楽園に通ずる小さな扉 - 後編 -

 世界の中心から広がる森に抱かれる小さい村。男達が田畑を耕し、子供が見守る先で家畜がのんびりと草を食み、水車で引いた粉で女達が食事を作る。毎日が繰り返され、ひとつひとつ人々は歳を重ね、時折新たな命が産声を上げる。世界が時の奔流に揉まれる中、この村は時代に取り残されたようなゆったりとした流れに生きていたのです。
 ずっと。ずっと。穏やかな日々が続くようにと、村を作った人々の願いがそうさせたのでしょう。その願いは悠久とも言える長い年月、この村に平穏を与えてくださった。
 あの日が、くるまでは。
 あの日が来ることを、未来を知る巫女と僕は知っていました。回避するべく、ありとあらゆる手段が講じられました。賢者達が知恵を出し合い、交代の時期が近づいた巫女が力を振り絞る。子供達に魔物の闊歩する世界に、テンスの花を取りにいかせたこともあったでしょう。それでも、あの日を避けることはできなかった。ある人は悲劇と悲しんでくれたし、ある人は運命と嘆いてくれた。人はいつか死ぬものだと、労る人もいてくれました。それでもなんの慰めにならず悔しい思いをしたのは、未来を知ることのできた一部の村人達でした。
 冥王ネルゲルによって滅ぼされるエテーネ村。
 そんな焼け野原の未来からでも、芽は芽吹く。未来を視ることの出来た者は、焼け野原が均され新たな村が建ち上がるのを視る。今まで同じ日々を繰り返す閉ざされた村ではなく、多くの分け隔てない種族が出入りし、数多の冒険者が、期待の職人達が、流通を知る商人達が集まる世界でも屈指の賑わう地になる光景を見たのです。うつろう未来において、滅ぼされる日が過去なり確定した時間の中で、その映像はいずれ来る未来として視界にありました。暗く閉ざされた絶望を照らす、光のような希望でした。
 新たなるエテーネ村を確定する一つの事象。それが、エテーネ村の守神であるカメ様の加護を賜ることです。
 深い森の木漏れ日に透かされた淡い光に包まれて眠るカメ様。緑の中から浮き出るような赤い体は、年月を経て赤金色に輝いています。村の女達が丹精込めて織り上げる丈夫な織物は、やや擦れて色褪せているが、それが森に眠る守神の風格に一役買ったのです。その上にふんわりと輝くテンスの花が置かれ、カメ様は光に包まれ目覚めの時を迎える。
 その時が、今、目の前に迫っている。
 はずでした。
 カメ様は大きい。手足を折り畳み眠っているが、甲羅だけで家一軒分の大きさを持っています。布は掛けられているが甲羅は滑らかで、どんな運動神経の良い子供も一度は登ろうとして転落する経験をします。そんなカメ様の傍に飛竜が立ち、咥えたトンブレロを甲羅の天辺に乗せようと身を伸ばしていました。
 飛竜の横に立っているオーガのルミラさんが、精密作業が苦手な竜を励ましています。
「ギル。いいぞ。上手だ。さぁ、そこにその豚をゆっくり置くんだ。ゆーっくりだぞ」
 言っている意味は分かっているのでしょうか? おそらく、身振り手振りで教え込んだのでしょう。慣れぬ作業にぷるぷると震える竜は、緊張に目を充血させながらゆっくりとトンブレロをカメ様の上に載せました。
 その瞬間、見守っていた一同が歓声を上げて拍手する。偉いぞー! ギルー! と労いの言葉が惜しみなく投げかけられ、ルミラさんが愛おしげに撫でてくれるものだから、まだ生まれて間もない飛竜はでれっと嬉しげに長い首をルミラさんに巻き付けたのです。
 猫耳のプクリポは猫のように身軽です。その例に漏れず赤い風のように、小柄なプクリポはするするとカメ様の上に登っていきます。そしてトンブレロを縛り上げた縄を切り、猿轡を外します。プッケ! と大きな声が空気を叩きました。
「ひどいプッケ! おうぼうだプッケ! こんな可愛いトンブレロに、なにするプッケ!」
「なーにが『何するプッケ!』じゃわい! 可愛らしく言ったからといって、運命は変わらぬぞ!」
 涙をボロボロとこぼすトンブレロのハナちゃんの鼻先を鞭で打つのは、ドワーフのガノ殿だ。敵意むき出しの恐ろしい声で怒鳴りは、子供が聞いたら間違いなく泣き出すでしょう。その隣で加勢するかのようにエルフのエンジュさんが、キンキンと声を響かせるのです。これは怒りっぽい母親の子供なら、震えるだろうヒステリックな声に違いない。
「プッケちゃんはお忘れですの? その輝くテンスの花は、最終的にはカメの神様にお供えするものなのでしょう? ルアム君に渡せないなら、最終的な用途で使うことは間違えではありませんことよ! さっさと帽子の中からテンスの花を出して、カメの神様にお供えするんですのよ!」
 これでは、まるで…
『どこからどう見ても、恐喝だね』
 そうとしか、見えませんよね。
 僕はげんなりと、カメ様の上で震えるハナちゃんを脅す背中を見ます。降りようとすると、飛竜がぎらりと睨みを利かせて青い毛玉のようなハナちゃんは震え上がるのです。逃げては捕まって、カメ様の上に載せられる。この一連の動作は、3回を超えて数える気も失せてしまいました。もう、日が暮れようとしています。
 呆れたようにヘタるブレラさんを被りながら、イサークさんは川面に釣り糸を垂らしています。こちらはもう諦めの雰囲気が漂っていて、事態の進展より今晩の夕食の食材調達を優先しておいでだ。ヤクウさんも、イッショウさんも、マザー・リオーネも連日の野宿で疲労が出ているのか、天幕の下で休んでおられる。
「ハナちゃんがテンスの花をお供えしたら、晩ご飯にしようねー。今晩は魚の包み焼き用意するよー」
「プッケ! ボクは何でも大好物プッケ! テンレスのお兄ちゃんのくれた、チョコレートが特に大好きプッケ!」
 ぶふーぶふーと荒い鼻息が足元に立つ僕らにまで届きます。そんな腹ぺこハナちゃんに、隣に座っていたルアム君がへらりと笑うのです。
「チョコかー。チョコチップクッキーならあるぞ」
 流石、血は蜂蜜、体は蒸しパンと揶揄される甘味好きの種族。いつでもどこでも、甘いものを持ち歩いているようです。柔らかそうなお腹に手を突っ込んで、ズボンの内側をごそごそと探ります。いったいどういう風にお菓子を仕舞っているかは分かりませんが、小さい麻布の巾着袋が取り出されました。ふんわりとチョコの香りが漂います。
「プケケェ! チョコ! ボクずっとラゼアの風穴で花畑に悪いことする奴が来ないか見張ってたから、チョコレートすっごく食べたいプッケ! それ、欲しいプッケ!」
 袋から取り出したチョコチップクッキーに鼻を押し当て、割ってしまいそうな勢いで匂いを嗅ぐ。プケー。チョコの良い匂いプケーって、またたびを嗅いだ猫のように弛緩しました。匂いだけ昇天の梯を昇ってしまったようです。
 そんなハナちゃんの様子を、ルアム君が可笑しそうに笑って見ています。
「へぇー。そんなにチョコが好きなのかー。じゃあ輝くテンスの花と交換しよーぜー」
「良いプッケ!」
 良いのかよ! 異口同音のツッコミが炸裂し、チョコチップクッキーと輝くテンスの花の譲渡がカメ様の上で行われる。あぁ、なんと神聖さの欠いた光景だろう。これが、一つの大きな転換期の幕開けとなる事柄だというのに、何と緊張感のない。
 しかし、こうして無事にテンスの花を手に入れることが出来た。もし狙っているとしたら、飴と鞭を使った計算され尽くされたやり取りと言えましょう。ガノ殿とエンジュさんの非難めいた叱責、ルミラさんとギル君の威嚇、イサークさんとブレラさんが我関せずと味方になる様子もない。そんな孤独で心細い状況で、ルアム君の優しさは心を開かせるに十分値するでしょう。
 まぁ、僕はそんなことまで考えて行われたとは、ちょっと思えないですけど。
 項垂れる僕の頭上から、能天気な声が響いたのです。
「カメ様ってお花食うんかなぁ?」
 そう軽やかに降りてきたプクリポは、ちょんとテンスの花を自身の鼻先につける。花の民だ。種族としての伝統の仕草なのか、それとも祈っているのか、今日の晩ご飯のメニューを思い浮かべているのかは分からない。目を瞑り大きく深呼吸をして、ゆっくりと目を開く。そうして福与かなプクリポの手は、カメ様の鼻先に輝くテンスの花を捧げたのです。
 輝くテンスの花の光は、月光を溶かしたホワイトパールのように白く、天駆ける太陽のように眩しい。花としての輪郭すら解けてしまいそうな輝きが、ゆっくりとカメ様を覆っていく。ヴェールをそっと掛けるように、頭から甲羅へそして後ろ足に向かって滑らかに光が伝わっていく。ハナちゃんが『ププケェ!』と驚いて転がり落ちるのを、ルミラさんが抱き留めました。
 そしてカミハルムイの桜のように光が一枚一枚と剥がれて、風によって舞い上がる。カメ様の前に佇んでいた僕らを通り抜け、川面を眺めて釣糸を垂れていたイサークさんの視界を満天の星空に変える。離れたところで休んでいた者達の頬を優しく愛撫し、焼けただれた廃墟を労わるように照らして過ぎる。村を包み込んだ森の植物の一つ一つの葉に触れるように巡り、風と共に大空へ舞い上がる。
 誰かが綺麗だと言った。誰かが無言で祈りを捧げた。誰かが涙を拭った。
 大きな太陽のような塊だったカメ様は、一筋の光の塊となって空へ浮かび上がった。最初はぎこちないゆっくりとした動きだったが、次第に滑らかに旋回を始める。光から輝く翼が生まれる。光の羽を大地に振りまき、馬の逞しくしなやかな四肢が、豊かな鬣を持つ首筋がうんと伸びをする。嘶きが産声のように世界に響きわたり、日が沈んだ夜空に浮かぶ星々が祝うように瞬いたのです。
 神々しい美しさと驚きに言葉を失った僕らの前に、カメ様だった光は優雅に降り立ったのです。伝説で語られるペガサス。勇者と共に大魔王と戦う、我らが守り神です。うっすらと光る体に、英知を称えた空色が一人一人をじっくりと瞳に収めていきます。
『私の名は天馬ファルシオン。エテーネの民の運命に寄り添いし旅人達よ。貴方達のお陰で往年の力を取り戻すことができました。この瞬間に至るまでの多くの命の協力と、多くの困難があったことを私は微睡の中で見ていました。感謝の言葉一つで片付けることはできますまい』
 天馬ファルシオンはそう頭を垂れ、伏せた目元を持ち上げました。
『この恩は、この村に再び加護を授けること、私の使命たる世界を守ることで報いましょう』
 しかし、その前に。そう呟くと背に折りたたんだ翼を大きく広げます。何かを待つように、ペガサスは空を仰ぎ見たのです。僕らもつられて星空を見上げ、顎が上がっていく。
 視線の先で星の光とは違う輝きが混ざる。小さな光はすっと大きくなり、人一人が包まれるほどの大きさになってゆっくりと降りてきます。それがなんと2つも。その一つが、今すぐ駆け寄って抱きつきたくなるほどの望郷の念を抱かせるのです。
『さぁ、時を超え器が魂の元に戻ってきました。あるべき姿を取り戻しなさい』
 光の中に誰がいるのか分かるのか、赤毛のプクリポは今にも飛び込む勢いで前に出てきた。
 僕も彼に並んで光の前に進んだ。もう一人の自分がいるような感覚は、光の中に誰がいるのかを確信させてくれる。久しく忘れていた輪郭が、ぼんやりと霞んだ面持ちが、光の中から浮かび上がるようだった。手が光に沈む。そこにあると分かっていたものを、光の中にいる人物の手を、僕は確かに掴んだ。
 繋がりが暖かい。ずっと繋がっていたような、久々のような感覚は、女性のようにほっそりとした指先で少しひんやりとしている。暖かく感じるのは僕の体温がその指先を温めているからだ。息苦しさを感じて口を開けば、何がつかえていだんだろうと思うくらい大きなものが喉から外れた。勢いよく空気が雪崩れ込んで苦しく、思わず体を折って咳き込んだ。世界を感じる。世界の重さが重たい頭を支えている。倒れそうになる体に少し硬い何かが当たって、僕はそれを頼りに立ち続ける。瞼を意識すると、急に視界が開けた。泥と煤に塗れた僕の足と、ずいぶんと長い間自分の物のように使わせてもらった皮のブーツが見える。
 顔を上げる。意地の悪そうな瞳が、楽しげに僕を覗き込んだのです。
「おっ。ようやくお前が居なくなったな。スッキリしたような、ぽっかりと空間が空いたような不思議な気分だ」
 端正な顔にやや垂れ目な目元は不満そうに眇められていますが、緑の瞳に宿った光は暖かいものです。腰まであるだろう長い髪、テンガロンハットを被って、同じ砂色のコートがふんわりと広がる。僕の魂を抱えてここまで連れてきてくれた恩人、クロウズです。僕が笑い返すと、横から嵐のような歓声が湧き上がりました。
「あいぼうぅぅううう! あいぼうだ! うれしい! さわれる! あいぼう、オイラね、あいぼうに触れるようになったら、もう一回、よろしくの握手やりなおししたかったんだー!」
 顔から全ての液体を撒き散らし、泣き腫らすプクリポに押し倒されたのは幼馴染の兄弟の弟の方。柔らかい青紫の短い髪の下に、まだ幼さの残る顔立ちが困ったように笑っている。真っ赤なプクリポの毛並みを抱きしめて宥めながら、喜びを分かち合っています。
 そのまま、傍にいるのは誰なんだろうと、ルアム君は僕を見上げて驚いたように目を見開いたのです。青紫の瞳が僕の姿を写し込んで、潤んでぐるりと歪む。
「シンイさん!」
 なんて懐かしい感覚なんでしょう。この村が滅んだなんて嘘だったんじゃないかってくらい、ルアム君が変わらない。
 そう、僕はシンイ。
 エテーネ村の巫女として民を束ねていた、アバの孫。あの日、君とテンレスさんとで花を採りにいって、滅びゆく村を駆けてお祖母様の元に花を届けようと別れた幼馴染。君がプクリポの青年と世界を巡っていたように、僕もクロウズと世界を旅していたんだよ。この日に、この瞬間に辿り着いて、君と再会できることを知っていたんです。
 僕は笑った。あの日から何もかも変わってしまった気がして笑えるか不安だったけれど、自然に笑顔が溢れてくる。
「ルアム君。おかえりなさい」
 一人っ子の僕にとっては、テンレスさんとルアム君は兄弟も同然でした。家族に出会えたような安堵に胸が満たされ、僕は撫でた指先をふんわりとすり抜けていく青紫の髪を懐かしく思う。煤に汚れ、舞い上がった砂埃は、あの日のものなのでしょう。このアストルティアという広大な世界に魂一つで放り出されてなお、変わらずに帰還した愛おしい存在。僕は彼の仲間に感謝しても足りない思いに満たされるのです。
 天馬が舞い、力を秘めた光が淡雪のようにエテーネ村の跡地に降り注ぐいていきます。
 プクリポは目元を拭いながら、そっとルアム君から体を離しました。ルアム君はそのまま、勢いよく僕に抱きついて泣いてしまったのです。その生まれたばかりの赤子のような泣き声と、熱い体温を感じながら、僕も帰ってきたことをようやく実感したのです。
 僕は嬉しそうに笑いながら泣く弟に微笑みながら思う。たくさん、君に話したいことがある。テンスの花を抱えてお婆さまの元に行くと別れたあの瞬間の後のこと。クロウズと出会って、共にレンダーシアを目指すこと。君に出会えて嬉しくて正体を明かしたかったけれど、クロウズの姿の僕を信用してくれないと思って黙ってしまったこと。
 あぁ。この瞬間を何度も見ていました。それでも迎えたこの瞬間の喜びは鮮明で、急流に揉まれる木の葉のように冷静な僕をもみくちゃにしてしまう。僕だって、泣きたいくらい嬉しい。

 ■ □ ■ □

 ガノ殿が磨いてくれた装具は鏡のようで、僕が映り込んでいる。癖の強い髪は短く揃えられているにも関わらず、一つ一つがくるくると自由奔放にあちこちに向いている。お祖父様譲りの目元は全体の顔の印象を幼く見せていて、その上に金色の縁の眼鏡が掛けられている。あぁ、シンイの顔だ。久々に見て、気恥ずかしい。ぽっと頬を赤らませてしまって、何を考えているんでしょう。
 赤い外套も白いローブも、イサークさんがルアム君の分もと新調してくれました。馴染んだ形ではありますが、守護の魔力が込められた布は僕の魔力の循環を阻害することなく、外部からの災いを退けるよう絶妙に調整されています。袖や裾に施された刺繍も洒落ています。僕も裁縫には自信があるんですけど、本職の方は違いますね。
 胸当てやインナーは、戦士であるルミラさんが見繕ってくださいました。流石、その道の方は体の負担や体力に見合った、装具の重さや動き易さを把握しておられる。要所要所に防御力を充てて、形だけでも一流の冒険者です。
 エンジュさんは僕が炎の呪文を得手としていることを知って、魔力の流れを炎に呪文に転換することを助ける宝珠を作ってくれました。炎の精霊の加護を持つ彼女の宝珠は、中に炎を秘めたように美しく、持っているだけで力が血潮のように巡っているのを感じます。
 鞄の中の荷物を確認し、僕とクロウズは村の入り口に立っていました。ルアム君と仲間達が、僕らを見送るために集まってくれました。それぞれの種族神の祈りの仕草で、僕らの無事を願ってくれます。一人不安そうなルアム君に、僕は笑いかけました。
「ルアム君。君にはこの村を復興して欲しい。君の作った新しく生まれ変わったエテーネ村に、僕はテンレスさんと帰ってきます」
 その言葉に、弟同然の彼は堪らなく不安そうな顔をします。
 兄弟であるルアム君こそが、テンレスさんを探しに行きたいと願っているのを、僕は彼以上に感じているのです。でも、今はテンレスさんのいる場所に、行く事は叶わない。時が来なければ、道が開くことがない場所に彼はいることを説明しても不安を駆り立てるだけでしょう。
 クロウズとの旅はエテーネ村からさらに先、テンレスさんのいる場所まで続いている。僕とクロウズの旅はまだ続くのです。
 でも、ルアム君がテンレスさんのために、そこまで来る必要などない。
 幼さの残る少年は、もう十分頑張ったんです。故郷が滅び、家族を失い、誰一人頼る者のいない中で広大な世界に放り出された。それだけで、駆けつけ手を差し伸べることが出来なかった自分が不甲斐なく思うほどなのです。それなのに、ルアム君は同じ名前であるが故に運命を共にしてくれる友を得て、多くの縁と、宿命の中で冥王ネルゲルと戦い抜いた。こうしてレンダーシアの故郷にまで、帰ってきたのは間違いなくこの小さな体に秘められた力だと思っています。
 たくさんの葛藤があった。たくさんの苦悩があった。でも、それはもう終わり。これからは何者にも怯えることなく、穏やかに暮らして欲しい。僕も、そしてこの子の兄であるテンレスさんも心からそう願っている。
 僕はルアム君に微笑んだ。僕もついていきたいと言いたくて仕方のない口元は、ふるふると震えている。
「君には頼りになる仲間がいる。彼らの力を借りれば、エテーネ村の復興は決して夢ではありません」
 ルアム君を取り巻く、5種族の仲間達。それぞれが不思議な運命を背負った者達で、そんな縁を引き寄せたルアム君の運命の大きさを憂う。生まれた時から数奇な運命を背負わされていただろう。これから先も、その運命に翻弄されて波乱な人生を歩むのではないかと危惧してしまう。未来を見る力は移ろう未来に定まらず、不穏な霞の向こうにあるばかりだ。だからこそ、今、安穏な人生を歩めるように、村の復興を託したい。
「君になら、安心して村を任せられる。僕の、テンレスさんの、大事な故郷をどうかお願いします」
「うん。僕、頑張る。シンイさんと、テンレス兄さんが帰ってくるのを待ってるから」
 我が儘で騒動の中心だったテンレスさんの後を追いかけて、謝って歩いていた聞き分けの良い子。天馬ファルシオンも村に加護を授けて、何処かへ行ってしまった。頼れる人は、ここにはいない。言わせてしまったようで、申し訳なかった。
 それでも、この子ならこの村を預けて良いという思いは本物だ。
 ふと、未来が見える。
 村の北に広がる恵み豊かな大地を縦断する街道を、一人のエルフの男性が歩いている。総じてエルフは年齢より若く見えるが、整えた髭から壮年くらいの男性なのだろう。大きな一抱えもある木箱を肩に掛け、痩身を追い風に乗せて軽快に進んでいく。
 その後ろから馬車が近づいていた。エルフの男性は道を譲るように脇に避けると、御者台に乗った人間の若者が速度を落として馬車を止める。旦那。そう声をかける若者は、人懐っこい笑みを浮かべた。
「旦那もこの先の、エテーネって村に向かうんですかい? 良ければ乗ってくださいよ」
 どうぞ。どうぞ。一緒に乗っていたオーガの青年とウェディの女性も手招きする。馬車には商売で使うのだろう木箱に樽にと所狭しと荷物が積まれ、座る場所にも苦労しそうだ。甘えさせていただくとエルフの男性が乗れば、馬車はがたごとと動き出した。
「商売かね?」
「えぇ。俺達、命の恩人の村に向かうんですよ。向かう道中で耳に挟んだ噂じゃあ、最近滅んで復興するって聞きましてね。競争相手もいないなら、自分達の店を持つ良い機会と思いまして、こうしてやる気満々で向かうところでさぁ!」
 それでこんなに荷物が満載なのか。愉快に語るオーガの男が押さえ付けている荷物を見上げたエルフの男に、ウェディの女性が年季の入った木箱を指さした。
「旦那さんは何をしに、エテーネ村に向かわれるんですか? 見た所、木工職人さんのようですけど…」
「もう職人ではないんじゃが…」
 言い淀んだエルフの男は、整えた顎髭をさすり嘆息する。
「お嬢に頭を下げられて、エテーネ村で喧嘩しちょう各大陸の棟梁衆の面倒を頼まれたんじゃ」
 首を傾げる商人達に、エルフの男は語る。復興のために一から人の住処を作るなんて面白い話を聞きつけた、各大陸の棟梁達が集結したのは良かった。しかし、各種族の建築様式の素晴らしさを推すがあまりに喧嘩に発展し、いまだに掘建て小屋一つも立てれていないらしい。これに地下から発掘された船の中に残されていた、不思議な建築様式の復刻を売り込む学者と一触即発の事態らしい。そんな経緯から、木工ギルドのマスターがこのエルフの男に棟梁達をまとめ上げるよう頼んできたのだ。
 経緯を聞いた商人達が、感心したように息を吐く。
「そんな良い腕なんですね。こりゃあ、俺達も村の方々に信頼されて、旦那に店を建ててもらわないとな!」
 エルフの男は嘆息する。建築の腕は決して鈍ってはいない。彼は秀麗なカミハルムイの屋敷の一角を住処とし、月一の出入りで破壊された門や玄関を修繕したり立て直す程度に腕がいい。引退した身ではあるが、現役の職人よりも経験豊富だろう。だからこそ、お嬢は頭を下げてきたのだ。そう男はぶつぶつと自身に言い聞かす。
「うちの若い衆に喝入れるほうが、みやすいのぅ。えらいやねこいことじゃ」
 男の視線を追って青空を見上げれば、今の青い空がそこにある。
 エテーネ村の復興という明るい未来しか見えないはずなのに。なんでしょう。波乱に満ちた未来が見える…。