終夜

 かつてグランゼドーラの聖域と呼ばれた死者の眠る地。その最奥は現世の光すら届かぬ、指先すら蕩かす漆黒の闇で満たされています。いえ、今も頭上から深々と雪のように魂の残滓が降り注ぐ。
 憎悪が。後悔が。悲嘆が。苦痛が。絶え間なく舞い降りて闇の中に降り積もっているのです。憎しみが魂を腐らせ、悲しみが魂を溶かし、苦しみが魂を砕き、悔しさが魂を蝕む。粉々に砕けた魂達の澱は、まるで冥界の水面の底のよう。昇天も叶わず停滞し続ける、魂に刻まれた本当の死が横たわるようでした。
 まるで泥のような闇の中を、カミル様が一心不乱に進んでいく。
『アルヴァン!』
 この闇の中で私達は光っているようでした。カミル様の声が閃光になって闇を切り裂いて響き渡るのですが、何も照らし出すこともできず闇が何事もなかったかのように滑るばかり。
『アルヴァン! 私です! カミルです! 返事をしてください!』
 耳が痛くなるほどの静寂の中に、カミル様の声だけが響いている。
 真っ白い輝くような純白のフードの後頭部と、ローブのようなたっぷりとした白に包まれた背中。フードが乱れないよう金の装飾の美しい額当てと、額当てから伸びる金の鎖が星のように瞬くのです。氷のように薄い青は、強い後悔に揺れていました。
『貴方を救うと勇んでおきながら、私は全てを忘れ去った彷徨う魂となっていました。貴方をこんなにも永く孤独にさせてしまったことに、私は何の弁明もできません。憎んでくれて良い。恨んでくれて良い』
 ぐっと、拳を胸に押し当てる。今にも泣きそうな震える声が、闇に吸い込まれていきます。
『…お願い。貴方の声が…もう一度聞きたいのです』
 闇が震える。
 無音だった世界に、地響きのような不気味な振動と音が湧き出す。アンが剣を抜き放ち油断なく身構えましたが、音は四方八方から押し寄せ反響してどこから響くのか全く検討がつきません。周囲を忙しなく見回しながら、些細な変化も逃すまいと警戒しています。
 泥のような闇。その粘度が、変わった。
 目の前に何かが首を擡げる。粘ついた闇を滴らせこちらに敵意を向けるのは、大柄な人間すらも一飲みにしそうな大蛇でした。私達の光に照らし出され、闇から浮かび上がった鱗が、牙がぬらりと光る。
 大蛇の前に飛び出したカミル様に、アンが並びます。あぁ、なんてかっこいいんでしょう! これぞ、勇者と盟友の理想の背中です。まるで冒険譚の一節。挿絵の構図がばっちり浮かびました!
『アンルシア様。ピペ殿。どうか、お二人の力を貸してください!』
 はっ! いけない。いけない。私がアンの盟友なのです。しっかりしなくては。
 アルヴァンは殺されたのだ。この裏切り者によって…!
 甲高い女の声で叫ぶ闇に、カミル様は驚いて身を硬らせました。迫り来る大蛇の頭をアンがすれ違いざまに切り落としましたが、大蛇は恨めしげに首だけになってもカミル様に迫ります。大蛇は長い二つに分かれた舌を震わせ、しゅーしゅーと唸りながら恨めしげにいうのです。
 世界は我が息子アルヴァンによって守られたのだ。どれだけの者が、我が息子が王冠を戴く日を望んだことだろう。その日は永遠に来ない。この憎き裏切り者のせいで…!
 アンの聖なる力を帯びた雷が、大蛇を包み込んで粉砕する。断末魔の余韻を残し散る闇を一瞥し、次々に湧く闇を睨みつける。
 裏切り者。何故、貴様ではなくあの方が、死なねばならなかった。我々の希望を返せ。
 声が次々に湧いて重なり、意味のある言葉を聞き分けるのも難しい不快な音となって押し寄せる。しかし、それは全てがカミル様への憎しみで溢れていました。千年前、かの時代で膨らみに膨らんだ勇者の死の原因になった盟友の裏切り。それがこの闇の底に滞留して、恨み節を歌う。
 カミル様は剣に光を這わせ、強大なギガスラッシュで薙ぎ払おうとしましたが形なき闇には何の意味もなしません。声は迫り、気が狂いそうなくらいの音量に膨れ上がって飲み込もうとします。
 アンも必死に呪文や勇者の力で道を切り開こうとしますが、闇の中の敵すら見つけ出すこともできない。強力な呪文を試し、鋭い一撃を何度叩き込んでも不変の闇に、アンは焦りの色を見せていました。
「どうしたらいいの!?」
 私は荷物の中から見本帳を取り出します。様々な効果を持つ魔法陣などを書き連ねた、私の戦いの教科書です。一千年の間、高貴なる御方から私にまで脈々と受け継がれた、芸術家達の叡智の結晶を写しとったもの。
 表紙が高貴なる御方を示す藤の花の紋章で始まるそれは、最初のページであればある程に、かの御方がお残しになった内容であるのです。高貴なる御方は、この状況すら予測していたのかもしれないと思うほどです。
 妖精の粉に光苔を混ぜ合わせ、浄めの水で溶いた塗料。私は最後にもう一度見本帳を見て形を確認し、輝く塗料を浸した筆を足元に走らせました。くるりと体を回転させ、私よりも一回りほど大きい魔法陣を描き出す。最後の一筆を書き込めば、燦然とした光が闇に広がったのです!
 闇に響いていた悪意が、悉く押しのけられていく。
『これは、古代呪文シャナクの流れを汲む、お祓いの技法を魔法陣に落とし込んだものです』
 昔は呪いにかかった人の肌に、直に描き込んだりしたんですよ。亡くなった人に悪い霊が憑かないようにって、魔法陣を織り込んだ布でご遺体を包んで埋葬する地域もまだあるそうです。
 こんな黒くてドロドロしてたので、効いてよかったです。驚いた顔で私を見てくる二人に、にっこりと微笑みます。
 私は許されるべきではないのです。
 今にも消え入りそうな儚い声。光の中に小さな黒い兎が一匹、私達を見上げて言いました。
 王女の身でありながら、グランゼドーラの意思に背いた。しかし、私は兄様の後を追う盟友に救って欲しかったのです。私の大好きなアルヴァン兄様を…。
 兎を闇が踏み潰す。弾けた闇から視線を上げると、大きく膨れ上がった闇の塊が私達を見下ろしていました。がぽりと空いた空間から、身の毛がよだつ恐ろしい声が果てしない闇の彼方まで震わしたのです。
 破呪の魔法陣によって退けられていた闇が、押し寄せてきます。光が消えると足元はまるで嵐の中を進む船のようにうねり、黒い風は剣の軌跡のように鋭く私達を切り刻もうとします。アンが私を抱き上げ、脅威を防ごうと剣を振るいます。
 アンが気合を放って、光が宿った剣で貫く。
 闇を光が貫くと、甲高い音を立てて弾かれる。ぽっかりと空いた穴の中、光を弾いたのはヒビが入った大剣でした。その拵えは見覚えがあります。勇者アルヴァン様の石像が掲げたものと、同じものです! ハッとしたのは私だけではありません。カミル様が弾かれるように声を上げました。
『アルヴァン!』
 何故なんだ。
 苛立ちを隠さない呻き声。闇の底から込み上げるような声が、殺意となって周囲の闇を叩き潰しました。闇の中に溶けていた様々な何かが潰され、悲鳴を上げて逃げ惑う。
 カミルは頑張ってくれた。命を賭けて、懸命に、皆の為に戦ってくれた。
 それなのに。それなのに…!
 死が見えた。心臓が鼓動を止め、自分の体が自ら死ぬことを選びたくなるほどの恐怖。それは何者の姿ではなかった。獣でも、竜でも、言葉が人のものだからといって人でもなかった。それは黒くどろりとした泥の塊で、この闇の底に溜まりに溜まった負の感情で塗り固められている。中の光すら通さない。分厚く、硬い、一千年に及ぶ闇。
『アルヴァン! 私です! カミルです!』
 カミル様の声も届くことはないだろう。声は厚い闇に遮られ、鈍く、ぼんやりとして耳で拾うことも難しい。
 カミルは裏切り者じゃない。僕と共に不死の魔王と戦う、勇敢な盟友だ。誰一人、僕の盟友の名誉を汚す者は許さない!
 闇が、さらに濃い闇に叩き潰される。一方的な蹂躙だったが、濃い闇が圧倒的故に仕方のないものだった。一匹の竜に無数のスライムが群がっても勝てないような力の差が、この闇の底を支配していたのです。この闇の底が嫌に静かな理由がわかりました。この残滓は全て彼が破壊し、昇天することもできぬ故に再生し破壊されるを繰り返す。
 無限の苦しみに絶望する声に、濃い闇は狂ったように笑った。
 そうだ。それは、直向きな彼女を侮辱した罪だ。これは裏切り者と汚名を着せ、殺せと追い立て、名誉を毀損し、恩を仇で返した罰だ…! 何故わからない。皆の為に頑張っている彼女を、どうして理解しない…!
 深い深い憎しみに、粘度が増して圧を強める闇が叩きつけられた。闇の底が揺れる。彼が砕き押し固め地面の代わりとして堆積する魂達が、声すら上げることもできず断裂された余波で揺り上げられる。
 闇がどろりと戻っていく。まるで痛みにのたうち回るように、闇は我々に襲いかかってきます。
 千年前の結果。
 高貴なる御方を同じ苦しみに、アルヴァン様も苛まれている。どれだけ真実を叫ぼうと、誰一人耳を傾けることなく、誰一人誤解を解くことはできなかった。
 あぁ、アルヴァン様。貴方にとって最悪の苦しみが千年続いている。守り抜こうとした人々が、己が大事な人を傷つける。勇者として選ぶなら人々を選ぶのでしょうが、千年の月日アルヴァン様が狂いながらも自身を存続させたのはカミル様を選ばれたから。
 ようやく再会を果たしたアルヴァン様とカミル様を、お救いしなくてはならない。
 カミル様が振り下ろされた闇の塊を受け止めます。どろりと崩れ、カミル様が頭から泥を被るかのように闇が包み込もうとします。私は急いで魔法陣を描き留めるように加工した札に、破呪の魔法陣を書き込んで、さらに暴走魔法陣の札を重ねたのです。
 加勢に走ろうと飛び出したアンの前に、私は札をちらつかす。
『アン! この魔法の札を勇者の光で貫いてください!』
 アンの手が札を掴むと、高々とその手を振り上げました。次の瞬間この世界に太陽が現れたような、黄金の光が迸ったのです。それは闇という闇を全て塗り替えてしまいました。闇に溶けていた人々の魂が、眩しそうに目を細め光の中に消えていきます。
 最高級の絹やレースで飾り立て、大振りの宝石で身を飾り立てた高貴な女性が溶ける。少女と見紛う華奢を通り過ぎて病的なか細い姫君が、一瞬だけ嬉しげに微笑んで掻き消える。立派な勲章を誇らしげにつけた兵士が、ロザリオを握りしめ祈る仕草をした神父が、戦で故郷を失ったボロ布のような服を纏った流浪の民が、勇者の光に闇を拭われて光の中に消えていく。
『アルヴァン! アルヴァン…!』
 カミル様の大声が、光の中に響き渡ります。
 あぁ。私は涙が滲み出そうな想いで、その光景を見つめました。一千年前に高貴なる御方が始めた、カミル様の汚名の回復。石像が再建され、盟友の物語が勇者の国に戻ることは通過点に過ぎない。アルヴァン様を救おうと一人旅立ってしまったカミル様を知る私達は、高貴なる御方の求めた終わりを目指していたのかもしれません。きっと、私達が見ているものがそうなのです。
 盟友は勇者を見捨てない。私はアンの盟友だから、自分のことのように理解できる。アンの為なら命だって惜しくない。アンには世界で一番幸せになってもらいたい。
 だから、カミル様はひたすらに手を伸ばしておられた。
 その手は、ついにアルヴァン様に届いたのです。
 華奢な色白の手を大きな背中に回し、カミル様は厚い胸板に顔を埋めています。泣いておられるのか小さい肩を振るわせる盟友を、困ったように眉尻を下げて勇者は見下ろしていたのです。あぁ、一刻も早くその手をカミル様の肩に置いてください! 泳がせている場合じゃありません!
『カミル。泣かないで』
 多くの乙女が恋してしまいそうな低い声は、とても優しく耳に響きます。アルヴァン様は、ようやくカミル様の肩を大きな手で包み込みました。
『盟友としての使命に燃えた君が、躊躇いもなく魂を用いて禁術を使うと確信していた。君を守る為なら、僕は僕の命すら惜しくない。君の代わりに僕が禁術を使うことで、君には幸せな人生を歩んで欲かった』
『貴方は大馬鹿者です! 本当に…本当に何も分かっていない!』
 アルヴァン様の言葉に、カミル様は胸に顔を埋めたまま大きく首を振りました。
『私は盟友の使命だから、命を捨てる覚悟をしたのではありません。貴方を守りたかった。私だって貴方の為なら命など惜しくない! 貴方のいない世界なんて、どんなに平和でも私は幸せになどなれはしません!』
 盟友の名を熱を帯びた声で呼ぶアルヴァン様に、隣で音を立てて顔を赤く染める友を見上げました。
『カミル。ありがとう。僕を、迎えに来てくれて…』
 互いにもう離れないと言いたげに、抱き合う男女。もう、アンは視線のやり場に困り果てています。アンは純情ですね。私達の視線なんか気にならないくらい、お二人は今そうしたいんですから気になさらなくて良いのに。
 それよりも長らく離れていたからこそ、指先に至るまで親愛に満ち満ちていて、あぁ、スケッチを描ける幸せ。これをきちんと仕上げるとお二人に悪いですから、こう、並んだ凛々しい立ち姿ですが滲み出る親愛を表現したいですね。これを故郷に奉納できたなら、これ以上の報告はありません。
 たっぷりと互いの温もりを感じておられましたが、とうとう、アルヴァン様が私達に気がついてしまわれました。ずっとカミル様と再会の喜びを分かち合ってくださって、よろしかったのに。
『君達は…そうか、今代の勇者と盟友なんだね』
 私達に微笑みかけてくださるお顔に、アンが呼吸困難に陥りかけています。春の日向のような暖かく優しく柔らかい笑み。石像や物語では随分と雄々しい印象でしたが、穏和なお方のようですね。
「あ、あの…アルヴァン様とカミル様って…その、お互いにお慕い申して…」
 アンの脛に向けて力一杯見本帳でツッコんでしまいました。会心のツッコミで、流石のアンも悶絶です。ダメですよ、アン。そういう無粋な質問をしてはいけないのです。言葉での回答ではなく、行動で全てを察するのです。どう見ても想い通じ合っているようにしか、見えないじゃないですか!
 アルヴァン様は何かに気がついたように、ふと視線を和ませました。
『あぁ。そうか。全く、あの人には敵わないな…』
 カミル。そう愛おしそうにアルヴァン様は名前を呼ぶ。
 並んだお二人は私達に向き直りました。そう、ここは死者達が眠るべき聖域。不死の魔王を封じて穢れた魂が、アンの勇者の力で浄化されたのです。その力は聖域全体に及び、もう最奥であるこの場所は闇の底ではありません。明けの明星が瞬く空の下、蕾の花々が登る太陽を待ち侘びる花畑。爽やかな風は芳醇な緑の香りを運び、瓦礫の隙間から生き生きと成長する草花を撫でていきます。
 お別れの時です。死者と生者は共にいられぬ定め。そして私達生者こそ、この場に本来はいてはならぬ者なのです。
『お幸せに。アルヴァン様。カミル様』
 私の言葉にアルヴァン様はカミル様の肩に手を回し、カミル様も嬉しそうにアルヴァン様に寄り添いました。私達は手を取り合って、お二人から背を向ける。
 ありがとう。言葉が光となって、私達を現世へ優しく送り出してくださったのです。