が良さそうじゃ」
「あ、ガノさん聞こえちゃった? 僕もエンジュさんが話しかけた方がスムーズだと思うよ」
 何なのかしら? 私はヒストリカ博士の傍に歩み寄ってみましたけれど、まだ気が付かれない様子。色白いほっそりとした指が、机に接吻しそうなほど下げられた金髪を抱えているように見えますわ。傍に来て気がつきましたけれど、何事か独り言を申しておられるようですわね。
 どうしよう。どうしよう。エンジュという人も、ガノという人も冒険者でありながら学会では名が知られている人じゃないか。『世界樹との共生論』や『イシカズム論理のヌラワカ定義の新解析』って論文、ヒストリカと変わらぬ年齢のレディーが出したって大注目だったけど、彼女じゃないかなーって思うんだよね。ガノって名前も最近、ドルワーム王国に新任した賢者だって聞いた気がする。あーーーーーーーーー。そんなビックネームが、ヒストリカの研究にどうして興味があるんだ! 全くもってホワイとしか言いようかない。失礼があったら学会追放されちゃうんじゃないかな? 心臓がばくばくして視界が霞んでくる。それにしてもクロニコはちょっと出かけて来るって言って、いつまで出かけているんだろう?
 顔が上がると、お互い視線がバッチリ合いましたわ。寝ぼけ眼と惚けたような口元が大きく開くまで、一呼吸分。大きく息を吸ったヒストリカ博士が、私、挨拶されると思いましたの。
「びゃあーーーーーーーーーーー!!!!」
「きゃあーーーーーーーーーーー!!!!」
 迸った悲鳴に、私も驚いて悲鳴をあげてしまいましたわ! 全くスムーズではありませんことよ! 耳塞いでないで、誰か教えてくださいまし!!
 肺の中の空気を全て絶叫に変換させたヒストリカ博士が、白目を剥いて倒れてしまわれましたわ。なんてことでしょう! 私の顔に驚いて、悲鳴をあげたとしか言い様がない状況でしたわ。平均的なエルフの顔だと言うのに、傷ついてしまいますわ。
「ソーリー! ソーリー! 居ると思わなかったので、驚いてしまったのだ。大変失礼なことをしてしまったな」
 直ぐ意識を取り戻したヒストリカ博士は、ハキハキとした口調で申し上げましたわ。
 ふわりと鼻腔をくすぐる紅茶の香りに振り向けば、クロニコさんがこの騒ぎの間に紅茶を入れてくださっていた様子。ガノさんが手土産の焼き菓子を、辛うじてテーブルと呼べるスペースに用意しておりますわ。なぜだかぎこちない動きをするヒストリカ博士を座らせ、私達は改めて自己紹介から始めましたの。
「先日の申し出を快諾してくださり、ありがとうございますヒストリカ博士」
「い! いや! れ、礼を言われる程の事じゃあないよ!」
 何で噛むのかしら? 先ほどはあれほど流暢に謝罪しておられたのに、緊張でもしておられるのかしら?
「しかし、なかなかの資料の量ではないか。これが全て、リンジャハルに関する事柄なのかね?」
 ガノさんが見上げるのは、狭い空間の隙間という隙間を埋める蔵書や巻物の数々。整理整頓があまりなされていないとはいえ、その量は崩れてくれば逃げ場なく圧死しかねない圧迫感を感じますわ。博士が肯定すれば、ガノさんは素晴らしいと感嘆の声をあげましたの。
「正直、文献収集の難易度から我輩達が知りたい情報が得られるか不安ではあったが、無駄な心配であったな。ヒストリカ女史、君は学者には勿体無い程の度胸と探究心を持っておられるようじゃ! レンダーシアの考古学学会も、さぞや鼻が高い事だろう!」
 一千年前の不死の魔王との戦いで、当時存在したレンダーシアの多くの過去の遺産が消失してしまったそうですわ。他の5大陸に比べてレンダーシアの考古学が停滞しているのは、文献の収集が難しいから。これほどまでに文献を集めたヒストリカ博士の手腕は、素晴らしいとしか形容できませんわ。
 私もテーブルから身を乗り出し、赤面して項垂れている博士に声をかけた。
「先日お手紙に記した通り、私達は『エテーネ』という地を探しておりますの。博士、何かご存知ありませんか?」
「あぁ。キミ達が来る前に文献を調べ直しておいたんだ」
 クロニコ。そう博士が声をかければ、助手は小さな木箱をテーブルの上に乗せた。蓋を開くと、一冊の手帳が収まっていますわ。金属の枠で補強された革張りの手帳で、翼を広げた鳥を簡略化したような紋章が箔押しされた形跡が見て取れます。非常に古いものであるようで、触れるのも躊躇ってしまいますわ。
 白い手袋を嵌めた博士が慎重に手帳を広げ頁を繰れば、古代レンダーシア文字がびっしりを書き連ねられている。所々破けたり汚れたりしているが、書き込んだ人物の真面目さを感じる丁寧な文字で読みやすそうですわね。
「これは約5000年前に記されたとされる、ファラスという人物の手記だ」
 さらにクロニコさんが私達に見せるように置いたノートには、現代使われているアストルティア文字が書き込まれていますわ。フウラが喜びそうな可愛らしい丸文字を見るに、ヒストリカ博士が直筆で翻訳した内容を書き込んだ物のようですわね。
「拝見させていただきます」
 私とガノさんは、手記の翻訳が書かれたノートを読み始めましたわ。
 ファラスという人物の手記は、リンジャハルに赴く彼の主に追従することから始まりました。ヒストリカ博士が欠損して読み取れない部分を推測し補完しているとはいえ、ファラスという人物はかなり詳細にリンジャハルの事を書き記していましたわ。
『レンダーシアの貿易の要であろう、海上都市リンジャハル。その長を勤めておられるのは、才気溢れる一人の召喚士。我が主が親友と誇らしげに語るリンジャーラ殿だ。国を担う者として共に研鑽を重ねた彼は、主が称賛する程の知識と力、そしてリンジャハルの民を想う優しい心根の人物だ。かの御方の示す先にリンジャハルの明るい未来があると、誰もが信じて疑いはしないだろう』
 このリンジャハルが都市として栄えた頃を推測するに、その規模は一つの王国と同等、それ以上と言えるでしょう。このレンダーシアの内海を支配する程の影響力を持つ都市の長であるリンジャーラを親友と呼ぶ、ファラスの主も王国の要人と見て良いでしょう。常に従者を付ける身分を考えれば、当時に存在した王国の王族である可能性もありますわ。
『しかし、繁栄するばかりと思われたリンジャハルが、疫病によって傾ぐとは誰が推測できただろう』
 疫病。リンジャハルは疫病によって滅んでしまったのかしら。決して有り得ないことではありませんわ。
『報告ではたったひと月の間に、住民の三分の一が命を落としたと言うではないか! 我が主は報告が終わらぬうちに、疫病を根絶する為の使者として遣わして欲しいと王に直訴された。あのリンジャーラ殿が対応出来ず猛威を振るう疫病だ。王は王国の秘宝と称される、絶大な力を秘めた宝珠の持ち出しを許可した。リンジャハルを救う決意に満ちた主の表情に、私は必ず主の力になり守り抜こうと誓いを新たにした』
 この都市の規模を考えれば、死者は千人を降らないかもしれませんわ。
 メラゾ熱? いえ、症例が全く記載されていないですから、疫病を断定するのも早いですわ。この都市を滅ぼさんとする奸計が絡んだ、呪術の類だとて考えられる。しかし、召喚士という職業柄魔術に明るいだろうリンジャーラが後手に回るなら、呪術の類の線は薄いかもしれませんわね。
『海上都市リンジャハルは、地獄であった。もはや疫病に臥せっているのか、息を引き取っているのかすら判別できぬ、横たわる人々で足の踏み場もない。潮の匂いと死者が腐る匂いが綯い交ぜになり、壮絶な死に顔とそれらを啄む有象無象に肉の塊になった屍の数々。様々な修羅場を潜った私でさえ、胃から込み上げるものを堪えた』
 文章が語る生々しい惨状に、ガノさんが低く唸りましたわ。
『生き残った者達の中に、リンジャーラ殿の姿があった。その顔は絶望に塗れ、ガラス玉のような瞳は主を視認しても何も反応しない。抜け殻のような親友の姿に、主は心の臓を掴まれたような衝撃を受けておられた。主はリンジャーラ殿を懸命に励まし、我が王国の至宝を用いてリンジャハルの民の命を救おうと語りかけられた。主の声が届き、リンジャーラ殿の瞳に光が宿ったのを、私は見た』
 繰る頁の薄さを指先で感じながら、この物語が終わりに向かっていると察する。
『リンジャーラ殿は寝る間も惜しんで、宝珠の力を生かす術を探求されたという。疫病を持ち帰らぬ為にリンジャハルを離れ、少し時期を置いて帰国した我々は、数ヶ月後には疫病が駆逐された報告を受けることになる。疫病で損なわれた部分は瞬く間に修復され、死者を天に送る盛大な国葬が執り行われた後、リンジャーラ殿はリンジャハルの完全な復活を宣言したのだった』
 最後の頁を読み終えて、小さくため息を漏らしましたの。隣に座っていたガノさんが、テーブルを叩いた。
「素晴らしい! レンダーシアの歴史を揺るがす大発見じゃないか! 女史、どうしてこの文献が、論文が評価されぬのだ? 我輩には理解できぬ!」
 私も大きく頷きましたわ。結局、疫病を駆逐し復興したので、疫病はリンジャハルの滅亡の理由にはならないでしょう。ですが、この巨大な廃墟がレンダーシアの貿易の要と称された海上都市であったという情報だけでも大発見ですわ! ガノさんの言う通り、どうしてヒストリカ博士の学会の評価が芳しくないのか分かりませんわ。
 ヒストリカ博士が俯いた。
「ありがとう。ユー達にそう言って貰えるだけで、研究をしてきた甲斐があるというものだ。だが、この手記には続きがある」
 そう言って、博士はもう一冊ノートを差し出した。
「私は証明できなかったのだ。リンジャハルが滅亡した、本当の理由を…」
『奇跡的な復興を遂げたリンジャハルで、復興を祝う祭典が行われる事になった。我が王国とリンジャハルの密接な関係を示すかのように、祭典は官民問わず様々な催しが企画され、多くの民が復興を祝う為に訪れ賑わいを見せている。招待を受けリンジャハルに降り立った主は、我が事のように喜んでおられた』
 文面から察するにファラスとその主の王国は、リンジャハルからそう遠くない場所にあるのでしょうね。明るい後日談を追いながら頁を繰る。
『中央塔で主を出迎えたリンジャーラ殿の顔は生気と自信に満ちている。この地の疫病を撲滅し滅亡の危機から救った英雄の面差しである。主と軽口を叩き合い無邪気な笑い声をあげる、夏の風さわやかな晴天が、まさに平和が訪れたと実感させてくれる。主の喜びに幸せな気分になる。リンジャーラ殿に感謝せねば』
 ガノさんが『良いかね?』と呟かれました。頷けば太い指が頁を捲る。
『ふとリンジャーラ殿が表情を曇らせる。彼は未だに我が王国の至宝を拝借したままである事を気にされておられる。この地を救う為に尽力してくれた恩を必ず返さねばならぬと、リンジャーラ殿は生真面目に話される。主は貸し借りを気にするお方ではない。主はこの地の民が、そして親友が救えた事を喜び、それらは瑣末な問題と笑い飛ばされた』
 国の至宝を借りている者の気がかりとしては、ごく普通の反応。ファラスはなぜ、こんな事まで書き残しておられるのでしょう?
『リンジャハルはかつての賑わいを取り戻している。多くの民が疫病によって死に絶えたが、今は復興を祝う為に死した者達よりも多くの民が訪れていた。歌姫によるコンサート、打ち上げ花火の日程、祝賀記念のリンジャガ二の食べ放際サービス、様々な催しの告知が掲示板を賑わせている。それらを眺めながら特産の海産物に舌鼓を打とうと笑った我々は、不穏な噂を耳にした』
 不穏な噂。これがファラスがこの後日談をも詳細に書き残した理由なのでしょうね。息を呑み頁を繰る。
『住民の失踪事件。新たな疾患者が現れず、疫病が収束に向かいつつあった頃より、リンジャハルの住民が失踪するようになった。最初は疫病のせいで混乱していた役場が、住民の把握にまで手が回らなかった為かと思われていた。しかし疫病が収束し、遺体が火葬されて生存者がきちんと把握されていくに従って、失踪者は疫病のせいとは言い難いほどに多数いることが判明した。このことは都市の上層部も把握していたが、疫病の駆逐に奔走しているリンジャーラは対応できず、部下も後手に回って今に至るという』
 むぅ。ガノさんが唸った。
 確かに大規模な疫病が蔓延していて、住民の管理がままならないでしょう。遺体を獣に啄まれて肉塊になったものもあるとすれば正確な死者を把握することは困難。一家全員、一区画全部が疫病により全滅したとしたら、死者の把握が漏れることは必至ですわ。ですが文面から見てもリンジャハルは住民管理もきちんと行われた都市のよう。失踪者の問題が疫病に由来するものではないと、かなり早い段階で察することができたのでしょう。かの都市の役人の有能さを感じますわ。
『正義感の強い我が主は、住民の失踪事件の調査に乗り出された。失踪者は老若男女問わない。唯一の共通点が夜間に失踪することであった為、我々は夜の街を見回る事とした。夜が更けても煌々と明るく賑わう平和の陰に、私は放心状態で歩く人影を見つけた。主と共に後を追うと、中肉中背のリンジャハルの市民だろう男は中央塔を囲む5つの塔の一つに入っていった』
 中央塔は私達が今いる、リンジャハルで最も大きな塔。この塔を囲むように5つの塔がある。5という数字は魔術的にも相性が良く、この塔自体が一つの大きな魔術具として機能していただろう事は推測できますわ。長が召喚士である事を考慮すれば、このリンジャハルは塔を媒介にして強大な存在と契約を結んだりして、災害や魔物の被害から逃れていたと考えても良いかもしれませんわね。
『我々は見た。こうして文字に起こしても尚、信じがたい光景であった。塔の中には異形の魔人がいた。魔物とは明らかに異なる知性の光を目に宿し、一握の魔物でしか体現できぬ巨体を擁する。一瞥にて脅威であり強敵と察するに余りある存在感。私は知らず知らずに剣を握る手が汗ばんでいた。男は魔人の前で足を止めると、魔人は男を…頭から…』
 思わず下唇を噛んだ。もしかしたら疫病すらも魔人や魔族の謀かもしれませんわ。
『主は飛び出し魔法にて魔人を吹き飛ばした。頭を失った肉体を抱きとめ横たえると、足早に先ほど魔人が立っていた場所の傍へ向かう。なんと、そこには表情のないリンジャーラ殿がいたのだ!』
「なんと!」
 ついにガノさんが声をあげた。予想だにしなかった展開に、私も言葉を失いましたわ。都市の英雄が、守るべき民に手をかけていただなんて…! 一体どうなっているのか、ファラスも主も理解できていないのでしょう。
『主は厳しい表情でリンジャーラ殿に問い詰めた。彼は王国の至宝を闇で染め、巨大な力を手にしたと口にした。リンジャハルを豊かにする為に、どうしても必要なのだと告げる彼の表情に非道な行為をする罪悪感を微塵も感じなかった。次の瞬間、塔が揺れ、身の毛のよだつ魔人達の雄叫びが月夜の下に響き渡った』
 もうガノさんは無言になっていた。この騒動がリンジャハルを破滅に導いたのでしょう。遥かな過去に栄えた巨大な街が、今、滅びゆく様が語られていく。何もできない無力さ。ただ、破滅に向かい読み進めるしかないのです。
『5つの塔から叢雲のように魔人達が涌き出でる。津波のようにリンジャハルの街を飲み込み、人々の悲鳴が木霊する。私と主は住民を一人でも多く救おうと、再び地獄と化したリンジャハルの街へ駆け下りた。主が比類なき魔力にて魔人達を掃討していく。いつの間にか主と別行動していた私も、魔人達が駆逐されつつあることを実感した頃だった』
 私は頁を捲った。これが最後の頁ですわ。
『中央塔の頂から禍々しい巨大な気配が突如現れた。それは悍ましい咆哮を上げ、この場にいた全ての生命を震え上がらせた。閃光が迸り衝撃波となってリンジャハルを薙ぎ払う。魔人が、人が、街が、海が、黒々とした空に浮かぶ一つの光に吸い上げられるように舞っている。その光景を最後に私も衝撃波に呑まれ意識を失ってしまった』
 ヒストリカの丸文字が微かに震えている。研究の対象にしていた地が滅ぶのだ。動揺しているのでしょう。
『目覚めた時、空は白じみ始めていた。私は運良く地下通路の奥へ吹き飛ばされて、難を逃れたようだった。私は主を探しリンジャハルを駆けたが、魔人も人も海上都市の形すらも無くなっていた。一夜にして死者の町となったリンジャハルを探し回ったが、ついに主もリンジャーラ殿も見つけ出すことができなかった。あの時、何が起こったのかは分からない。ただ、あの時私が見て来た事をここに綴る。我が主がこんな簡単に死ぬとはとても思えない。私は主を探す旅に出る為に、筆を置く事とする。次に綴る内容は、最も敬愛する主に再び出会う日となろう…』
 最後には署名が記されている。
『エテーネ王室付 従者 ファラス』
 エテーネ。エテーネの文字ですわ。私が知識の杜でも見い出す事ができなかった、ルアム君の故郷の名。
 私達が穴を開けよと言わんばかりにエテーネの文字に視線を向けているのを見てか、ヒストリカ博士が声をかけましたの。
「私が知る限り、エテーネの記述がある資料はそれオンリーだ。手記からリンジャハルと深い親交があったとされる王国であるらしいが、レンダーシアの考古学会の誰も耳にしたことがない。調べれば調べるほどに、このレンダーシアの歴史に存在していないと思う程に、何も残っていないのだ」
 顔を上げるとヒストリカ博士は俯いて自嘲気味に言った。
「学会からはその手記すらも捏造と疑われてしまった」
「この手記が捏造!? 学会は本気でそう仰りましたの!?」
「あぁ、そう言ってくれると心が救われる。思わず好きになってしまいそうだよ! こんなブリリアントな友情を疑うなんて、学会の感性は理解しかねる。あの時はあんなに沢山あった藁人形のストックが尽きてしまったくらい、ヒストリカ イズ ベリー アングリーだった」
 ヒストリカ博士はそう言って、私達に手記が収まった箱を寄越した。
「私は考古学を辞めようと思っている」
 その言葉に私やガノさんだけではなく、横に座っているクロニコさんまで驚いた顔をされましたら。どうやら、彼すら知らない彼女の気持ちのようですわ。
「証拠の足りないモヤっとした論文、捏造とまで揶揄されて、正直、私は考古学に向いていないんじゃないかって思っているのだよ。連中の言いたい事だって、わかるよ。疫病を駆逐し、都市を救った英雄が、なぜ自分が救った都市を自らの手で滅ぼしたのか。その経緯がわかる文献は何一つない。この廃墟は魔物が多く出現する関係で、遺跡状態からこの滅亡を証明する材料になり得なかった」
 だから。そう箱を見下ろした。
「私の研究を求めてくれるキミの手紙を受け取った時、ベリー ハッピーだった。も、もしかしたら、とととともだ…。いや!友達なんて興味ないし見たこともないぞ! だが、私の胸がトキめいてしまったのは確かなのだよ!」
 なぜ、いきなり友人の話題が出てくるのでしょう?
 と、とにかく! ヒストリカ博士は箱を押し付けるように私に寄せました。
「キミに私の研究を受け取ってもらいたい! 出会って間もないキミが迷惑なのは承知しているが、私の研究を嘘と断定するような輩には決して渡って欲しくないのだ。 向いていないとはいえ、長年研究したのだ。ラブみを感じているのだよ」
 ラ、ラブみ。レンダーシアの言葉は難しいですのね。
 ガノさんを見やると、彼は腕を組んで長く唸っていましたわ。ちょっと、唸ってないで何かおっしゃってください。このまま手記を受け取ってしまったら、ヒストリカ博士は本当に考古学を捨ててしまわれますわよ! ふむと髭の滝から声が漏れると、腕を解いてヒストリカ博士に向き直った。
「レンダーシアの考古学はやや特殊なので難しい。今のお主の力量で今が限界だと悟ってしまっておるのを否定はせん。むしろ、独力でよくぞ此処までと称賛に値する。本当にご苦労であった」
 え? ガノさん、何をおっしゃって…。
「じゃが、お主は一つ勘違いをしておる。そのような細腕じゃ、このリンジャハルでも探索しておらぬ場所があるのではないかな? そう、中央塔の最上階とか…な」
「う、うむ。手記でも光が中央塔の頂から迸ったと記されているが、魔物も出るし、私はか弱いし、クロニコも戦闘は得意ではなくて確認はまだできていない。本来は腕っ節のある冒険者に依頼したいところだが、ちょ、ちょっと、伝手がなくてな」
「いるではないか」
 全員が首をかしげる中、ガノさんはニヤリと笑われましたわ。
「腕っ節のある冒険者。ここに二人も暇しておろう?」
「…そうですわね! リンジャハルが滅亡した原因である光が迸った場所を調べずに、全てを放棄するなんて勿体ないですわ!」
 私はヒストリカ博士の手を取った。まるでエルフのようなほっそりとした白い手を、懐かしく感じますわ。
「ヒストリカ博士。私達が貴女の研究に、微力ながらも協力させていただきますことよ! 共に真実を見つけ出しましょう!」
 手を取られたヒストリカ博士は、棒でも飲み込んだように直立されましたわ。大きく目を見開いて、口はまるで庭園の鯉が餌を強請るようにぱくぱくと動いておられますの。あら? どうされたのかしら? そう首を傾げている間に、瞬く間に顔から頭のてっぺんまで真っ赤になってしまって、顔の様々な穴から蒸気のようなものが吹き出しましたの! ばったりと倒れてしまわれましたわ! わ、私が何かしたのかしら?
「うーむ。難しい年頃のようじゃな!」
 もう! ガノさん、適当なことを申されてないで、博士を起こしますことよ!