朝露

 神の緋石を守る為にレンダーシアを駆け巡っていたからか、グランゼドーラに戻ってきたのが久々な気がする。朝露に濡れて瑞々しい中庭は、手入れの行き届いた花々が日の光に気がついて蕾を綻ばそうとしている。池のほとりの石に腰掛けて、ピペが熱心に中庭の水彩画を仕上げている。まるで水を通して見たような溺れるような息苦しさに、息を呑むような花の鮮やかさが引き立つ絵だ。
 隣から絵を覗き込んでいると、侍女達が朝のお茶を用意してくれる。
 ピペを抱き上げると、くりっとした瞳が私を見た。可愛らしいプクリポのような見た目だが、ミシュアの時に抱きしめたルアムよりもひんやりして硬い。帽子を取ればベビーサタンの角が生え、プクリポの尻尾を出し入れする穴の奥には悪魔らしい尻尾が隠れている。
 大魔王と戦っているだなんて、嘘みたいな穏やかさだ。柔らかい紫の髪を梳かして三つ編みを直している指の感触は、ミシュアの時のような穏やかな日々を彷彿とさせる。
 色々と疲れただろうから、少し休みなさい。
 そうルシェンダ様に言われて、甘えるままにピペと過ごしている。無邪気なピペは大広間にあった勇者アルヴァン様の石像が移動され、対になるように作られる盟友カミルの石像の元となる石を熱心に見ていた。アルヴァン様の石像と同じ、美しく真っ白な石だ。やる気満々の彫刻師と鼻息荒く話し合う姿を見ていると、神の緋石を防衛した様々を報告しているだろうルシェンダ様には申し訳ないくらい気持ちが弛緩してくる。
 朝食の支度ができましたと告げられ、お父様とお母様とピペと取る。ピペは豪華な食事に目を輝かせて、食べる前にスケッチしようとするんだもの。ダメよと、嗜めるとピペは不満そうに舌を出す。渋々と食べだすけど、美味しいのか一口食べると表情が明るくなるのを見て笑ってしまうの。
 まるで、妹ができたみたい。
 お母様も『アンルシアはよく妹を欲しがっていたわね』と、兄様が亡くなられてから暗くなったお顔が久々に笑うのを見た。お父様も優しい目でそんな団欒を見つめている。申し訳ないと思うけれど、やっとお父様とお母様の顔をまともに見れた気がした。
 ラチックがいないと、ピペは私の傍をほとんど離れなかった。逆に私に用事がなければ、庭園に行きたいとか城下町の大聖堂に行きたいとか私の指を小さい手が引くの。可愛らしいわがままは、私を勇者でもお姫様でもない一人のアンルシアにしてくれる。
 そんな中、兵士が私に声をかけてきた。眼鏡を掛けた朴訥そうな青年は、ぴしりと規律正しい敬礼をして私に言った。
「アンルシア様、ピペさん。賢者ルシェンダ様がお呼びです」

 勇者の国グランゼドーラは賢者の常駐する数少ない王国だ。ドワチャッカ大陸の王国にも同じく賢者は常駐しているが、ドワーフの知識を探求する気質が凝縮した結果。この国に賢者が常にいるのは、大魔王と戦う勇者の為だ。
 歴代の賢者が執務室をしている部屋の預かり手は、花の香りを身に纏って美しい姿勢でソファーに座っている。美しく波打つ髪は呼吸をする度に光を含んで艶めき、指先はシンプルな一色でも華やかなマニキュアで飾っている。オーガの美しいラインを引き立てる服は、赤い天鵞絨のソファーの生地から浮き上がるほど。何気なく組んだ長い足。ぽってりと口紅を乗せた口元に何気なく寄せた指先と、肘に押されたたわわな胸元。伏せられた睫毛の長いこと。一幅の絵になる構図で、ピペはすでに凄まじい勢いでラフスケッチを完成させていた。
 自分が小娘だってわかってるけど、自分には到達できない美しさに嫉妬心が湧いてしまう。
「アンルシア、少しは疲れが取れたか?」
「はい。お心遣い、ありがとうございます」
 それは良かった。瞳が和むのは、心から私のことを心配しているのだろう。
 トーマ兄様の遺体が大魔王に利用されている。その事実に衝撃を受けた私は、本当に殺される寸前まで追い詰められた。ピペが助けに入ってくれなければ、今この場に居なかっただろう。その後数日は泣き腫らして使い物にならなかったのだ。大魔王と戦うどころではない。ルシェンダ様が私の心を整える為に、色々と心を砕いてくださったのだろうというのはわかっていた。
「二人に大事な話がある。掛けなさい」
 そうテーブルを挟んだ向かいのソファーを示される。私はピペを伴って腰を掛けると、ルシェンダ様はピペをじっと見てゆっくりと語りかけた。
「ピペ。ソーラリア峡谷で、よくぞアンルシアを救ってくれた。あの時、其方の助けが入らねば、アンルシアは死んでいただろう。グランゼドーラを、そしてアストルティアの全ての命を代表して礼を言う」
 ピペはふるふると頭を振ると、スケッチブックを捲って鉛筆を走らせる。
『アンが無事で本当に良かったです』
 文字を見て口元を緩めたルシェンダ様は、言葉を続ける。
「ピペ。其方は覚えているか? アンルシアを救った時のことを」
 神の緋石の手前で待つよう言って別れたラチックとピペ。二人は戦いの音のあまりの凄まじさに、心配になって見に来てしまったらしい。そこでゼルドラドが魔族である事、マデサゴーラと私達が敵対しているのを察してしまったようだ。マデサゴーラが大魔王である事を、私が倒すべき敵である事をピペ達がどう思っているかはまだ聞いていないが、私が思っている以上に衝撃を受けているだろう。
 大魔王配下の仮面の男の正体が、死んでしまったはずのトーマ兄様だと分かった瞬間から記憶が曖昧だ。ただ無表情の兄様が、私の心臓に剣を突き立てようとしていたのだけは、わかっていた。恐ろしかった。死ぬ事で大魔王から世界を守れないとか、ピペやラチックと二度と会えないとか、そんなことすら考えられない頭の中が真っ白になるような恐怖。今も思い返すだけで身震いする。
 そんな中で、ピペが私とトーマ兄様の間に立ちはだかってくれた。力のないピペならトーマ兄様に殺されてしまうだろうに、命を顧みず私のために立ちはだかってくれた。その事実だけで胸がいっぱいになる。
『トーマ王子の剣の前に飛び出した時に、白い光が王子の剣を弾きました。アンの力で救われたんですよね。待っているよう言われたのに、軽率な事をしたと思っています』
「いや、違う」
 ルシェンダ様が頭振った。
「あれは盟友の守り。勇者を守る時に発動する、盟友だけが扱える力だ」
 え? 思いがけない言葉に理解が追いつかないまま、ルシェンダ様はピペに言い含めるように言葉を続けた。
「ピペ。其方がアンルシアの盟友なのだ」
 衝撃が駆け巡ったが、何を言っているか良く分からない。ただ、ピペのことを言われているようだったから、隣を見ようとする。まるで自分の首が錆び付いてしまったかのように、ぎこちなく動く視線がどうにか隣に向いた。
 時が止まったかのように、小さいピペは身じろぎ一つしない。息すら止まっている気がした。手に持った鉛筆が離れてスケッチブックの上を転がると、ころころと小さく可愛らしい音が執務室に響く。こんっと音を立てて落ちると、柔らかなカーペットに受け止められたようだ。ぺろっと出た舌が、しまわれる。にっこりと笑った状態で、ピペは硝子のような瞳がようやく瞬いた。
 次の瞬間、ピペは全身を硬直させた。いきなり体全身に力を入れてしまって、まるで石像のように座った姿勢のまま椅子から転げ落ちる。ソファーとテーブルの間に滑り込んだ小さい体だったが、ゆっくりと動き出すと転がった鉛筆を拾い上げた。ソファーの上にスケッチブックを置いて、次に彼女自身がよじ登る。
 先程の位置に戻ってきたピペが、私を見上げた。お互い良く分からないまま、何か凄く大事なことが告げられた衝撃に打ちひしがれている。
『私で、大丈夫じゃないんじゃないですか?』
 そう書き込まれたスケッチブックを覗き込んだルシェンダ様も、同意したように頷いた。
「そうなのだ。ピペ。其方は補助の力に優れてはいるが、戦いにおいては素人。正直、我々も戸惑いを隠せない」
 え。どう言う事? ピペがどうして戦わなくちゃいけないの?
「既にラチックにこの事を知らせた。そして、君達を守る力を得るためにダーマへ旅立った。ラチックがどれ程の力を得て合流出来るかは未知数だが、彼も戦闘経験は皆無も同じ。戦力不足は深刻だ」
 ラチックが私達を守る? ピペとラチックを守るのは、勇者である私の役目じゃない。例え大魔王の庇護下にある二人だったとしても、私は世界と同じくらい二人を守りたいの。どうして私を守ろうとするの? 一緒に戦おうだなんて危険な事になっているの?
 混乱して息苦しい。目がチカチカして、日差しが眩しい窓辺が視界を真っ白に侵食していく。そんな中でピペが私の指を握るのを鮮明に感じる。視線を落とせば、白の中にピペの鉛筆の掠れた字が見えた。
『アンは盟友を得たんですよ』
 盟友。ずっと求めていた存在だった。勇者が大魔王と戦うにあたって、必要不可欠なパートナー。本当は兄様の隣に立つ私が求めて止まなかったそれに、誰がなるというのだろう? 私が勇者で、兄様が盟友になる未来はもうない。私の盟友として、隣にいるのが誰なのか想像すら出来なかった。
 震える手が文字を綴る。私の脇腹に体を押し付け、私の膝の上にスケッチブックを置いて、私に見えるようにピペが文字を書き込んでいる。ゆっくりと、一文字一文字、噛み締めるように文字が白紙の上に現れる。
『私が、アンの盟友なんですって』
 私。文字を綴っているピペが『私』と言うのは、ピペ自身しかいない。
 ピペが、アンルシアの、盟友。その事実が硬く強ばる全てを溶かしていく。スケッチブックが点々と濡れて、頬をピペの小さい手が拭っている。涙が止まらない。不安だった。盟友を得なくてはいけないと切迫する雰囲気と、誰が盟友になるのかという不安で気が狂いそうなのを、勇者の使命として神の緋石を守る事で逃げられていた。
 ピペであれば良いのに。心のどこかでそう思っていた。
 ピペであっちゃいけない。心のどこかでそう思っていた。
 引き裂くような相反する気持ちが、決定した運命に氷解していく。ピペが盟友で安心した。ピペが盟友で戦わなきゃいけない運命を呪う。それでも、それを全て足して混ぜても、私は…。
「ピペが良いの」
 抱きしめた小さい体。戦いなんか知らない、油絵具の匂い。守るべき存在なのに、私は、なんていけない勇者なんだろう。ピペが隣に居てくれる。それだけで、なんでもできる気がする。
「私の盟友は、ピペが良い…!」
 叫ぶような声が、私の心の底からの本音だった。
 盟友が得られない不安から滲み出る涙。兄様を大魔王の手先として虐げられた悔し涙。大好きな兄様に殺されるという、悪夢にも似た恐怖から溢れた涙。今まで流した涙に比べたら、今溢れる涙はなんて贅沢なんだろうって思う。涙と共に全てが洗い流されて、雲一つない青空を見上げるような清々しさがあった。
 ピペに小さく『ありがとう』と囁いて、私は目元を乱暴に擦った。真っ直ぐに見たルシェンダ様は少し驚いたように目を見開いたが、ふっと唇を持ち上げて自嘲気味な笑みを浮かべた。
「良い顔だな、アンルシア。その顔を見れただけで、ピペが盟友である意味があると確信するよ」
 ルシェンダ様は立ち上がると、執務机の後ろにある本棚から箱を取り出す。両手で包みこめてしまいそうな小箱だが、遠目からでも凝った細工の美しい宝石箱だと分かる。そこから取り出したのは、金色の小さな鍵だ。まるで金のペンで精巧に書き込んだような金細工の双翼の向こうから、ルシェンダ様がこちらを見ている。
「アンルシア、ピペ。今代の賢者ルシェンダの名において、王家の迷宮への道を開く」
 手に落とし込まれた鍵から、不思議な魔力の流れを感じる。摘み上げて翳すと、何もない空間に王家の墓にある黄金の扉が現れる。驚いて思わず引っ込めると、扉も掻き消えた。
 私はピペと顔を見合わせ、そしてルシェンダ様を見た。
「王家の迷宮とは歴代の王族と縁の深い者達によって作られた、永遠なる魂の迷宮。深き未練は試練となり、強き後悔は強大な力となって立ちはだかる。歴代の慣例に則り、今代の勇者と盟友に王家の迷宮の踏破を試練と課す」
 王家の墓の扉は、現世と常世を繋いでいると言う。
 この試練を乗り越えて、私は強くなる。私がピペを見ると、ピペもまた私を見上げていた。
「行こう! ピペ!」
 力強く、私の盟友は頷いた。