楽園の果実

 それは島と呼ぶには大きかったが、人が歩ける場所は猫の額と言い表せるほどに狭い。岩山は一つの城の尖塔を思わせる高さがあり、へばり付くように古めかしい神殿が建っている。神殿の歴史は古く、リンジャハルの遺跡より古いとされた。その名残なのか開かずの扉や残された柱達は不思議な建築物で出来ている。緑が生きれる場所はとても少なく、荒波が洗う岩礁が広く岩山を囲っている。人を拒む自然は畏怖を抱くほどに美しい。
 ここは世界で最も辿り着くことが困難な大地。マデ島と呼ばれる、小さな小さな島である。
 レンダーシアの複雑な海流のせいでたどり着くのが難しいナルビアとは比較にならず、ここにやってくるならば空を飛ぶしかないとまで言われている。ここに建つ神殿を改装した修道院に辿り着いたシスターは、過去を捨て、新しい名前を神から授かりて、その命をお返しするその日まで祈ることを責務とする。
 ここで暮らす日々は、祈りの日々だ。私はここで二人の男性の無事を祈って、もう少ししたら神の御許に行くだろう。
 骨と皮になってしまった手は、祈るために組んだ形に歪んでいる。丸くなった背中。痛む膝。あぁ、置いてきた父はまだ元気にしているだろうか? 私が見送った愛しい人の顔は、どのようなシワを刻んでいるのだろう?
 今日も祈る。父の息災を。愛しい人の無事を。
 春の日差しは光を増し、夏に向けて熱を帯びる。寒さに苦しめられる修道院も、ようやく微睡む心地よい空気が満ちてきた。流れ込む潮の香りと熱は、ナルビアを飛び出した若き日を思い出させてくれる。
 家に帰ってきたあの時、彼の様子がいつもと違う気がした。別に何ら変わりはない。難しい錬金術の失敗は、才能のある彼でも日常茶飯事だった。怪我も病気もしていない。気が向いたらする散髪はされていないし、帰ってきた私を迎えた笑顔もいつもと変わらなかった。
 でも、私はわかった。彼がいつもよりも気を遣っていること。ちらちらと動く瞳の忙しなさは、この家に何もやり残したことがないかを総浚いして確かめているようだった。
 彼は言った。父が最近腰の調子が悪いっていうから、ここに纏ったお金を置いておくから困った時に使って欲しい。どうしてと訊ねたら、忘れっぽい俺よりしっかり者のリリオルがわかっておいた方がいいだろうと笑った。
「嘘つき」
 彼の顔が強張った。だってそうじゃない。テンレスは自分のことよりも私達親子のことを気にかけてくれる。困ったときに用意したお金のことを、忘れるなんてあり得ない。彼が私達を助けられない状況にする訳がなかった。だから確信したの。
 彼はここを出ていくつもりなのだ。
 故郷にちょっと帰るのではない。材料を仕入れに遠出する訳ではない。
 出て行ったら、二度と、戻ってこないつもりなのだ。
「私も一緒に行く」
 その言葉が彼に届いたとき、彼の顔に浮かんだのは拒絶だった。わかっている。テンレスがしようとしている錬金が、とても難しいこと。父が引退を宣言するほどに才能に恵まれたテンレスは、本当に何でも釜から作り出して見せた。父の持っていたレシピを読破し、それらをアレンジして新しいものを次々と作って見せた。この世の全てを作り出せそうな彼を見て、父は言った。テンレスはこの時代に生きる全ての錬金術師の中で、最も抜きんでた才能を持っている…と。
 彼が弟さんのために作ろうとしている物が難しいから、旅に出て作る。そう素直に言ってくれれば、私も父も止めなかったろう。私は付いて行くと言ったかもしれない。それでも、すぐ帰ってくるから、そう言われたら残ったかもしれない。
 私が一緒に行く決意を固めたのは、彼が行こうとする先に幾多の困難があるからだとわかったからだ。彼もそれを理解して、黙って消えるように去るつもりだったのだ。
 駄目だ。君を危険に晒すわけにはいかない。
 顔に浮かんだ拒絶が言葉になって突きつけられる。
 あぁ、あの時の私は若かった。何も分かってなどいなかった。テンレスの言う『危険』が何なのか、良く分かっていなかった。ちょっと怪我をする程度。酷くてもメラゾ熱で死にかけたあの時くらいのものだろうと思った。しかもメラゾ熱で生死の境を彷徨ってはいたが、お父さんやテンレスが特効薬を作って助けてくれたものだから、私は『危険』など乗り越えられる程度のものだと侮っていた。
 あの時、どんな言葉を言われたら留まっただろう?
 君に来られたら迷惑だ。
 俺が君を守りきる保証はない。
 イッショウさんのために残って欲しい。
 もう『すぐ帰ってくるから』なんて言葉は通じなかった。
 何度も何度も、いろんな言葉を記憶の中の彼に言わせた。それでも当時の若かった私は、その言葉を受け入れることはなかっただろう。どんな困難もこの人となら乗り越えられる。そんな想いが私を支配していた。一回拒絶された感情に反発して燃え上がった、その感情は『恋』だった。恋は盲目と吟遊詩人は歌う。その通りだと、今の私は薄ら笑いを浮かべるだろう。
 さようなら。そう背を向けて扉を開けて光の中に溶けてしまう、愛しい人の後ろ姿を追いかけた。服の裾を掴むことができたのは、当時は天使の計らいかと思ったが、悪魔の悪戯であったのだろう。
「弟さんのためのお花の研究に、お金がいるでしょう? お願い、私達に今までのお礼をさせて」
 卑怯だったと今でも思う。最後だったからこそ、大切にしていた家族の願いを叶えてやりたいと思った彼の優しさを利用した。彼の研究していた花はとにかく難しく、家を新築できるほどの彼の貯金をあっという間に溶かしてしまう。先立つものはなんとやら。金をちらつかせた私の言葉に、テンレスは足を止めた。
 そこから先は瞬く間。銀行の貯金を全て下ろし、家を売り払った。家を売り払ったと知ったテンレスは私を怒ったが、時間がなかったのだろう、後に戻れなくなった私を連れて行かざる得なかった。若くて愚かな私は、愛しい人に手を引かれ船に乗り込んだのを嬉しく感じていた。遠ざかるナルビアを見ながら、これから愛しい人と二人だけの時間を過ごすことに心が弾んだ。
 父には酷い事をした。当時は父ならば一人でも上手く立ち回れるだろうと言う、根拠もない信頼があった。だが自分が当時の父の年齢になって、家もなく金もなく、支障を来す程度に老いた体が路頭に迷うことは非情な事でしかない。私はとんでもない親不孝ものだった。
 それでも、旅は発見と喜びの連続だった。特にメラゾ熱の蔓延するグランゼドーラを救ったことは、今でも心を熱くする記憶だ。人々が病から立ち直り、感謝される日々は忙しさを吹き飛ばすほどの喜びに溢れていた。自分達が親しくなれず、偽名を名乗って接することをテンレスに恨みがましく零した事もあった。
 そのような生活は長続きしない。神はお怒りになられていたのだろう。試練は父の仕打ちへの罰と言わんばかりだ。
 テンレスの言った『危険』は人の形をしていた。レンダーシアを転々として逃げ回るような日々の中で、『危険』は執拗に私達を追いかけてきた。関わった人々に私達のことを聞いて歩く『危険』は、恐ろしく、時に暴力を振るう。何年経とうと『危険』は諦めない。私達の後ろにぴたりと影のようについて歩く。
 それでも、私はテンレスの隣にいることを嬉しく思っている。
 ご飯を美味しく作れて喜んでくれた顔を見るのが、疲れて眠る彼に布団を掛けてあげるのが、失敗に『危険』に苦しむ彼の背を摩ってあげるのが、人々を救って感謝される喜びを分かち合うことが、テンレスの隣にいる私の特権だと思っていた。
 『危険』の息遣いが聞こえてきそうだった。
 ついに研究所が特定され、踏み込まれた時は恐ろしかった。骨と皮だけの痩躯は色黒く、気配は人のそれと表現するには禍々しかった。一瞬でも遅ければ、逃げる私達を見つけてしまっただろう。扉を蹴破って流れ込んできた怒号は魔獣の咆哮のようで、怒り狂い研究所の施設を破壊する音に、涙が止まらなかった。こんな恐ろしいものに追われていたのか。こんな恐ろしいものに、関わった人々は酷い目に遭っていないだろうか。共に暮らしていた父は無事だったのだろうか。胸が重く吐き気が収まらなかった。
 流れ着いたマデ島で、彼は言った。
 ここにいれば、安全だ。ここに残って欲しい。
 ついに言われてしまったと、私は思った。もはや、私はテンレスの足枷でしかない。最初から足枷だったかもしれない。彼は父を棄て身勝手な『恋』に焦がれた私を軽蔑していたのかもしれない。今までの暮らしで浮かべた笑顔は、私を傷つけないための演技でしかなかったかもしれない。
 かも。それらの一片でも確かめる勇気はなく、私は疲れていた。
 私はルーラストーンの光に包まれて消えゆく彼を、見守るしかできなかった。涙は誰のためだったのだろう。たった独りで弟のためと地獄を歩かされる、愛した人を想ったのだろうか? 『危険』の恐ろしさから解放されたことに、安堵したためだったのだろうか? 今までが空気を切り裂く音と共に細切れになって消えて行く。
 愚かな娘の名前を棄て、神から新しい名を授かった。
 両親から頂いた名前であるのに、積み重ねた罪が重すぎて棄ててしまう。なんと親不孝であるのだろう。名前を棄てても変えても、罪は消えないのに。
 今日も祈る。父の息災を。愛しい人の無事を。
 何ら変わらない、日常が始まるはずだった。普段は歩く音すら潮騒に掻き消される教会の中を、慌てた音が蹂躙する。誰かが扉を開け放ち、誰かが走り回り、誰かが金物をひっくり返した音が響き渡る。どうしたのか。痛む腰と相談しながら、なるべく早く振り返る。
「マ、マザー・リオーネ!」
 シスター・ライラが顔を青くして駆け寄ってきた。
「どうしたのですか?」
 魔物の襲撃があったとして、このような絶海の孤島には何もありはしない。古き歴史、不思議な魔力の流れを感じてはいたけれど、この数千年に及ぶ年月で着目する者は誰独りいない。仮に襲撃があったとしても、悟られる前に打撃を与えるのが鉄則。私はそれを『危険』から逃げる日々の中で、匂いのように理解していた。こうやって戦いを知らぬ娘達に慌てふためく暇を与えているのだから、驚異はそれほど危険なものではないのかもしれない。
 シスター・ライラは過呼吸のように息を継ぎ、どうにか言葉を紡いだ。
「ひ、飛竜です…! オーガとプクリポが乗って、せ、責任者に、お、お、お会いしたいと!」
 シスター・ライラの細い体の奥で、恰幅の良い後ろ姿が大きな扉の前に陣取るように立っている。シスター達の胃袋を満たすためのフライパンを、勇しげに構え外へ駆け出そうとしている。
「マザー・リオーネ! 奥に隠れておいで! 貴女が傷付いたら、若い子達が泣いてしまうよ!」
「あぁ! そうです! マザーに何かあったら、私、悲しくて泣いちゃいます!」
 縋り付くライラを優しく撫で、ゆっくりと立ち上がる。こんな良い子達を悲しませ不安にさせるなんて、一刻も早く終わらせなければならない。『さぁ、ライラ。私を支えてください』そう鼻水を拭ってやれば、ライラは頷いて私の背を抱くように支えてくれる。
「大丈夫。参りましょう」
 開け放たれた扉に、背の高い影と小さい影が並んでいる。小さい影から目が離せない。なぜだろう。とても懐かしい。テンレスに背丈も種族も年齢ですら、何一つ合致していないのに、その影から滲み出る穏やかな気配に包み込まれる気がする。
 私は蹌踉めくように一歩を踏み出した。闇の中でテンレスと同じ青紫の光が二つ瞬く。二度と見ることができないと思っていた色。私は苦しくなる胸をなだめ、ゆっくりと語りかけた。
「遠路はるばる、よくぞ、おいでになりました」
 私の言葉に青紫の瞳が柔らかく細められた。
 それだけで、心が救われた気になってしまう。