勝利の女神は手を鳴らし - 前編 -

 お伽噺で聞いた事がある。昔々、星吹雪というとても綺麗な夜があったという事を…。
 オイラはそんな素敵な伝説の夜を、目の前で見ているんだって感動した。オイラの中に居る相棒も冥王が目の前で死んじまった事に、ちょっと放心したような気分みたい。誰もがおっかない冥王と戦って生き延びたって現実に、ちょっとビックリしながら幻想的な世界を見つめていた。
 すると、星々が一斉に動きを止めた。
 それは何千何万ってのがいきなりびくりってなったんだ、そりゃもう変に決まってる!オイラ達は空を凝視した。震える星達と共に夜空を見上げていたオイラは、思わず毛皮がぼふっと膨らむのを感じた。星空の一点に、ぽっと夜空の暗がりよりももっと黒い点が穿たれた。爪まで鋭い指がその点を抉じ開けようとしている…!なんだかわかんねーのに、足がガクガクしてくる!すげー嫌なもんだって分かるんだ!
「逃げるぞい!」
 逃げるって、何処へ!?
「冥界を遡るんだ!こっちだ!急いで!」
 イサークの兄ちゃんが声を張り上げる。魔法陣の隅っこに立つ兄ちゃんの隣に立つと、濁流みたいな川を遡るように一直線に冥王の宮殿の残骸が落ちている。川は真っ黒い水を瓦礫に打つけて白く泡立ちながら、落ちたら二度と行きては帰れないぞって叫んでいるようだった。ガノのじっちゃんが鞭を撓らせ、一番近くにあった塔の尖塔の鉄格子に結び付ける。ドワーフの逞しい腕が鞭を引っ張ると、びーんって鞭が奮えた。
「ルミラ嬢、エンジュちゃんと先に行くんじゃ!エンジュちゃん、全員が渡り切るまでイオで牽制しておくれ!」
 ルミラの姐さんが短剣を外して、鞭の上に通すとその両端を握る。エンジュの姉ちゃんにしっかり掴まっていろと囁くと、一気に魔法陣を踏み切り鞭の上を滑る短剣の鞘が火花を散らして凄い勢いで滑り降りて行く!
 星々は逃げ惑い、暗くなった夜空の点は広がる。片手が飛び出し、魔法陣を叩いた!
 イサークの兄ちゃんがペロリンスティックを滑車代わりに飛び降りると、ガノのじっちゃんはオイラを見下ろした。
「ほれ、ルアムも行くんじゃ!」
「じっちゃんは?」
 じっちゃんは不敵な笑みで白髪をくしゃりと歪めた。
「なぁに、この程度のピンチは毎日のように潜り抜けて来たわい。大丈夫、お主が塔に渡ったら、我輩も飛び降りる!」
 オイラは荷物袋の紐を掛けると、魔法陣から飛び降りた!冥界の空気が前から後ろに凄い勢いで流れて、まるで剣で頬を切り裂かれているように痛い。霧雨みたいに飛んで来る飛沫が、ほんのちょっと毛皮に染み込むだけで凍り付いてしまいそうな程に冷たかった。
 轟音が響くと、ピンと張った鞭が蛇みたいにうねった。
 ちらりと振り返ると、光すら吸い込んで真っ黒の両手が魔法陣を叩き割った所だった。ガノのじっちゃんが鞭にぶら下がって、遥か下を弧を描いて落ちて行く。相棒が兄さんと叫んでいるのに視線を戻すと、目の前に塔の壁があった。オイラは鞭から手を離して爪を塔の壁に引っ掻け、猫の爪研ぎ跡みたいなのをぎゃりぎゃり残して勢いを殺して行く。
 頭上でエンジュの姉ちゃんのイオナズンなんだろう、閃光と轟音が響き渡った。
「ルアム!こっちじゃ!」
 地面に降り立つと、ガノのじっちゃんが先を走ってた。道を塞いでいた瓦礫をボルカノハンマーで粉砕し、皆の逃げ道を作ってる。
「走るんだ! 追いかけて来るぞ!」
 ルミラ姐さんが叫ぶ。その背後に迫る両の手が、オイラ達を捕まえようと迫っていた…!
 冥王の宮殿の残骸は思った以上に、そのまんまだった。所々冥界の水に浸水はしてるし壊れてるけど、階段があったり割と建物っぽい。
 高らかなマヒャドの歌声に、背後の道いっぱいにジンベイザメがその大口を開けた。ブレラのおばちゃんとイサークの兄ちゃんのマヒャド大合唱は、冥界の水がすっごく冷たいってのもあって絶好調だ。あのでっかい手に噛み付いたのか、がつんがつんって音と鈍い衝撃が逃げるオイラ達に伝わって来る。
 先を歩いていたルミラ姐さんが叫んだ。
「螺旋階段だ!ガノとエンジュが先に降りろ!」
 急げ!そう言って、早く走れないガノのじっちゃんとエンジュの姉ちゃんを先に行かす。エンジュの姉ちゃんは息も絶え絶えで、もうイオナズンを放つのも難しいくらいだった。それでもあの真っ黒い手に捕まったら殺されちゃいそうなんだもん。オイラ達は必死に逃げていた。
 螺旋階段を見下ろすと、真下から水の流れで押された風に顔を舐められた。冷たい!顔が凍っちゃいそうだ!
 真上から真下まですっと伸びたシャンデリア、塔の壁を這うように長い螺旋階段が続いている。あの手が空を飛んで来るんだ。走って降りても追い付かれちゃう!オイラは、ぐっと息を詰めた。本当は凄く怖いけど、皆のうち誰かが捕まって死んじゃう方が嫌だもん。
「ルミラ姐さん、イサークの兄ちゃん、先に行ってて!」
 道を塞いで来て追い付いて来た兄ちゃんと、先を行かそうとした姐さんが首を傾げた。オイラは自分の胸を叩いた。
「オイラはプクリポ。身が軽いから、このシャンデリアの鎖で一気に降りられる。上手く皆が降りられるくらいの時間、あの真っ黒い手をオイラのショーに釘付けにしちゃってみせるよ!」
 姐さんは凛々しい瞳でオイラを見つめて、一つ頷いた。
「ルアム危なくなったら逃げるんだぞ」
「無理しちゃ駄目だよ」
 兄ちゃんもそう言って駆出した。長身の二人が先を行く二人を追い抜かしそうな勢いで、階段を駆け下りている。背後の分厚い氷河を叩く音が、徐々に変わりつつあった。オイラは手が飛び出して来るのを今か今かと待ち構えながら、じっと来た道を睨みつけてた。
『兄さん』
 相棒の心配そうな声に、オイラは笑った。
 ぶっちゃけると皆の為にこうやって出来る事があるなんて、オイラ自身が驚いてる。今まで相棒に任せっきり、戦いも魔法もてんで駄目駄目のプクリポが、こんな大口叩いてオーガの戦士に任せてもらえるなんて考えも付かなかった。でも、ルミラ姐さんがオーレンに首を切り裂かれそうになった時、本当に駄目だと思った。相棒がいないんじゃ、オイラみたいなプクリポが一流の剣士の太刀筋を邪魔出来るなんて思わなかったんだ。でも、無我夢中だった。駆けて叫んで跳んで、そしたら聖杯で姐さんを殺そうとした一撃を受け止める事が出来たんだ。
 相棒はオイラも出来るよって言ってたけど、実際出来たもんだからすごくビックリしたんだ。
「だいじょーぶ、だいじょーぶ! 相棒は手がどっから飛んで来るのかとか、よーく見ててくれよ!」
 運動神経よくなっても、そういう所は鈍感のまんま。相棒が機転を利かせられるよう、見る事に徹してくれた方が逃げられそうだもん。相棒もオイラの考えを分かってくれてる。頷いて、オイラと同じ方向を見た。
 ついに氷が砕け散って、真っ黒い手が飛び出して来た!
 掴もうとした黒い手を避けて、オイラは空中一回転を決めながらシャンデリアを繋ぐ鎖に捕まった。
 鎖は太く頑丈で、オイラみたいな軽いプクリポが乗ってもじゃらんと大きな音を響かせた。鎖は天井から3本も吊るされていて、シャンデリアや鎖同士がぶつかり合って凄まじい音を立てた。激しい音は階段を駆け下りている皆の足音を消して、手の意識をオイラに向けてくれる。
 オイラは丸いお腹が大きく膨らませて、大きく大きく息を吸い込んだ。
「おーい! お手てさん! こっちだよこっち!」
 オイラの声は鎖の音すら飲み込んだ。プクレット村には野外ステージがあるんだけど、そこから声を張り上げれば村に響き渡り海で遊んでる子供達にだって届くくらいの大声を持つオイラだ。手のくっ付いた先にオイラの声を聞かせるなんて、簡単な事さ!
 手は直ぐオイラの挑発に乗った。手当り次第に捕まえようとするし、皆直ぐに捕まえられちゃうって思ってたんだろうな。だけど、残念。オイラは器用に3本の鎖を行き来し、その移動にはサーカスの軽業師だって驚くような見事な空中回転を決めるんだ。バギの力を操れば、短い距離だけどスカイウォークだって出来ちゃうさ。相棒が手が何処から飛んで来るのか見てくれてるから、オイラは移動に専念出来る。
 猫耳のプクリポは身軽さが売りなんだぜ。オイラは弾む息を整えながら、拳を握り震える手を見た。
「へへーん! まだオイラが捕まえられないのかい! ぶきっちょさーん!」
 相棒が皆が階段を下り切ったのを教えてくれた。もう少し時間が稼げるかな? そう考えていた時だった。
『兄さん! 鎖に掴まって!』
 鎖が激しく揺れた!相棒の声でオイラが抱きつくようにしがみつかないと、はじき飛ばされちゃう所だった!
 頭上を見上げれば手が鎖を掴んで、強く引っ張った! 鎖を繋げている天井が崩れた衝撃が鎖越しに伝わって、オイラは慌てて隣の鎖に飛び移った。一寸前まで掴まっていた鎖が水のように流れ落ち、床に凄まじい音を立てて落下した。温まって来た身体が、吹き出た冷や汗で凍り付いた。こんな高さから落ちたら死んじゃう…!
 相棒の悲鳴に近い声が響いたのと、オイラの身体が宙を舞って壁に叩き付けられたのは同時だった。
 黒い手が鎖を薙ぎ払った! 鞭のように鎖が撓り、先端の魔瘴の光を帯びるシャンデリアが螺旋階段を突き崩す。じゃらんじゃらんと残った二本の鎖が絡み合い、がらんがらんとシャンデリアが瓦礫を生み出して行く。ぐらんぐらんと回る世界を眺めながら、オイラは強く打ち付けて詰まった息を吐き出す。いつの間にか螺旋階段を何段か転げ落ちたみたいで、変な姿勢だ。
 どうすればいい。
 早く動かないと手が襲って来る。でも、身体が直ぐに動かない。この目の前でがなり立てる音が消えてしまう前に、動かないと…。
 ふわりと相棒が手を重ねて来る。相棒が苦しそうに呻く声を耳の後ろに聞きながら、そろそろと右手が伸びる。手に掴んだのはオイラの手には少し大きめの瓦礫で、相棒は左腕を立ててオイラの上半身を起こす。ぼやける視界の中で狂ったように動いていた鎖は静かに垂れ始め、音が静かになって来る。
 相棒がオイラの身体を使って、力を振り絞って瓦礫を投げた。瓦礫は反対側の階段下に落っこちて、派手な音を立てる。手は音に反応して、獣のように瓦礫に向かって突進する。
 頭を振る。さっきよりも全然楽になって来た。
 相棒が無理矢理オイラの身体を動かした事で、疲れ切っちゃったのを感じた。
 オイラ達は飛んで、まだ音を立てる鎖に飛びついた!疲れ切った相棒と、衝撃でまだまだぼんやりするオイラは互いに支え合うように身体を動かす。1人だったらきっと手を滑らせて落っこちて死んでたかもしれない。オイラと相棒が一つの身体に宿っているから出来る事だった。落下するように滑り降りて、あっという間に手の横を通り過ぎ、シャンデリアの上から飛び降りた。
 手は瓦礫が囮だと気が付くと、壁伝いに渦を巻いてオイラを探し始めた。ぶんぶんと唸り声のように拳を叩き付け、怒りを振り撒いている。
 残念。もう、オイラはそこにはいないぜ。
 にやりと笑って奮い立たすと、オイラ達は足音も立てずに螺旋階段の塔を後にした。一本道を駆けて皆の後を追う。
 冥王の宮殿の隅っこに破邪舟が泊まっていた。冥界の暗い世界で、真っ白い白鳥の形の舟が星のように光ってる。
 オイラが駆けつけて来るのを見ると、ふわりと舟が浮かび光の翼を拡げた。差し伸べられた姐さんの長い手を掴んでオイラが舟に飛び乗ると、引っ張られるように舟が冥界の空を飛び始めた。目の前に丸く切り取られたアストルティアの夜空が、どんどん迫って来る。
 操縦席なんだろう場所に陣取ったじっちゃんが、白髪を掻きむしった。
「ぬあーっ! やはり他人が生み出し制御しとるもんは、我輩の思う通りには動いてくれんのぉ!」
 コッペパンみたいに太い指に様々な魔法陣を描いて、どうにか速度を出そうとじっちゃんは頭から煙を出して挑んでいる。破邪舟は破邪舟師って呼ばれる人が生み出す舟なんだ。何にも無い空間に魔法陣をちょちょいと描くと、その魔法陣からこの白鳥みたいな形の舟がごとんって出てくるんだぜ!そんで舟を造ったフルッカのおばちゃんが乗らなくても、おばちゃんがすーって動かしちゃうんだ。『じどーそうじゅー』って奴なんだって、じっちゃんが感心してたけど仇になっちゃたんだな。
 じっちゃんは真っ白い眉の下の黒い瞳を尖らせて、エンジュの姉ちゃんに怒鳴るように言った。
「こうなったら外部干渉で無理矢理速度を上げるぞい! お嬢ちゃん! 形振り構っておる場合でない、イオブースト掛けておくれ!」
「了解ですわ」
 姉ちゃんは嬉しそうに微笑んだ。逃げてる最中は足手まといってくらいで、姐さんに抱えられたりしてたからな。自分が役立てて嬉しいって顔に描いてある。
 すっと立ち上がる姉ちゃんの腰を兄ちゃんが支えようとするもんだから、姐さんが鰭を引っ張って強引に下がらせる。悲鳴を上げるイサークの兄ちゃんを後目に、姐さんが身を乗り出そうとする姉ちゃんが放り出されないようにしっかり身体を支える。オーガの長い尻尾がしゅるりと舟の骨組みに絡んだ。
 魔導師の杖の先端の紅玉が輝くと、姉ちゃんの周囲が日向みたいに暖かくなる。炎の精霊達がちらちらと輝き出した。
 高らかに告げたイオの宣言に弾けた爆発。その力に押されて舟が大きく前へ飛び出した。
 でも、酷いんだぜ。がったがった超揺れるんだ。オイラ、ブレラのおばちゃんと並んでイサークの兄ちゃんが抱えてくれてなきゃ、外に放り出される所だったよ!
 エンジュの姉ちゃんはそんなオイラ達の事なんか気にもしないで絶好調だ。魔力覚醒で威力を上げたイオを試し、暴走魔法陣を通したイオラなんて生きた心地もしねーよ! イオナズンなんか試されたら、命がねーかもしんねーよ!
 でもイオの力は光るし音も凄い。冥界の空から手を伸ばしていた腕が、あっという間に迫って来た。
「レディ!」
 イサークの兄ちゃんがおばちゃんを頭上に乗せて、高らかにドルマの呪文を唱える。引っ掻こうとした指を弾き飛ばしながら、おばちゃんが高温の舌打ちを漏らした。
『駄目だ。エルフっ娘が炎の精霊を活性化させてるから、ドルマの威力が上がらないよ…!』
 腕は執拗に舟に手を伸ばす。姉ちゃんは巧みにイオを調整して舟の速度を操り、寸での所で腕を避けてみせる。それでも避けきれない攻撃は、兄ちゃんとおばちゃんが闇の呪文を唱えて弾いた。アストルティアの星空を目指して、舟は猛ダッシュで進んだ。
「冥界を抜けるぞ!」
 じっちゃんの言葉が響き渡ると、一瞬にして空気が変わった。
 心の臓を掴むような死を帯びた冷ややかな空気が、爽やかな夜の空気に変わる。ランドン山脈に群生する針葉樹林の濃厚な緑の匂いが、雪の下から鼻を突き刺す程に匂って来た。冥界の生命が無い空間だったから、余計に強く感じるのかも。星空と黒い海を白い雪原が二分した。
 アストルティアだ! 帰って来たんだ!
 オイラは嬉しくって飛び跳ねて喜んだ。それが、いけなかった。
「避けられない!飛び降りろ!」
 姐さんの警告に、ガノのじっちゃんとイサークの兄ちゃんが次々と飛び降り、ルミラの姐さんもエンジュの姉ちゃんを掴んで飛び降りた。オイラも慌てて飛び出そうとしたけど、舟の真ん中の席に居たから一瞬遅かった。オイラの乗った破邪舟ごと、巨大な拳が振り下ろされた!

 目の前が真っ白になった。身体の感覚もすっぱりと無くなって、気絶しちゃって落っこちんのかなぁー、あの高さからじゃ誰も助からねーのかもなぁとか思った。でも相棒だけじゃなくて、死んじゃった沢山の魂をずっと苦しめていた冥王を倒したんだもん、殺されなかっただけ凄い事なのかもなー。あぁ、でも偉大なるプクリポの芸人パノン先輩を超える、超面白プクリポとしてグランゼドーラの王立劇場に立ちたかったなぁー。そんな事をずっと考えてた。
 あれ、死んでも思った以上に考えていられるんだな。死んだ事ねーからビックリだぜ!
「こんな所で何をしている!」
 耳元で怒鳴りつけられて、オイラは吃驚して飛び上がった!
 飛び出しそうな心臓を抑えながら振り返ると、そこには黒いベレー帽に黒いコートに黒い毛と、顔以外は黒尽くめのプクリポが黒い目を尖らせてオイラを睨んでいた。大剣と二刀流の片手剣と短剣を携え、ベレー帽に一輪挿したプクランサフランが鮮やかなピンクでとても綺麗だ。じゃなっくてさ、そのプクリポはプーポのおっちゃんだから!オイラは思わずおっちゃんに抱きついた!
「おっちゃーん!」
「こら! 死にかけてないで、さっさと帰れ!」
 ぎゅーぎゅーオイラの頬をおっちゃんが押すんだけど、オイラめげねーもんねー! おっちゃんに押されて顔を向けた方向で、相棒が相棒の故郷の人達に囲まれていた。抱きしめたり抱きしめられたり、相棒が痛みを堪えるように笑みを浮かべている。
 そうだ、冥王が死んだから。
 星々が迎えにきてくれたから。
 オイラ達、皆と本当にお別れしちゃうんだ。
 そう思うと凄く胸が冷たくなって、寂しい気持ちが込み上げて来た。おっちゃんがラグアスのかあちゃんと会えるんだから喜ばなきゃいけないのに、もう二度と会う事の出来ない場所に行っちゃうんだって思うと寂しかった。おっちゃんが、オイラの頬をぐいぐい乱暴に擦った。
「こら、英雄が泣くんじゃない。あぁ! こら! 俺のコートの裾で鼻をかむな! 涙でぐっしょりじゃないか! 大輪の花となり全てのものに幸いを齎すお前を、誇りに思ってる俺の立場がなくなるだろう!」
 おっちゃんが呆れたように笑って、オイラを見た。そして、ぎゅっと抱きしめてくれる。
 プクランドに帰って来たようだった。おっちゃんはメギストリスの花の匂い、オルフェアのお菓子の匂い、ポポラパの茸の胞子が漂う不思議な匂い、エステピーサのハニーレイクから流れる甘い蜂蜜に、チョッピ荒野の砂塵と海風、ミュミエルの深い森の匂い、プクレットに風向きで匂う汚れ谷の空気、風車の丘の風が巻き上げる花と緑とプクリポ達の匂いをぎゅぎゅっと詰め込んで身体にまとっていた。これが、王様の匂いなのかもしれない。おっちゃんが、どれくらいプクランドを巡って、どれくらいプクリポの皆を愛していたのか分かった気がする。
「ラグアスを、頼む」
 オイラは力一杯何度も頷いた。玉座の上にちょこんと座って一生懸命頑張ってる、そんな小さいラグアスの力になれるならオイラなんだってやるよ!
 そんなオイラの頭をすっと撫でて、プーポのおっちゃんは身体を引いた。そんなおっちゃんの近くに相棒の故郷の人達も集まって来る。オイラの隣にもいつの間にか相棒が歩み寄って来ていた。汽笛の音が近付いて来る。輝き白く霞んで行く世界の中で、見送るべき人達が箱船に乗って行くのが分かる。皆が乗り込んで、汽笛が鳴る。
 星屑が舞い高らかな音と走り出す車輪の音の隙間を塗って、彼等の声がオイラ達の元に届いた。
『ルアムを宜しく』
 うん!うん!オイラ、相棒に助けてもらってばっかりだから、相棒の面倒って良く見れないけど、相棒とずっと仲良しだから!喧嘩したって、絶対仲直りするから心配しないでくれよな!
 涙でどんどん白くなる視界の中、流れ星のように皆を乗せた箱船を見送った。見えなくなっても、オイラと相棒はずっとずーっと手を振った。

 遠くから鴎の声みたいに、イサーク兄ちゃんの声が聞こえて来る。遠くなったり、近くなったり。いつの間にか、その声が真上から響いた。
「ルアっち、目が覚めたね!」
 オイラに覆い被さってるようで、耳の裏から兄ちゃんの声が聞こえる。押しつぶされてるお隣のブレラのおばちゃんが、風でバタバタするツバにご機嫌斜めな顔をしてた。顔に凄い勢いで風が吹き付けられていて、押し付けられてる床は淡い日向の色に輝いている。吃驚して兄ちゃんの身体の下から見回すと、それは金色の大鳥の上だった。大きなフルッカのおばちゃんの背中と、ちょこんと乗ったトンガリ帽子が見える。
 腕が蛇みたいに周囲から襲って来る。光る鳥は急旋回に急制動、とても優雅な動きで真っ黒い腕から逃げ回っている。身の軽さが売りのプクリポだって、ぐるぐるぐちゃぐちゃで流石に気持ち悪くなってくる。っていうか、オイラやエンジュの姉ちゃんの身体がふわっとしたり吹き飛びそうになったり凄いんだ。うえってしちゃうよー!
「あの後、直ぐフルッカさんが助けに来てくれたんだ」
 イサークの兄ちゃんが微笑み、隣に向かってリホイミを唱える。
 隣で一緒にしがみついているルミラの姐さんに支えられているエンジュの姉ちゃんが、真っ青になりながら口元を抑えてる。フルッカのおばちゃんの後ろに踞っていたガノのじっちゃんが、その大きな背に言い放つ。
「もう直ぐ日の出の時間じゃ。光は闇を退ける。1つ、賭けてはみぬかね?」
「えぇ、私もそう思います」
 そう福与かで真ん丸い頬をきゅっと窄めながら、おばちゃんが言った。
「さぁ、皆さん。しっかり掴まっていて下さいね!」
 言うが早いか、鳥は翼を畳んで矢のように腕の中を擦り抜けた。オイラ達がしがみついていた鳥が、鳥の形を失ってオイラ達は光の中に放り出されたみたいだ。ただ、すごい風が前から後ろに突き抜けて、オイラの顔をフライパンでぶっ叩くみたいに力強く押して来る。
 大鳥の黄金の光とは違う光が、目の前から沸き上がって来た。朝日だ! 誰かの言葉を聞きながら、オイラはちらりと振り返った。
 あの真っ黒い手が、朝日に灼かれて瘴気の煙になって吹き払われ消えて行く。
 脅威が消えて静寂が包み込んだ。光は再び大鳥の姿に戻り、黄金色に染め上げた空を優雅に羽ばたき始めた。白金の海がキラキラと光って、紺から空色に移り変わる空も吃驚する程綺麗だ。海を真っ直ぐに伸びる白い高架の上を、白い蒸汽を吐きながら大地の箱船が走っている。何も変わらないオイラ達の大事なアストルティアがある事が、嬉しくて仕方がなかった。
 フルッカのおばちゃんが、そのふっくらした身体を揺すってこちらを振り返った。神妙な顔でどうしたんだろうと見上げるオイラ達に、にっこりと花開くように笑みを浮かべた。優しい優しい声が、心に染み渡るように言葉を紡いだ。
「みなさん、おかえりなさい」
 フルッカのおばちゃんの声に皆が笑い声を上げた。
 声を揃え、言う事は一言だけ。
 ただいま!