風の娘

 光の河の源流の一つがダーマ神殿が鎮座する霊峰だ。天に手を伸ばすような真っ直ぐと切り立った山に複雑に刻まれた亀裂から、眩い黄金の光が溢れ出ている。太陽が世界を明るく照らす時刻でさえその黄金の色はくすむことなく、夜になればレンダーシアの広大な内海の対岸からですら見ることができると言われている。光の河はダーマ神殿から下流に下り、セレドの街を二分する大きな谷底へ吸い込まれる。セレドはレンダーシアでは最も強く光の河の恩恵が受けられると、昔からモンセロと並ぶ治癒の街として栄えている。
 ダーマ神殿のテラスから眺める光の河の光は、視界いっぱいに広がるほど。でも、不思議なことに黄金の光がどんなに眩しくても、決して目が痛くなることはない。揺蕩う光の移り変わりは、心を穏やかにし、勇者として緊張している日々から少しだけ解放されたような気分になる。
「天気が良くて、光の河がこんなに美しい日に、ここでお茶をいただくことほど至福な時間はありません」
 テーブルを挟んで初老の男性が、紅茶を啜っている。ダーマ神官のローブは原則は赤であるが、彼は白で染め抜かれている。白はダーマ神の色。ありとあらゆる生き物の姿に変じることができ、ありとあらゆる職業にも導くことができる。何色にも染まる白は、変幻自在で何事にも縛られぬ神の色であり、代行者である大神官にしか着用が認められていない。
 彼こそ、ダーマ神殿の預かり手。世界に散らばるダーマ神官を束ねる大神官様だ。
「私もそう思います」
 テーブルに乗ったアフタヌーンティーセットは、神殿らしくシンプルで華美さはなかったが、素材一つ一つを生かした丁寧な仕事を感じるものだ。無地のカップは持ってみれば驚くほどに持ちやすくなじみ、茶葉は無名であるのに一流と遜色ない香りと味を誇っている。セレドで収穫された果実を使ったケーキは素朴だったが、添えられたクリームと合わせれば口の中が華やいで目が覚めてしまうほどに驚く。
 その様子を愛おしげに見ていたのだろう、大神官様は穏やかに笑みを浮かべた。
「アンルシア姫は、まさに勇者が天職であられるお方ですね」
 てんしょく? 私が首を傾げると、大神官様はずっと聴いていたくなるような低く心地良い声で話し出した。
「神は大地にある命一つ一つに、相応しいお役目をお与えになる。それが天職です。しかし、天職は万人が見つけ果たせるとは限りません。我々ダーマ神官はそのお役目が見つけられるよう転職を司り、いつか全ての生命が天職に至れるよう励んでいます」
 抜けるような青空に剣鷹が気持ちよさそうに風に乗っている。それを目で追っていた大神官様は、私に視線を向けた。
「戦士は剣を握り戦うことに存在意義を見出し、騎士は守るべき者の盾とならんとします。職業はその者の生き様をも導くのです。しかし、勇者とは何でしょう? そうお考えになることはありませんでしたか?」
 勇者とは何か。私にとって、それは兄様だ。
 勇敢で、優しくて、大好きな兄様。幼い時から読んでとせがんだ『勇者と不死の魔王』の物語の勇者よりも、私の中で明確な勇者像そのものだった。私を命懸けで守ってくれた兄様に誇れる存在でありたい。それが、私の勇者観だった。
「勇者とは神が選び民が支持する職業です。とても、難しい。その難しさ故に勇者が存在した時代は、様々な悔恨や憎悪や欺瞞に苛まれてしまいました。しかし、姫は大魔王を倒す勇敢な者ではない、見ていると手を差し伸べてあげたくなる魅力を持っておられる。そして、差し出された手を握れるほど、世界を愛しておられる。きっと、姫にとって勇者とは天職でありましょう。喜ばしいことです」
 大神官様はゆっくりと立ち上がると、眼下に広がる参道を見下ろした。太鼓や笛といった賑やかな音を振りまきながら、数台の馬車が神殿に向かっている。鮮やかな装束が花のようにひらめき、参道を共に登る巡礼者達と腕を組んで歩く。
「今回の次期大神官任命式典で、興行していただくシタル一座です」
 シタル一座。その名前に息が止まった。

 次期大神官候補の二人は、ブラックリリィで染め抜いた漆黒のローブを纏って控えていた。二人とも壮年に近い年齢の男性だが、大神官候補に上がることは非常に難しいとされる。ダーマ神殿を離れ故郷の大陸に戻って錦を飾ることが理想と語る幹部生の、さらに上をいく逸材達だ。
 白髪のいかにも貴族出身といえる色白い神官は、ジュアロと言ったか。高級な香水の匂いを漂わせながら、苛立ちを滲ませていた。
「歴史ある任命式に旅芸人が興行を開くなんて聞いたことがない」
「ジュアロ、口を慎め。大神官様はセレドの民を思って招いたのだろう」
 そう静かに諌めたのは、ゾデラという神官だ。所々白いものは混じっているが豊かな黒髪で、ローブを着こなす神官職にしては洗練された身のこなしが見て取れる。寡黙で険しい目元は近寄り難い雰囲気だが、修行において歴代屈指の成績を残している出世頭だそうだ。
 彼らと遠巻きにシタル一座を見ている。大神官様と握手をしているピンク色マスクを被った筋肉隆々な大男のマッスルダンスが大好きで、真似をして母様にはしたないって怒られたことがあったな。十数人に及ぶ大所帯で他種族の姿も見える。
 眺めているうちに、ゾデラ殿は用事があると席を外してしまった。大神官様に手招きされると、シタル一座の何人かが驚いたような顔をする。ピンクマスクの大男の周辺に集まっていた古株らしき人達が、慌てて膝を折った。
「これはこれは、姫様! なんとまぁ、お美しくなられて…!」
「覚えておいでですかな? 王国で興行を開いたのは、随分と昔のことでしたからね」
 やっぱり、グランゼドーラに興行に来ていた人達だったのね。偽りの故郷で昏睡に陥っていた時、ミシュアが見ていた記憶は新しい。まるで最近の出来事であるような鮮明さに、懐かしさよりも興奮が込み上げてきた。私は一番近くで膝を折っていた、歌が上手だった女性の手を取り立ち上がらせる。喜びを隠さず笑みに変え、立ってくださいと声をかけた。
「忘れるだなんて、とんでもないです! あの時の楽しくて素敵な時間は、宝物です。あ、あの…」
 私は彼らのことをよく覚えていた。彼はあの芸が面白かった。彼女のあの芸は素晴らしかった。家族と並んで涙を浮かべるほどに笑ったあの一時は、今ではもう二度と再現することができない宝のような思い出だ。あの時間にあった全てを、私は忘れない。
 だから、今のシタル一座には無いものがよく見えた。大好きなジャンナが居ないのは分かっている。でも、彼女以外にこの場に居ない人がいる。
 シタル座長の姿がない。
 一座を率いるシタル座長の姿に、当時のアンルシアが抱いた印象は『不思議』だった。派手で煌びやかな衣装で飾り立てた芸人達の真ん中で、一人沈み込むような黒でフォーマルな服装は場違いにすら思えた。そんな彼が光の中の真ん中で先頭に立っている者だから、余計に黒く暗く感じる。リーダーらしいのに、どうして誰よりも地味で黒いのだろう? そう疑問に思ったものだ。
 父は言った。『彼は一座の代表として、現実の世界に語りかける。全ての人の扉となり一座の世界に招くのだよ』
 母は言った。『あの方は一座の団員を輝かせる為に、あえて黒い装束を着ているのですよ』
 兄は言った。『僕はあの人こそ、一番堂々としてカッコいいと思うよ。仲間達が僕達を楽しませるって確信してる』
 家族の言葉に私は目を丸くしたものだ。そして、良く分からないと首を捻った。当時の私はまだまだ、何も知らない小娘だったんだと思う。夢の中で私とジャンナを助けてくれたシタル座長は、本当にカッコよかったんだもの。
 でも、あれから何年も経っている。旅芸人という流浪の民は常に魔物に襲われる危険もある以上、死んでしまった可能性だってあるのだ。もしかしたら故郷に帰って隠居でもしているかもしれない。根無草で喜びと楽しみを売る彼らに、こんな問いをすることは無粋だ。それでも、私は口を開いた。
 あーーーーーっ! 伸びやかな大声が、私がしようとした問いを掻き消した。
「ギザント座長が頭下げてて誰かと思ったら、アンルシア姫様ですよね! うわっ! 本物!」
「こら! リィディ! 落ちつかねぇか!」
 全身ピンク尽くしのギザント座長に鷲掴みにされたのは、私よりも年下、丁度ジャンナの歳の位の女の子だった。見るもの聞くもの全てが新鮮で、顔がきらきらと期待と希望に輝いている。伸び盛りの四肢は衣装から遠慮なく伸びていて、瑞々しいまでの生命力を感じさせる。その服は、ジャンナが着ていた踊り子の服だ。
 ぐぐっと大きな手が小さい頭を押し下げる。
「アンルシア姫、すみません。新人のリィディは踊りの才能は確かなんですが、世間知らずで礼儀がなっとりませんで…」
 ちゃんとお辞儀くらいできるもん! そう威勢良く言ったリィディは、両腕をぴんと伸ばし、指先を揃えて膝に振り下ろした。腰を折り、つんのめるように頭を下げる。お辞儀ってよりも、海に飛び込むウェディみたいね。思わず、ふふっと笑い声が漏れてしまう。
 私の笑い声を聞きつけたのね。反射的に顔を上げたリィディの、弾けるような笑顔がずいっと迫ってくる。
「ねぇ! もしかしてアンルシア様は、ボクを見てジャンナさんを思い出しちゃったりしました? ボクはジャンナさんみたいな踊り子になりたくって、シタル一座に入ったんです! 憧れのジャンナさんに負けない演技を、アンルシア様に見せられるよう頑張ります!」
「はいはい。しっかり練習して、大舞台で踊り切ろうな」
 あ!ギザント座長!子供扱いしないでくださいよ!やだー!ボクは才能あるから、練習なんかしなくたって上手に踊れるもーん!そんな声があれよあれよと遠ざかる。リィディを担ぎ上げた逞しい僧帽筋を披露しながら、ギザント座長はひょいと手を上げた。
「あれからこの一座も色々ありまして、修行を兼ねて5大陸興行もしてきたんですよ。プクランドのオルフェアを拠点にする、ナブナブ大サーカス団とコラボした興行なんか大評判でしてね! あの時とは一味も二味も違うシタル一座に、ぜひご期待下せぇ!」
 賑やかな演奏を振り撒き、シタル一座の馬車がセレドの町に降りていく。式典が行われるまでは、町に滞在し興行をするのだそうだ。ミシュアとして出会った子供達の親御さん達を、慰めるための大神官様の配慮なんだろう。あんな可愛い子供達を失ったのだ。親の心は引き裂かれるよりも辛いことだろう。一時でも悲しみから離れられるようにと、あの子供達の分まで幸せになって欲しいと私は祈った。

 死んだ子供達と邂逅した日を境に、セレドの住民達は前を向いて歩き出した。喪に服す為に翻っていた漆黒の布は、今では鮮やかな色に染め抜かれた魔除けの布に変わっている。麻縄に連ねられてダーマ神殿から吹き下ろす風に旗めいている様々な色を見上げながら、私は物思いに沈む。ピぺとラチックと別れてから、一人思う時間が増えた気がする。
 ボクを見てジャンナさんを思い出しちゃったりしました?
 リィディとジャンナは全く似ていないと思う。髪の色も長さも、瞳の色も形も、年齢も違う。旅芸人の一座に生まれ青空という屋根の下で暮らしてきたジャンナは、城の中くらいしか自由のない私から見れば同じ歳とは思えないくらい大人だった。村娘から一般の旅人として自分の足で歩いた旅路は、アンルシアを大きく成長させただろう。年下のリィディは無邪気で、勇者として守るべき存在と見てしまう。
 胸がざわめく。どうして、あんなにも似ていないのに、ジャンナが重なって見えるのだろう?
 ギザントさんのいう通り、シタル一座の人気や実力は変わらないようだ。今もシタル一座の興行が、町に滞在する全ての人が集まっているほどの賑わいの中で行われていた。酒場から大樽が転がされ、力自慢が大樽を抱えて次々にジョッキに麦酒を流し込んでいる。あれよあれよと料理の並んだお皿が行き渡り、今し方会ったばかりだというのに十年来の親友のように笑い合う。
 巡礼者達は世界中からダーマを目指して疲れ切った体をセレドで癒し、知識や技術でもって返礼する。珍しい香辛料やレンダーシアでは手に入らない民芸品を置いて行ったり、歌や踊りを披露したり、薪を割ったり壊れたものを直す労働に従事する者も少なくない。住民と旅人が見分けがつかない程の寛容さだ。
 住民達は与えられた伝統と責務に没頭することで、子供達を失った悲しみから目を逸らそうとしているように見えて心が痛む。
「リィディ、どこへ行くの?」
 そんな明るさの届かぬ暗がりに、リィディが一人で向かっていく。ずっと踊り続けて湯気すら立ちそうな背中が、プクリポのように元気に跳ねて振り返る。その顔は輝くほどの笑顔だ。
「上手に踊れて、お客さんと楽しく踊って最高の気分なんだ。忘れないうちに、もう一回踊るんだ!」
 とてとてと浮かれた足取りで暗がりに進むと、月明かりの下で踊り出す。指先まで意識し、腕を振る仕草ひとつも体全体を使って大きく印象的に表現して魅せる。流れるような足の運びは、どれだけ練習したのだろう。楽しくてたまらない笑顔は、心から踊りを愛していると思う。そんな踊りに対する姿勢が、リィディとジャンナが似ていると思う。
「嬉しいなぁ! アンルシア様がボクの踊りを見てくださるなんて! 見てるだけじゃ、つまらないよ! さぁ、踊ろう!」
 そう私の手を取ると、一緒にくるくると回り出す。あぁ、ジャンナと良く似てる。私はまだ誰かの死を知らない、お姫様だった頃に戻っている。修練でしか剣を振らず、戦の血と死の匂いに戻したこともない、何も知らないアンルシアだった私。
 雨の匂い、土の感触、風の冷たさを知るリィディは子供っぽく唇を尖らせた。
「でも、アンルシア様は、まだボクを見てくれてないね。ジャンナさんを見てるでしょ?」
 ぎくりと、体が強ばる。そんな私の腰を柔らかく支えて、リィディは悪戯っぽく笑った。
「良いんだよ! 気にしてない! ジャンナさんはボクが目標にしている憧れの人だから、光栄なくらい!」
 芸を極める者は自分らしさを突き詰めようとする。誰かに似ているなんて、リィディに失礼なことだと思う。それなのにリィディは笑うのだ。良い子だ。ジャンナに負けない輝きが溢れている彼女を見ていると、私も気持ちが鼓舞される。
 しばらく踊っていると、ぴたりとリィディが動きを止めた。私の後ろを見つめる視線を追いかけると、人影が地面に蹲っているようだ。具合が悪いのだろうかと歩み寄ると、人影は私達に気がついて振り返った。皮を滑したコートを羽織り、同じ皮で揃えた帽子を目深に被った初老の男性だ。薄暗い夜の下でこちらを見返すモノクルが、ギラギラと光っている。彼は口元に人差し指を当てると、その指先を下に向けた。
 セレドはダーマ神殿が鎮座する霊峰の一角にできた町だ。山の形に町が寄り添うように築かれており、階段のような造りになっている。男の示した先は、私達のいる場所から一段下がった酒場の裏手だった。
 見下ろす形になった私達の視線の先で、ピンク色の大男と黒いダーマ神官服の男が向かい合っている。
「ギザント、良い座長をしているようじゃないか」
「やめてくだせぇ。俺は座長なんてガラじゃぁないんです」
 神官服の男が厚い胸板を軽く叩くと、ギザントさんが頭を掻きながら萎縮する。リィディが『あのギザントさんが、へぇこらしてる』と驚いて目を凝らしている。ギザントさんの身振りは、大柄が手伝って演劇のように大袈裟だ。ギザントさんは真剣に目の前の影に訴える。
「まずはご無事で何よりでした。一座を解散されて行方を眩まされてから、俺たちゃあ必死に探したんですよ」
「私も無事であることはダーマ神の導きだと思っている。大神官様に拾われていなければ、死んでいただろうからな」
 俯いた顔が月明かりに照らされる。あれは…
「ゾデラ次期大神官候補殿だよ」
 そう、先客の男が言う。神経質そうに指を舐めては、手元の手帳を手繰っていく。
「お嬢ちゃん達は知らないだろうが、ゾデラ殿は色々曰く付きのお方でね。大神官様の異例の取り立てで大神官候補になっているんだ。名前だって偽名だし、今までの来歴も不明。賄賂を疑う者も多い。雰囲気も近寄り難くて、神官達の評判は良くない。修行は誰も付いて来れないくらい厳しく自ら課してるとはいえ、大神官候補には相応しくないって声もちらほらさ」
 なるほど。私はその言葉だけで、この男が誰かの命令でゾデラ殿のことを嗅ぎ回っていると察した。ゾデラ殿の気難しさは少し一緒にいただけで感じたのだから、あまり他の神官とは上手くやれていないだろう。だが、大神官様の選定は絶対だ。ゾデラ殿が次期大神官として選出されれば、神官達も従わねばならない。神官達も候補に上がった時点で、受け入れているだろう。
 だとすれば、ゾデラ殿の失脚で一番利益を得る者は誰か。浮かぶのはもう一人の大神官候補のジュアロ殿か。
「俺達はずっと待ってるんです! 戻ってきてください!」
 ギザントさんの懇願は悲鳴に近いものになっていた。
「誰のせいでもなかった。ジャンナは黙って希望の丘に行っちまって、そこで魔物に襲われちまった。魔物がウヨウヨする真夜中の森を突っ切って、大怪我しながらジャンナを連れ戻してきたのは座長だったじゃないですか! 俺達に看取られて、ジャンナは笑顔で旅立ったじゃないですか!」
「だから何だと言うのだ」
 ゾデラ殿は驚くほどに冷えた声で言った。
「私がジャンナを殺した事実は変わらん」
 私はハッと息を飲んだ。最後に出会った時は、それ以前に見た顔とは別人の険しい表情だったじゃないか。血を吐くような苦しい表情で、私に蕾の希望の花を差し出した。ジャンナの死を告げた、彼女が所属した一座の長。シタル座長。
 夢の中で共にジャンナを助けた筈だった。でもシタル座長は、まだ罪悪感の中に囚われてしまっているのだ。
 私は足早に去っていく背中を、黙って見送るしかできなかった。