花の毒

 最後の緋石はリャナ地方の奥地に広がる、ソーラリア峡谷にあるという。その峡谷に最も近い人里が偶然にもピぺの故郷だそうなので、ルシェンダ様の計らいで寄ることになった。街道から離れ、馬車が通るのがやっとという道を歩いて山に呑まれ、生い茂る緑をかき分けていくとふっと視界が開けた。
 私は思わず息を呑んだ。山々の合間にひっそりと存在する村は、どんな村や町よりも美しかった。ソーラリア峡谷の白い岩を切り出した家は魔除けの絵が描き込まれ、木々の庇や手すりに藤が伸び淡紫の美しい花を咲かしている。それが村の至る所にあって、村はまるで一つの大きな藤棚のようだった。穏やかな小川のせせらぎに花びらが落ち、小さな畑を耕す村人の後ろ姿や、畦道を行く牛の姿が一つの絵画のように美しい。
 先触れを出していたからか、感動している間に長が出迎えてくれた。老齢とは思えぬ軽やかな足取りで、私達に歩み寄る。白髪を整え、王宮御用達の仕立てさながらの服を着た、まるで王宮の執事長のようなすっきりとした身だしなみをしている。白髪でなければ老齢とは思えぬ若々しい雰囲気があった。
「グランゼドーラのアンルシア姫様と、賢者ルシェンダ様であらせられますね。遠路遥々、このような辺境の地へようこそおいで下さいました」
 案内されたのは村で最も大きな家の、小さいながらに美しい庭園だった。このような僻地でありながら、貴族の別荘を思わせる豪華な作りの建物に庭が美しく調和している。池はキラキラと輝いて、奥に広がる山々の景色を訪れた者の視野に届ける。手入れの行き届いた薔薇の美しさはグランゼドーラの庭師にも引けを取らないだろう。藤の花が頭上から柔らかく降り注ぐ特等席に通されると、一級品と差し支えない茶器で茶が興じられる。
 茶が行き渡り、上品なケーキが前に置かれる頃合いを見計らい、向かいに座った長はゆっくりと頭を下げた。
「アンルシア様は今代の勇者であられるとか。これも高貴なる御方のお導き。我々が課せられた使命を果たす時が来たと、村人全員が喜びに打ち震えております」
「その使命とはどういった内容なのだ?」
 ルシェンダ様が威厳ある声色で聞くと、長は真っ白く輝く白髪の下で眩しそうに目を細めた。
「我らが賜った使命は、先代勇者アルヴァン様の盟友、カミル様の名誉の回復にございます」
 ピぺの手紙を受け取った時は別れの悲しさでいっぱいだったが、冷静になると驚くような内容だった。
 城に戻った時には、お父様の命令でピぺと彼女の故郷について調べるよう言い渡されていて、書庫がひっくり返されていたほどだ。グランゼドーラには、私の先代にあたる勇者アルヴァンのことは多く残されている。しかし勇者と共にあった筈だろう盟友のことは、名前一つ残っていないのだ。今に伝わる小さい子供に読み聞かせる物語にさえ、盟友の存在はない。
 でもミシュアとして子供達に読み聞かせたピぺの物語には、白く輝く衣を纏った盟友の存在があった。ピぺはアルヴァン様の盟友を知っている。ルシェンダ様も一度は調べるべき事柄と、最後の緋石のありかに近いこともあって立ち寄ろうと言ってくださったのだ。
 思わず腰が浮いた私を見て、長は小さく頷いた。
「お察しの通り、我々はグランゼドーラに残されていない盟友カミル様のことを伝え継いでおります。それもまた、高貴なる御方が我々に課した大事な勤めにございます」
 アルヴァン様の盟友。どんな人なんだろう。どこで出会ったのだろう。どうやって盟友となったのだろう。どうして、今、何も残っていないのだろう。聞きたいことが喉に詰まる私を見て、長は労るような笑みを浮かべた。
「本来なら長である私が今代の勇者である貴女様にお伝えする栄誉に預かれるのですが、ピぺと縁があるとか。盟友カミル様のことは、この村に生まれた全ての者が一様のことを引き継いでおります。ピぺからお聞きになり、共にお時間を過ごされると宜しいでしょう」
 宿泊はこの家をご利用ください。そんな言葉を聞きながら、私は長の気遣いに感謝した。私が勇者として張り詰めた日々を送っていることを察して、時間のない行程で少しでもピぺと過ごせる時間を作れるようにと配慮してくれたのだ。
 暇乞いをしようとした私に、長は小さく手をあげて口を開いた。
「ピぺはあの齢で、すでに高貴なる御方の肖像画を100年毎に描き直す描き手に選ばれた鬼才です。この村で最も才能に恵まれましたが、最も複雑な身の上の子供です。貴女様の肖像画を描く選考会に出るため旅立ちましたが、それもこの村から出る口述でしかありません」
 だから、なんだというの? まるでピぺと親しくするなと言いたいような口ぶりだ。腹の底から苛立たしさが湧くままに、長の言葉を遮るように言ってしまった。
「ピぺは、私の友人です」
 長は目を細め、小さく謝罪した。

 ピぺの家は村から離れた場所にある。藤棚のような美しく整えられた村とは違い、山から迫り出した緑に飲まれそうな高台にあった。古さを感じるが丈夫な石造りの家は生活感があり、薪が積み上げられ、干し野菜が軒先に吊る下げられている。広々とした庭には立派な馬車が停まって、荷物の積み込みが見えぬ所で行われているらしい。積み込みの物音から少し離れた草むらで、黒毛の馬が草を食んでいた。
 しかしその庭に、なぜかブラックチャックがが何匹もいる。グランゼドーラ領でよく見かける、白い毛皮を被った黒い肌の魔物だ。丸くてコロコロしたその愛らしい見てくれに油断していると、痛恨の一撃を与えられてしまう。ブラックチャックがこちらに気がついてぱっと顔を向けられると、わらわらと集まってくる。思わず剣の柄を握ってしまったが、木槌を持っていないし小さい手のひらでぺたぺたと足を触ってくるような人懐っこそうな魔物を薙ぎ払うのは気が引ける。ど、ど、どうしよう!
 家の扉が勢いよく開け放たれると、ブラックチャック達を蹴散らして大柄な男が駆け寄ってきた。倒れそうになる私の手を取り、優しく腰を支えると集まってきた魔物達に大声で言い放つ。
「こら! アン 困ってる! 離れる!」
 声を聞いて、あまりの変わりように目を丸くした。ピぺと共に旅をしていたラチック。真っ黒いくらいに日焼けしていた彼は、真っ白な艶のない髪が肩まで伸びていた。それが邪魔にならないようにか、片方を三つ編みに編んでいるくらいだ。オーガ族にも負けぬ引き締まった筋肉に、厳つさを引き立てるような顎髭を生やしているのに、強面の顔の印象を吹き飛ばすほどのつぶらな瞳で私を見下ろす。
 その姿が周囲にわらわらと集まっている、ブラックチャックに似ている。
「ラ、ラチック! 髪、伸ばしたの?」
 なんとも見当違いなことを言っているのに、ラチックは白髪をつまんで笑う。足元にブラックチャック達が群がらないことを確認して、ラチックは私を立たせて手を離す。代わりにラチックの足元に寄ってきた魔物達を二匹ほど抱き上げた。
「アンに 俺の 匂い 残ってて 子供達 興奮した。人間の 知り合い 興味いっぱい みたいだ」
「子供、達…?」
 見た目はグランゼドーラ領にいるブラックチャックと変わらないけど、幼体か何かなのかしら? 私でさえ抱きついたら手が回せないほどに、むっちりとしたお腹に挟まれているラチックは朗らかに笑う。
「あぁ 俺の子供。孫も いる」
 何を言っているか、理解ができない。ブラックチャックが、子供? 孫?
 目がまん丸になるほど見開いている私を見て、ラチックとブラックチャック達が笑っている。
「アンには 言ってなかったな。俺 元々 ブラックチャック」
 驚きのあまりに、肺の中の空気を全て驚きに変えてしまった。その反応にラチックもびっくりして固まる。あわあわと抱き上げていたブラックチャックが、落ちてぽよんと弾んだ。
「アン そんな 驚くか。秘密 するつもり なかった。俺も アラハギーロの魔物達と同じ 人間になって 覚えて なかった。戻ってきて ようやく 思い出せた」
 人と魔物が入れ替わったアラハギーロの出来事は覚えている。よくよく考えればピぺが魔物の姿であるのは分かっているのに、ラチックが人間であることは気にも留めなかった。常に一緒にいる二人なのだ。二人共巻き込まれて、姿が入れ替わってしまったと考えるべきだった。
 ラチックはちらりと馬車を見遣ったが、すぐに私に視線を戻して言う。
「客人が いる けど 帰る頃。良ければ 上がって 待ってる」
 ブラックチャック達が庭でころころと遊び始めたのを横目に見つつ、私は見慣れたはずの大きな背中を追って歩き出した。魔物であったとしても、優しいラチックであることに変わりはないんだ。そう自分に言い聞かすように、彼が掴んでくれた手の感触を逃さぬように上から握った。
 家の戸の前に立つと、ラチックはすっと背筋を伸ばした。彼自身も暮らしている家のはずなのに、失礼しますと声を掛ける。ミシュアとして共に旅をしていた時、ピペは絵の依頼を受けることが度々あった。客人とは依頼主のことなのかしら?
「随分と賑やかな来客だな」
 忘れもしない声に、全身の毛が逆立った。壁に遮られて見えない相手に会釈をするラチックを押し退け、私は家に駆け込んだ。そこに座っているのは、整髪料で髪を撫で付け髭も綺麗に整えた彫りの深い顔立ち。武芸を嗜んでいる体つきは、上質な布地の上からも見ることができる。黒を基調とした服装だが、赤い差し色が洒落ているとすら思える。知らぬ者が見れば貴族の使いと思える、上質で実質的な装いだ。
 人間の見た目だが、特徴全てが私の憎き仇そのもの。
 兄様を殺めたゼルドラドが、座って私を眺めている。礼儀のなっていない姫君だと蔑むような視線を向けていたが、その口元は余裕すら感じられていた。
 ラチックが目を丸くして私とゼルドラドを往復している。今にも掴み掛からんと憎しみに燃える私を制するように、相手はすっと手を上げた。
「少し、長居をし過ぎたようだ。そろそろ、お暇しよう」
「急かして すまない」
 なに。構わん。そう、うっすらと笑みを浮かべて、ゼルドラドは優雅とすら思える立ち振る舞いで席から立ち上がる。分かっているのだ。ここで我々が争う姿勢を形でも取るだけで、ラチックもピぺも巻き込まれ大怪我では済まされないのだと。それを、互いに望んでいない。こんな千載一遇のチャンスを逃すことになろうとは、悔やむに悔やみきれなかった。
 ゼルドラドはすっと傍から包みを取り出し、ラチックに差し出した。
「それはマデサゴーラ様の作品集だ。己の芸術家だけでなく、他の芸術にも精通してこそ一流の守り人だ」
 ラチックは小さく頷いてから包みを解く。新品ではないが、長年大事にされてきたような雰囲気のある大判のハードカバー本だ。アストルティアでは使われていない箔押しの文字は掠れているが、相手を飲み込むような存在感のある絵が鮮やかな色で表紙を飾っている。
 少し驚いた様子のラチックに、ゼルドラドは淡々と言う。
「勘違いするな。マデサゴーラ様が推薦する芸術家の守り人になるのだ。貴様が三流では我が主の権威に関わる。これは貴様のためではなく、我が主のためだ」
 丁寧に包みを戻したラチックは、ゼルドラドに深々と頭を下げた。
「ありがとう ゼルドラド」
「貴様が人間になったのは都合が良かったが、まだ言葉遣いは聞くに耐えぬな」
 心からの感謝の言葉。それを鼻で笑ったのは照れ隠しなのではないかと思う程度に、ゼルドラドは言い捨てて開け放たれた扉を抜ける。『見送りは要らぬ』そう告げて、ルシェンダ様を一瞥し堂々たる足取りで去っていく。馬車の積み込みを手伝っていたピペに一声掛けたらしく、ピペは体のわりに大きな頭をつんのめるように下げた。
 馬が嘶き動き出した馬車が見えなくなるまで、誰一人動けなかった。
 それから、何を話しただろうか。ルシェンダ様が私の代わりにピペとラチックと話してくれて、打ち拉がれている私のことは大魔王との戦いで少し疲れてしまっているのだと説明してくれた。ピペの身の上の話や、ラチックの家族の話とか色々としてくれた気がしたが頭の中に全く入ってこなかった。
 傍に座っているピペのスケッチブックに、筆談が残っているのを見て、そんな話をしていたとようやく思える。
 マデサゴーラ様からお手紙を頂いたのは、この村で暮らしていた頃でした。
 私の絵を認めてくれた、初めての芸術家です。
 そんな言葉、見たくない。顔を背けると、ピペの絵が家の中には所狭しと飾られている。ピペの祖母だろう老婆は絵の中で笑っていたが、次に見た時には眠そうに船を漕いでいる。ピペの両親だろう若い夫婦の絵は目鼻立ちのしっかりした顔立ちなのに、何度見てもどれだけ見ても顔を覚えられず、思い浮かべようとすると記憶の中の夫婦の顔はぐしゃぐしゃに塗りつぶされている。なんの変哲もない風景画は、眺めているとその絵の中に取り込まれているようだった。
 ただの絵であるはずなのに、その絵は心に容赦無く干渉してくる。まるで心の中を絵筆で直に描き込まれるような、影響力。
 鬼才。そう片付けて良いものなのか分からない、底の知れなさがある絵だった。むしろ鬼才とは皮肉であって、芸術に理解がある村人こそがピペの絵に恐れを抱いている。それをピペも感じていたからこそ、認めてくれたマデサゴーラに心酔しているようだった。
 口を開いて声を出すことすら怖かった。
 私の倒すべき相手が『そんな恐ろしい存在ではない』と否定されるのが、勇者という自分の存在を否定されるのと同じ意味を持っていた。守ろうと意気込んでいた最も大切な存在が、私の守護など実は必要でないことも辛かった。ミシュアとして出会う前に、すでに築かれていた関係。その関係そのものを変えることなど、不可能だと分かっている。
 ルシェンダ様も私のことを慮って、マデサゴーラやゼルドラドのことについては触れないでいてくれた。
「アン達 何しに ここ 来た?」
 疑問は最もだ。街道から遠く離れたこの地は、訪れる者が滅多にいない秘境だ。ソーラリア峡谷も風光明媚な場所であるが、遺跡は古く魔物も住み着いた危険な場所である。レンダーシア最大の王国の姫が賢者を伴って訪れる場所でもないし、勇者が旧友を訪ねてくるような余裕がないことは彼らもわかっている。
 遺跡に用がある。ルシェンダ様の答えに、ラチックは頷いた。
「俺 案内する。岩切り 村の 誰より たくさん 行った」
「大魔王の手下と遭遇するかもしれない。安全は保証できないぞ」
 ゼルドラドが実際にピペから絵を受け取って去って行ったのだから、遺跡の中にある緋石を破壊するために、ここに居たとは断言できない。だが今回の遭遇で、遺跡での対決も十二分にあると覚悟を決めている。
 マデサゴーラに認められ保護されていた立場も、大魔王と知り勇者の仲間であると認知されれば危険に晒される可能性がある。いや、ミシュアとして共に旅をしていたのだ、知らないわけがない。だが二人が勇者の私を助けようと、大魔王の邪魔をすればタダでは済まされないだろう。私もルシェンダ様も二人を巻き込みたくない気持ちは同じだ。
 ラチックはそんな私達の気持ちも知らず、小さく首を振る。
「ソーラリア 遺跡も 岸壁も 崩れて とても危険。道案内 いない 進む できない」
 低い声は丁寧にソーラリアの状況を説明している。レンダーシア考古学学会から、ソーラリアの遺跡は古い神を奉ったもので風化や崩壊が進んでいるとは聞き及んでいる。ラチックは遺跡を安全に移動する道を案内すると、私達の身を案じてくれているのだ。
 ぼそぼそと押し問答を繰り広げているが、ルシェンダ様は折れるだろう。
 私達は魔物と戦う術には秀でているし殺気には反応できるが、老朽化による危険は判断できない。神の緋石のところにすら辿り着けず砕かれてしまうだなんて失態を、犯すなどできないのだ。遺跡を案内してもらい、目的地の手前で待機してもらう。それが一番良いと、私は思ってる。
 そんな二人をぼんやりと見ていた私の指が、きゅっと握られた。
 暖かい感触に視線を落とすと、ピペがぺろりと出た舌を引っ込めて、にこりと笑っている。さらさらと鉛筆を走らす。
『盟友カミル様の彫像を作るのに、ソーラリアの岩を高貴な御方が指定していたんです。岩切りも無事終えてグランゼドーラに向かっていますし、彫刻師は村一番の腕前のオルノーラさんです。詳細な設計図も保存状態が良好でしたし、寸分違わぬ復建は約束されたも同然です』
 そう書き込んだピペは私を見上げた。私がスケッチブックを見ているのを確認すると、文字が書き込まれる。
『アンの盟友はまだいないのですね。でも、私は貴女と貴女の盟友を必ずや守りましょう』
 なぜ、そんな事を言うんだろう。きっと私の知らない勇者と盟友の顛末を、知っているからこそ出る言葉なのだろう。グランゼドーラの全ての記録から消され、このアストルティアの歴史からも消された勇者アルヴァンの盟友。一体、何があったのか、想像すらつかなかった。
 だって。そう書いたところで止まった鉛筆は、一呼吸置いて動き出した。
『アンは私の初めての人間の友達なんですから』
 ピペの顔を見る。折角の再会なのに、私は不安で仕方がない顔をしていたんだろう。小さくて幼いピペに移った不安を、私は心の底から申し訳なく思った。
 たまらず抱きしめると、油絵具の匂いがする。抱きしめて小さい首筋に顔を埋めていると、勇者であるアンルシアはただのピペの友達になる。背中に回った小さな手が、とても愛おしかった。ぽんぽんと、労うように背に触れてくる。
 ピペが私を友と呼んでくれる限り、私もピペの友達なんだ。
 そんな当たり前に触れて、私はちょっと涙ぐんだ。