白い崖

 複雑に入り組んだ海岸線と切り立つ白い崖、迫る山々が覆い被さる深い緑と、崖に打ち寄せる白い波飛沫と深い海の色。長年人が踏み込まなかった大地は草木に飲まれ、美しく舗装されていただろう石畳は木の根によって乱雑に畝り、柱は蔦が次々と足掛けて巨大な一本の巨木のようだ。岩場を切り拓いた跡だけが、かつての人の往来を感じさせる。崖をつなぐ石橋は細かいヒビが入り、手を掛ければ脆くも崩れるほどで渡るのすら躊躇う。
 巨大な遺跡は程なくして崩れ去り、この美しき自然の一部に還っていくだろう。
 そんなソーラリア峡谷の古き神の遺跡の案内を、ラチックに頼んだのは正解だった。遺跡の内部は想像以上に入り組み、崩落した対岸に渡るためには想像以上の回り道を強いられた。遺跡を破壊しながら育っていく木々を登ることは、何度あっただろう。ラチックが手慣れた様子で同行した女性達を引き上げる姿は、頼もしいくらいだった。ピペの施したトヘロスの護符は魔物達から我々の存在を隠し、見つかったとしてもラチックが声を掛けると去っていく。
 日が登る前に出発し、日が最も高くなる前には最深部らしい場所に辿り着く。その間、移動の疲労はあるが、魔物との戦いでの消耗は一切なかった。それらに感謝を述べながら、私は記憶を失ったアンルシアと旅した者達に言った。
「ピペ、ラチック。ここから先は危険が伴うかもしれぬ故に、ここで待っていて欲しい」
 背後には素晴らしい彫刻が彫られた、両開きの石扉がある。片方の扉の蝶番が壊れてしまっているのか外れているが、崩れた壁に身を預けるように扉としての責務を全うしており、大柄な人間が通れる程度の隙間が空いている。その向こうは暗闇で何も見えぬが、装飾の素晴らしさを思えば最も大事なものが安置された最奥であると察せられる。最も大事なもの。神の緋石。魔族との衝突が最も考えられる危険地帯が、この扉の向こうなのだ。
 アンルシアが二人を巻き込みたくない気持ちは良く分かる。事情を知らずともゼルドラドやマデサゴーラと通じているなら、敵側も近づかぬなら放っておくだろう。
 ラチックは力はあるが戦いにおいては素人だ。戦力に数えられぬなら、居ない方が良い。それを理解しているのだろう。ラチックはアンルシアに抱きついているピペを引き剥がし、少女のような勇者の肩に労るように触れた。
「気をつけて」
 すぐ外は白い崖が切り立つ急峻な地形と大海原が見渡せる、ソーラリアで最も景色の良い場所だろう。ピペにスケッチブックを渡しながら、ラチックは外に向かってゆっくりと歩いていく。その背を見送りながら、アンルシアは呟いた。
「これで良い。二人と私は、生きる世界が違うんだもの…」
 苦しそうに胸を押さえて、食い入るように見送るアンルシアに私は何も声を掛けれなかった。ミシュアとして記憶を取り戻す旅に同行した二人は、アンルシアが最も信頼を寄せる存在だろう。トーマ王子が勇者の影武者であることを知って、アンルシアを欺いた我々は彼女の信頼をとうに失っていた。私も盟友となれるよう心は砕いたが、二人以上の信頼を得ることは未だ叶わない。
 もしかしたら、二人のどちらかがアンルシアの盟友になるかもしれない。そんな予感があった。だが、大魔王との戦いで彼らのような戦いに縁のない存在が盟友に選ばれたとしたら、勇者の足枷にしかならない。私は勇者と魂が結びつくような存在である盟友を、選り抜いていた。時間はない。盟友がいなければ勇者は勝てない。即座に戦力になる程の逸材で、アンルシアの信頼を勝ち取れる存在など、私ですらなれないのに探しているのだ。
 私も賢者の家系で大きな力を期待されたが、アンルシアくらいの年頃には複雑な感情を持っていた。かつての己と重ねた同情と、賢者として世界を救うべき導となるべき非情さは胸を引き裂くほどに痛む。
「行きましょう。ルシェンダ様」
 盟友になれずとも、命の限りこの娘を守ってやらねば。世界を背負わされた背中に私は続いた。

 扉を進んだ先にあったのは、美しい中庭だった。本来は礼拝堂であっただろう空間で、正面には美しい女神と雄々しい人間の男性が向かい合う彫像が、白い花を咲かす蔦に呑まれつつある。木々によって天井は破壊され、燦々と降り注ぐ日差しは瓦礫の隙間に色とりどりの花々を育む。どこからか流れ込んだ小川が、命を潤し輝いている。蝶が舞い鳥が歌う。平和を絵に描いたような世界だった。
 しかし、さらに奥へ続くだろう扉の前に、暗く濃い闇がある。その闇の形を見定める前に、アンルシアが飛び出した!
 勇者の光を纏い、降り注ぐ日差しよりも強い光を放ちながら闇に迫る。閃光のような一撃は、闇の前に立ちはだかった巨大な影が刃ごと薙ぎ払う。アンルシアが大きく飛び退ると、その影がゆっくりと白日の中に進み出た。
 アストルティアに生息する魔物では見たことのない、巨大な獣だ。まるで大木のような隆々とした筋肉の上に、刃も魔法も弾くような剛毛が覆っている。立ちはだかった瞬発力を思えば、その巨大さに見合わぬ俊敏さも持ち合わせているだろう。ぎょろりとした目は傲慢に濡れ、嘲笑った口には残虐を形にしたような牙が並んでいる。
 獣の向こうにいたゼルドラドが、こちらをゆっくりと振り返った。
「ガルレイ、相手をしてやれ」
 ゼルドラドの横、扉の正面にはもう一人小柄な影が見える。フードを深々と被り外套で包まれて情報らしいものは得られないが、扉に施された封印を解こうとしているようだ。神々に縁のある地の封印術は、魔族には打ち破ることはできない。神々に縁のある力の持ち主、ダーマなら大神官であったり、人間の種族神なら勇者といった存在でなければ解くことは叶わないのだ。
 一体、何者なのか。そう思案する時間は与えぬと、獣の咆哮が空気を揺るがした。
 獣の体から闇が噴き出し、闇は生き物のように太い腕に絡み付いた。後ろ足を掛けていた瓦礫が、音を立てて砕けた。瞬間にアンルシアの目の前に獣が肉薄する。たった今吐いた息が鼻面に掛かるほどの接近にアンルシアは対処できず、勇者の盾を展開したまま地面に叩きつけられる! 追撃しようとするガルレイという獣にメラゾーマを放つと、煙のような闇に阻まれ届かないもののアンルシアから距離を置いた。
 駆け寄ったアンルシアは地面から体を起こし、口を切ったのか血を吐き捨てた。
「大丈夫です。油断しました」
 バチバチと闇の中で爆ぜる力は雷の力に似ている。純粋だが強力な力の流れが、獣の力に乗ることで破壊の力を倍増させ、獣に届くべき魔法や斬撃を阻むことだろう。アンルシアは高めた勇者の光を、剣に纏わり付かせる。立ち上がり剣を構えると、獣に向かって駆け出した。
 疾風のような素早さで肉薄した互いだが、正面から切り裂こうとする獣の拳を、最初からアンルシアは避けるつもりであったようだ。半歩ずらされた足は、大きな差となった。振り下ろすべき場所にアンルシアはおらず、勢い余ったガルレイは脇を大きく晒す姿勢になる。すれ違いざまにアンルシアの輝く刃は闇を切り裂き、振り向きざまにガルレイに鋒を突き立てた。黄金の雷がガルレイの内側を貫き、その巨体が倒れるのを見届けることなく跳躍する。
 まるで閃光のように飛び上がり突きつけた鋒は、魔元帥ゼルドラドが翳した指で受け止められてしまう。
「覚醒し、少しは出来るようになったか。だが、未熟なり」
 少し力を込めただけで、あれほど距離があるというのに凄まじい瘴気の風が殴りつけるように吹き荒れた。思わずよろける私の前に、吹き飛ばされたアンルシアが着地する。アンルシアとゼルドラドの間に、倒れたはずの獣がゆっくりと起き上がり立ちはだかる。闇を纏い、暗がりの奥で傲慢さの消えた冷静な光がてらてらと輝いている。強敵の存在に、脂汗が浮かぶ。
 殺意を迸らせ攻撃に身を縮めたガルレイに『待て』とゼルドラドが言う。
「勇者にも見せてやろうではないか。神の緋石が砕ける瞬間を、な」
 扉に向いていた小柄な背中を見遣る。扉に施された結界に干渉し続けていた光はゆっくりと消え、結界は今にも消えそうなほどに弱々しい明滅を繰り返す。黒い外套が身じろぐと、紺色の服に袖を通した色の白い手が剣を握り振り上げた。たっぷりと力を溜めた一撃が、扉ごと崖を切り裂いた。
 轟音と共に崖が崩落する。崖を形成する白い岩が地面に落下し砕け、粉々になった粉塵が湧き上がる。白い霧のような粉塵の向こうに赤い光が滲む。鈍く弱い、暗褐色の光。雫のような形をしているが、その大きさは大聖堂の鐘よりも大きいだろう宝石。それは悠久の時に力を失い、本来あるべき様々な力を発揮できなくなり、ただこの地がこの地であれるよう守護する願いのような力しか残されていない神の緋石だった。
 ゼルドラドが大剣を見せつけるように抜き放つと、宝石に向かって無造作に振り下ろされた。
 粉々になった輝きは、細かい雹のように石畳の上に落ちていく。そんな幻は、甲高い鋼同士がぶつかり合う音で掻き消えた。阻止できなかった悔しさに沈んだ気持ちが弾かれるように、確認しろと顔をあげさせる。ゼルドラドと神の緋石の間に、滑り込むようにボロ布のようなものがあって大剣を受け止めている。
 真後ろに足音が聞こえた。
 まさか、ピペとラチックが来てしまったのだろうか。
 来てはならない。そう言おうと振り返ろうとした視界の下側に、形のいい丸い後頭部が映り込んだ。気配もなく真横を進み出るのは、年端も行かない人間の少女だ。真っ直ぐな黒髪を肩口で揃え、空色の外套が柔らかく細く切った布を連ねたような不思議な装束を包んでいる。小柄な体には不釣り合いな槍は彼女の身長の倍は長く、腕に装備している水鏡の盾は彼女の胴体より一回りは大きい。装備は本来種族ごとに扱いやすい規格で揃えるものだが、小柄なエルフと変わらぬ彼女の武器はどう見ても成人のオーガが使うようなサイズだった。年相応な弾けるような笑みで、よく通る声を響かせる。
「ほら、間に合ったじゃないですか! 大丈夫です!」
 少女の嬉しそうな声に、神の緋石に足掛けてゼルドラドにギガスラッシュを叩き込んだ男が怒鳴り返した。
「あと瞬き一回分で砕ける状況が、間に合ったっていうのかよ!」
 男の頭付近は妙な煙で霞んでいたが、風に乗って薬草を焚いた匂いが鼻腔を掠める。アラハギーロで出会った、狐面の男。今までどうして忘れていたのだろう? 匂いが薄れていた印象を鮮明に浮かび上がらせた。
「砕けてないので、大丈夫です! ケネスさん、ゼルドラド卿にちょっと下がっていただくようお願いしてください!」
 あーもう、わりーな、旦那。そんなボヤくような声で言いながら、ケネスと呼ばれた男は二振りめの隼の剣を引き抜いた。二刀流の隼の剣の斬撃は、竜巻のように襲いかかり重ねられた一撃が軽い隼の剣とは思えぬ重い一撃に変える。ゼルドラドの肌に浅い傷が無数につき、血が火の粉のように舞い上がる。あのゼルドラドが大きく間合いをとり、ケネスに向けて手をかざす。
「なるほど。怠け者であっても、人間の守護者の自覚はあるようだな」
 隼の剣が雷を帯びたと思った瞬間、4重の黄金の円がケネスの周囲に描かれる。突如現れ襲いかかった漆黒の大剣が、ケネスの放ったギガスラッシュによって瞬く間に砕け散る。目紛しい攻防に現れた大剣の本数すら見切れなかった。ゼルドラドが笑みを深くし、ケネスが面倒そうに目を細める。
「大剣。重くて硬くて面倒だなぁ。しかも5本も同時に出してきやがって厄介な」
 その刹那の間に、少女はまるで鳥のように高々とその場の全てを飛び越えた。神の緋石の前に着地すると、少女はこの場の全てに背筋を伸ばしてコンシェルジュがするような模範的な礼をした。
「ご連絡もなくこの場に踏み込んだ無作法、心から謝罪申し上げます。私はアインツ。神の緋石は、私が預からせていただきます」
 何を言っているのだろう。その場の誰もが、ゼルドラドですら、そう思ったに違いない。
 しかし、変化はすぐに起きた。神の緋石だった宝石は一瞬にして液状になってしまったのだ。ふわりと宙に浮かび上がった液体は馬に乗った騎士の形となったが、滴っては戻るを繰り返す不安定さを滲ませている。それをアインツと名乗った少女は困ったように眉根を寄せて見上げた。
「元々血液なので大丈夫だと思いましたが、ブラッドナイトさんの状態も維持できないようですね」
 暖かい日差しに『困りましたねぇ』とアインツの呟きが染み入る。神の緋石が液体になり騎士の形になったという想像だにしなかった現象、突然の乱入者の戦いに積極的ではない雰囲気、それらがこの場に張り詰めていた決戦の空気を完全に弛緩させた。魔族も我々も神の緋石が乱入者に強奪されそうな状況に陥り、戦略の練り直しを余儀なくされている。
 あれらは敵なのか。味方なのか。判断はつかない。
 だが、魔族が神の緋石を破壊するという目的は変わらず、乱入者は神の緋石を持ち去ることを目的としている。敵の敵は味方であり、加勢をするならば乱入者だ。ケネスの剣術はアンルシアを超えるものがある。彼を利用すれば魔族から神の緋石を守り抜くことが出来るやもしれぬ。その後のことは守り抜いた後に考えれば良い。
 アンルシア。そう勇者に声を掛けようとした時には、アンルシアは立ち上がり再びゼルドラドに斬りかかった。
 完全に我々から意識が外れた絶好の好機。しかし、アンルシアの剣を遮ったのはケネスだった。神の緋石を持って逃げるなどゼルドラドが許すわけがない。ゼルドラドを攻撃するアンルシアを遮る理由などないのに、なぜ行動を妨害する。
 愕然とする私の前で、ケネスはアンルシアの剣を弾き飛ばし、剣が落ちて突き立った所まで蹴り飛ばした。
 煙管に手をかけ深々と吸い込むと、唇を尖らして線を描くように煙を吐き出した。勢いを失って広がって空気に滲んで広がる紫煙の向こうで、ゼルドラドの前に悠然と立つケネスは冷えた目を勇者に向ける。
「俺が善意で教えてやろう。憎い相手を殺すことが勝利と考えるような勇者であるなら、お前は何も守ることなどできん。仇討ちに目が眩んだお前が、ゼルドラドに傷一つつけることは無理だ。なぁ、旦那もそう思うだろう?」
 最後の疑問を向けられたゼルドラドが、同意と言いたげに笑みを深める。
「盟友も得ず修行も大して出来ちゃいない半端者が、アストルティアに乗り込んできた大魔王に勝てると思うだなんて自惚れも良い加減にしとけ。俺は今代の勇者に何も期待はしとらん。だから出てきてるんだ」
 なんなんだ、この男は。一体、どちらの味方なのか全く分からない。
 混乱する私の視線の先で、ついに声を漏らして笑うゼルドラドはケネスに言った。
「頭に血の上った小娘に何を説いても無駄だ。それより、現実を見せてやればいい」
 すっと魔族の腕が持ち上がると、身動きひとつしなかった人影がアンルシアの前に降り立った。成人した人間と変わらぬ体格、血の通っていないような真っ白い肌、フードの下に見えているのは鋼で出来た仮面が鼻から上を覆っている。弱まった封印ごと扉と崖を切り裂いた業物の剣は、外套に隠れて鋒しか見えていない。
「勇者。貴様の相手はこの者にしてもらおう」
 立ちはだかる者は全て薙ぎ払う。そんな気迫に満ちたアンルシアは剣を構え、仮面の男に斬りかかる。剣が閃き無数の軌跡を描いて斬り結ばれる様は拮抗し、仮面の男とアンルシアの実力は拮抗しているように見える。それを眺めていたゼルドラドが、指示を伺うように待機していたガルレイに顔を向ける。
「ガルレイ、神の緋石を破壊しろ」
 雄叫びをあげて了承の意を示したガルレイが、神の緋石へ向き直る。あの少女がどれだけの使い手か不明な以上、私が神の緋石を守るのに徹しなくてはならない。駆け出した私の横で、ケネスとゼルドラドが戦い始める。紫煙を纏わり付かせ、ケネスの怠そうな声が剣戟の隙間に聞こえた。
「面倒だから、この場で殺せるなら殺しとくか」
 敵味方、それすらも定かでない者が入り乱れ、神の緋石を巡って乱戦が幕を開ける。