火の粉

 グランゼドーラの王族が乗る馬車は、重厚な木目の美しい壁面に金の装飾があしらわれた絢爛豪華なものだ。内装も美しく、城内と同じ壁紙が貼られ、天井から小さいがシャンデリアまで下がっている。特に体が埋まってしまいそうな程に柔らかい座面は、馬車の揺れも手伝って眠ってしまいそう。
 幼い頃はこの馬車に乗って出掛けるのが、楽しみで仕方がなかった。トーマ兄様や母様とお出掛けだと分かっただけで、大はしゃぎだったのを覚えている。でも今は、かつてのような胸の高鳴りは無いだろう。
 ピペとラチックと旅をしていた頃が恋しい。移動は基本的に徒歩で、ピペはどんな嗅覚を持っているのか何気ない風景から絶景や美しい花や動物や魔物の群れ、そして往来する人々の生き生きとした交流を見つけてはスケッチブックに描き込んだ。風を匂いを温度を五感で感じ、疲れたり急な雨から逃れるために木の下で休息する旅路を味わってしまったんだもの。
 グランゼドーラとは違う海の色も、珍しい植物も、窓から見るのでは味気ない。そう思うことすら、贅沢な我が儘だ。私は目を伏せる。私はグランゼドーラのアンルシア姫であり、当代の勇者なのだから。
 向かい合うようにグランゼドーラが抱える賢者、ルシェンダ様が座っておられる。オーガの女性特有のメリハリのある線を際立たせる、シンプルなローブ。白い滑らかな布地の波は蠱惑的で、オーガの赤い肌をより美しく際立たせる。目元口元、髪は当然、指先に至るまで磨き抜いた女性の美しさは、グランゼドーラで憧れぬ娘などいないくらいだ。同じ空間にいると、ルシェンダ様から良い香りがしているわ。
 尊敬に値する人だと思っている。魔法の研鑽を欠かさず、世界中の賢者と呼ばれし博士達と研究を深め世界に貢献する様は、理想の賢者だ。膨大な魔力、豊富な知識から繰る様々な魔法は、勇者として目覚めた今も超えることはできないだろう。
 そんな賢者様が、私に言ったのだ。
 『アンルシア。温泉に行かないか』と。
 馬車が止まると、不思議な匂いが漂っていた。硫黄の香りだとは知識として知ってはいたけれど、良い匂いとも、変な匂いとも表現が右往左往する不思議な匂いだ。海に隣接するグランゼドーラ育ちだから潮風には馴染みがあったが、この硫黄の香りは髪や服にこびりついたら嫌だなって思ってしまう。
 4頭引きの馬車から降りると、そこはモンセロ温泉峡の入り口だ。大量の温泉が絶え間なく沸く地域で、流れ出た湯煙で谷間になっている入り口の先を見ることが出来ない。すると、湯煙の中から暖かい光が浮かんだ。
 煙から抜け出たのは、暖かい光を放つ提灯を持った男性だ。赤い短髪と気怠そうな顔に、着崩した灰色の浴衣がよく似合っている。隼の剣が帯に挿さっているところを見ると護衛なのだろう。モンセロ温泉峡は見通しが悪いため、護衛を兼ねた案内人が必須の地域だ。
 間を置かずゆっくりと現れたのは、エルトナで好まれる大きな布を体に巻き付け帯でまとめる和装の少女だ。黄色の薔薇を様々な濃度で染め抜いた和装は、一眼見ただけでは黄色一色に見える。そこに白と銀のシンプルな模様が織り込まれた帯で留める。襟や袖から覗く濃い橙色が、品の良いアクセントになって映えていた。黒髪を肩で揃え大きな碧の瞳が可愛らしい少女は、白い手袋の手元を重ねて丁寧に頭を下げた。
 二人とも人間の男女だ。親子ほどの年齢の差だが、少女の方がしっかりしているように見えるわね。
「アンルシア様、ルシェンダ様。モンセロ温泉峡へ、ようこそお出でくださいました。私は本日お客様のご案内をさせていただきます、旅館『秘湯の花』のコンシェルジュでございます」
 模範的なコンシェルジュの一礼。洗練された雰囲気は、まるで王宮の中にいるような気分にさせてくれる。
「コンシェルジュ? 女将はどうされたのだ?」
 ルシェンダ様が怪訝そうに首を傾げた。
 コンシェルジュとは世界宿屋協会が派遣する、宿泊者を支援する役職。その業務は多岐にわたり、接客、宣伝、観光案内、スタッフの育成から、必要素材の調達などの雑務に至るまで様々だ。しかし最終的な目的は、宿泊者に快適な時間を提供すること。コンシェルジュは宿のクオリティを底上げするプロなのだ。そんなコンシェルジュは世界宿屋協会が運営する宿はもちろん、個人経営の宿でも派遣を受けることができる。しかし老舗で格調高い宿ほど、コンシェルジュがいないことが多い。
 今回宿泊する旅館は、ルシェンダ様が贔屓にされている老舗の宿だ。おそらく、ルシェンダ様は旅館にコンシェルジュがいないことを知っているのだろう。一瞬、不穏な予感が脳裏を掠めたが、その不安を嗅ぎ取ってか少女は深々と再び頭を下げた。
「はい。女将が体調を崩されたため、補充スタッフとして世界宿屋協会より参っております。若輩者ではありますが、お宿までの道中を私がご案内をいたします」
 面を上げる。可愛らしい少女は、その幼さの残る笑みとは裏腹の事務的な言葉を紡いだ。
「もし不安がございましたら、世界宿屋協会にお問い合わせください。回答が得られるまで、待機いたします」
 待機の言葉を聞いて、護衛の男が煙管を取り出して徐に喫煙し出した。それを少女が咎め、不満そうに男が唸る。
 どうしましょう。そう囁くと、ルシェンダ様は少しだけ思案するように口元に手をやる。しかし、意を決したように頷いた。
「問い合わせる必要はない。付き合いの長い女将が体調を崩されているというのなら、早く見舞いたい。このまま、案内してもらおう」
「かしこまりました。では、こちらへどうぞ」
 モンセロ温泉峡は、レンダーシアでも異質といえる地域だ。地面の下から湯がボコボコと湧き立ち、間欠泉なのだろう激しい水飛沫が上がる音が聞こえ、遠くからは滝だろう轟音が響いてくる。湯煙の切れ目からは、草木の生えぬ地面が見渡す限り広がり、峡谷に流れる広大な湯量の岸は青や緑といった自然界の地面にはありえない色に染まっている。湯気や温泉が沸く周囲は黄色い石が多く転がり、強烈な硫黄の匂いがしてクラクラする。
 魔物が多い地域だが、古くからの宿も多い。舗装された道は人通りの多さを物語っており、起伏の激しい土地柄で転落しないよう柵が設置されている。湯煙の隙間から宿場町が見え、温泉の流れを挟んでエルトナの趣のある街並みが見える。どの宿も予約制で、こうして入り口から案内役が迎えにくる。この温泉峡そのものが、実世界から隔絶された異郷なのだろう。
 宿場町を横目にさらに進む。ルシェンダ様と私の後に追従する、2名の近衛兵の緊張が伝わる程に増してきた。女性の近衛兵はルシェンダ様が側仕えさせている精鋭で、魔物以上に目の前のタイミングよく派遣されたコンシェルジュに警戒の目を向けているらしい。
 少女の模範的なコンシェルジュの足並みが、どんな悪路でも揺るがない。幼いのにベテラン冒険者のような安定感だ。
 それにしても隙のない男だ。私は油断なく先導する護衛の男を見る。煙管を片手に喫煙している様は、護衛の業務を放棄していると見えるほどに自然だ。美味そうに煙を吸い込み吐き出すのだから、好きなのだろう。それでも安全な道を確実に選び、湯煙で殆ど見えない世界に目を配り警戒している。この男が剣を抜いて戦う姿が見たいと思ったが、道中に魔物は全く現れなかった。
 すると、湯煙の向こうに大きな影が浮かぶ。それは風に吹き払われると、ゴンドラ乗り場だと分かる。石積みした建物の内側に、小型の馬車程度の乗り物がロープに吊るされている。木目調の美しい内装に、座り心地の良い柔らかい座布団が置かれている。全員乗り込んで男が操作をすると、ゴンドラは馬車よりも静かに動き出した。
「このゴンドラは温泉の蒸気を利用して稼働しています」
 少女はこの不思議の種明かしをするように語る。
「我々が目指します『秘湯の花』は、モンセロ温泉峡最古の老舗旅館です。煙霧の谷の奥にある大火山より流れ出る、最高濃度の源泉は、神話の戦いで神々が湯治をされたと伝説に記される名湯であります。あらゆる傷、あらゆる病、そして美容にも良いと、多くのお客様に愛されております」
 流れるような説明を聞きながら、眼下に広がる巨大な湖を見る。これが全部温泉なのね。すごいわ。
「『秘湯の花』をはじめ、峡谷の建築物はエルトナ式にございます。これは戦いの傷を癒す弟と妹のために、煮えたぎる湯を適温に冷まそうと神器カザヒノミを振るうエルドナ様の休息の場を、兄弟が力を合わせ作られたとの逸話からでございます」
 ゴンドラが止まって地面に降り立つと、彼方に見えていた大火山が目の前に聳え立っていた。霊峰ドラクロンに勝るとも劣らない巨大な山だ。そして周囲も再び舗装された石畳が続き、湯煙の切れ目にエルトナ式の立派な屋敷が現れる。石灯籠に誘われるように進むと、格子の扉が開かれ暖かい光が包み込む。磨かれて鏡のようになった板の間に、老齢の女将がゆるりと出迎えてくれた。
「お初にお目にかかります、アンルシア様。ご無沙汰しております、ルシェンダ様。ようこそ、『秘湯の花』へ」
 気品のある老女だ。無地に思える紫の和装には、美しい白い花が施されている。カミハルムイの桜を連想させる仄かな色味の帯びの対比が美しい。白いもう殆どが白くなった毛髪は艶やかに手入れされて結い上げられていて、まるで磨かれた銀細工のようだ。高齢とは思えぬ肌艶は健康的な赤みを帯びていて、ピンと伸ばされた背筋は若々しさを感じさせる。体調不良と表現できそうな様子は全く見られない。
 一瞬、案内してきたコンシェルジュの発言が嘘かと思ったが、丁寧に頭を下げた瞬間、女将の体が強張った。おそらく、腰が痛いのだろう。ルシェンダ様が労わるように女将に歩み寄る。
「女将。無理をしなくていい」
「お客様にご心配をお掛けして、申し訳ありません…。宿屋協会から来た二人が、大変有能で助かっております」
 差し出されたルシェンダ様の手を取って、ゆっくりと女将は体を起こした。ルシェンダ様が労りの言葉を掛け、女将が親しげに返す。そんな様子を見ながら、私は肩の力を抜いた。
 世界宿屋協会は古き伝統と厳しい自浄作用で有名な協会である。もしも、名を騙って損益を与えるような真似をしたならば、協会の内部組織が世界の果てまで追いかけてくるという。それが表沙汰にならぬ程度に有能で、宿屋という人々の憩いと安寧の場を提供する組織の誇りを雄弁に物語る。あの二人は本当に女将が助っ人として呼んだだけなのだろう。
「さぁ、お食事の準備も整っておいでですが、お風呂のお支度も済んでおります。どちらになさいましょう?」
 ど、どうしよう。ルシェンダ様がちらりと私を見る。
 長く馬車に揺られ、それなりに疲労感はある。空腹も感じているし、さっぱりしたい気持ちもある。どうしようと迷っている私を見て、ルシェンダ様はふっと表情を和らげた。
「では、先に湯をいただこう」

 靴を脱いで素足で感じる板の間は、氷のように滑らかでひんやりと冷たい。エルトナ式の建物は外の硫黄の匂いが嘘のように、木の香りで満ちていた。庭園は白い砂利が水の流れを表しているという石庭で、石の場所や砂利の模様、温泉の流れと大火山のシルエットが一つの芸術のように窓枠に収められている。提灯という薄い紙の筒に包まれた蝋燭の明かりが、暗闇の中で温かく浮かぶ。一輪挿しの花瓶には、この地では咲くことのない美しい花が大輪を誇る。
 案内に再び先導として現れたコンシェルジュは、しずしずと旅館の奥へ誘う。庭園をぐるりと回り込み飛び石を超え、旅館から少し離れたところにある立派な建物に入った。
 畳と呼ばれる草を編んだ床の上に上がると、入浴後の浴衣を選ばせてくれた。ルシェンダ様は黒地に赤や白い花があしらわれたものを選び、私の浴衣も選んでくれた。一口に青や赤と言っても、模様や織り込まれた花のバランスもあるらしい。色々と胸に布地をあてがわれ、あれがいい、これがいい、と真剣に悩んでくれる。そんな様子に思わず笑ってしまった。だって、賢者ルシェンダ様がこんな娘のお洒落を真剣に悩んでいらっしゃるんだもの。
 そうして選んだのは赤い花と小さい黄色い花で彩られた華やかな浴衣だ。城では姫として様々なドレスに袖を通してきたけれど、浴衣は初めてでドキドキする。
 そういえば、温泉って初めてなのよね。
 浴衣を選び終えると、コンシェルジュが脱いだ衣類を入れる籠と、薄いタオルを持ってきた。
「レンダーシアには公衆浴場の概念が浸透しておりませんから、タオルを巻いての入湯が可能です」
 ペラリと広げれば、胸の上から膝上くらいの縦幅と体に巻きつけても余る横幅のタオルだ。
 温泉の入浴は少し特殊だとは、本で読んだことがある。地面から湧き出す湯は大衆で利用するため、入浴前に体を洗うとか、タオルを湯船に入れてはいけないなどのルールがある。香りを出すためにバラや果物を入れることもあるそうだが、五大陸の浴場の規格はエルトナ式を採用しているそうだ。ちゃんと入れるかしら? ちょっと不安だわ。
「今回の湯はぬるめか?」
「はい。ルシェンダ様のご要望通り、いつもよりも湯揉みの時間を長めにして温度を下げております。温度が低いと感じられましたら、奥の方が高い本来の温度を保っておりますので、そちらをご利用ください」
「問題ない。レンダーシアの民は熱い湯には慣れていないからな」
 ルシェンダ様は慣れておられるのね…。ふと、視線を上げると一糸纏わぬルシェンダ様のお姿が…!
「ル! ルシェンダ様!」
 思わず顔を覆ってしまう。だって、女性とはいえ他人の裸だ。恥ずかしいに決まってるじゃない!
「初々しいな、アンルシア。女同士、恥ずかしがる必要などないだろうに…」
 うぅ! ルシェンダ様の香水の香りが包み込んで、顔を覆った指先に暖かい吐息が掛かる。この掌の向こうに、オーガのメリハリの効いた裸体があると思うと顔から火が出てしまいそうっ! ルシェンダ様は体の曲線美を引き立てる服を好むけれど、それに見慣れているからと裸体が見れるかは別問題よ! ど、どうしよう!
「ふふっ。先に入っている。後からゆっくり来るといい」
 そう笑い声が耳を撫で、頭をぽんぽんと撫でられる。がらりと聞き慣れない音が響いてから指を開いて薄目を開けると、ルシェンダ様の姿は見えなかった。肺の奥から全ての息を吐き出す程に大きいため息を溢すと、コンシェルジュは先程と変わらぬ位置で空の籠を持ったまま立っている。ルシェンダ様の裸体を見ても全く動じなかったのだろう。
 碧の瞳と視線が合うと、ふんわりと安心するような柔らかい笑みを浮かべる。
「個浴もございます。先にそちらで体を洗われてから、湯に浸かりに参りましょう」
「あ、ありがとう」
 お客様のように恥じらう方は多いですから。そう、コンシェルジュは微笑むと、個浴の扉を開けて私を招いた。
 露天風呂へ続く脱衣場と呼ばれる場所は広々としていたが、個浴は二人で利用したら狭く感じるほどの広さしかない。籠を置くことのできる棚には、空の籠が置かれている。小さい化粧台には鏡と化粧水などのアメニティグッズが、さりげなく用意されていた。露天風呂に面した壁は一面窓になっているが、それは木のブラインドで視線を遮られて閉鎖的な空間を演出する。一段下げられた隣室は石畳と木で出来た湯船がある浴室がある。ちょろちょろと湯船にお湯が注がれる音が、冷静さを連れ戻してくれた。個浴で露天風呂に浸かる用意を終える頃合いを見計らったようにコンシェルジュが声を掛けてきて、タオルを体に巻きつけた私をエスコートする。
 露天風呂にくつろいだ様子のルシェンダ様は、嬉しそうに私を出迎えてくれた。
「やぁ、アンルシア。良い湯だよ」
「失礼します」
 一礼して温泉に足をつける。一瞬熱いと思った温度も、すぐに暖かいと思う程度に馴染む。蒸し暑さすら感じた温泉峡の空気は濡れた体を冷やしてしまうので、私は飛び込むようにそのまま温泉の中に肩まで浸かった。滑らかいお湯が体を包み込むと、言葉にし難い気持ち良さが強張った何もかもを解していく。
 不思議なお湯だ。城の様々な香油や花を入れた湯とは全く違う。お湯が滑らかで両手で掬うと、ホワイトパールのような虹色を帯びた薄い白濁が肌を伝っていく。それが水とは違ってとろみを帯びていて、肌を満遍なく包み込んでいく。体があっという間に温まり、肌が艶やかになっていく。
 すごいわ。温泉ってこんなに凄いのね。
 顔を上げると、大自然が広がっている。湯煙が風に流れて切れる合間に、切り立った崖から飛沫を上げて落ちる瀑布が見え、岩の合間に疎らに生えた木々の緑がアクセントになっている。広々とした世界の中で、温泉に入っている開放感に気分が晴れ晴れとしてくる。来て良かったなって思えるくらい、気持ちも、疲れも晴れていく。
「気に入ったようだな。姫君と裸の付き合いが出来るとは、光栄だよ」
 満足げにルシェンダ様が笑う。お盆の上に小さいガラス細工の器と、数口しか注げない程に小さいグラスが置かれている。赤い液体がゆるりと湯船の波に揺らされている。赤い液体は酒なのだろう。ルシェンダ様は美味しそうにそれを含んだ。
 真面目な表情を崩したルシェンダ様の手が伸ばされる。びくりと強張った体に指先が触れると、肌に張り付いた金髪をそっと外して耳にかけてくれる。まるで恋人が愛を囁くように、うっとりと薄く開いた唇。瞳は愛おしいものを見るように潤んでいる。近い。近いです、ルシェンダ様。どうしよう。温泉の湯はねっとりと体を包み込んでいて、思うように動けない。
「なぁ、アンルシア。私はそなたの盟友になれるだろうか?」
 突然の質問に、私は間の抜けた声が漏れてしまう。そんな声がよく似合う間抜け面だったんだろう。ルシェンダ様はくつくつと肩を震わせ、愉快そうに声を殺して笑った。
「冗談で言ったつもりではないぞ。盟友になるための条件は、勇者と魂が結びつくほどの絆を得ること。立場や年齢、種族は関係ない。もちろん、トーマの真実に信頼が失われたとも理解している。それでも、と私は言いたい。アンルシア、そなたが望むなら私はありとあらゆる努力を惜しまぬつもりだ」
 どう反応していいのだろう。私はぽかんと開いた口が塞がらない。どうにか言葉を紡ごうと口を閉じると、口の中が乾いて舌が石のようになっていた。口の中を湿らそうと悪戦苦闘する様は、きっと口籠っているように見えただろう。
「そ、そんなこと…急に言われましても。ルシェンダ様は尊敬する賢者様であるとしか思えなくて…」
「ふふ。まぁ、最初はそんなものだろう。勇者と共に大魔王に挑み、世界を救いたい思いがあるのは私も同じだ。私は世界の平和のために命を賭けることも厭わぬ。それを知っていて欲しい」
 勇者には盟友が必ず存在する。盟友の存在がなければ、大魔王に勝つことは不可能と言われるまでの存在だ。
 私の盟友になるはずだった兄様はこの世におらず、私は故郷の誰もに強い不信感を持ってしまっている。こんな状態で盟友など得られる訳がないという諦めと、盟友を得なければ大魔王に勝てないと焦りがある。城で囁かれる盟友の登場を待ち望む声が、盟友にどうかと紹介される様々な人々が、私を責めているようで追い詰められている気持ちになる。
 盟友になるということが、どういうことだか分からないんだ。私は兄様の冷たくなっていく体の温度を、思い出して身震いする。
 だから、ルシェンダ様の『命を賭けることも厭わない』という言葉が衝撃だった。
 皆を守りたい。でも、盟友は必要で。死んでも良いと言う人がいて。だから、その人の手を取って良いとは思えない。どうして盟友など必要なんだろう。居なくたって良いじゃない。死ぬなら一人がいい。一緒に戦って、また目の前で死なれるのが怖い。放っておいて。私は大魔王に挑めばいいんでしょ? やるから。戦うから。それ以上を私に望まないで。
 ぐるぐると言葉が回る。感情は勇者にも姫にも相応しくない私情だ。それが余計に自分の嫌悪を掻き立てる。
「親交を暖めるためだけに、ここに訪れたわけではない。そなたには今までの成果と、これからのことを伝えておこう」
 話が切り替わり、今までの話はこれまでと口調が変わる。
 私もどうにか頭を切り替えて、ルシェンダ様を見た。少し頭がクラクラするのは、慣れない温泉のせいかもしれない。
「大魔王マデサゴーラは女神ルティアナが創生した本来あるべきレンダーシアを、奴が生み出した偽りの世界で塗り潰そうとしている。放置すれば我々の世界は失われ、大魔王が生み出した世界が真実と成り果てるだろう。調査団の収集した情報を精査し、叡智の冠の賢者達の導き出した結論だ」
 私はどこか腑に落ちた思いで言葉を反芻する。
「防ぐ手立てはあるのですか?」
「いくつか方法はあるが、共通するのは人間の種族神の加護を賜ることだ。今では文献も信仰も薄れてしまった種族神だが、勇者の力やペガサスなど世界を守る力が残されている。その一つが『神の緋石』だ。神がレンダーシアを守護するために、大地に垂らした血液が結晶化したものと言われている」
 人間の種族神。実は他の種族神よりも、その存在は曖昧だ。僧侶に洗礼を与えるエルドナ、種族を問わず武人が祈るガズバラン、ドワーフが種族の威信の拠り所とするワギ、ウェディの男子が一度は惚れ女子が憧れるとされるマリーヌ、幸運を授けてくれると信じられるピナヘト、5種族の神々は今も何らかの形で信仰されている。しかし、人間の種族神だけは、存続した信仰がないのだ。レンダーシアは度重なる魔族との闘争の度に伝統や文化が破壊されているために、存続が難しいのではないかと考古学者は見解を述べていたっけ。
「ホーローの調査で『神の緋石』の場所と、その力が失われつつあることが判明した。失われれば大魔王の生み出した世界からの浸食を、食い止めることは出来ないだろう」
 ミシュアとして旅をしてきたレンダーシア。振り返れば似て非なる世界だが、偽物と断言するには抵抗がある自然な人の営みがあった。調査団の団員も同じことを思ったに違いない。しかし、だからと言って本来のレンダーシアの人々の生活が脅かされて良い理由にはならない。
「だが『神の緋石』が蓄えている力が、勇者の力と近い、もしくは同じだと推測されている。そこで、アンルシアにはレンダーシア各地にある『神の緋石』の元に訪れ、勇者の力を注ぎ込んで欲しいのだ」
 私は温泉で暖まったのとは違う熱が体から吹き上がるのを感じた。勇者として目覚めても盟友のいない中途半端な存在に、これから成すべきことが与えられる。気持ちが水を得た魚のように、体から飛び出して目的地に向かってしまいそうだ。
「わかりました! すぐにでも向かいたいと思います!」
 立ち上がろうとする私を、ルシェンダ様は引き留めた。笑みを含んだ顔はちょっと呆れている。
「そう焦るな。『神の緋石』の一つは、このモンセロ温泉峡の源流にある。今も民が守り人となって、御神体と崇められている信仰の対象だ。今日は英気を養い、明日、訪れてみるとしよう」
「はい!」
 なるほど。ただの温泉旅行ではなかったのね。流石はルシェンダ様だわ。
 くすくすと笑い声が聞こえる。女性の声は広い露天風呂のもっと奥から聞こえていて、湯煙に二人の人影が見えていた。
「ベリンダお姉ちゃんったら、また胸が大きくなっちゃんたんじゃなーい?」「きゃっ! ブレンダったら、どこ触ってるのよっ!」「だってぇ、お姉ちゃんのは、しっとりもちもちで、触り心地が良いんだもん!」
 きゃっきゃと華やかな声に、何をしてるのか想像してしまって思わず顔が熱くなってしまう。年頃の女の子が二人も集まれば、あんな会話をするのかしら。ジャンナが生きていて一緒の時間を過ごせたら、こんな会話も出来たのかな?
 コンシェルジュが露天風呂の周囲をトコトコと歩いて、奥にいる女性達に声をかける。
「お客様、お湯加減はいかがですか?」
「もうサイコーよ! 見て、この肌艶! ますます良い女になっちゃうわね!」「言うことないわ! 流石、有名な源泉掛け流しね! もっとお肌を磨いて、あの方に見ていただきましょう!」
 ごゆっくり、お寛ぎください。そうゆったりと頭を下げて、コンシェルジュが下がろうとすると強い風が吹いた。
 湯煙が吹き払われ、奥にいた人影が露になる。
 湯に浸かっていたのは、明らかに人間ではなかった。豊満すぎる肉体はオーガのように赤く紋様が刻まれているが、その紋様は毒々しい魔力の流れに赤くも紫にも移ろう。大きく裂けた口にはずらりと鋭い牙が並び、青い舌がぽってりとした唇を舐める。艶やかな髪に生えたツノ。勇者として覚醒したからわかる気配は、明らかに彼女らが魔族だと告げていた。
 そんな彼女達が恥ずかしげに胸を手で隠し、湯船の中に身を沈めた。驚きもあって、私も彼女らと叫ぶ。
『きゃーーーーーーーーっ!』
 それでも。裸体だ。思わず、手で顔を覆ってしまう。
「なぁんてね! 他人の裸を見て赤くなっちゃうだなんて、随分とウブな勇者ちゃんじゃない! かわいい!」
 湯船から勢いよく立ち上がると、天高く間欠泉のように湯が吹き上がる。土砂降りの雨のような温泉に打たれながら、魔族の姉妹だろう彼女らがポーズを決めた!
「あたしは豪魔将ベリンダ!」「私は豪魔将ブリンダ!」
 官能的な決めポーズだが、やっぱり他人の裸は恥ずかしくって指の間からどうにか見る。
「私達、豪魔将シスターズは魔元帥ゼルドラド様の命により、この峡谷の源流にある『神の緋石』を砕きにきたの!」
「でも温泉を楽しんで女を磨くのも、むさ苦しい魔将の中に咲く花の務め! アンルシア姫ちゃんも倒して、女の格を上げるわよ! いくわよ、ブレンダ!」
「がってん!」
 く。武器も何も持っていない。魔法で戦うしかないか。『お客様お客様! 困ります! あーっ! お客様! いけません! ご入浴中の戦闘はご遠慮願います!』そんな声が聞こえなくもない。
「大魔王の思惑通り『神の緋石』を砕かせはしない!」
 魔族の姉妹は腹を抱えて笑う。
「そんな骨と皮みたいな細っこい体で、あたし達を止める気ぃ? 笑っちゃうわよねぇ、ブリンダ?」「ほんとよねー。ぺったんこのくせに、なまいきー」
 ぺ
 ぺったんこ…?
 どこが? なにが?
 はらりと体の重みが消え、全身が風に晒されてすっと冷えていく。それを見て、姉妹は笑い転げて温泉が波立った。
「見て見てっ! ベリンダお姉ちゃん! コニウェア平原よ!」「ブリンダ! ぽろりもできないからって、可哀想だからやめてあげなっ!」
 ぷつん。何かが切れる音がした。
 ふつふつと怒りがこみ上げてくる。今までに感じたことのない怒りは、煮えたぎるマグマのように沸き立ち吹き上がる。ホーロー様から賜った『勇者の光』の力なのだろうか。力が溢れて、どんな敵も打ち砕ける自信が湧いてくるわ。
 コンシェルジュが駆け寄ってくる。顔を真っ青にしているのは、きっと目の前の魔族が怖いのよね。大丈夫。勇者である私が、今すぐ、魔族を撃ち倒してあげるからね。私はコンシェルジュの少女ににっこりと笑いかけ、手を魔族に向けて掲げた。
「お客様! いけません! あーーーーっ! 困ります! ギガデインは! あーっ! あーーーっ! お客様ぁああああっ!」
 少女の悲鳴と、魔族の姉妹の断末魔と、凄まじいギガデインの咆哮が温泉峡に響き渡った。
 静寂がこの地に平和が訪れたことを物語る。民を、世界を守れたことは誇らしいことなのに、心にぽっかりと穴が空いたような空虚さがある。私は胸に手を当てた。
「…ぺったんこじゃないもん」