塩の柱

 アラハギーロの名将ハグニルを輩出した名家の家長、オードランは洗練された敬礼をした。女人もうっとりするような端正な顔立ち、真紅の瞳を縁取る金の鮮やかなこと。武将と名乗るにはやや細いシルエットだが、ハグニルの一族は見た目以上に剛健で豪腕と知られている。まだ若い故に兵士長ではなく後方支援に回されたが故に、アラハギーロに残された有能な軍人だった。
「ピラミッド周辺を巡回していた兵士より『砂漠の土竜』を捕縛、連行したと報告にあがりました」
 ちらりとアンルシア姫とムーニス陛下を見遣れば、二人とも小さく頷く。私はご苦労とオードランを労いながら、願いを込めるように言葉を紡いだ。無意識に艶かしい女としての色香が出てしまったのだろう。砂漠の民にしては色の白い肌が、ぱっと華やいだ。
「『幻日の鏡』は?」
「回収いたしました」
 オードランが身を引くと、背後に控えていた兵士が天鵞絨に包まれたものを捧げ持つ。日除けのターバンと通気性の良い衣で構成されたアラハギーロの兵士の装束は、砂漠や荒野の色である黄色。その為に天鵞絨の赤は燃えるように鮮やかだった。赤が溶岩のように地面へ流れていくと、美しい丸鏡が現れる。
 魔力を帯びた鏡面は、仄かに光っているようだ。小さく映り込んだ賢者ルシェンダとしての私の姿は、今日も完璧だ。
 ムーニス陛下が『『幻日の鏡』じゃ!』と飛び跳ねるように兵士に駆け寄った。まるで子供のような屈託無い仕草ではあるが、老年に達する年齢の間に良い治世を行っている王だ。太陽の民とも呼ばれるアラハギーロの民を統率する能力も当然だが、民と国を選べと言われたら民を即座に選ぶ度量を持っている。王族というものは保身に走る傾向が拭えず、国を選んで民を失い、結果国が傾くという話はよくあることだ。民は国の血であり肉であることを、よく理解している。
 しかし、良い王であるから困難も難なく乗り越えられる訳では無い。
 先の大魔王との戦いで多くの兵を失い、民は疲労している。それを助るべく、国庫を放出したと聞く。名高いモンスターマスターを招いた親善試合で得た金も惜しまず投入し、アラハギーロの民は飢えることも病むこともなく平穏な生活を取り戻したと言える。しかし、それは仮の状況でしかない。
 枯渇した財政は簡単に戻らない。アラハギーロが本来の流通の要の状況を取り戻したとしても、数年から十年を見積もるべき由々しき事態だ。これに大魔王が追い討ちをかけてくれば、耐えきれず瓦解するのは目に見えている。
 ムーニス陛下は民の不安の払拭を最優先にした。その行動に感動したのが、民を第一に考えるアンルシア姫だ。グランゼドーラの国章を刺繍したサーコートを翻し、ムーニス陛下に並ぶと年相応の愛らしい笑顔で喜びを分かち合う。
「良かったですね。ムーニス様」
「あぁ、全くじゃわい。ご先祖様に顔向けできぬ所じゃったわ!」
 私は眼下の賑わいに目をやる。砂漠の王国は通気性の良い造りになっていて、王の執務室から城下のオアシスを臨むことができる。黄色や赤を中心とした模様が刺繍された衣は鮮やかに映え、人々は赤い隈取りをした様々な獣の仮面を着ける。踊り輝く装飾品の光は陽光のごとく煌き、オアシスの輝きを国中に散りばめる。音楽は絶えず、歌声は響き、人々の歓声はどこまでも広がっていく。太陽祭はアラハギーロの建国王エージスが砂漠の果てに聖なる石を見出し、その石を中心に太陽の王国を築いたことを記念して行われる7日間にも及ぶ建国際。その賑わいに民の表情は希望に満ち、流通は活気付いた。
 しかし、その賑わいの影で国の宝が奪われようとは思わなんだ。
 祭りの賑わいとは違う声が近づいてくる。聞くに耐えぬ罵詈雑言が、モザイクタイルの壁面に反響して響き渡る。扉が開け放たれ、連行された罪人が3名。ノガートの報告通り、粗野な身なりと太々しい態度の盗賊達だ。アラハギーロ地方を中心に盗掘や盗賊を働いており、少人数ながらも被害を受けた商人や旅人は多い。リーダー格だろう歳の行った男が、唾を撒き散らしながら騒ぐ。
「黙りなさい」
 その無精髭の生えた鼻先に、鋭くアンルシアがレイピアの切っ先を向けた。喉を空気が通り過ぎる音が漏れ、先ほどの威勢は何処へやら、男は真っ青な顔で尻餅をついた。
「『砂漠の土竜』。ノガート兵士長から兄様の遺体に関与していないと報告を受けていますが、貴方達が兄様の棺を荒らし、お母様やお父様が亡き兄様の為に供えた副葬品に手を出したのは事実。勇敢な兄に対する仕打ちを思えば、今ここで切り刻みたいほどの怒りを感じています」
 冷たい声色でアンルシアが告げる。淡々とした静謐な湖面を思わす表層の下に、煮えたぎるような憤怒があると感じていた。こやつらがトーマ王子の遺体消失に関与していたならば、この場で有無も言わさず斬り殺しただろう。
 だが、彼らは何も知らなかった。だからこそ、アンルシアの剣の切っ先は男に赤い蕾すら彩らせることなく留まっている。
「答えなさい。貴方達は脱獄した日、何をしていたのか?」
 『幻日の鏡』が奪われた瞬間と、『砂漠の土竜』の脱走はほぼ同時だ。『砂漠の土竜』が『幻日の鏡』を盗んだと見立ててもおかしく無い状況とタイミングだが、一つだけ解せぬことがある。
 『幻日の鏡』が納められた宝物庫の有様だ。
 グランゼドーラ1の剣の使い手であるアンルシアの見立てでは、かなりの力量の剣士達が斬り結んだだろう痕跡が多数残されていた。床のタイルの損傷は踏み込みの力強さを、壁や残された様々な物に付けられた傷は深く鋭い。これほどの力量を持つとなれば、剣の達人と称されるはず。一介の泥棒なら殺されている、と。
 私から見ても宝物庫の中でバギクロスやイオナズンを放ったような、損壊具合だ。盗賊が巻き込まれて無事でいられるとは思えない。
 アンルシアの冷えた威圧に反論したのは、『砂漠の土竜』の紅一点だ。威勢の良い強気な目元が、鋭くアンルシアを睨み返す。
「はっ! 砂漠の土竜が命の恩人を売るような、薄情な人間だと思われるなんて舐めてくれるじゃない!」
「国を守り果てた勇者に対する礼儀もない、無礼な人間だとは思っているわ!」
 売り言葉に買い言葉。私から見れば生娘な二人が殺気立つのに嘆息する。盗賊の男共も感化されたのか、そうだそうだと囃し立てる。地道に一人一人取調するより他あるまい。『幻日の鏡』を取り返した今、時間はたくさんある。
 すると、『幻日の鏡』を持っていた兵士が、ぽんとリーダー格の男に手をかけた。
「おいおい、止めてやれよ。俺の情報は、お前らの命より軽くていいんだからさ」
 『砂漠の土竜』達が目をこれでもかと見開いた。口々に、彼らが出せる最大の音量で、同じ言葉を叫んだ。
『兄貴!』
 兵士が笑い声を上げながらこちらを向けば、その顔には狐の面が嵌っている。私は戸惑いを隠せなかった。人の顔を覚えることには自信があったし、先ほどまで見ていた顔なのに、その兵士の顔が全く印象に残っていないのだ。賊の仲間だろう狐面は隼の剣を抜き放つと、瞬く間に取り押さえようとした兵士を切り飛ばし、『砂漠の土竜』の戒めを切り払う。
 アニキー! そう抱きついてきた盗賊達を、狐面が『はいはい』と遇らう。
「なんだってピラミッドなんか向かっちゃうのさ? 警備が厳重になるの分かり切ってるだろう?」
「ピラミッドのお宝、兄貴にも裾分けてやろうぜって団長の男気に惚れちまってさー」
 よしよしと若い男の頭を撫でると、狐の面をずらして煙管を咥える。ふわりと甘ったるい匂いが鼻先を掠めた。
「お前ら良い奴だなー。手癖が悪くなかったら、俺の部下に欲しいくらい」
 鏡をリーダー格の男に手渡すと、狐面はにやりと無精髭の生えた口元を歪ませた。だらりと気怠げに下げられた手は隼の剣を持ち、煙管を弄ぶもう片手はふわふわと空中を泳いでいる。アンルシアの気迫を全く意に介さず、男は『砂漠の土竜』を庇うように立つ。
「目的は何? 素直に応じれば、手荒な真似はしない」
 乾いた嘲笑が空気を軽く叩いた。煙管の煙を燻らせながら、狐面の下の口元が可笑しそうに口を開ける。ただ、軽く足を踏み換えただけに見えた。あまりにも自然に膝が曲がり、アラハギーロの兵士の着込んだ砂塵の色の衣がふわりと風を孕んだ。瞬間。男が流れるように床を蹴り砂塵が吹き荒れ、ムーニス陛下の眼前で火花が散る。
 あまりの早さに見えなかった。
 腰の抜けたムーニス陛下の前で、狐面の男とアンルシアが鍔競りあっている。煙管がすっと持ち上がり、ムーニス王に突き付けられた。
「俺の目的は、そこにいる敵を葬り去ることさ」
「そんなこと、させやしない!」
 アンルシアが狐面の剣を弾き返そうと力を込めるが、力が抜けてよろけてしまう。そんなアンルシアの腰を優しく支えたのは、なんと切り込んだ狐面だ。アンルシアの眼前で煙管を咥えると、美味そうに煙を吸い込む。
「おやおや、お嬢ちゃん。もう、おねむの時間かい?」
 ぎりりとアンルシアが歯を食いしばる。青空を彷彿させる瞳が忙しなく瞬きを繰り返し、瞼が重そうにその青を覆おうとしていた。敵を目の前にして睡魔に襲われるアンルシアでは無いと訝しんだ私は、空気中に漂う甘い匂いにハッとする。これは睡眠を促すアロマと似ている香りだ。ラリホー草と幾つかの香草を掛け合わせたそれは、男の煙管から漂っている。
「しっかりしろ! アンルシア!」
 私の唱えたザメハの光が、アンルシアを優しく包み込む。力を取り戻した瞳が、再びとろんと微睡んでしまう。
 狐面はアンルシアの腰を支えながら、ダンスを踊るようにくるくると回る。私の覚醒呪文が無駄だと言いたげに、煙管を咥えた口元が笑っている。
「おっと、ザメハは効かないぜ。煙が充満している間は、常にラリホーの力に晒されているようなものだ。魔法と違って、薬の効果は深く強く反映される。早くしないと血液中に満ちて、寝入っちまうな。もっと根本的に遮断する術を使わないと防げないぞ」
 眠気と格闘するアンルシアが拳を握って狐面の胸を押すが、力の入っていない手が男を押しのけるには至らない。密着し、くるくると回られては、メラですら当てるのは難しいだろう。先ほどの達人のような身のこなしでは、私の呪文がいかに早く不意打ちのように発動させられても、アンルシアを盾に取られてしまう。
 しかし、同時に違和感を感じる。
 この狐面は、なぜ、こんな茶番をしているのだろう? ムーニス陛下を殺すことが目的なら、アンルシアを無力化した今なら達成することなど容易い。まるでラリホー草を防ぐ手立てを導き出させようと、解説し、解決策が出るのを待っているかのようだ。
 狐面は喫煙のしすぎでガラガラとした声色だが、諭すようにアンルシアに語りかけた。
「お嬢ちゃん。お前の盾は飾りか?」
 青い瞳が見開かれ、私も弾かれたように叫ぶ。
 あらゆる厄災から勇者を守る加護の光。それは勇者の盾と呼ばれ、物理も魔法も、状態異常の災いからも守る力だ。先代勇者が後世の勇者に伝える力は、すでに預かっていた賢者がアンルシアに授けている。今まではアンルシアが意図して使えなかった防御反応的に発動する加護の光だが、エイドスによって展開や応用が効くようになっているはずだ。
「アンルシア! 勇者の盾だ!」
 はい! 力強い声と共に、アンルシアから黄金の光が放たれる。ザメハの光で凛々しい表情を取り戻した勇者は、剣を振りかざし狐面の男に振り下ろした。狐面はぱっとアンルシアから離れると、深く煙を吸い込んでゆっくりと吐き出した。口から離した煙管を片手に持ち、面をきっちりと顔に嵌めた男は低い声で囁いた。
「さぁて、遊びは終わりだ」
 それは人の形をしていただろうか? 賢者として脅威を、不思議を、散々見てきた私にとって、全身が粟立ち訴える本能に戦慄する。殺気を含んでいない闘気は膨れ上がり、この空間に居合わせてしまった全ての気持ちを瞬く間に押しつぶした。勝てぬと思わされる絶望は壁のように真っ向から迫り、隼の剣の軌跡となって首を四肢を切り刻む幻を見せた。その脅威に邪悪さを感じなかったが、それは焼石に水を垂らす程度の気休めでしかない。
 一瞬、死んだかと思った。
 しかし、赤が翻る。今代の勇者が好んだ赤が、獣の面を被った砂塵を阻む。砂塵の隙間にチラつく太陽のように、忙しなく瞬く火花は轟音を迸らせて空間を強かに打つ。そこに呪文が援護する隙間は存在しない。互いを剣戟という檻の中に閉じ込め、外でただ見ているだけの観衆は脅威が外に出ないことを祈るだけだ。
「オードラン! 陛下達を避難させろ!」
 私の指示にオードランは即座に反応した。腰が抜けてへたり込んだ陛下に駆け寄り、優しい声をかけながら立ち上がらせる。陛下が立ち上がり、オードランに連れられて部屋の出口に向かって歩き出した。他の兵士はどさくさに紛れて国宝を持って逃げ出そうとする『砂漠の土竜』を追いかけるのを目の隅で確認していると、ぞわりと不気味な気配が湧き上がった。
 邪悪な魔族の気配。強烈に、至近距離に湧き上がった瘴気の臭い。ぞっと舐め上げられるような不安感は、背後からだった。
 振り返る。
 オードランと、ムーニス陛下。
 なぜ。疑問が脳内を駆け巡り、視線が二人を深く深く探ろうと眇められる。鮮明な魔族の気配はそこにあり、オードランも私が驚いた表情で振り返ったのを訝しんで足を止める。私の視線とオードランの視線がムーニス陛下に向けられると、老王はつぶらな瞳をきょろきょろと我々に向けて不安げな表情になる。演技では無い。魔族がムーニス陛下に化けたとは思えない。
 しかし、女の勘が告げる。
 そこに、敵がいると。
「ル…ルシェンダ…殿?」
 高めた魔力が室内を照らし上げ、髪がふわりと浮き上がり力が渦巻いて行く。蒼白なムーニス陛下は、白い髭の多さもあって大理石の石像にすら見えた。陛下に杖を向けると、私は高らかに呪文を唱えるために大きく息を吸う。精霊達が魔力を糧に膨れ上がった力が、解き放たれるのを待っていた。
「歯を食いしばれ」
 耳元で囁かれると、くんとマントが引かれる。マントの留め金は首元で、首を引っ張られてバランスを失った体は大きく後ろへ倒れる。美しいアラハギーロ王国の国章である太陽と青空が描かれたモザイクタイルの天井が視界を覆い尽くす中、凄まじい魔瘴の匂いを含んだものが鼻先を掠めて飛んでいく。床に叩きつけられると思った背中は、次に現れた砂塵色に抱き止められたらしい。微かに眠りを促すアロマに似た甘い香りが、私を包み込んだ。隼の剣を持った手が素早く狐面を外すと、それを素早く投げつける!
 ムーニス陛下の短い悲鳴が、一拍を置いて爆ぜた。
 床を重く鋭いものが突く衝撃が、腰を伝ってくる。顔を上げて見えれば、ムーニス陛下に覆い被さるように巨大な影があった。鋭い爪状の先には砕けた狐の面が影の中で白く浮き上がっている。闇の中で蠢くは毒々しい紫や暗褐色が斑ら状に入り乱れる硬質な皮膚と、獣の毛皮を彷彿とさせるゴワゴワとした縁取り。それらが我々が蜘蛛だと思う形ではあるのだが、その姿は巨大で、大きく裂けた口元にぞろりと並んだナイフのような歯や、忌々しげに睨め付ける瞳が闇の中で赤く光っている。一目見て嫌悪感から吐き気すら感じる悍ましさだ。
 禍々しい蜘蛛のような生き物は、見た目にふさわしい声で吐き捨てた。
『とことん使えねぇ デコっぱちだな!』
「デ…デコ…っぱち…?」
 アンルシアが目を見開いて固まった。そうだよ、テメェだよ! と蜘蛛は喚き散らす。
『俺様が与えられた神の緋石を砕く使命の為に、ピラミッドが開かれるのをヒゲもじゃにくっついて待ってりゃあ、煙草野郎が鏡を持ち出して邪魔しやがって。あのデク人形まで退けたとなりゃあ、厄介だ。デコっぱちに始末させようと思ったが、それすらも出来ねぇとはな!』
 狐面の男は口元に煙管を当てがいながらも、笑いを堪えるように震えている。
『イライラが過ぎて、美味くもねぇだろうヒゲもじゃを、何度がぶっとやっちまおうかと思ったことか!』
 私は静かに男の腕の中に収まりながら、蜘蛛型の魔族の言葉を聞いていた。どうやら狐面の男は、魔族の妨害の為に動いていたらしい。この男が何者かは分からないが、少なくとも我々の敵では無く、擦れ違いの末に敵対したに過ぎなかったようだ。
 男が私の肩を叩く。そろそろ動けと促すように背を支えて起こされると、背後でのそりと立ち上がった気配がする。
『この妖魔将ゲジュラ様が、お前らを死んだ方がマシだって地獄を教えてやるぜ!』
 ぽたりと蜘蛛の口から唾液が下たれば、じゅわっと音を立てて床が溶けてしまう。それを目の前で見たムーニス陛下が飛び上がり、それをオードランが捕まえて素早く下がって行く。唾液の毒性から、毒に秀でた魔族なのだろう。私はアンルシアに振り返る。
「アンルシア! 勇者の盾をいつでも使えるようにしておけ」
 凛々しい声が応じるのを嘲笑うように、ゲジュラと名乗った蜘蛛は言う。
『俺様はオメェらのような弱くで下等な生物なら、即死する毒を生成できる。勇者の盾? それでどれだけの下等生物が助かるかなぁ? 守れなかったアラハギーロの祭りに集まってきた馬鹿共は、死体の山に早変わり! 喉を掻きむしり、血反吐を吐き、壮絶な死顔が所狭しと並ぶ様は俺様の苦労を癒してくれるだろう!』
 ごうっと轟音を響かせ、ゲジュラの姿が掻き消える程の濃密な黒い煙が巻き上がる。あれが毒ならば、この量を御することは難しい。微量でも致死量に至るなら、悪戯にバギで吹き飛ばすことすらできない。火炎呪文も誘爆を引き起こすかも知れぬ可能性があるなら、おいそれと放つこともできぬ。
「そんなことはさせない!」
 アンルシアが両手を広げ、勇者の盾を展開する。それはゲジュラを取り囲み、光の内側に毒の煙を押さえ込んだ。
『考えたなぁ! 確かに囲い込めば、毒は外には流れねぇだろう。だが、それでどうする? 俺様を殺すこともできず、いつまでこの状況を保っていられるかなぁ?』
 ぐっと息を詰まらすアンルシアの横顔に余裕はない。勇者の力はどれも瞬間的な効果を発揮するものばかりで、持続的に使うことに向いていない。アラハギーロの民を非難させる暇など到底稼げやしないだろう。光に闇が手を掛ける。刻み込むように光を抜け出たゲジュラの鉤爪から、ふわりと黒い煙が棚引いた。
『ほぉら、もうすぐだ。もうすぐ、出ちまうぞぉ? そうなったら、みんな、みーんな死んじまうぞぉ。勇者が未熟なせいで、誰も助からねぇなぁ?』
 呻き声が叫び声に変わる。アンルシアが渾身の力を込めて、勇者の盾を維持しようと両の手を突き出す。
 限界か。どうする。あらゆる可能性を巡らせている視界に、ふと影が踊る。その影は躊躇いなく勇者の盾が展開している、黄金の壁の中に飛び込んでいってしまった。あの光の向こうに満ちた、死の毒に満たされた空間からゲジュラの悲鳴が上がる。
『な! なんで死なないんだ!』
 絶叫が響き、断末魔の声が途切れ途切れに細くなって消えて行く。
 力を使い果たし霧散した光の中で、砂塵色の影が悠然と立っていた。煙管を手にゆっくりと煙草を吸い込み煙を吐く様は、裏社会の人間だろうと思うほどの粗野な雰囲気を醸していた。ターバンを外して隼の剣を拭うと、真紅の髪を掻いた手で煙管を逆さにして火種を落とす。火種は瞬く間に魔瘴になって吹き払われるはずの蜘蛛を飲み込み、灰塵に帰した。
「魔兜草の根も煙草にしちまう俺を殺したいなら、魔痛の毒でも持ってくるんだったな」
 そう、赤い瞳が楽しそうに細められた。