悪魔の笑み

 その行き倒れが錬金釜を初めて使った日のことを、昨日のことのように覚えている。
 釜の蓋がガタガタと震えるたびに、濃厚な魔力を帯びた黄金の光が家の中を照らした。薄暗い板張りの家に七色の光が朝霧のように漂い、空気がビリビリと張り詰めた。
 そん時の俺は確信した。これから何かとんでもねぇ事が起きる。世界が変わる。
 蓋が弾け飛び、黄金の光は俺たちを飲み込んだ。もう俺自身の指先すら蕩かす光の中で、行き倒れの影が生まれた赤子を取り上げるように釜から何かを取り出した。『できたー!』と無邪気に笑いやがって。それは、俺の命よりも大事なものを救う特効薬。この世界を変えたとすら言っていい程の偉業が形になったもの。
 メラゾ熱の特効薬だった。
「イッショウさん! 出来たよ! 出来た! 俺、久々に大成功しちゃった!」
「出来た出来たうるせぇ! ガタガタ抜かしてねぇで、リリオルに使え!」
 俺の言葉に行き倒れは目を丸くした。『そうだ、その為に頑張ってたんだっけ』って気がついたように、だ。馬鹿じゃねぇのか? 俺は娘のリリオルを助ける為に、何度メラゾ熱の特効薬の錬金に挑んだと思ってやがる。魔物との戦いなんか得意じゃねぇのに、材料は魔物の闊歩する街の外じゃねぇと手に入らねぇときたもんだ。それでも、娘が死ぬなんて我慢できるか。俺の命なんか惜しくねぇ。命がけで材料集めに奔走した。
 そんな道中で見つけたのが、この行き倒れだった。
 見た目は死体だと思った。服は火に炙られたのかボロボロで、彷徨い歩いたのか髪も肌も汚ねぇったらありゃしねぇ。身包みが剥がされちまったのか荷物一つ持っちゃいねぇし、見渡しても仲間らしい影はなかった。俺が死体だと思ったそれに近付いたのも、神様に恩でも売っとこうとでも思ったんだろう。見てくれ神様。俺はこんな可哀想な死人を弔ってやったんですよ、だからリリオルを助けるのに力くらい貸してくださいよってな。
 『大丈夫か』なんて声は掛けなかった。どっからどう見ても、そいつは立派な死体だった。返事なんかするわきゃねぇ。
 うつ伏せに倒れ草に埋れ掛けた背中は、死体が着ていた茶色い服と相まって土と同化していた。そいつが死体だと遠目に見つけられたのは、燻んじゃいるが青紫色の髪の色のせいだ。リリオルと歳の近そうな予感をさせる肌。長身の男らしい、しかし戦士じゃなさそうな肉付き。
 どうしたもんか。とりあえずひっくり返してみるか。力を込めてひっくり返して驚いた。
 死体が呻きやがったんだからな。目玉が飛び出しそうになりながら土塗れの顔を見れば、苦しげに歪んでいやがる。
 死んじゃいねぇなら助けてやらねぇと、神様に恩は売れねぇ。行き倒れを見殺しにしたお前の娘は、助けてやらんと言われちゃあ、おしまいだからな。俺は焚き火を起こして、近くのキノコや海辺で魚や貝を拾って手持ちの食材と調理しながら行き倒れを介抱してやった。
 本当はこんなことやってる場合じゃねぇ。娘の為に行き倒れを見捨てたって、誰も俺を責めたりなんてしないだろう。でも、なぜか俺はその時は行き倒れを助けてやろうと思った。いつもは信じちゃいねぇ神様のせいかもしれねぇ。家で病に伏せっている娘の面倒は、俺が材料探しに出ている間は教会のシスターに頼んである。
 行き倒れが立ち上がれる程度に回復するのに2日は使った。意識はすぐに戻ったが、死にかけてはいたみてぇだ。飯を食って栄養が行き渡って2日で起きれるようになったのは、行き倒れが娘と年齢の変わらない若者だったからだ。行き倒れはぼうっとした顔で俺を見て、抜け殻みたいな顔で言いやがった。
『俺を、助けてくれたんですか?』
 おうよ。このイッショウ様に感謝するんだな。俺は確かにそう答えた。
 行き倒れは体が重いのか、酷くゆっくり、口の中の貝が抱いていた砂利を噛みしめるように頭を下げた。
『ありがとうございます』
 変な礼だった。嬉しくとも煩わしくとも感じ無い、ただ肺の中の重い空気を言葉に変えたかのような礼。それでも俺は礼を言われるだけのことをしたと、不機嫌そうに礼の言葉を受け取った。行き倒れのせいで貴重な2日を使っちまったんだ。俺はパンと膝を打つと、立ち上がって行き倒れを見下ろした。
『感謝の気持ちがあるってんなら、俺の手伝いをしやがれ! こちとら色々と入り用で忙しいんだからな!』
 行き倒れはあんまり役には立たなかった。剣を握らせたって、スライムに遊ばれちまって護衛の役には立ちゃしねぇ。魔法は少し心得があるみてぇだけど、使い方がなっちゃあいない。機転はそこそこ利くみてぇで、おとりになって魔物の注意を逸らしたり、材料のありそうな場所の目星をつけたり役にはたった。
 材料が揃っていざ錬金となったが、俺は錬金術の才能に恵まれちゃいねぇ。焦りに椅子を蹴っ飛ばして壊したが、リリオルは怒りもしない。ただ高熱にうなされて眠り続けているばかりだ。
 絶望を突きつけられ、俺は錬金釜の前で膝を折って蹲っちまった。泣いたってリリオルは良くならねぇのに、変な汗ばっかり出てきやがる。くやしい。ちくしょう。死んでしまう。俺の宝物が。妻に託された命が。
『ねぇ、イッショウさん。俺もやってみて良い?』
 錬金釜すら見たことねぇ奴が、出来るわけねぇだろと思いながらも場所を譲った。そうしたら出来ちまったんだ。なんかもう、こいつはただの行き倒れじゃねぇんじゃねぇか?って流石の俺も思った。
 行き倒れは俺に薬が入った吸飲みを差し出した。まるで苺ジャムのような滑る赤が、とぷんと揺れている。俺は震える手で吸飲みを受け取った。ガラスの蓋がカタカタと揺れる。この為に頑張ってきた。この結果のために命を賭けた。この薬を作り出すために、神様が行き倒れのところに俺を導いてくれたんじゃねぇかって思う。
 高温にうなされて口呼吸していた唇は、可哀想なほどにひび割れていた。ガラスの吸口を充てがうだけでヒビから血が玉のように溢れた。あぁ、可哀想なリリオル。あともう少し、少しの辛抱だ。俺はそっと、薬を流し込んだ。赤い液体が唇の間をするりと抜けて、半開きの唇が閉じ、喉が上下したのを見た。
 リリオルの熱はゆっくりとだが下がっていった。行き倒れはリリオルを冷やすための布をこまめに交換し、唇に油を塗り、小さく砕いた氷を含ませてやった。そうして看病した結果、3日には意識を取り戻した。粥を作り、柔らかく煮た野菜を食べさせ、魚が食べれるようになり、肉を自分で口に運べるようになるのを我が事のように喜んだ。ベッドの上で身を起こし、端座位になって過ごし、家の周りを歩けるようになるまで、行き倒れは熱心なほどにリリオルを支えた。
「おとうさん。まだテンレスのことを『行き倒れ』なんて呼んでいるの? 彼はもう家族も同じじゃない!」
 元気になったと思ったら、これだ。この勝気さはきっと妻に似たんだ。
「ふん! 家族も同じだ? だったら稼ぎを入れやがれ! 俺は俺とリリオルの食い扶持しか稼げねぇんだからな!」
「テンレスが稼げれば良いのね! ねぇ、テンレス、錬金釜を使ってお薬とか作ってよ! おとうさんより上手に作れるんだから、きっといっぱい稼げるわ!」
 な! 勝手なことを!
 俺は翌日には『行き倒れ』を『居候』と改めなくちゃあならなかった。居候は錬金術の才能がある。当の本人は故郷の村では失敗ばかりだったのに、どうして上手に出来るのか不思議だなぁと笑いやがる。だがよ、木箱で錬金術をする馬鹿が、アストルティアに少なくとも一人、目の前のヘラヘラ笑う男の姿をしているのだけは確かだ。しかも、木箱で大成功させた事があるとか。馬鹿で天才なんだろう。
 居候が錬金術で作った薬は瞬く間に評判になった。俺が引退した錬金術師から引き継いだレシピを見れば、様々なものを作れるようになった。魔道士の杖に必要不可欠な、メラの力を秘めた紅玉。話し声をそっくりそのまま返すオウムの縫いぐるみ。入った物が見えなくなる、マジック用の箱を作ったこともあったな。入れた物を全て黄金に変える液体を作り出し、大金を稼ごうと目論んだがうっかり命の石を入れてしまってゴールドマンが出来上がり家が半壊したこともあった。居候は錬金術の才能があった。俺は嫉妬どころか、なんかもう呆れちまったよ。
 居候は稼いだ金でボロくなった家を修繕した。立て直した方が安くできると大工は言ったが、居候は修繕に拘った。俺達家族の思い出をどうしても残してやりたいと、俺やリリオル以上に執着した。修繕した家はボロ家の間取りのまま綺麗になった。だが、そこに居候のスペースはない。ここが、居候の居場所じゃねぇと言いたげだった。
「おい」
 居候は顔を上げた。紙には複雑な計算が乱雑に書き込まれていて、もう、俺には理解できなかった。
「もう、俺達のために生きなくて良いんだぞ」
 肩がびくりと跳ねた。
「お前、俺に助けてもらった時、本当は死ぬつもりだったんだろう? 助けて貰った善意も無下にできねぇで、手伝えって言ったから手伝ったんだ。死にそうなリリオルを助けることを生きる理由にして過ごして、俺達に恩を返すために頑張ったんだろう。良い加減、お前の生きる理由に俺達を使うな。迷惑なんだよ」
「はは。イッショウさん、酷いなぁ」
 居候はそう俯いて呟いた。
「迷惑か。ごめん。イッショウさんの言う通りだ。俺、俺の為に生きられなくって…さ」
 居候はぽつぽつと語り出した。
 俺の故郷はエテーネ村って、小さくて長閑な村だったんだ。森に囲まれててさ、小川が流れてて、小さくても畑があって、動物も少し飼っててさ。遠くの山に綺麗な神殿が見えるんだ。ここに来て思ったけど、カメ様ってどこにでもいる訳じゃないんだな。大きな亀の守神様がうとうと寝ててさ…。
 村の人達はみんな良い人だった。村を長く離れなきゃいけなくなった親を持つ俺と弟にとって、村は大きな家族だった。錬金術を失敗したって、『あーあ。またテンレスがやらかしたよ』って呆れるだけでさ。何も不自由もなくて平和で、俺はこのまま大人になって弟が嫁をもらって結婚して、みんなが幸せに生きていくんだろうって思ってたんだ。
 みんな、そう思ってた。ずっと、ずっと、平和な日々が続くと思ってた。
 ある日、突然、魔物が村を襲ったんだ。村の人間を一人残らず殺すって、おっかねぇ魔族の男が月夜の下に浮かんで言ったんだ。みんな、みんな殺されちまった。村は燃えて、跡形もないはずだ。
 俺は弟に助けられて、一人村の外に逃げる事ができたんだ。
 居候はぐいっと目元を擦った。
「俺、兄ちゃんだからさ、弟を守ってやらなきゃならなかったんだ。それなのに、俺だけ生き延びて…」
 呼吸するように後悔してるんだろう。生きてる事が毒薬のように居候の心を蝕んでいて、それで死ねりゃあ良かったんだろう。居候の寝言は酷く煩いからな。いつもルアムとか、シンイとか、死にそうな声出しやがって。
 俺は居候の首根っこを掴むと、乱暴に家の外に追い出した。居候の上に旅の荷物を放ると、俺は呼んでいた旅人達に声をかけた。親子連れだろう二人組はびっくりしていたが、それ以上に元居候が驚いた様子で俺を見上げていた。
「いつまでもぐずぐず泣きやがって。お前の目で故郷を見てこい」
 子供が元居候に歩み寄ると、蹲み込んで顔を覗き込んだ。
「ぼくヤクウ! 迷子のおにいちゃん、エテーネ村の人なんだってね! 一緒に帰ろう!」
 ほらほら行った行った! そう追い立てて3つの影が路地を曲がり見えなくなるまで、とんでもなく長く感じた。テンレスの言っていたエテーネ村は滅んじゃいねぇ。現にあの親子はエテーネという南の村の出身で、平和で良い村ですよと笑っていた。滅んでいるとはとても思えない。
 悪い夢でも見ていたんだろう。俺はテンレスの悪夢が晴れることを祈って、そっと玄関の戸を閉めた。

 テンレスを追い出したことでリリオルにはこっぴどく叱られたが、テンレスが前を向く為なら仕方がないと最終的には納得した。俺はあの親子からエテーネ村への行き方を聞いていたから、少ししたら旅行がてら行ってみようと言ってやった。リリオルのやつ、なんともまぁ嬉しそうな顔しやがって。
 久々の親子水入らずは、想像以上に寂しかった。しかしそれも長くは続かねぇ。テンレスは半年もしないうちに帰ってきた。
 俺はテンレスをエテーネ村に向かわせて良かったと思った。テンレスはもともと飄々としながらも明るい男だったが、どこか暗い影を見ずにはいられない男だった。それが雲一つない晴天のように晴れやかな、すっきりとした顔をしていやがった。テンレスの変化を一番喜んだのは、外でもないリリオルだった。
「俺、やりたい事が見つかったんだ。俺にしか出来ない、そんなことをさ!」
 テンレスはそこから錬金術にのめり込むようになった。何かを作り出そうと失敗を重ねて、目も眩む大金で手に入れる素材を買う為に多くの依頼をこなした。並行して近所の農家や園芸好きな老人のもとに足繁く通い、俺はテンレスが作ろうとしているのは植物の類なのだろうと思っていた。
 何をしようとしているんだ?俺の問いに一度だけ答えてくれた事がある。
「故郷に特別な花が咲くんだ。それを弟のために咲かせるんだ」
 良く分からなかったが、テンレスの弟想いは良くわかっていた。テンレスが研究に没頭しながらも、俺達の生活が穏やかに過ぎ去っていった。これから起きる変化と言えば、テンレスの研究が成功することくらいか。リリオルに言い寄る男共はそこそこにいたが、リリオルは全く相手にしなかった。このまま時が過ぎ去ってくと、俺は思っていた。
 そんなある日、酒場のマスターが俺に耳打ちした。
「なぁ、イッショウさんよ。あんたの所の若いの、やばい仕事でもしてるのか?」
 俺は耳を疑った。テンレスの錬金術師としての腕前は、グランゼドーラにも届かんばかりものになりつつあった。それでも、あいつは自分の腕を奢ったことはない。いつでも、俺とリリオルの事を気遣っている。あいつが俺達を危険に晒すような真似に手を出すなんて、遥か彼方に見える天を衝く魔塔が崩れるくらいにありえない話だった。
「最近、あんた達のことを嗅ぎ回る、柄の悪い男がいるんだ。粗暴で気味が悪い。とても善良な一般市民とは思えない雰囲気でさ。若いのの耳にも入れて、用心しな。あれは人殺しだってしそうな奴だぜ」
 マスターの忠告の意味を俺は数時間後には痛感することになった。
 俺の家は売り払われ、俺がテンレスとリリオルの為に貯めていた貯金は全て下されていた。街中を探しても、テンレスとリリオルの姿はなかった。そしてマスターの話していた男が俺の前に現れた。
 テンレスはどこへいった?
 それは果たして人の声だったのだろうか? まるで地獄の底に通じる穴から響く、恐ろしい魔物の呻き声のような恐ろしい声だった。俺は知らないと答えた。実際に知らなかったし、リリオルまでいなくなるとは思わなかった。俺が男に向かって二人に何かしやがったのかと言い返したくらいだった。
 優秀で、明るくて、リリオルとも年が近いテンレス。リリオルが良いと言えば、俺はテンレスになら…そう思うほどだった。
 家族だと思っていた。
 こうも全てを根こそぎに持って行ってしまう詐欺師だとは、とても思えなかった。
 だが、俺の手元には何一つ残らなかった。
 娘も。家も。錬金釜も。金も。何もかもあいつは持っていってしまった。
 裏切られた怒りはふつふつと腑を煮る。それなのに思い出すのは奴の笑顔ばかり。この怒りを誰にぶつけるべきなのか。俺は堪えた。いつか、いつか、ぶつけるべき相手が戻ってくると信じていた。
「そしてようやく現れた訳だ。テンレスの弟、だっけ?」
 どこをどう見てもプクリポだが、テンレスは弟を血が繋がった兄弟と表現したことはない。だが、それは些細なことだ。テンレスの弟を自称するなら、テンレスが負うべき責任を被せたって文句は言わねぇだろう?
「その猫耳きっちり揃えて、俺に迷惑料を払ってもらおうか!」
 ひええ!悲鳴をあげたが知ったこっちゃねぇ!
 さぁさぁ。とっとと俺に詫びやがれ!