重要なのは足場よりも視線の先だ - 前編 -

 レンダーシアではありふれた一介の戦士で、傭兵業を流しながら仲間と安酒をかっ食らっていた時の俺では想像もつかないだろう。なんの縁か見上げるばかりの豪華な城に住む王族に召し抱えられるようになり、仕事を黙々とこなしていた日々。王の傍に立たされるのも、いつしか一番俺が都合が良いからだと思うようになった。
 得意な剣術は宝だったからこそ、それを使う仕事を誇りに思っていた。王家の一家は絵に描いたような円満な家族で、率いることになった部下達は手間が掛かるが可愛かった。王子は勇者だという。大魔王の襲来など全く想像もつかない平和な日々だったが、俺はこの家族と国のために殉じることは望むところだった。
 それが、この国で最も重い秘密を打ち明けられた。
 何か、断りがあっただろうか? 『この話を聞いたら、後に引けないが聞いてはくれないか』とでも言われただろうか。いや、言われなかった。この王も、この賢者も、まるで世間話をするかのように自分に話しかけてきた。しかも、酒を片手に。酔ってなどいないのは、二人の顔を見れば明らかだった。
「ノガートを信頼してるからな」
 そうしれっと言った王の、悪戯が成功したような悪ガキのような顔を忘れることはない。
 秘密を抱えてしまうと、世界が一変した。妹姫を甘やかす王子の態度の一つ一つに、決意を思わずにはいられない。兄様の盟友になりたいと修練に励む妹姫の過酷な道を、多くの修羅場を潜った俺ですら想像できない。母は可愛い娘の未来を案じて、毎日のように神に祈る。王は家族の父であろうとする。この一時が嵐の前の静けさだと、この家族にとって掛け替えのない宝のような日々なのだと、分かってしまったのだ。
 その秘密はついに公然のものとなった。アンルシア様が勇者として覚醒されたからだ。
 本格化する大魔王との戦いの中で、アンルシア様の立場は痛ましかった。アンルシア様の為の秘密は、アンルシア様を傷つけてしまったからだ。姫君の無邪気な笑みは、この国の者には誰も向けられぬと思うほどに、余所余所しさがあった。
 盟友となるはずだったトーマ様はいない。そんな中で俺は賢者ルシェンダ様と、盟友探しに明け暮れた。ある程度アンルシア様と面識があって腕の立つ貴族の若者に片っ端から声をかけたが、大魔王と戦うなんて恐ろしいと断る者が後を絶たない。部下達にも当たってみたが、やはり守るべき主君という想いが強く盟友という特別な存在として想うことは難しかったらしい。
 盟友を得ず、勇者が大魔王を倒すことは不可能。
 しかも盟友の可能性を最も秘めた者は、探す前からアンルシア様の隣にいた。小さな小さな芸術家と、その保護者らしいガタイの良い男。二人共、誰が見ても戦いには縁のない一般人だった。
 ルシェンダ様ですら盟友になれない中、二人のいずれかが盟友になる可能性が増していく。ルシェンダ様は作戦を変えた。アンルシア様も勇者として実力はあるが、まだ実践経験は多くない。風に吹き払われる命、雨に溶ける血と戦の匂い、油断を的確に突いてくる敵。あの二人はアンルシア様以上に、戦いを知らぬだろう。戦いを知り、勇者の守護を担える熟練の猛者。それを探し出して、彼らに付けよう。そう、ルシェンダ様は決めたのだ。
 そして、俺が一番に声を掛けにいった相手が目の前にいる。
 黒と宿屋協会のコンシェルジュの色であるオレンジの差し色のコマンダーコートセットが、テラスを吹き渡る風にはためいている。煙管を口から離すと、吐き出した煙は瞬時に強い海風にさらわれていった。左右の瞳の色の異なる不思議な男が、愉快そうに俺を出迎える。
「どうかしたかい? ノガート兵士長殿」
 世界宿屋協会が擁する最強のカード。警備部の長を務めるケネスだ。
 地域の特色によって無限に枝分かれする警備体制を統括する彼が、表舞台に出ることは滅多にない。客人の安全を司る警備部の仕事が明るみに出ないことは、客人が何事もなく楽しい時間を過ごしたという結果だからだ。コンシェルジュが陽の存在であれば、警備部は陰の存在。知られぬことこそ誉である。
 大きな催しの警備計画の殆どを担当する彼とは、王族の警護を担う立場上度々会うことがある。さらに大魔王の襲来によって不安定化したレンダーシアに対応するために、彼は足繁くグランゼドーラを訪れていた。
 それにしても。煙管を咥えて旨そうに煙を吸い込むケネスを見る。俺だったら思わず職務質問しまいそうな粗野な雰囲気。顔を合わせる度に、どうしてこんな特徴的な男を忘れてしまうのだろうと思う。
「レンダーシアの各王国が手の回らぬ地域の安全に力を貸してくださり、世界宿屋協会の協力に感謝しております」
 頭を下げた俺に、ケネスは煙管を振って笑う。
 もう一つのレンダーシアを用いることで、どこでもいつでも大魔王の軍勢は攻撃を仕掛けられる状況になっている。まさに防衛としては完全に不利極まる状況だ。
 アラハギーロは先の大魔王との軍勢との戦いで、半分近くの戦力を失っている。現在指揮を取るのはオードランだが、まだ若く実践経験は多くない。ダーマもゾデラことシタル座長が残留して防衛の指揮を担っているが、セレドを含んだ一帯は魔力の流れが不安定で最大限の警戒を続けている。
 各国が戦力に余裕がない中で、世界宿屋協会はそれなりの余裕を見せている。重要な拠点に警備を集中的に配置し、即応できるようにする。簡単に言うが、勇気のいる采配だ。レンダーシアだけでなく、アストルティア全土に及ぶ組織力のなせる業か、頼もしくありがたい。
「仕事だから礼などいらん。修行の片手間で立てた警備計画だから、暫くは粗を突いてくるだろう敵を叩き潰しに歩かにゃならん」
 俺が横に並ぶと『紙巻きならあるけど、要る?』と勧められる。城内では数少ない喫煙が認められたこのテラスは、城に訪れたケネスが必ず立ち寄る場所だ。そして、個人の彼と話せる場所でもある。
 密閉できる缶の中に収められた紙巻き煙草を一本取り出すと、ケネスは燐寸を擦って火をつけてくれる。息を吸い込み火の熱と共に香りが口腔内に広がった。果実の甘い香りに、清涼感の強いハーブが効かされたものだ。胸まで吸い込むと、涼しい程の爽やかさが駆け抜ける。
「ラチックを鍛えたのは、貴方だな」
 吐き出しながら問うと、ケネスはにやりと口元を歪ませた。肯定したも同じの反応。
 ダーマから戻ってきたラチックの成長振りに、俺は舌を巻いた。俺も一撃を入れるのに苦労するほどの防衛力と、精鋭であるグランゼドーラの兵士30人を抜く判断力を備えてきた。彼ほどの力量を持つパラディンは、本場ガートランドでも数える程度しか居ないだろう。しかし彼に技術を叩き込んだ存在の影が、実践経験がまだそれしかない彼には色濃く落ちている。
「ケネス殿。最初に問い合わせた内容。もう一度、考えてはくれないか?」
「ガキ共のお守りだっけ? 絶対に嫌だね」
 気怠げでやる気のない態度の割に、面倒見の良い性分である。才能がなければ無理とバッサリと切り捨てるが、見込みがあれば最も効率の良い方法で育て上げてしまう。ラチックがこの短時間で、一流のパラディンになって戻ってきた魔法の正体だ。
 正直ラチックを育てたのが判明してから、彼を説得できると思っていた。確かに大魔王の軍勢が襲ってきたとしたら彼は防衛の要を担う。世界宿屋協会が最終目的と掲げる客の安心安全の担保は難しいだろうから、そう簡単に引き抜けるとは思ってはいない。それでも、大魔王の脅威を取り除くことは、最終的にアストルティア全ての利益になるのだ。警備の障害となる組織があるなら少数精鋭で潰しに行くケネスなら、二つ返事で受けると思ったのだが…。
 ケネスが煙管の中の灰を、携帯灰皿の缶の中に落とし込む。俺にも差し出してきたので、短くなった紙巻きを捨てさせてもらった。きちんと蓋をして金具で止めると、ベルトに固定したポーチの中に煙管と共にしまい込む。
 囀りの蜜と喉に良いハーブで作ったのど飴を口に放り込むと、ケネスは背筋を伸ばし手を前に組んでコンシェルジュが行う模範的な礼をした。もう粗野な雰囲気は吹き払われ、実直で物静かな男がそこにいる。甘い香りのする声は、煙草の吸いすぎで傷んだ声とは別物になっていた。
「それでは、そろそろお暇させていただきます」
 門までお送りしましょう。そう言いながら、ケネスと並んで歩く。
 階段を降りる前から賑やかな音が湧き上がっている。砕かれた石が響かせる音、削られる鈍い音、人々の掛け声、忙しなく動き回る気配に飛び込んでいく。踊り場を抜ければ、埃っぽさすら感じる。勇者アルヴァンの盟友カミルの石像は、ピペの故郷からやってきた職人達の手によって驚嘆すべき速度で出来上がりつつあった。石切りの職人が家ほどもある大石を積み上げ、足場の職人が通った後は人が歩ける足場が出来ている。彫刻師達が集まれば、日を追うごとに形が整っていく。もう、勇者アルヴァンの石像の剣と自身の剣を交差するように掲げる盟友カミルの姿形は出来上がりつつあり、仕上げの磨きに掛かるようだった。
「もう、完成ですか?」
 足を止めて見上げたケネスに、俺は肯定しながら並んだ。
「提出された計画書では、もう四半月程の日程を予定していましたが、完成が早まるそうです。半月後の除幕式の予定は変わっていません」
 そうですか。そう静かに返したケネスは、眩しそうに完成しつつある石像を見上げた。
「千年。始めた者の執念が、蜘蛛の糸のように細い可能性を繋いで今に至る。壮観ですね」
 感慨深そうに見つめる瞳が、赤から碧に移ろいまた赤に戻る。深々と一礼した口元が、どうやら祝福の言葉を呟いたようだった。どういう意味か分からないまま、目の前の男は踵を返し門を目指して歩き出そうとした。
「ケネス!」
 よく響く声と共に、重い足音がこちらに向かって掛けてくる。
 聖騎士の大盾と巨人のハンマーを背に背負い、パラディン達が好む膝下まである鎖帷子にヘビーアーマーを合わせた超重装備だ。ゴーグルを装備した顔は、目元が見えぬからこその威圧感。ダーマの修行から帰ってきたラチックは、嬉しくて堪らない犬のように突進してくる。
 声を掛けられ足を止め、体を向けたケネスの両手をラチックは勢いよく掴んだ。
「ケネス! 俺 アンとピペと 大魔王戦う 許してもらえた! ケネスの おかげ! 本当に ありがとう!」
「それは、よろしゅうございました」
 ケネスは穏やかな口調で返したが、早く立ち去りたいという気配が迸っている。
「こっちのケネスで良かった! ピペ! アン! こっち! 俺の師匠のケネス!」
 物怖じしないにも程がある。世界宿屋協会の一員としてここにいるケネスが、おいそれと逃げ出すことのできない状況を理解しているんだ。素早くケネスの背後に回り込み、がっちりと両肩を掴む。
 いきなり駆け出した仲間を追ってきたのだろう。アンルシア様がピペを抱えて、小走りでこちらに向かってきた。王家の迷宮に渦巻いていた闇を祓ってきたという驚くべき戦果まで上げてきた勇者と盟友は、それ以上の成長を遂げてきたラチックの師匠に興味津々という表情を隠していない。その表情に疑問が掠め、確信に変わって、あっと口が開くまで瞬き一回分も要らなかった。
「貴方は…!」
 俺は公の立場のケネスの顔が、引き攣るのを初めて見た。
「アン。ケネス 知ってるのか?」
 アンルシア様の戸惑った様子に、ラチックも驚いているようだ。
 ケネスは顔を合わせるまでは、記憶に残らぬ印象の薄い男である。だから、顔を見た瞬間に今まで会って起こったことが、吹き上がるように思い出されるのだ。しかし、不思議である。ケネスがアンルシア様にお目通りしたことは、なかったはずだ。
「ラチック、そ、その人がお師匠様なの? だ、だって、そ、その人…」
 狼狽するアンルシア様を前に、ケネスも腹を括ったのか姿勢を正し表情を戻す。手を前に組み、角度も速度も頭を下げて上げるまでの間隔も完璧な一礼を披露する。ラチックの腕も肩についてくる。
「グランゼドーラの姫君、アンルシア様とお見受けします。私は世界宿屋協会の警備の担い手の一人、ケネスと申します。よしなに、お見知り置きくださいませ」
「あ、はい! グランゼドーラの王女、アンルシアです。こちらこそ…」
 相手の慇懃な態度に王女としての作法で反応してしまったアンルシア様だったが、そうじゃない!と叫んだ。
「貴方はアラハギーロで狐面を被って、国宝の『幻日の鏡』を盗んだでしょう! それにソーラリアでも、私を蹴り飛ばしたじゃない! 思い出したわ。最初に出会ったのはモンセロだったわね!」
「個人的情報は守秘義務の範囲内にありますので、お答えかねます」
「いいえ、答えてもらうわ。貴方は何者なの? 一体、どういう理由で『神の緋石』に関わっていたの? 貴方は大魔王の仲間なの? それとも敵なの?」
 凄まじい剣幕で詰め寄るアンルシア様と、背後からラチックに押さえつけられているケネスは微動だにできない。むしろアンルシア様が抱えているピペが潰されそうになっているのを、ケネスがうまく隙間を作っているくらいだ。アンルシア様の鋭い視線を静かに見返しているケネスより、ラチックの方が動揺している。
「アン。質問 たくさん。答える できない。ケネス 良い奴。敵 違う」
 擁護しようとするラチックを、ケネスが制止するように小さく手を挙げる。上げた手を再び前に組んで、アンルシア様に視線を戻す。
「モンセロ温泉郷の『秘湯の花』より、スタッフの応援要請があったのは事実です。対応者が丁度不足しており、私とコンシェルジュマスターのアインツで対応しました。その後、我々は露天風呂でのお客様同士の諍いを止めることが出来ず、死亡事故に至った責任を取るため業務を離れ自己謹慎をしております。それ以外のことは宿屋協会とは関わりのない個人情報となります。ご容赦ください」
 う。アンルシア様が言葉を詰まらす。確かにモンセロ温泉郷で魔族を撃破したと聞いたが、露天風呂で戦ったということは…いや、何も言うまい。俺は何も聞かなかった。
「敵か味方かというご判断は、今からされれば宜しいかと…」
 ケネスはそう言うと、懐から一枚の漆黒の封筒を取り出した。金の美しいカリグラフィーと、金の蜜蝋で封じられた特別なものと一眼で分かる気品溢れる品。ケネスはラチックに目配せして手を離させると、一歩下がってピペに封筒を丁寧に差し出した。
「ピペ様。マデサゴーラ様より、魔幻宮殿へのご招待状をお預かりしております」
 ピペがまんまるい目を瞬かせ、舌をしまっておずおずと封筒を受け取ろうとする。それを、さっとケネスが下げた。いや、横から封筒を奪い取ろうとしたアンルシア姫の手を避けるために、ケネスが封筒を下げたのだ。公の立場では見慣れた冷静な態度で、淡々とアンルシア様に言う。
「アンルシア様。これは世界宿屋協会にご依頼のあった、正式な書類にございます。いかなる理由があっても、それを第三者が妨害することはなりません」
「依頼? 大魔王の依頼よ。碌なことじゃないわ! ピペも受け取ってはダメよ!」
 ピペを抱いていなければ、剣を抜いて切り掛かりそうな剣幕だ。諌めるようにケネスは言う。
「受け取らぬ判断を、ピペ様に強制してはなりません。内容に関する全ても、全てピペ様に一任されます。内容を読まずに捨てるも、内容を読んで応じるも、決めるのはアンルシア様ではなくピペ様です」
「貴方は黙って!」
 耳から脳髄を突くような甲高い悲鳴のような声。しかしケネスが真っ当なことを言っているだけなので、子供の駄々のようにしか聞こえない。
「いいえ、黙りません」
 ケネスには珍しい厳しい口調だ。ぴしゃりとアンルシア様の言葉を跳ね除ける。
「貴女は敵であれば無条件に乱暴に扱い殺めて良いという、認識の勇者であってはならない。今の貴女は盟友すらも復讐の道具としか見ていません。盟友になる前のピペ様の関係を、憎き敵あっても貴女は尊重しなければならないのです。それが、ピペ様の尊重に繋がるのです」
 ルシェンダ様ですら、思っても口にしないことだろう。そのことをアンルシア様は心の何処かで理解している。だから黙れと命じるように言うのだ。ここでは、アンルシア様は姫であり勇者であり世界の希望だ。それを、ケネスは真っ向から正論で捩じ伏せる。
 間違ってはいない。だが、打ち拉がれるアンルシア様を見るのは辛い。
 緩んだ手から滑り落ちるように、大理石の床の上にピペが着地する。動かずケネスを見上げていると、ケネスもピペの前に膝を折って恭しく封筒を差し出した。それを両手で受け取り、大事そうに懐に入れる。
 それを、アンルシア様は見ることができなかった。顔を背け、肩を震わせている。
 立ち上がったケネスは、背後に立つラチックに振り返る。
「ゼネラルマネージャーに交渉し、公の私に声を掛ける周到さは、流石ゼルドラド卿に師事した方。見事な手腕でしたが…まだ、詰めが甘うございましたね」
 悔しそうに口をへの字にしたラチックに、にやりと個人の顔が覗く。その表情がすっと拭われると、ケネスは俺にもゆったりと頭を下げた。
「ノガート殿。これにて十分にご理解いただけたことかと…。それでは、失礼いたします」
 面倒ごとは終わったと伸びる背中を、俺は見送るしかなかった。
 彼は手厳しすぎる。正しくはあるが、アンルシア様はまだ年頃の娘だ。大魔王との戦いで兄を目の前で討たれ、己が勇者である事実を知らされ、大魔王に操られ手先にされた兄と戦わねばならぬ心境はどれほど辛いことか。それを慮る気はないのだろう。
 優しさはためにならぬ。心構えを教えるならこれ以上の存在はないだろうが、それでも、今のアンルシア様には辛いものにしかならないだろう。姫として大事に扱われていたからか、今のように反発されることも十分にありうる。
 だから断っていた。そう思うと、やはりあの男の協力が得られないのは惜しいと思う。