陽炎

 まるで濃霧の中を進んでいるようだった。歩けど歩けど真っ白い光の中から抜け出すことができない。指先すら溶かすほどの闇の中ならばどれだけ良かっただろう。焦燥感だけが駆り立て、行動の意味が失われた今ももがき続けている。急がなくてはいけない。先に進まなければいけない。しかし、何処へもいけないのだ。
 進めないことを疑問に思えたのは、どれくらい昔のことだろう。
 この行動を始めた理由さえ、もう思い出すことはできない。何なら、私の名前も、私の姿も、忘れ果てていた。白い光の中で私は何もかもが溶けてしまって、『行かねばならない』という想いだけが存在しているだけだった。
 暖かくも寒くもなく、空気の揺らぎすらない白い不変は、私を容赦無く溶かし続けている。だからこそ、その変化に気がつけたことは奇跡だった。
 暖かい陽光を感じる。黄金色の日向のように、身を灼くほどに熱く目が眩むほどの輝きを持った存在。懐かしい。覚えがある感覚だった。隣で力強く脈動した光は、自分の半身のようなものであった。
 そこにいるのか。
 それが、私が目指したものなのか。
 光が移動する。遠ざかろうとする。ダメだ。行かないでくれ。私は必死に手を伸ばす。手はもう白い光の中に溶け、進むべき足もとっくに失われ、引き止めるべき声の出し方すらも忘れてしまったのに、私はそれに縋ろうと力を振り絞った。
「きゃ!」
 甲高い驚きの声。光がこちらを向いた。
 白い光を掻き分けて、黄金色の光が私に降り注ぐ。照らし出された手が、濃い影に炙り出される。腕が、胸が、腰が、足が、光に照らし出され影に支えられ姿を表した。日向の暖かさが肌を伝う。空気の流れがフードの中に入り込んで、首の後ろをくすぐった。眩しさが目を閉じ相手を見失うまいと急いで目を開けると、目の前に少女が立っていた。
 澄み切った青空を彷彿とさせる瞳が、心配そうに私を見ている。色の白い頬はまだ幼さを残すように丸く、口元に添えられた黒子が愛らしい。亜麻色の癖毛をカチューシャで後ろに流し、赤いサーコートが女の子らしさを包み込んで騎士然とした雰囲気に変えている。
「あ…あの。大丈夫ですか?」
 掴んだ腕と私を交互に見ていた空色に、私は急に恥じらいを覚えた。少女の佇まいが高貴な身分だと、電撃が走るように理解したからだ。慌てて膝を折って畏まり、頭を垂れる。弁明するべき言葉を紡ぐべき喉は、砂漠に吹き渡る風のように乾燥して空気を通すばかりだった。
『大丈夫ですよ』
 小さな手が触れて、小さな子供が潜り込んで私を覗き込んだ。
『ゆっくり、言葉を紡いでみてください。ここは、魂の声を響かせて伝えることができます』
 不思議な子供だ。年端も行かない幼児のようでありながら、瞳はここではない違う世界を覗き込んでいるようだ。気配も目の前の少女と同じものを纏っているように感じたが、その身の内には人成らざる何かが潜んでいるような気がしてならない。
 それでも励ますような笑みに背を押され、私は顔を上げた。光を背に暗く陰る少女に既視感を感じる。昔、そうやって見上げた誰かがいた。その誰かに少女は良く似ていた。いや、背格好も髪の色も性別すらも違うような気がするが、雰囲気のような言葉にし難い何かが似ている気がしていた。
 その背に影が走る。私は咄嗟に剣を引き抜き、少女に襲い掛かろうとした脅威を斬り伏せた。魔物の姿であったそれは、詳細を見分ける間もなく白い霧のようになって吹き払われていく。敵を斬り払う感覚が、恐ろしい程に身に馴染んで血潮のように駆け巡った。
 これが私の役目なのだと、柄を握り込んだ手が震えている。私は少女に向き直り、膝を折り膝に額を擦り付けるように頭を垂れる。
『高貴なるお方とお見受けします。ぜひ、お名前をお聞かせください』
 こ、高貴だなんてそんな。そう戸惑う少女だったが、こほんと一つ咳払いをして答えてくれた。
「私はアンルシア。グランゼドーラの王女です」
 アンルシア様。その名前の響きがあまりにも神聖で、私は口の中に転がすことすら不敬に思えた。アンルシア様は私の前に屈むと、どうぞ顔を上げてくださいと慈悲深く声を掛ける。そればかりか、私の名すら聞こうとしてくださる。このような下賤な身の情報一つ、この方に覚えていただくなどあってはならぬと思うのに。
『名乗るほどの者ではありません…と申し上げたい所ですが、私は己の名すら覚えておりません。この場を永きに渡り彷徨った代償なのでしょう。私は己の姿すら失念していたのです』
 そう、この白く漂う濃密な霧には、夥しい数の魂が溶け込んでいるのを感じる。それが彼女達のような生者の気配に刺激され、最後に残った感情を頼りに具現化するのだ。その感情の殆どが、後悔や憎悪。研ぎ澄まされた後悔は生命を脅かす脅威となり、削ぎ落とされて剥き出しになった憎悪は暴力となって彼女らに襲いかかる。
 彼女らはここにくるまでに、多くの脅威を退けてきたのだろう。
 それは、私にとって歯軋りしたくなる程に悔しいことだった。彼女らのような少女が笑って戦いを知らずに生きていて欲しいと切望しているのに、こうして戦いの場にわざわざ踏み込んでいる現実が胸を軋ませる。
『多くの魂が永い年月に囚われ、己の存在すら忘れてしまうようです。しかし、貴女の光に触れて、私は自分の姿を思い出すことができました』
 名前も、過去も、何も思い出せない。踝まで浸かった水辺に映る姿が自分なのか、自信がない。辿るべき記憶すらない私には見覚えのない物だったが、剣は私の腕の延長のように手に馴染んだ。
『私は誰かを守る為に存在するのだと、確信しております。高貴なるお方、この下賤なる身を憐んでくださるならば、一つ私の願いを叶えていただけませんか?』
 困ったように瞬く青を愛おしく思う。彼女は高貴なる身分であるのに、誰かのために行動するお方なのだろう。このような頼み方は卑怯であると分かっている。それでも、私は彼女の高潔さを利用する。
『貴女様が目指す先の脅威を取り払う栄誉を、私にお与えください』
 耳を澄ませば聞こえる。ずっと聞こえていた。光の届かぬ暗闇の底で、苦しむ痛ましい声。彼女達から離れて声を目指そうとしたら、白い光に再び溶けてしまうと危惧する。
 生者の気配はそれ程に鮮烈で大きな影響力を持っているのだ。
「でも、それじゃあ、修行の意味が…」
 アンルシア様は戸惑うように視線を彷徨わす。最終的に行き着いた傍に立っている幼な子に留まれば、幼な子はつぶらな瞳でアンルシア様を見上げた。
『アン。私からもお願いします。この方を連れて行ってください』
「そうね。記憶がなかったら、心細いものね…!」
 そう微笑んだアンルシア様は、私に手を差し出した。行きましょう。そう差し伸べてくれる手を、私は堪らない気持ちで掴んだ。あぁ、胸から溢れそうになる気持ちが何なのか分からない。ただ、ただ、ひたすらに懐かしく、愛おしい。

 アンルシア様は今代の勇者で、幼な子は盟友のピペ殿だと紹介してくださった。ピペ殿はスケッチブックを片手に、この美しき魂の迷宮を目を輝かせて巡っていた。青空に浮かぶ巨大な天体を、夕暮れに染まった世界を、満点の星空を、首が痛めないかと心配なほどに見上げる。水に飽和した熱帯雨林は所構わず岩があれば大小さまざまな滝となり、葉に当たれば雫となって雨となり、踝まで浸った水面に様々な模様を刻みつける。砂漠の砂は細やかな水晶で、光を吸い込み黄金に輝く。草原はありとあらゆる花が咲き乱れ、この世界の全ての色が集っては目を楽しませる。
 物語に語られる昇天の梯の先のような光景だ。雲に、霧に、強く眩む光に、溶け込んだ想像もつかぬほどの多くの魂など、誰も想像できぬだろう美しさ。その恐怖がより世界を鮮明に魅せるのだろうと思う。
 日が巡り、月を幾度も見送り、星空の下で何度眠りについただろう。この世界の時間の感覚は無いに等しく、生者である彼女らは食事を滅多に摂らなかった。その代わりに焚き火を起こし、日が暮れると睡眠をとる。道中の戦いは私が先陣を切っても苛烈だったからだ。
 その焚き火を囲んでいる間、ピペ殿がお話をされる。故郷に伝わる、不死の魔王と戦った勇者の物語。彼女の魂の声色は幼さとは無縁の、伝え継がれた歴史の重みを感じさせる語りでした。
『今から千年ほど昔、世界は不死の魔王と呼ばれる魔族によって危機に瀕していました。不死の魔王が率いる12将達もまた不死の力を与えられ、幾度倒せど復活してしまう終わりのない戦いの日々が続いていたのです』
 今代の勇者と盟友が目の前にいるので、戦いの結末は不死の魔王の敗北であったと察します。しかしそれを語ろうとするピペ殿の顔は暗い。私もなぜか御伽噺のような『めでたし めでたし』という終わりではないと分かっていました。
『不死の魔王と打倒せんと立ち上がった希望の名は、勇者アルヴァン。そう、アンの先代の勇者様です。彼は己の命を賭し、不死の魔王と戦い討ち勝ったのです』
 アンルシア様は紅茶のカップで手を温めながら、ピペ殿の語りに耳を傾けています。
『アンは不思議に思いますでしょう。この時代にアルヴァン様の盟友のことは、何一つ残っていません。名前も、お姿も、盟友がいたという痕跡ひとつグランゼドーラには残っていない。盟友はいなかった訳ではありません。盟友は確かにいて、勇者様と共に戦っていたのです』
『しかし、不死の魔王との対決の際、盟友は勇者の傍にはいなかった』
 私の言葉にピペ殿が驚いたように顔を上げました。
 不思議な感覚だった。勇者として勇猛果敢に戦った王子の死の知らせに、グランゼドーラの民が嘆き悲しみ怒る様をありありと思い描くことができました。まるで知っているかのように、懐かしい顔が怒りに歪み、親しい顔が涙に暮れ、知った顔が嘆きに伏せるのに、私は絵物語を眺めるよう。それ以上に大きな感情が私を飲み込んでいたのでしょう。
「そんなことはあり得ない!」
 アンルシア様が叫ぶように否定した。
「私は盟友を得たから分かる! 盟友は魔王との戦いに、怖気付く存在じゃない。命が惜しくて勇者を裏切るなんて、絶対にあり得ない!」
『アン。その方の言う通りなのです。盟友は決戦に間に合わなかったのです』
 興奮のあまり髪を振り乱す若き勇者を、幼い盟友は落ち着かせるように摩りました。
『勇者は不死の魔王と相討ちになって身罷られました。アルヴァン様のご両親である王と王妃は、盟友を裏切り者と断罪しその存在を闇に葬ってしまったのです。アルヴァン様の石像と対になる盟友の石像は、民衆の手で砕かれてしまった。それが、アルヴァン様の盟友が何一つこの時代に残されていない真相なのです』
 勇者の橋に集まった群衆の飢えた獣のような声。その声に応え開かれた門扉に吸い込まれる黒く憎悪に満ちた濁流は、凄まじい暴力となって盟友の石像を砕いたのです。
 それを隣で涙を流して見ていた美しきお方がいた。今まで命を賭けて守ってくれた恩人を手のひらを返すように憎む人の心に、そして石像と共に砕かれた盟友の心を想って泣く姿。私はそのお方の悲しむ理由より、そのお方が悲しんでおられる姿に胸を痛めていた。
「どうして…。どうして、盟友は勇者と共に魔王と戦えなかったの? 理由があるのでしょう? そうでしょ、ピペ」
 縋るように問うアンルシア様に、ピペ殿は小さく頷きました。
『勇者アルヴァン様が相対していた不死の魔王は、何度倒しても蘇る無限の命を持っていたのです。しかし、盟友は諦めませんでした。不死の魔王を倒す手段を見つけ出したのです』
 幼な子の淀みない言葉が染み入る毎に、それが鮮やかに浮かんでくる。
 薄暗い遺跡の厳重に封印された最奥にあった禁術は、恐ろしさよりも希望の光明に見えた。ありとあらゆる力を封印することのできる秘術。しかしその対価は術者の魂である為に、禁術として封印された。しかし、それの何が恐ろしいことであろう。私はその記憶に胸が踊る。私が勇者の代わりに禁術を使えば、勇者は魔王を倒すことができる、と。
『術者の魂を対価にあらゆる力を封じ込める禁術。勇者に勝利をもたらさんと、盟友は己を犠牲にして禁術を使うことを決意しました。その決意をグランゼドーラの民は、盟友こそ真の英雄と褒め称えたのです』
 そんな! アンルシア様がピペ殿の肩を掴んだ。
「嫌よ! そんな勝利なんていらない! 盟友が死ぬだなんて、とても耐えられないわ!」
『アン。きっとアルヴァン様も、そうお思いだったのでしょう。魔王との決戦に臨む日に盟友は現れず、勇者は一人ペガサスに乗って魔王との戦いに赴いてしまったのです。アルヴァン様は禁術を使い、己を犠牲にして魔王に打ち勝ったのです』
 そう、勇者の死は魔王との戦いが致命傷になったからではなく、魔王の力を封じる為に自らの魂を対価に払ったからなのです。勇者アルヴァンの死に、胸が張り裂けそうなくらい痛む。どうして、こんなに苦しいのか自分でも分からない。
 ねぇ。ピペ。呆然とした面持ちで、アンルシア様は声を掛けたのです。
「盟友は、どこへ行ったの? 生き残ったのでしょう?」
 そう、盟友は生き残ってしまった。勇者に勝利を捧げる為に、己の魂で不死の魔王の力を封印しようとしたのに、その役目すら果たせず守ろうとした勇者が死んでしまったのだ。これ以上の最悪があろうか。勇者のいない世界が、なんの魅力のない色褪せた世界になった。まるで自分のことのように、盟友の後悔を感じている。
『盟友は…』
 ピペ殿はキツく口を引き結び、長い間を置いて言葉を吐き出した。
『勇者の後を追いました』
 死んでしまえば楽になる。
 本当に? その疑問が私の中に沸いた。

 ピペ殿の物語は長い。見惚れるばかりに美しき景色も、目紛しく巡る空の移り変わりすら、見慣れてしまうと何も感じなくなってしまう。この時の流れが意味をなさぬ迷宮において、彼女の語る物語だけが時間の経過を実感させた。
 焚き火を囲む時間が待ち遠しくなる。彼女達と過ごす時間は、私にとって心安らぐ一時だった。こんな贅沢は許されない。目的の場所へ一刻も早く辿り着かねばならないのに、彼女達のペースに合わせているのだと言い訳をする自分がいる。
 まだ、名前は思い出すことはできないが、彼女達に導かれ過ごす間に自分というものを思い出せてきた。いや、ピペ殿が語る内容が、どうやら私のことだということが分かるようになったのだ。彼女の言葉が染み入ると、水を与えられ眠っていた種が芽を出すように記憶があふれる。
 焚き火の向こうに寄り添うように座る、仲の良い今代の勇者と盟友。盟友は今日は勇者様と盟友の出会いの話をしましょう、と言った。
『後の勇者の盟友となるべきお人は、名を知られた剣士でありました。武で名を馳せた大国の試合に招かれた剣士様は、親善試合にて腕を披露することになったのです』
 染み込んだ血で赤いと称された大地に、吹き荒れる荒涼とした風を覚えている。集った戦士達の雰囲気、強さこそ正義と讃える種族の気質、それらがなんとなく剣を振るう自分には居心地が良かった。
 戦うことが得意だった。剣を振るえば魔物は呆気なく討ち取れ、人々に感謝されて謝礼で生きることに困らなかった。それが私が剣を持つ理由であったので、理由を問わず強さだけを見てくれるその国は居心地が良かった。種族が異なる故に言い寄る輩がいないのも、煩わしくなくて気分がいい。
『親善試合の相手は今は亡きレンダーシアの大国で、気性の荒さと武術の冴えで知られた王子でした。戦いは手に汗握る白熱とした運びになりましたが、剣士様が誤って相手を殺めてしまったのです』
 強敵であった。敵を殺す剣を得意とする私にとって、殺すのも難しい使い手。しかし、相手は人だ。殺さぬよう注意したつもりであったのに、相手はいつの間にか多量の血を流して動かなくなっていた。
『武術を競う大会において、殺害は許されません。しかも試合で殺めるなど、武術を重んじる者達にとってはただの不注意にしか映らなかったのです。死には死をと、地鳴りのような批難の声。息子の亡骸を抱き上げた父は、剣を取り仇の首を刎ねようとしました』
 怒りに震える双眸が逆光の中で爛々と私を見下ろす。死ぬのは嫌だと心の隅に思いはしたが、目の前の憎しみに濡れた眼差しから逃げ続ける日々は鬱陶しく面倒だという思いが勝った。私は何にも執着していなかった。家族も故郷もない根無し草は、死を迎えるこの瞬間すらも楽な方法を選んだのだ。
 待ってください。
 振り下ろされ首と体を永遠に別つ一撃は、待てども来ない。見上げると涙に頬を濡らす王と、殺されるのを待っている私の間に一人の青年が立っていた。
『この者の命を、私に預けてはいただけませんでしょうか? 剣士様の前に立ち、王に取り成した者こそ、グランゼドーラの王子にして勇者であったアルヴァン様だったのです』
 勇者として来るべき大魔王と戦う宿命を背負った男。その男が命を預かるということは、大魔王の軍勢と命尽きるまで戦うことを意味した。剣を下ろした王に、アルヴァン様は深々と頭を下げられたのです。
『それが、先代勇者アルヴァン様と盟友の出会い。全ての始まりだったのです』
 さぁ。差し出される手。その手を握った瞬間に、私は今までの全てを捨てた。
 命を救われ剣を捧げるべき勇者アルヴァンとの日々は、不死の魔王との戦いの日々でもありました。不死の魔王の脅威はレンダーシアに吹き荒れていて、各地では常に激しい戦闘が繰り広げられていたのです。グランゼドーラに仕えることになった私も、間もなく部下を与えられ部隊を率いて防衛戦に駆け回るようになりました。
 そんな中でもアルヴァン様は朗らかに笑って、私を修練に誘ってくださいました。剣を交えることしか知らなかった私にとって、慣れぬ異郷の地で身を粉にして戦う私への労いとして最高の時間。
 この方のためなら、命など惜しくない。心からそう思った。
『不死の魔王との戦いが激化する日々の中、剣士様は命を救ってくださった勇者様に深い敬愛を抱いていたといいます。そんなある日、魔王の手先が城に入り込み、アルヴァン様のお命を奪おうとしたのです』
 それはとても巧妙だった。最大級の警戒が敷かれたグランゼドーラに、魔王の軍勢が忍び込むなど不可能であったはずだった。しかし敵は誰も知らぬ間に懐に入り込み、不意を突かれたアルヴァン様は窮地に立たされてしまったのだ。
 今まさにアルヴァン様に振り下ろされる凶刃。助けられる位置には誰もおらず、間に合わないという理解だけが脳裏を冷静に駆け巡った。血の気が引く。この方は死んではいけない。守らねばならない。それなのに、どんなに体を叱咤しても、剣を投擲したとて間に合わない。嫌だ。お願いだ。感情が暴れて皮膚を突き破ろうとする。
 自分がどうなろうと構わない。アルヴァン様を救いたい。
 私は、この時、生まれて初めて神に祈った。
『危うい状況に追い込まれたアルヴァン様の元へ駆けつけた剣士様は、不思議な力を放って魔王の手先を退けました。グランゼドーラの賢者様は、その不思議な力を宿した剣士様を盟友であると告げたのです』
「先代の盟友も勇者を守る為に、盟友の力に目覚めたのね」
 ふわりと浮かんだ柔らかい笑みを見ていると、懐かしい気持ちでいっぱいになる。親愛の笑みを向けられたピペ殿は、顔を真っ赤にしてもじもじと指先をいじっている。
『ど、どうなのでしょう。私はアンの友達でいたいって気持ちでいっぱいだったので、先代の盟友と比べられるようなものじゃ…。アン! 苦しいです!』
 アンルシア様が嬉しそうに、ピペ殿を抱きしめる。なんて仲の良いお二人なのだろう。この二人が勇者と盟友であるのは必然であったと思わされる。私の頬はいつの間にか緩み、二人を見守っていた。

 迷宮を進んでどれくらいの時間が経ったのだろう。深くなるにつれて霧の中に溶け込んだ脅威は強力になり、息苦しさすら感じる。休憩の頻度は増えたが、疲れからかピペ殿の物語も細切れになるようになった。それでも、私の中には千年前の人々の息遣いすら感じられるほどの、記憶で溢れかえっていた。もう、自分が何者なのか、何をすべきなのか、はっきりと理解している。
『私が高貴なる御方から預かったお話は、今日で最後になります』
 ピペ殿が私を見る。アンルシア様もじっとピペ殿の言葉に耳を傾けておられる。焚き火を囲んで物語る最後の時間を、噛み締めるようでした。もう旅が終わるという予感が、互いにあったのです。
『生き残った盟友は非常に危うい立場でした。見つかれば処刑は免れず、生きる為にはレンダーシアを出て行かねばなりませんでした。しかし、それは些細なこと。盟友は勇者を守れなかった無力感に打ちひしがれていました』
 そう、盟友にとって勇者の死ほど辛いものはない。私の視線の先で、ピペ殿はアンルシア様の手をにぎりました。
『アン。実はアルヴァン様は、この時点では死んではおられないのです』
 え。驚いた表情のアンルシア様に、言い含めるようにピペ殿は語る。
『魂を対価に放つ禁術と、不死の魔王との戦いで、アルヴァン様のお命は風前の灯ではありました。しかしアルヴァン様は、ペガサスに乗って生きてグランゼドーラに帰還されたのです』
 もはや驚きに声も出ず、口が言葉を上手く紡げず動くばかり。帰還したと想像すら出来なかったはずです。
 ピペ殿は痛みを堪えるようにアンルシア様を見上げている。
『魂と引き換えに禁術を用いたアルヴァン様は、急速な勢いで闇に侵食され己を失いかけていたのです。このままでは、アルヴァン様こそが不死の魔王以上の脅威となる。アルヴァン様は当時聖域とされた、王家の墓所に自らを封印したのです』
「じゃあ…」
 アンルシア様が視線を向ける。より、濃密な闇の気配。無限の苦しみに、身が引き裂かれる程の悲痛な叫び。聖域を歪めるほどの存在の正体を、彼女は察したようでした。
『アン。アンの言う通りなのです。盟友は勇者を見捨てたりなどしません。私も貴女を決して見捨てない。私が貴女を助けられない時は、もう私が死んでいる時だけです』
 ピペ殿の気持ちを私は誰よりも理解できた。
『追われる盟友でしたが、全てが盟友の敵ではありませんでした。アルヴァン様の妹君であるフェリナ様、全てを知る我が高貴なる御方は、盟友の身の潔白を信じておられました。盟友はお二人の協力を得て、アルヴァン様を追ってこの聖域へ旅立ったのです』
 アルヴァン様の妹君のフェリナ様は、私を大変慕ってくれた。少女と見紛うほどの小柄で、病弱さからくる儚さは痛ましいほどだった。戦いにおいて何の役に立てぬ己を恥じて、城の隅の小さい部屋で慎ましく息を潜めるように暮らしていた。そんな彼女が兄の墓参りに行きたいと申し出たのは、青天の霹靂のようであっただろう。
 そして、ピペの言う高貴なる御方。この方の助力は私にとって意外だった。
 アルヴァン様と私とは良くも悪くも深き縁に結ばれたかのお方は、アルヴァン様の死を悼む為に墓所を訪れたいと申し出たのだ。喪服に身を包んだ二人を乗せた馬車に隠れ、死を悼む為と人払いをした王家の墓で見送られたあの日のことを、どうして忘れていたのだろう。
『勇者アルヴァンの盟友の名は、カミル。そう、私の名前です』
 カミル。蘇った記憶の中の様々な人々が私の名を呼んで、私の中に染み込んでくる。全てを思い出した。自分が何者であるかを構築する全て、最後まで信じてくれた人に託された想い、自分が成し遂げようとする願いも、全部。
 私はアンルシア様とピペ殿に、深々と頭を下げた。
『アンルシア様。貴女の勇者の輝きに触れて、私は己を取り戻しました。ここまで導いてくださったからこそ、私はあの人の所へ辿り着くことができます。本当にありがとうございます』
 今代のグランゼドーラの王族はフェリナ様の血族だろう。彼女は勇者の血を絶やさぬ責務を、まさに命をかけて遂行し今に繋げた。その儚い身に宿る強固な決意は、アルヴァンに良く似ておられる。大事な人の血筋が今に続き、勇者となって目の前に居ることは運命に思えた。
『ピペ殿。貴女が高貴なる御方と呼ぶ方は、私を憎むことが唯一許されたお方でした。私はあの方から全てを奪ったといえましょう。それなのに、あの方の慈悲はピペ殿となって私の前にいる。なんと感謝して良いかわかりません』
 勇者の盟友としては、幼く心許ないと思ってしまうだろう。だがその身に宿る宿命は、その小ささには収まりきらないものだ。彼女は全てを背負い、全てを知って、私を導いてくれたのだ。
 そして勇者と盟友の絆の深さ。アルヴァンでさえ、盟友の私にここまで心を許してはくれなかった。だからこそ、魔王との戦いの直前ですれ違ってしまったのだ。聖域でアルヴァンを救おうと送り出してもらったのに、道半ばで倒れ、こうして彷徨っていた。盟友失格だと自分を嗤う一方、この二人ならばあり得ぬだろうと確かな信頼を頼もしく思う。
 新しい時代が始まろうとしている。
 しかし、今は過去の精算をしなくてはならない。私は自分に言い聞かせるように言った。
『この先に、アルヴァンがいる。私は、行かねばなりません』
 千年前の物語が本当の意味で、終焉を迎えようとしている。