茨の冠

 何が起きているのだろう。私は理解が追いつかないままに、目の前の光景を見ていた。
 ソーラリアの遺跡の最奥まで、アンと賢者ルシェンダ様をお送りしました。王家に連なる者と賢者だけが行う秘密の儀式だから、離れた所で待っていて欲しいと言われたんです。二人には簡単な仕事をしに行くような、気負わない雰囲気がありました。
 だから恐ろしい獣の咆哮が響いた時、ラチックさんと震え上がった。
 ソーラリアには確かに野生の魔物は多く、縄張り争いや伴侶を巡る諍いは命を懸ける激しさです。争いに負けた手負の魔物の姿も、命を落とし食われる亡骸の凄惨な有り様も見てきました。そんな厳しい世界でさえ、これほどまでに殺意に満ちた声は聞いたことがありません。
 魔物と共に育ったからこそ、咆哮の意味合いは人間よりも細かに察することができます。気合いであったり、鼓舞であったり、威嚇であったり、人ならばただの叫び声としか感じられない声の中身を察せられる。それが、聞いたこともない悪意に満ちた殺意。それに恐れをなして鳥達や獣達が逃げるように動き出しました。
 アンが遭遇した魔物は、この峡谷に暮らす魔物ではない。とても危険な、恐ろしい生き物だ。
 ラチックさんもそれを察して腰を浮かせ、アンの様子を見に行こうと言いました。それでも、私もラチックさんも戦いを職業とするような力はありません。偽物のグランゼドーラでの無力さを痛感して、ラチックさんは争いにどう向き合うべきか悩んですらいました。助けになれないなら近付くべきではないと分かっていても、共に旅をした仲間の安否を知りたい。
 頷き合った私達は早速動き出しました。
 私達は遺跡の外側は起伏に富んだ崖が続いていて、白い岩をよじ登り凹凸の激しい地面を縫って進めば、アン達が戦っている姿を見下ろせる場所に辿り着くことができました。聳え立つ崖の真下には、遺跡だっただろう花畑と木々に彩られた中庭がありました。他の崩落した箇所と同じく、育った木々が天井を崩したのでしょう。木々が幾重にも葉を重ねた茂みの裏に周り、アンと賢者様が対決している恐ろしい魔物を見ようとしたのです。
 そしてアン達が敵対している存在を見た私達は、言葉を失いました。口の中がカラカラに乾き、目の前の光景から目が逸らせない。視界の外からラチックさんの指が伸び、赤い髪の男性と切り結ぶ大柄な影に向けられました。
「なぁ あれ… あれって ゼ ゼルドラ…ド かな?」
 頷こうとした首が動かない。だって、ゼルドラドさんは日に焼けた健康的な肌色で、あんな紫色じゃありませんよ。頭から角なんか生やした人間なんて見たことがありません。でも顔の特徴は全て、悪い冗談のようにゼルドラドさんそのものなのです。ウェディ族やドワーフ族は肌の色が青や緑と聞いていますけど、エルフ族も紫っぽい肌の方がいるって聞いたことがありますけど、頭から角が生えてるって何の種族なんですか?
「なんなんだ なにが どう…なって?」
 ラチックさんが私をきつく抱きしめる。彼が混乱のあまり震えているのか、私が答えを拒絶するように震えているのか分かりませんでした。
 咆哮を上げただろう巨大な獣は、思った通り見たことのない魔物です。筋肉に引き締まった巨躯には硬い毛皮が覆っているようでしたが、体を覆う黒い靄のようなものでそれ以上の特徴を見ることができませんでした。鉄の扉すら粉砕しそうな突撃を盾で受け止めるのは、私より少し年上程度の少女です。ルシェンダ様が少女の後ろから攻撃呪文を獣に放ちますが、黒い靄に遮られてしまう。
『やはり、オーガは軟弱な生き物よ! 俺様の力にひれ伏せ!』
 獣が高笑いを上げ、少女とルシェンダ様を睨め付けます。それらから視線を引き剥がす。
 アンは、どこにいるの?
 広場の中央で繰り広げられる高火力の応酬、崖に向かって突撃する獣を凌ぐ防衛戦、それらを確認し私はようやくその戦いに目を向けることができました。他の二つの争いに比べれば静かに、そして互角に繰り広げられる攻防。アンと黒い外套を着込んだ男が、互いに一本の剣を引っ提げ、敵を殺さんと振り下ろす。
 私はアンと戦っているのが、他の敵よりも恐ろしくなさそうでホッとしました。それでもアンの怒りと憎しみに濡れた顔は、見たくありませんでした。眦が釣り上がり、歯をむき出しにして、獣のように吠える。アンは優しくて勇気があるけれど、どことなく不安を抱えた年相応の女の子なのに、どうしてそんな顔をして剣を握らなくちゃいけないんでしょう。勇者であるからなんですか? 勇者ってそんな怖い顔で敵と戦うんですか?
 勇者姫と戦った時は、あんなに凛々しいお顔だったのに…。
 ぎゅっとラチックさんの袖を握り込んだ。ラチックさんも私を抱きしめる腕の力を強めてくれる。
 アン。私は貴女から幼い頃から勇者であるお兄様の盟友になろうと、たくさんの努力をしたと聞きました。お兄様が魔族に殺されて、勇者になって、世界を守るんだって覚悟を決めたように言い切ったのを見届けました。私はそれが遠い世界のように感じていました。だって、私は芸術家。持ったことのある刃物は鉛筆を削る小刀程度なんですもの。私はミシュアであった貴女と過ごすように、隣にいることは出来ないんだって思っていたんです。
 すごく、後悔しています。
 貴女は一人で世界を背負っている。私も背負われている。優しい貴女は『勇者の義務』と誇らしげに言うのか『私がそうしたいからしているの』と笑うのか、私にはわかりません。でも、私はその貴女の決意に甘えて、私が非力であるからと己に言い聞かせて、私は貴女から遠ざかってしまったんです。一人で戦っている貴女が、どんなに苦しかったのか、どんな気持ちで私を抱きしめたのか、私は知ろうとしなかったんです。
 整えた水彩画を水に浸したように視界が滲む。乱暴に袖で拭って、私は視界を明瞭にしました。
 アンとフードを目深に被った敵は、互角の戦いをしているようでした。しかし敵を倒す気迫なのか、アンの方が優勢に見えました。敵を倒さんがために探り入れるような剣戟の一瞬の隙間に、アンが渾身の攻撃を滑り込ませました。敵の顔目掛けて駆けていった一閃は、敵の顔半分を覆っていた鈍色の仮面を撥ね上げたのです。
 ぴたりと、アンが動きを止める。怒りに満ちていた顔が凍りつきました。
 アンと戦っていた敵が、徐にフードと一体化した外套を脱ぎ捨てました。その姿に、私は言葉を失いました。ミシュアを助けようと飛び込んだ夢の中で見た人。アンと同じ亜麻色のさらりとした髪を後ろに結い、アンとよく似た青い瞳の美しい男性。誰よりもアンが慕い尊敬した、アンの勇者様。
 トーマ王子。
「絶望した者の顔は、いつ見ても良いものだ」
 ゼルドラドさんの声が聞こえる。その視線は私にも向けられていました。
 小さな声をあげてラチックさんが身じろぎした。
 トーマ王子がアンに向かって歩き出したのだ。アンは今にも泣きそうな顔になって、激しく震えて持つのがやっとの剣を構えたまま後ずさる。トーマ王子の腕が無造作に振るわれ剣が打ち合わされば、アンは受け止めきれずに転倒する。アンの信じられないと、トーマ王子の顔を凝視するばかり。その瞳はいっぱいに涙を溜めて、今にもこぼれ落ちてしまいそう。
 トーマ王子が持ち手を変えました。アンの胸に鋒を定め、突き刺そうとしています。
「アン…!」
 ラチックさんが堪らず私を傍に退けました。
 私も身を乗り出します。目の前でアンが殺されるなんて、とても我慢できない。
 そんな中でアンがこちらを向いた。海のように青い瞳と目があった。心臓を掴まれた気持ちになって、私は後先考えず飛び出してしまいました。滑り落ちる涙が、白い頬に滑り降りて行く途中で真珠のように煌めいています。それ以上動かない。私も空中に止まったままで、驚いて周囲を見渡しました。今にも飛び出そうとしているラチックさんが、風に揺れていた木の葉が、激しく争っていた眼下の全てが、動きを止めてしまったのです。
「困りました。神の緋石を守れないどころか、勇者が死のうとしています」
 動きを止め色彩を失った世界で、唯一鮮やかな色を持っていたそれが言いました。
 赤い大きな液体の前に佇む少女は、私に微笑みかけるとお腹の前で手を組み深々と頭を下げたのです。顔を上げた瞳は深く美しい碧。髪は濡羽色。どこの国でも見たことがない独特な装束。鮮やかな色彩を縁取るように、仄かな光が彼女を包み込んでいるようでした。
「私達の世界の創造神と同じ名前を持つ若き神は、遥々訪ねた私達に言いました。この世界の民が乗り越えられない困難に瀕した時、手を差し伸べてやって欲しい…と。若き神に引き寄せられ溶け込んだ創造神との縁もあり、私達は約束を交わしました」
 幼い見た目と声色にそぐわない、長き月日を生きた者の歴史が滲んでいました。
「今、全ての可能性が失われつつあります。勇者は絶望し、ケネスさんもゼルドラド卿と互角で助けに入れないし、私も神の緋石を守るために動けない。未来が一つの事柄に確定されようとしています」
 確定されようとしていること。それは勇者の死。私は今にもアンの胸に突き立とうとしている剣を見ました。そんなこと、絶対にさせない。私の頭はそれでいっぱいになります。
 そんな私の顔を、小さく暖かい手が包みました。この停滞した世界で唯一動ける少女は、安心させるような笑みを浮かべます。
「守るべき者を沢山抱えた故に躊躇うラチックよりも、貴女は勇者を助けたいと願っていますね。貴女の意思と、私の力と、この弱った神の緋石を引き換えにすれば、一つの可能性を生み出すことができます」
 それは。私が答えを見つける前に、彼女は静かに問うてきました。
「その可能性を手に入れたら、貴女は大きな運命に巻き込まれるでしょう。それでも、貴女は勇者を救いたいですか?」
 救いたい。助けになりたい。今だけじゃない。これからも。
 私は目の前の碧を見据えて強く願う。
 私はあの子の友達でいたい!
 声なき声が通じたのでしょう。少女は朗らかに笑った。光が強くなり、濡羽色が白く染まり虹を宿す。光は彼女の頭上に輪となり、背中に大きな翼を広げる。天使。9つ目の神話で神が地上の民を救うために使した、星空の守り人。
「私達は創造神から生まれた最後の力。ピペ。貴女なら私達の力を、誰よりも上手く導き出すことができるでしょう。大丈夫です!」
 閃光が全てを飲み込み、全てを色付かせる。時が動き出す中、私は無我夢中でアンの元へ駆けた。
 私はトーマ王子の突き出した剣の前に滑り込んだ。それだけじゃない、真っ白く輝く盾のようなものが目の前に現れて、剣を突き出したトーマ王子を弾き飛ばしてしまったんです! 大きく下がったトーマ王子の向こうで、ゼルドラドさんが驚いた顔で私を見ています。
 そんな中で、獣の叫びが空気を揺るがした。
「アインツ! 力を使い込んだのか! 石もダメになっちまったじゃねぇか! どうすんだよ!」
 あの恐ろしい獣を斬り伏せ、血でべったりと濡れた赤い髪の男性がぐったりとした少女を抱き上げていました。しかし、その少女は無数の光になって散ってしまう。宙に浮かんでいた赤い液体は完全に色を失い、黒い水となって大地に流れ落ちていきました。血塗れの背中を申し訳なく見つめます。私のわがままのせいで、石も彼女も失うことになってしまったんですから。
 変化は我々の疑問も感傷も意に介さず、すぐに現れました。空の青さは暗雲にとって変わられ、海が荒れ狂う音が地響きと手を繋いで大地を揺らしています。潮風に息苦しさを感じる瘴気が混じりだしました。この場にお前達の居場所などないと言いたげに、雷が至近距離に落ちる。
「侵食が始まり、この地は大魔王様のものとなった。残念だったな、勇者よ」
 転送の魔法陣にゼルドラドさんとトーマ王子が飲まれていく。それを追いかけようとしたアンルシアを、ルシェンダ様が抱えるように止めました。ラチックさんが駆け寄り私を抱き上げ、ルーラの青い光が包み込む。空を飛ぶような感覚の向こうで、アンがいつまでも兄を思い啜り泣いていました。

 ソーラリア峡谷が崩壊して数日が過ぎ、周囲がようやく落ち着いてまいりました。村にまで届いた地響きがようやく収まりはしましたが、山の向こうは雷鳴轟く暗雲が渦を巻き、吹き下ろす風は若干の瘴気を含んでいます。村人達は大層怯えはしましたが、脅威が今のところ害なく留まったことに平静を取り戻しつつありました。
 泣き腫らして酷い顔のアンですが、ベッドからようやく起き上がり食事が喉を通るようになると、ルシェンダ様が一同を交えてお話をされました。なぜか私の顔をまっすぐ見て、真剣に言うのです。
「ピペ。君にはアンルシアと共に城に来てもらいたい」
 どういう事でしょう。首を傾げ互いの顔を見合わせる私とアンですが、断る理由もありません。そんな私の肩にラチックさんが触れました。旅支度を終えていたラチックさんは、決意に満ちた顔で私を見下ろして言いました。
「ピペ 俺は ダーマに行く」
 ラチックさんと別れる。初めてのことで不安な顔になった私ですが、その為にアンと城に行くようルシェンダ様にお願いしたのでしょう。『しばらくしたら 迎えに 行く』そう頭を撫でてくるラチックさんの手のひらを感じながら、私は頷きました。
 私は知りませんでした。
 私達がすでに大きな運命に巻き込まれてしまっていることを…。