楽園に通ずる小さな扉 - 前編 -

 闇の中で光っているようだった。
 その光は僕を包み込む暗澹たる現実を、ランプのように照らす。仲間達のように手を差し伸べて助けてくれる輝きではなく、そこに有り続けるだけで希望だ思える光。その存在の名前は、相変わらずテンスの花だった。エテーネ村を救うための花は、どんな時も村の希望であるらしい。
 岩の切れ目にはガラスの天窓が嵌められていて、そこから差し込む光が少し盛り上がった地面を照らし出す。地面には真っ白い花が咲き乱れた花畑があって、周囲は踝くらいの清流で満たされている。テンスの花が咲き乱れている。世界中の花を見てきたけれど、人々に愛されてきた花々と違い、凛としていかにもエテーネの民の希望だって自負を感じる。光の中で揺れる様が『なによあんたたち、用事があるならさっさとなさい!』ってちょっと高飛車な感じだ。
 壁際にはしっかりと石を組み上げて作られた土台の上に、人が生活した痕跡があった。壁際に作られた本がみっしりと詰まった本棚に、食糧とかが入っていたんだろう木箱や樽が積み上げられている。ガラスの管をつなぎ合わせた不思議な道具の傍には、描き散らかしたメモが散乱している。何が書かれているのか全然わからないけど、見覚えのある懐かしい字なのはわかる。机の上にはヤクウさんが持っていたものと同じ、錬金釜が据え置かれていた。
 座り心地の良い椅子が一脚、花畑が見える場所に置かれている。座った形に窪んだクッションが、ここに誰が座って花畑を見ていたかを教えてくれる。
 椅子の傍に立って、僕は花畑を見た。
『テンレス兄さん…』
 鼻先にこびり付いた故郷が燃える臭い。その匂いすら押しつぶす轟音と熱気が、兄さんを飲み込もうとしたのを今でも覚えている。力一杯投げ飛ばされて転がった僕は、兄さんが僕を助けたいと思うのと同じくらいに、死んで欲しくなかった。
 死なないで!
 僕は叫んだ。兄さんの名前を呼んで、泣き叫んで、無我夢中で願った。そうしたら、次の瞬間兄さんは消えて、火球が地面にぶつかって弾けたんだ。死んでない。そう信じて、生きていたことが目に見えて嬉しい。
 あの後の兄さんの足取りを僕は追いかけた。イッショウさんやマザー・リオーネに出会って、ヤクウさんの憧れの人になって、メラゾ熱で苦しむ人を沢山救って、今も恐ろしい存在に追いかけ回されているんだろう。それでも、兄さんは目の前の花畑を作り上げようと、それが僕のためだと頑張っていたんだ。
 ここに、僕が来ること。ここで、僕が花を受け取ること。それが、テンレス兄さんの願ったことだと、僕は兄さんが歩いてきた長い道のりの果てに辿り着いて痛感している。
『僕、来たよ…』
 ねぇ、兄さん。どこに、いるの?
 昔だったら何処にいるのか直ぐに分かって見つけることができたのに、今は見当すらつけられそうにない。最悪が胸をよぎり、可能性が否定する。繰り返しては胸騒く苦しさに喘ぎながら、僕は誰もいない研究所を見回した。
 暗闇に沈んだ通路が透けて、外に仲間達が立っている。この研究所の入り口の前が、何やら騒がしいのをプクリポの低い視点から感じている。主に声を荒げているのは、エンジュさんだ。腰に手を当て覗き込むように問い詰めているのは、なんとも見覚えのある赤と黄色の縦縞模様と、にっこり笑顔の花をあしらったソンブレロをかぶったトンブレロだ。
「子豚ちゃん! 素敵なお帽子の中に隠した、私達の荷物を返さないと許しませんわ! ローストポークにして差し上げますわよ!」
 ルミラさんとガノさんが、帽子と体を持ち合って力一杯引っ張っている。プッケーって変な声で大泣きして、ゴムみたいに伸びてる。力自慢の二人が全力で引っ張っているというのに、トンブレロの帽子はなぜか外れない。
 凄まじい剣幕だが致し方ない。僕はここに来るまでの出来事を振り返る。
 テンレス兄さんの古い知人であると分かった、イッショウさんとマザー・リオーネ。その二人に辿り着いてはみたものの、その先がぱったりと途絶えてしまった。振り出しに戻ったような絶望感だったが、皆は諦めなかった。
 ガノさんはテンレス兄さんが二人に送った謝罪の手紙に着目した。時期はマザー・リオーネと別れて数年後に送られたもので、蜘蛛の糸のように細く頼りないが唯一残された痕跡だった。そしてガノさんは突き止めたのだ。
 その手紙は鍵だ。イッショウさんの元に残されたテンレス兄さんの錬金手帳と照らし合わせると、暗号が浮かんでくる手の込んだもの。それが分かってからが大変だった。
 テーブルから雪崩れた、とんでもない量の書籍の山。走り書かれた計算式は、二人以外誰が読めるのだろうと思う文字と数字の羅列ばかり。ガノさんとエンジュさんはテーブルを挟んで向かい合い、テンレス兄さんの残した宿題と格闘している。イシカズム理論の応用? フィロソロス教授のレンダーシア考古学論? 古代ウルベア地下帝国の基礎コード? プクランド魔術体系? 万能薬の調合式? ジュレット伝統のシーザーサラダのドレッシングのレシピ? なんの脈絡もない言葉を投げ合う二人は、寝る間を削って怒涛の勢いで暗号を解読した。
 一つは『風の真珠』のレシピだ。どんな物かは分からないけれど、きっと錬金術で出来る魔法道具だろうとヤクウさんが言ってた。でもレシピが分かって材料が揃っても、製作の難易度は桁違いで自分には作れそうにないと悲しげに言う。
 そしてもう一つが、テンレス兄さんの研究所の場所。それがラゼアの風穴だったんだ。
「に、荷物は返せないプッケ! テンレスお兄ちゃんの研究所に、悪い奴は入れちゃいけないんだプッケ!」
「材料が揃ったからと言って、風の真珠は作り出せんかったわい! 入れなどせんわい! ルミラ嬢、外れんならミンチにするぞい! 押さえておれ!」
 プププケェ! ハンマーを抜いて凄んだガノさんの威圧に、トンブレロはごきげんな感じの帽子に包まって震える。
 わいわい、がやがや。魔物達が闊歩するレンダーシアの秘境にありながら、仲間達はまるで人々の住処にいるかのように賑やかだ。
 でも、このラゼアの風穴はそれ以上に騒がしい。兄さんが世界中の風の生まれる場所と語る、風の音の見本市だ。赤茶けた岩肌が摺鉢みたいに抉れている。摺鉢にならなかった岩肌は、ミルクレープみたいな美味しそうな層が重なってぴかぴかに磨かれていた。磨いているのは風だ。風は通りたい道を、磨いて磨いて穴を開けて道を作る。袋小路は渦を巻いて、まあるくまあるく奥へ奥へと気長に歌う。柱のように連なった通りは、柱に手をかけてぐるぐると回ってびゅうびゅうはしゃいでいる。渡り廊下のように長い回廊になった道はかけっこの真っ最中なのか、本気って感じの鬼気迫る声が響いた。わずかに生えた草木の影で、疲れたようにため息をこぼす微風。ぶつかり合う場所によっては、相撲とも井戸端会議とも取れる様々な音量が賑やか如く爆ぜる。仲間の賑やかしさなど、騒音のうちにも入らないようだ。
 冒険者でもないのに堂々としてるイッショウさんは、不安げなマザー・リオーネを見習って欲しい。
 テンレス兄さん。僕がここに来れたのは、仲間達のお陰なんだ。兄さんが繋いだ縁を切らなかった、優しい人達のお陰なんだ。
 僕はそっと椅子に触れて、この世界のどこかで生きている兄を想う。会って、いっぱいいっぱい話したい。このテンスの花をカメ様に捧げて加護を賜って、エテーネ村を復興させたら、テンレス兄さんは帰ってきてくれるだろうか?
 ふと、光が陰った。そう思った次の瞬間に、けたたましい音を立ててガラスの天窓が打ち破られた!
 ……!
 僕はガラス片で傷つく訳もないのに、腕で顔を守る。そして腕の隙間から見たのが、黒づくめの人間の男であるのがわかる。いや、人間なのか? 僕は思わず天窓と地面との距離を見る。ガラスを突き破る程度に勢い良く飛び降りたなら、身体能力がどんなに高くても怪我をする高さがある。ロープで降りた形跡も、風の魔法で体を浮かせた気配も感じなかった。
 男はゆっくりと周囲を見回し、身をかがめてテンスの花を一つ手折る。
「こんな所にあったのか…」
 男が引きつったように体を震わせた。笑っている。サングラスで目元は見えないが、口元は耳元まで避けてしまいそうなほどに釣り上がっていた。
「長かった…。長かったぞ…。この忌まわしい花を焼き尽くす、我ら魔導鬼一族の使命を果たす時が来た。錬金術師テンレス。貴様は正に驚嘆に値する才能の持ち主だったぞ。追跡から逃れ、こんな予想だにしない場所で花を咲かせていたとは…!」
 男の手に持っていた花が黒い炎に包まれて燃え上がる!
 花が燃える。エテーネ村が滅ぶ直前に見た、焼き尽くされた花畑を思い出す。だめだ! 僕は駆け出したが、するりと体が男をすり抜ける。魂の状態じゃ、僕は何もできそうにない。仲間も、封印されている入り口から入って来れそうにないだろう。
 また、燃やされてしまうのか? テンレス兄さんが一生を費やしたテンスの花を、燃やされてなるものか!
 そんなこと、させてたまるか! 僕は叫んで男に掴みかかった!
『やめろぉおおおおっ!』
 差し込む光がゆっくりと陰る。光の中で舞い上がる光の粒が静止している中、ふわりと降りてくるのは赤い毛並みのプクリポだ。真っ赤な瞳がツンと尖って、手に固定した爪がぎらりと光った。光は大きく弧を描いて男に振り下ろされる。飛び退って距離を置いた男を見遣りながら、僕と同じ名前の存在が風の力で柔らかく花畑の上に着地した。
「相棒の兄貴が咲かせた花に、なにすんだ!」
 兄さん。君は本当に僕が助けて欲しい時に来てくれる。
 僕は拳で目元を擦ると、差し出されたプクリポの小さくて柔らかい手を握った。世界が重なる。兄さんの世界と、僕の世界が重なって、全てが鮮明に見えてくる。
 花畑の周囲に広がる水は項垂れていた男の顔を写していた。人の顔とは思えぬ邪悪な笑みが、暗く沈んだ顔の中で赤黒い口元を三日月のように切り抜いている。骨と皮だらけの体を引きつらせくつくつと笑う痩躯は、かたかたと音が鳴っているかのようだった。男は下を向いたまま、甘ったるい声で囁いた。
「くっくっく。錬金術師を探している旅人共。貴様らは役に立った。貴様らのおかげで長年見つけることのできなかった、テンスの花の研究所に辿り着くことができたのだから。この魔導鬼ベゼブー、その功績を称え、顔を上げる前に逃げるならば見逃してやろうぞ」
 兄さん以外、誰もまだ来ない。あの封印された扉のようなものは、これから先も開くことはないのだろうか? だとしたら、仲間達はここに来れない。でも、仲間達のところに戻ったら、ここに残された花は目の前の男に燃やされてしまうだろう。
 兄さんはプクリポだ。小さくて力もそんなに強くなくて、魔法もそれほど上手じゃない。相手にする全てが、プクリポよりも何か有利な条件を持っている奴らばかりだ。その上、ベゼブーと名乗った目の前の男は、不気味で得体が知れなくて強そうだ。
 それに口振りから、テンレス兄さんを執拗に追いかけていた奴は、きっとこいつだ。
 勝てるのか? いや、勝てる勝てないの話じゃない。テンスの花と兄さんの命を天秤に掛ける、そんなことを、僕が…。
「相棒」
 兄さんの声がぐるぐると回る考えの中に、ぱっと閃いた。
「オイラは相棒の笑顔が見れるなら、どんな選択をしても良い。それが、目の前のおっかない奴と、戦うってことだったとしても…!」
 ありがとう、兄さん。本当に僕は甘えてばっかりだ。
 僕は兄さんの手を強く握りしめた。力を貸して欲しい。テンレス兄さんが生きてきた成果を、守り抜くのが弟の僕が先ずしなくてどうするんだ! その意思を、僕は力を込めることで示した。僕の闘志を汲んで、兄さんは声を上げて笑った。
「綺麗に咲いた花を、踏みにじる奴は信用しちゃいけねーって、プクリポは赤ちゃんの時から教えられるんでね!」
 兄さんは最高に輝く笑顔で即答した。そんな気持ちのいい言葉に、僕も思わず笑ってしまう。
「愚かなり!」
 ベゼブーが手を大きく回すと、その手から金色の大きな輪が現れる。ベゼブーの身長と変わらぬ大きさの輪の中は、黒々とした炎が燃えている。今にも目の前の花々を食い散らかそうと、ウズウズする炎で満たされた輪の上部を僕は咄嗟に狙い撃った。甲高い音を立てて上を向いた輪から、黒い炎が吹き出した!
 嫌な炎だ。エンジュさんの生み出す暖かい炎とは違って、邪悪で命を貪る冷酷さしか感じられない。
 矢を番え花の上に放つ。光る矢は無数の星屑に変じて、花々の上に守りとなって降り注ぐ。これでは防ぎ切れるとは思えないけれど、ないよりましだ。
 兄さんの風の力を集約させ、乾いた風に含まれた微粒子が擦りあって電気を帯びる。爆ぜる空気の中で矢を番えれば、圧縮されたサンダーボルトがベゼブーに一目散に向かっていく。足元に湛えた水に触れて電撃がベゼブーを襲うが、決定打になるほどのダメージにはならない。僕らの攻撃を嗤っている。
 輪がこちらに向かって放り投げられる。兄さんの真上に放たれた輪の内側は黒い炎で満たされていて、兄さんは慌てて避ける。金属の輪とは思えない弾力性で地面に当たって跳ね上がると、花の上に落ちそうになる。僕は慌てて矢を放って輪を花畑の上から弾き出す!
 ベゼブーがさも可笑しそうに、体を仰け反らせて笑っている。そりゃあそうだろう。逃げないなら、ベゼブーを追い返す程度の力量がなければ殺されるのはこっちだ。それなのに、火力はないし、花が燃えたら僕らの負けでと圧倒的に不利なんだ。相手は僕らで遊んでいる。愉悦に歪んだ視線が、口元まで裂けた口の中で滑る舌が舐めずる様子が、そう物語っている。
 遊びに飽きたら、僕らは殺されてしまう。
 ぼわって感じの不思議な音が、突きつけられた死の予感を飲み込んだ。
 例えるなら、ポポリアキノコ山の大きいきのこが、身を震わせて大量の胞子を飛ばすようなそんな音が背後から押し寄せてきた。
「テンレスお兄ちゃんの花に悪戯するなプッケェエエエエッ!」
 何かの封印の魔法陣が刻まれていた大岩が、一瞬にして風化した! 一気に雪崩れ込んできた外の光の中を、2つの影と無数の火が駆け抜けていく。迫った剛速のメラにベゼブーが息を詰まらせた時には、迫るルミラさんの大剣を輪で受け止めている。そうして硬直している間に、ガノさんのハンマーが脇腹に刺さって痩躯が岩壁に吹き飛ばされる。
 水はパキパキと音を立てて凍りついて、細かいサンゴ礁として育って花を覆っていく。隙間はご丁寧にヒトデで可愛らしく埋められて、花の光を吸い込んで美しく輝いていた。
「一人で突っ込むなんて、無謀極まりませんわ! 心配させないでくださいまし!」
 がばっと後ろから掴まれる。エンジュさんが目をつんと釣り上げて、僕らを見下ろしている。その奥でイサークさんとブレラさんが呆れたように、ぴょんと珊瑚の上に乗り上がったトンブレロを見ているようだ。トンブレロの少し上を、小さい光がふわふわと浮いている。
「なんなんだろうね、あの子豚ちゃん。完成プッケとか言った次の瞬間にさー、岩を一瞬で風化させちゃったんだよー」
『あのふわふわ浮いてる光る石が、風の真珠なんだろうさ。トンブレロに真珠の割には、随分と使いこなせてるじゃないか』
 形勢は瞬く間に逆転した。ベゼブーが黒い炎で歴戦の戦士達を飲み込もうとすれば、プッケと一声響かせて光る風が炎をかき消す。驚く暇は敵に与えられない。悪魔を滅ぼすために鍛えられたデーモンバスターが、獲物を求めるように痩躯に刃を食い込ます。炎を満たした輪はボルカノハンマーで受け止めるごとに歪んでいく。
「おのれ! こんな! こんなはずでは!」
 ベゼブーの喉も張り裂けそうな怒号が響く。自ら輪を潜り、自分の体が黒い炎に包まれて燃え上がる! その様子に僕らはびくりと驚き、体を硬らせた。その一瞬の隙を突いてルミラさんとガノさんの間をすり抜け、氷の珊瑚で覆われたテンスの花を目指す。このまま突撃して花畑を燃やすつもりなんだ!
 決死の突撃に反応の遅れた僕らの目の前で、トンブレロがベゼブーの前に立ち塞がる。
「兄ちゃんの花は、ハナが守るんだプッケーッ!」
 トンブレロは黒い炎に包まれていたベゼブーに体当たりする! 邪魔だと言わんばかりに腕で薙ぎ払い、火達磨になったトンブレロは地面に叩きつけられる。その時間が、ベゼブーの明暗を分けた。
 目も眩む閃光が、音もなく駆けた。空間を真っ白に染め上げた光は、岩の中にできたテンレス兄さんの研究所を白く染め上げる。満たされた光は聖なる力を帯びていたが、まるで肌を焼く強い日差しのような力強さがある。その光の中心は、まるで放たれた矢のようにベゼブーを貫いていた。
 ベゼブーは口から魔瘴の煙を吐き出し、茫然と風穴が開いた腹を見下ろす。そして顔を上げて視線は背後に流れ、僕らもつられて振り返る。
 マザー・リオーネが、仇でも見るような目でベゼブーを睨んでいた。
「貴方が苦しめた者達を代弁するなんて、烏滸がましいことはしない。私が貴方を憎んでいたの」
 何かを言いかけたベゼブーはそのまま傾ぐと、魔瘴の塊になり瞬く間に風に吹き払われた。
 まさか、マザー・リオーネがトドメを刺すだなんて。僕らは驚きに呆然としながら、紺色の修道服に身を包んだ年配の女性を見ていた。見慣れていたはずの、控えめな笑顔が品の良いシワを刻んでいた顔はそこにはない。憤怒に眦を釣り上げ、燃える炎のようなシワが顔を彩っている。残り少ないだろう寿命を燃やしているような激情は、老齢に達する女性を若き女性に還す。光を放っただろう手のひらが、ぎゅっと握り込まれた。
 ベゼブーがこの世から消えていく様を、目を逸らすことなく見つめていたマザー・リオーネが徐に口を開いた。言葉になんの感情も含んでいない、まるで文字に書かれた他人の言葉を読み上げるような淡々とした声色だった。
「失望…されましたよね。修道院を預かり、マザーと呼ばれて模範となる者が憎しみに駆られて復讐するだなんて」
 表情の無い顔が項垂れると、苦労してきたのだろうシワを刻んだ手が胸元に置かれた。
「ですが、私はずっと憎しみを抱いていたのです。追手である今しがた殺したあの男を、今までの人生で関わる全ての人を、そして誰よりも私自身を憎んでいたのです」
 マザー・リオーネ。誰も質問したことはなかったし、本人も語らなかったけれど、彼女はテンレス兄さんと旅に出たリリオルさんだ。長い長いテンレス兄さんとの旅路は、とても楽しいものじゃなかったことを僕らは察している。追手に追われていた日々、各地を転々とし安住の地が得られない根無草の生活。
 僕も突然今までの生活が奪われたんだ。目の前で家と呼べる小さな村を、家族と呼べる親しい人々を、壊され殺された。体が燃えるほどに激しい憎しみに眠れない日がいっぱいあった。
 マザー・リオーネが憎しみに駆られる気持ちがわかる。誰も殺されていない。何も壊されていない。でも追手に追われ安らかな日々が訪れないことで、リリオルさんが壊されてしまったんだ。テンレス兄さんに安全のためにと置いていかれてしまったが故に、リリオルである彼女は死んでしまった。
 僕は彼女がマザー・リオーネと名乗っている理由を、なんとなく、そう解釈した。
 僕がエテーネ村のルアムでいられるのは、兄さんや仲間がいるからだ。熟練の冒険者達が力を合わせれば、大抵の魔物には負けない。冥王ネルゲルにさえ、僕らは負けなかったんだ。誰も殺されない壊されない、確かに僕を守ってくれる。僕は運が良かったんだ。僕は恵まれていたんだ。
「…リリオル」
 イッショウさんがマザー・リオーネに声を掛ける。それでも、彼女は声に振り返ったりはしない。
「リリオルはもういません。もう、この世界のどこにもいないのです」
「何言ってんだ。ここにいるじゃねぇか」
 イッショウさんがマザー・リオーネ傍に立った。
 すっと前を見る視線に、僕らは思わず身を引いた。イサークさんが氷の制御を解いて、珊瑚は雨になってテンスの花に降り注いだ。水を弾く瑞々しい葉は差し込んだ陽光を吸い込んで一つ一つに虹を宿し、白い花は真珠のように輝いた。綺麗って言葉すら躊躇う、神々しさがあった。
 そんな花畑を見て、イッショウさんはにやりと笑った。
「はっ。憎ったらしいくれぇに、綺麗じゃねぇか」
 花畑に歩み寄り、膝をついてテンスの花を覗き込む。
「テンレスが俺の何もかもを持ってトンズラしちまった時、あいつぁ何をしたかったんだろうって思ってたんだ。花を咲かせるたぁ聞いちゃいたが、どんな花かも俺は知らなかったしな。あんまりにも出来ねぇから、諦めちまったんだろうって思いもしたさ」
 花弁に触れると、大きく揺れて水滴を弾いた。光が散って、ぱっと一瞬空間が華やぐ。
「トンズラして、どんな生活してたんだって思ってたよ。遊んで一生暮らせる金じゃねぇ。最初の一年は盗賊に身包み剥がされて野垂れ死んでんだろうとか、魔物に殺されてるんだろうとか考えた。5年経てば町で錬金術師として成功してるとか、田舎で細々暮らしてるとか思うようになった。10年経てばリリオルとの間に子供でも出来て、孫に会わせてくれるんだろうなって期待しちまってたよ」
 心底お人好しだなって、自嘲するように笑う。イッショウさんは、口は悪いけど良い人なんだ。
 大物になるか、ずっと迷惑を掛けられるかのどっちかになる。そう言われていたテンレス兄さんが、迷惑を掛けるのは信頼している人だけ。迷惑を許してくれる信頼関係のない人には、人一倍気を遣う人だった。イッショウさんは兄さんが迷惑を掛けても許してくれるって、心から信頼している人だったんだ。
「あの大馬鹿野郎。本気で人生を花に賭けちまったのかよ」
 ぐずっと鼻を啜る音がする。
「あぁ、ちくしょう。綺麗だなぁ。あんなに苦労して生きてきたのに、あんなに憎たらしく思って、今も俺の可愛いリリオルは眼中に無いってか?って心底ムカついてるのによぉ、テンレスの咲かせた花はこんなにも綺麗なんだぜ…」
 マザー・リオーネはゆっくりとイッショウさんの傍に歩み寄る。瞬きすることも忘れて見詰める瞳は、テンスの花の光を吸い込んで復讐の色を拭った。しゃがんで覗き込んだマザー・リオーネの背を、イッショウさんは優しく抱いた。
 寄り添う二人が、大事な時間を分かち合っている。僕らは邪魔にならないよう静かに離れた。

 イサークさんが水に頭を突っ込んで動かないトンブレロを、抱えてやってきた。もう黒い炎は消えているが、炎に包まれてしまったからか体が黒く焦げている。花畑を守った勇敢さを褒めるように撫でていた手が、ふと止まる。首を傾げたイサークさんが、ぐっと指先に力を込めて体を押した。あまりにも慣れた手つきでトンブレロの体を何箇所か押すと、プッケ!とトンブレロが跳ね起きた。イサークさんは驚いた様子で目を瞬く。
「この子、生き物じゃない!」
「テンレスお兄ちゃんが、すごーく頑丈に作ってくれたプッケ! この程度じゃ、壊れたりしないプッケ!」
 トンブレロは元気いっぱいに伸びをして、鼻をふごふご動かす。空気も読まないでイッショウさんとマザー・リオーネの元に、ちょこちょこと近寄って行っちゃう。『なんじゃこいつは!』と足蹴にしたイッショウさんが、足を押さえて悶絶した。そんなイッショウさんの胸元を、トンブレロがふごふごと鼻を押し付ける。
「おじちゃんからテンレスお兄ちゃんの錬金釜の匂いがするプッケ! イッショーって、おじちゃんのことプケ? 錬金釜を返すよう、テンレスお兄ちゃんから言われてるプッケ!」
 そのままイッショウさんのズボンの裾を食んでひっくり返すと、ずるずると机の前に引っ張っていく。トンブレロとは思えない怪力だ。ヤクウさんの錬金釜と同じデザインの釜の前まで引きずると、トンブレロはぴょこんと机の上に乗り上がる。
 鼻先でつんつんと突くと、錬金釜の宝石の色が変わってぱかんと開いた。
 光が錬金釜から溢れ、いい香りがふわりと広がっていく。その光に誘われるように皆が覗き込む先には、花畑に咲くテンスの花と一通の手紙が入っている。いや、錬金釜の中に収められていたテンスの花は、花畑のものとは別物だ。花弁も茎も葉もうっすらと光っていて、香りが段違いに強い。匂いを胸いっぱいに吸い込むと、気持ちよく目覚めた朝みたいに気分になる。
 トンブレロは輝くテンスの花と手紙を釜から取り出すと、風の真珠の材料を隠した時みたいに帽子の中に入れてしまった!
「輝くテンスの花と、お兄ちゃんの手紙はルアムって弟に渡さなきゃいけないプケ。でも錬金釜はイッショーおじさんに返すんだって言われてるプッケ。順序的に中身から譲渡するのが理想的プッケど、状況に合わせて順序が変動することは許可されてるプケ」
 そして空になった錬金釜をイッショウさんの上に落とした。カーンって気持ちのいい音を立てて、イッショウさんの顔に錬金釜が落ちる。べらんめちくしょうめと悶絶するまでワンセット。兄さんが『強力なライバル出現の予感!』って感動した。まって、感動してる場合じゃない。
「ルアムは僕のことだよ! その花と手紙は、テンレス兄さんが僕に宛てた物なんじゃないの?」
 兄さんの体で訴えた僕に、トンブレロは疑わしく鼻先を向けた。ふごーっとプクリポの毛が抜けるほどの吸引力に、兄さんは『ハゲちゃう!』って涙目で押さえる。そんな兄さんを後目に、トンブレロはプッケとそっぽを向く。
「テンレスお兄ちゃんは、ルアムは人間だって言ったプッケ! お前はプクリポプッケ! 嘘はいけないプッケ!」
 う! 確かに僕はプクリポの兄さんの体を借りてる。信じてもらうのは難しいだろう。
 でも、テンレス兄さんは、あのネルゲルが村の人間を根絶やしにしようとした状況から、僕が生きて逃げ出せると想像できたのだろうか? 僕自身は死んだ瞬間を迎えてはいない。殺されるとかそう思う前に、視界が暗くなって、プクリポのルアムの元に意識が向いていた。僕の肉体がどうなったかはわからないけど、あの状況じゃあ丸焦げになってるんだろう。
 このままじゃ、カメ様の加護を得るために必要な花が手に入らないかもしれない。
「うーん。生き物ではない存在に、魂を視認させるのは無理じゃないかなー」
 ぱっとイサークさんが手を上げた。そんな細身を挟むように、身を乗り出したエルフとドワーフが詰め寄った!
「生意気な子豚ちゃんですこと! そのプクリポの中身が人間のルアム君なのですわよ!」
「今度こそ挽肉にせねばなるまいて! 花は粉になっても、あの守神の上に振りかければ効果はあるじゃろう!」
 プッケー! 暴力は反対プッケー! トンブレロは涙目になって、兄さんの後ろに隠れる。ぶるぶると震えているし、あったかいんだけど、本当に生き物じゃないんだろうか?
 そんな様子を見ていたルミラさんが、ぽつりと呟く。
「どうすれば、ルアムがテンレスとやらの弟だと信じてもらえるんだろうな」
 確かに、僕が兄さんの体を借りて人間の姿じゃないから、違うって思われてる。中身の僕がテンレス兄さんの弟だと、わかって貰えれば花と手紙をもらえるかもしれない。そう思い至った僕だったけど、仲間達はこの一時間で、テンレス兄さんにすごく詳しくなってしまっただろう。
 両親の名前。大成功の回数が1回だったこと。成功、失敗の数も褒められた物じゃない。死者がでなかったこと。ハツラツ豆を全部ダメにしたこと。得意な呪文の属性。僕の知る限りのテンレス兄さんのことを話して、トンブレロは言った。
「ぷっけー。ルアム、かも、しれないプッケ?」
 ミンチにした方が早いかもしれない。