蛇のように賢く、鳩のように素直であれ - 後編 -

 エンジュの手の温もりが残っている。私はこの手を一生洗わないと心に決めた。胸を抑えるように握った両手の下で、不安と運動したが故に早まる鼓動が全身を叱咤する。あんなにも遠かった最上階は、ベテラン冒険者の力でハイキングをエンジョイするような気分だった。
 心地よい疲れの余韻の中、目の前には一冊の本がある。
 リンジャハルの頂と言うべき部屋の祭壇の上に置かれた一冊の本。それはファラスの手記で五千年前の崩壊したとされる場所にあるものとしては、真新しい本だった。リンジャハルの深い青を彷彿とさせる美しい装丁。箔押しされた金はリンジャハルの象徴と言える海鳥をモチーフとした市章だ。使い込まれて草臥れている感じはするが、劣化や傷みは見受けられない。今も誰かに日常的に使われている、そんな一冊の本だ。
 その本を手に取る。ずっしりと重い。
 喉が渇いて、空気が通る度にひゅうひゅうと音を立てている気がする。震える指先が表紙に掛かる。がつりと多くのページが表紙に引っ張られ、中身が目に飛び込んでくる。古代レンダーシア文字の殴り書き。殴り書きは文字と視認することが困難なほどに乱雑に書かれていて、文字が重なって読めなかったり、文字とも言えない線のようなものであったりもした。
 しかし、言葉自体は難しいものではない。それは短い文章の連なりだった。
「にくい」
 憎い。その単語を認識した瞬間、そのページいっぱいに殴り書かれた言葉は罵詈雑言だと分かった。
「きえてし…もごっ!」
 更に読もうとした唇が大きく塞がれた。体が担ぎ上げられ、世界がぐるりと回る。まるで大聖堂を彷彿とさせる広さと絢爛さが目を貫く。何千年もの月日が経過したとは思えぬ、ヒビや割れ一つないステンドグラスが滝のようだ。美しいリンジャハルの市章が刺繍された緞帳が、逆さになって生えている。
「もう! なんてことかしら! なんで口に出してしまわれるのかしら!」
「悪態は後じゃ! ともかく、範囲外から出るぞい! クロニコ少年! 急げ!」
 世界がグラグラと揺れる。いや、担がれている私が揺れているんだ。ぐらぐら、がくがく。変な姿勢で担がれて、体が痛い。
「ど、どうなってるんだよ!」
「説明は後でして差し上げますわ! 今は一刻も早く、ここから撤退しますわよ!」
 クロニコの裏返った声と、エンジュの甲高い声が耳を貫く。まるで私を責めるような声色に、どうして自分は手に持った新しい発見を熟読できないのか不満で苛立っている。苛立ちがぐつぐつと脳を煮ているようだ。熱くてぐらぐらして、乱暴に扱われている体がもがれてしまいそうだ。私を抱えているガノの腕を振りほどこうと力を込めたが、まるでコットン草の茎のような我が身では叶うわけがない。
 急制動が掛かって、世界がようやく静止する。あんなに喚いていた声達は、ぴたりと止んでいた。
『ニクイ…』
 人の発する声ではなかった。まるで水中の中で無理やり声を発するような、不明瞭で不気味な声色。
 わ、私のドリョ…ク。ニクイ…。宝珠ト…。妬みノ感情を。ツライ…ずっと。思ッタんだ! 限界。ニクイ…。お前は。私は…醜い…。抑え込まなくテはナラナカッタ。はジメて、超えらレルと。本当に…良い奴だから…。ワタシの召喚術デ…。コッ。無意味ダト。ゴポ。
 それは泡だった。仄かに光るそれに触れると、言葉が断片的に浮かんでくる。
 ガノがじりじりと入口へ躙り寄るように移動している。視界の隅でエンジュがクロニコの手を引いて、周囲を警戒するように後ずさる。この最上階の空間いっぱいに、淡い言葉を含んだ光が湧いていた。それらは空中を漂い、密度の具合で濃淡を表してみせる。
『グゲッ』
 宙に浮いていたのは男だ。魔法使いが好むようなローブに身を包み、髪を左右に分けて後ろに束ね、露わになった額に真一文字にサークレットが掛かっている。顔は痩せていて頬が削げ落ち、濃い目の下のクマのせいで眼窩が落ち窪んだ骸骨のようだ。瞳が在るべき場所が、赤く光った。
『この 惨めサ ガ ヤット…』
「イオ!」
 閃光が走り、ガノが走り出した!
 開け放ったままの扉をガノが勢いよく突き抜ける。あの幽霊のような奴から逃げるのだ。そう思った瞬間、私達の上に緞帳が落ちた。それは夜の帳のような風景ではなくて、本物の緞帳。深紅の分厚いカーテンだった。
 エンジュの放ったイオではない破壊音と、グランゼドーラの大通りで運動会でもしているのかと思うような怒涛の足音。足音、足音、何かが倒れる音、誰かの悲鳴、何かが壊れる音、ガラスの割れる音。それが津波のように一遍に襲ってくる。それらを掻き分けて、明瞭な女性の声が響いた。
「逃げて! 急いで、逃げ…あぁ!」
 この場には似つかわしくない、美しい花を想像させるような声だった。しかし、それは悲鳴に終わる。
 エンジュが緞帳を掻き分け、声高に呪文を放つ。炎が燃える音と、魔物の悲鳴が再び目の前を遮った緞帳の向こうから聞こえてくる。
 私をクロニコの横に下ろすと、ガノはハンマーを抜いて緞帳を剥いだ。黒から赤い炎の光が世界を舐めるように照らしている。そこは大きな劇場のような場所で、私達がいた場所はステージ横の緞帳の後ろだ。劇場は大きく破壊され、青白い月の光がシャンデリアのように浮いている。多くの逃げ遅れた人が、物言わぬ人ではない何かになっている。
「貴女、身内は? しっかりなさって!」
 炎の前に横たわる影に、縋り付くようにエンジュがしゃがみ込む。悲痛な声が月夜の下に響いた。黒い長い髪は多くの血を吸って妖しい艶に濡れ、炎の光に頬の色は赤みすらさしていた。美しい。私には縁遠い女優のような整った女性だ。苦しみで震えている睫毛は長く、潤んだ瞳は夕焼けに沈む海辺のように炎と涙に彩られている。小さく動く口元にエンジュは耳を寄せ、いくつかの単語を述べた後に大きく体を震わせて動かなくなった。大きく開いて瞬きしなくなった瞼を、エンジュのほっそりとした手が優しく下ろした。
 死んでしまったのだろう。
 人が死ぬ瞬間を、初めて見た気がする。胸が、すっと冷えていく。周囲は魔物に蹂躙されて、戦場の中のような音で満たされているのに、ここだけは静かにすら思う。震えるエンジュの肩を見て、なんて声を掛ければ良いのか分からなかった。何を言っても不正解な気がした。黙って傍にいれば良い。そんな本を読んだ気がしたけれど、そんなのはケースバイケースの中の一つでしかないのだというのは分かった。
「終の言葉を聞いたのかね」
 戻ってきたガノの言葉に、エンジュは頷いた。女性の亡骸を見て、ガノはポーチから短剣と小さい袋を取り出した。
「聞いたのはエンジュ、そなただけじゃ。届けるのも、世界を巡る者の務め。することは、分かっておるな?」
 エンジュは短剣を抜くと、女性の血塗れた長い髪をひと房切った。そして、女性のヘッドドレスを引き抜いて、それで髪を束ねると袋の中にしまった。
 上空を群れと表現して良いほどに沢山の魔物が飛んでいた。ここで一人の女性が魔物に殺され死んでしまったのは、本1頁を読む時間よりも短い間だった。このまま長居をすれば、他の魔物に気づかれ襲われてしまう。思わず伸ばした指先に、クロニコの服の裾が触れる。
「とりあえず、移動をしよう。扉などの境界線を越える時は、必ず一緒じゃ。よいな」
 月明かりの下では青白くさえ見える、明るい煉瓦を積み重ねた町並みは明るかった。明るかったからこそ、大抵のものが見えていた。瓦礫で歩きにくい道、割れた硝子が散って危ない道、慎重に歩けば怪我なく過ぎ去れるそれらを明るく照らしてくれる光は確かに有り難かった。でも、光が照らし出すのはそれだけではない。溢れ出る魔人達の影、屠られる人の影、壊された人々の生活の跡、少し前まで生きていた様々。吐き気はしたけれど、もう胃の中はからっぽだった。
 エンジュの高らかな響きが空を舞う魔人達を撃ち落とし、ガノがそれらをハンマーで亡骸に変えていく。
 可哀想とか残酷とか思う暇もなかった。まだ死なずに済んでいるという事と、まだ恐ろしい世界から抜け出せないでいる恐怖で感覚が麻痺している。それらはリンジャハルの民も同じようで、二人に助けてもらったとしても礼が言える者は少ない。二人も礼を求めてなどおらず、狂ったように襲ってくる魔人達の対処で息つく暇もない有様だ。
 嵐の中を進む船に乗っているようだった。右も左も、天も地も無くなったかのように、訳が分からないままに揉まれていく。
 ガノに突き飛ばされて床に叩きつけられ、埃っぽい空気を吸い込む。目を開けると暗い室内はよく見えない。硬い床に横たわっていると、耳にはまだ戦いの騒音の余韻が幻聴のように響いていたが、徐々に遠のいて潮騒が労わるように満ちてくる。
 助かったの…かな?
 殺そうと向かってくる恐ろしい魔人達が居ないだけなのは、確かだ。
 私はホッと体の力を抜いた。
 ガノが灯りを点けたらしく、暗い室内が薄っすらと照らし出された。天井の高い部屋で、本や巻物がびっしりと収まった本棚が天井にまで伸びている。テーブルにはこぼれ落ちそうな程に多くのものが置かれていて、雑然とした雰囲気がある。椅子はあるべき場所に揃えられていて、破壊された跡も誰かの遺体もなにもない。
「ど、どうなってるんだよ!」
 傍で身を起こしたクロニコが、ガノに向かって叫んだ。
「なんで俺達がこんな危険な目に合わなきゃならないんだ! 一体、どうなってるんだよ! おい! 聞いて…」
 ガノは背に背負っていた荷を解きながら、聞いたことのないクロニコの怒鳴り声を背中で受け止めている。ガノは荷物から一つの腕輪を取り出すと、それを白く細い手首に嵌めた。起き上がってみれば、エンジュの鼻周りには血がこびり付いていて、胸元や裾も真っ赤になっている。顔面は蒼白で、力なく横たわっていて、一瞬死んでいるのかと思った。
 エンジュの姿を見て言葉を失ったクロニコを他所に、ガノは小さい小瓶をエンジュの口元にあてがう。
「無茶をさせてすまんかったの。ソーサリーリングの魔力循環を整える力が満ちて楽になるまで、もう少し辛抱じゃ」
「エ、エンジュは大丈夫なのか?」
 私の問いにガノがようやく振り返った。
「ちょっと敵の数が多くて、短時間で多量の魔力を消費してしまったようじゃからな。魔力は血液と同じ。全てを失えば命に関わる。今は体が消費量のあまりの大きさに貧血に近い状態で、危機を脳に訴えておるのだ。大丈夫。運良く休める場所に逃げ込めたからの。死ぬことはあるまい」
 ガノは徐に小さい鍋に湯を沸かし、お茶を淹れ始めた。先程まで死と隣り合わせだったのが嘘のようで、現実味が沸かない。
「運が悪かったの」
「うん? 運が悪かっただけで、俺達は死にそうな目に合わなくちゃいけないのか?」
 噛みつくようなクロニコの言葉に、ガノは小さく肩を竦めてみせた。
「原因は、女史があの部屋にあった本を声に出して読んでしまったからじゃ。それを責めることはできぬ。その本を手にした瞬間に、本を開き中身を読むよう呪いがかかっていたやも知れぬ。仮定はともかく、あの空間で本の中身を口にしたのが、引き金になったことは間違いなかろう」
「読んだだけじゃないか」
 納得いかない様子のクロニコに、ガノは首を振る。
「生き物が体内の魔力を放出するのに最も優れた方法が発声じゃ。体内の魔力を息に混ぜて吐き出し、声に変換し、声の届く範囲に干渉する。故に呪文は唱えるものなのじゃ。読んだだけ。そう、その本を読んだだけで、本の持ち主の思念が女史の魔力を得て蘇り塔の魔力を動かしたのじゃよ」
「そんな、馬鹿な事…!」
 クロニコの理不尽さを呪う声が、怒りを伴って空間に響く。ガノは何も悪くないのに、怒るクロニコの言葉をじっと聞いていた。しばらく怒鳴っていたクロニコだったが、疲れてしまって黙り込んでしまった。
 私は胸に抱いていた、全ての元凶である本を開いて読み始める。時間はそう多くない。速読の要領で全体の半分以下のワードを摘み上げて、全体像を浮かび上がらせる。最後の頁は文字と呼べるのも怪しい線の集まりだったが、最初の頁は印刷の類かと思うほどに整った文章で敷き詰められている。
 リンジャーラの日記は、この悲惨な結末になるのが不思議でしかないくらい、普通の日常が書かれていた。リンジャハルがもっと豊かになって、住民が幸せになるためにどうするべきか。特産品を生かした土産物の開発の失敗談。民の結婚式に遭遇して、幸せそうな夫婦を祝福したが、羨ましくて少し妬ましかったこと。縁談の話があったが断ったこと。意中の女性に似合う指輪を注文したこと。エテーネ王国の友人からの手紙と、彼と過ごした学びの日々を懐かしんだこと。
 羨ましい。私がそんな日々を過ごしたかった。本を持つ手が思わず力む。
 私には友達がいなかった。いつからか、本に向かい合って誰も知らない謎を探求することにのめり込んだからだ。同世代の人間からも、同じ道を歩む学者からも疎外される日々は苦痛でしかない。逃げるようにやってきたリンジャハルで煩わしさは減った。それは良かったし嬉しかったけれど、心の中にポッカリと穴が開いたような寂しさは募るばかりだった。
 私の陰鬱な過去に比べれば、リンジャーラの日々は充実している。爆発すればいい。
 リンジャハルに疫病が流行りだし、毎日綴られた日記は止まる。疫病が流行り出して民が不安を感じている、そう綴られた次の内容は多大な死者が出てこの都を棄てる話が上がっていると書かれている。日記を書く暇もなかったのだろう。
 友人が救いの手を差し伸べた。その文字に続いたのは、友人への感謝と尊敬。そして、妬みと僻み。長年見ていたからこそ疑いようもない友人の高潔さに、嫉妬と憎しみを抱いてしまう自分への嫌悪感。
 この日記の最後に書かれている憎しみが、エテーネ王国の友人に向けられているのが分かった。
 ふと、リズミカルな音楽と歌が流れてくる。聴き心地が良くて、すぐに覚えられるテンポの良さがある。子供の声で歌われた内容はリンジャハルの魅力を歌ったものだ。そんな音楽が流れてくるリンジャ蟹のカラクリを弄っていたガノが、肩を震わせて笑った。
「カニとカーニバル! ルアムが聞いたら喜びそうじゃな!」
 そして蟹の傍に落ちている記憶の結晶を拾い上げる。
 映像を再生できぬ程に砕かれた結晶から、男の声がぼそぼそと聞こえる。不明瞭で聞き取れないが、『……が、奸計を巡らせている』『手を打つべき』と不穏な内容が断片的に拾えた。
「不思議でならんな」
 ガノはそう呟いて、記憶の結晶を置いた。
「ここまで愛した己が国を、なぜ滅ぼしたのじゃ?」
 身が引き裂かれそうな、憎悪と敬意。結晶を砕いたことで、否定した不穏な進言。何がこの優しいごく普通の青年を凶行に走らせたのか、私にはわからない。様々な要因が複雑に絡み合って迎えている、滅亡の日という今。その結果が廃墟となったリンジャハルという現実だけしかわからないのだ。
「確かめに行こう」
 私は本を抱いて、ガノを見た。
「もう一度、最上階へ」

 リンジャハルの塔は、新しく美しく、血に塗れて、沢山の死体が転がっていたけれど、それでも見覚えおある懐かしさが込み上げてくる。魔人が塔から湧き出しているからか、もう生きている住人も、逃げ惑う者も誰もいなかった。隠れて震えている者を物陰に見つけても、誰も声をかけなかった。
 魔力が最低限回復したエンジュを支えながら、塔を登っていく。クロニコも憮然とした表情だったが、付いてきてくれた。
 眼下で滅びつつあるリンジャハルは煙と炎に包まれていたが、その荒れた様は私の見慣れたリンジャハルだった。目の前の海は深い闇で沈み、月光の煌めきすら吸い込んでいる。ダーマ神殿の光の河が、民が目指すべき灯台の光のように灯っていた。皆、あの光を目指して、逃げているに違いない。
 恐る恐る開いた扉の向こうは、想像を絶する世界だった。言い出したのが自分であったとしても、言い出したことを後悔する。逃げ出せたらどんなに良いだろうかと思うけれど、逃げ出したとしても、逃げ道などない。もしこの時が『5000年前にファラスという従者が書き残したリンジャハル滅亡の日』であったなら、逃げ切ったとしても私達はこの5000年前の時代に取り残されてしまう。私達のいた時間と場所に戻るためには、決して避けられない道なのだ。
 それでも、死の予感が腹を冷やす。
 リンジャーラはいた。あの光の幻影が映し出した青年は、魔法陣の中央に立って異形の魔人と融合しようとしていた。燻んだ緑の肉塊が青年を飲み込んでいるよう。肉塊に触れている皮膚は、人間ではあり得ない太い血管が脈打ちリンジャーラの白い肌にドス黒い血を送り込んでいる。硝子のような双眸は私達を確かに映していたけれど、瞬き一つせずここではないどこかを覗き込んでいるよう。
 私は本を開き、喉を震わせた。
「私は心から祝いの言葉を述べた」
 それはリンジャーラの言葉で書かれた、友と過ごしたひと時の祝辞。尊敬する友人に向けた、彼の透明なまでの賛辞。
「永久に変わらぬ友情を誓い合った。二人に出会うことが出来て、本当によかった」
 柔らかな泡のような光が、床から立ち昇る。乳白色の輝きに触れれば、凛とした青年の言葉が希望に満ちた声色で響く。まるで賛美歌のようだった。朝日が暖かく自分を包み込む幸せを歌うように、掛け替えのない友情に胸が熱くなるように、人の抱く幸福と熱が朗々と響き渡る。
 この本に書かれたリンジャーラの心。この塔の主人として長年勤めた彼の言葉を、この塔は強く反映する。
 マイナスの言葉で招かれた世界なら、プラスの言葉で元の世界に戻るかもしれない。願うように、本の言葉を選び抜く。
「この先、何があっても、私達なら笑いながら乗り越えていけるだろう」
 リンジャーラの瞳に光が灯る。あぁ。やはり憎しみは彼の本意ではないのだ。町の発展に尽力し、友を尊敬し、自分の闇を乗り越えられる強さが、彼の本当の姿なのだ。
 光が増す。
 もう少し。私は更に言葉を紡ごうと頁を繰った時だった。背後の扉が勢いよく開け放たれる。
「リンジャーラ!」
 男性の凛とした声。リンジャーラの瞳が大きく見開かれ、表情が一瞬にして憎悪に塗れた。満ちた光をなぎ払うかのように、黒い瘴気がリンジャーラから湧き上がる。魔人がさも愉快そうに高笑いをするのを聴きながら、私は体が浮き上がるのを感じていた。光とともに外へ投げ出される。
 扉から外へ弾かれる瞬間。本が手から離れた。

 床に叩きつけられると、満天の星空が視界一杯に広がった。むせ返る程の潮の香りと、静寂を揺らすような潮騒が包み込んでくる。体を起こすと、最上階の部屋の扉の前にガノもエンジュもクロニコも倒れている。
「うぅ。助かりましたのかしら?」
 周囲は静かだった。
 爆発の音も、何かが崩れ落ちる音も、悲鳴や断末魔の叫びも、なにも聞こえない。きっと下を覗き込んだら見慣れたリンジャハルの遺跡が広がっているに違いない。1日にも満たないほんの少しの時間だったのに、今まで当たり前だった退屈な世界がとても愛おしくすら思った。
 あの時、駆けつけたのはリンジャーラが尊敬と嫉妬で焦がれた友人だったのだろうか? 私はリンジャーラが救われて欲しいと願ったからそう思いたいだけで、何もわからないままだ。探さなければ、見つからない。知りたいし、あんなに沢山の人が死んでしまった事を見なかったことには出来そうになかった。
「私、やっぱり考古学辞めない方が良いみたい」
「なんだそれ」
 クロニコの声に笑うと、床に寝転がる。大きく手を開いて、空を抱き留めるように。
 行儀が悪くて、とても気持ちがいい。