重要なのは足場よりも視線の先だ - 後編 -

 その日、グランゼドーラの全ての人が空を見上げた。
 雲一つない澄み切った青空を、伝説のペガサスが駆けたのだ。光を放つような曇りなき白馬は、その背に巨大な純白の翼を生やしている。歴代の勇者を乗せ大魔王と戦ってきた、盟友と同じく勇者と共に戦う神の使いの来訪は、勇者の勝利を人々に確信させ色めき立たせた。
 グランゼドーラの上空を優美に旋回し、私の前に音もなく降り立つ。長い白い睫毛の下の瞳は知的な色を帯びて、膝を抱えてベランダの隅に座り込む私を見下ろしていた。私の顔に親愛を込めて顔を寄せると、涙に濡れて冷えていた頬が日差しのような温もりに乾いて火照る。
『私の勇者。雨に打たれる子猫のように打ち拉がれて、可哀想に…』
 不思議な声色だった。慈愛に満ちて柔らかく包み込む中性的な声は、まるで風に触れて強さや温度を知るかのように自然と頭の中に滑り込んでくる。傍に寄り添ってくれたペガサスは、強い海風を遮り、淡い輝きが涙を乾かしてくれた。馬らしい引き締まった筋肉だったが、全く圧がない。
『私の勇者。心の内を打ち明ければ、少しは心の苦しみが和らぐかもしれません』
 ペガサスの労る気持ちが、私の心を解してくれる。湧き上がって満ちて行く安堵感は、初めて出会ったとは思えなかった。
「ピペとラチックが、マデサゴーラの所へ行ってしまったの。分かってる。招待状は宮殿に飾った、ピペを含めた芸術家の絵画を見に来なさいって内容だった。勇者を裏切れなんて書いてない」
 記憶を失いミシュアとして出会う前には、もう接点を持っていた二人。芸術家としての力量を認めてくれたマデサゴーラを、ピペは父のように慕っていたとラチックは言う。だから『マデサゴーラ様と今一度向き合うことで、きちんと貴方の盟友になりたいと思います』と、ピペは言った。
 盟友を復讐の道具として見ている。言葉が胸に突き刺さったままだ。涙が溢れて、気持ちが乱れて沈んで、どうしようもない。頭を振って、膝を抱えて、苦しみを堪える。
 自己嫌悪が勇者としての私の形を壊していく。周囲が勇者としての未熟さを嘲っている声が聞こえるようだった。自分の弱さが、溢れる憎しみが、止まらない。
 慕っていた存在を勇者の盟友の使命だから殺せなんて、酷いことだと思う。
 私は大魔王に散々苦しめられてきた。グランゼドーラを攻められ、多くの民が家を失い、家族を失った者も少なくはない。兄様は殺された。今も遺体を利用されている。それを兄様が死んだことで塞ぎ込んだ母様に、今も伝えることができない。レンダーシアの全ての命は大魔王の影に怯え、勇者に打ち倒されるのを待っている。
 ピペも、そうだと思ったの。
 盟友ならば私と共に戦ってくれる。大魔王を倒して平和になって、何も辛いことはなくなると思っていた。でもピペは大魔王を倒したら、大きな存在を失うのだ。私はそれを強いる。復讐のために。
 私と違うと分かっていたのに。この世界の誰よりも違うと、ミシュアの時から知っていたのに。
『私の勇者…』
 ペガサスが動いたのが、横殴りのような海風で分かった。前に回り込んだ白い光は、首を垂れたように私に顔を寄せた。
『私の名はファルシオン。貴女の望みは、私の望み。勇者。貴女はどうしたいのですか?』
 問いが消え、潮の香りが容赦なく私に纏わり付いてくる。
 どうしたい。どうしたい。渦を巻いて嵐のような心の中心には、ひとつしかなかった。
「ピペと、ラチックの所に、行きたい」

 『神の緋石』を失い変質したソーラリア峡谷は、今では瘴気に満ちた巨大な都に成り代わっていると斥候は報告した。それがおそらく大魔王マデサゴーラの居城なのだろうと、ルシェンダ様も仰る。そこへ向かうことは、最終決戦に赴く事と同じだ。
 盟友を伴わずにファルシオン様と共に乗り込む私に、お父様もルシェンダ様も不安な顔を隠さない。お母様に至っては抱きついて『行かないで』と涙ながらに訴える。盟友であるピペと、力をつけたラチックと共に大魔王に立ち向かうべきなのだ。それでも、私は出発を決めた。
 最低限の人に見送られ、私は日が昇る前のグランゼドーラからファルシオン様と共に飛び立った。夜気が凝縮されて冷える夜明け前の空気と、星々が瞬く星空が私を優しく包み込む。ペガサスの薄らと光る白い体に掴まっていると、東の空が明るくなる。黒々とした星空に席を譲られた空色は、海との境界線にスッと入った曙色によって一瞬にして華やいだ。閃光が投げ放たれると、闇に沈んでいたレンダーシア大陸が掬い上げられる。ドラクロン山岳の鋭い峰が淡く赤く色づく空を突き上げ、大昔に錬金術とドワーフの匠が作り上げた天まで届く巨塔の影が一直線に大地に投げかけられる。アラハギーロの砂漠を黄金に輝かせ、レンダーシアの巨大な内海は数えきれぬ宝石を投げ込んだようだ。
 綺麗。夜明けに見惚れる私の心が、驚くほど穏やかになった。
 私が一人であることが、ファルシオン様が静かに寄り添っていることが、静かに満ちて行く。
 ファルシオン様の翼は大地を行くなら数ヶ月掛かる道のりを、数時間で駆け抜けた。黒い瘴気が渦巻くソーラリア峡谷であった場所を、旋回するファルシオン様の上から目を凝らす。黒く変色した捩じくれた岩が木のように天を目指す大地が広がっている。大通りが放射線に伸び、伝統的な建築方法らしい似たような城下町が広がっていた。街には誰も住んではいなかったが、誰かが住んでいただろうと思わせるような雰囲気が漂っている。そして、それらを見下ろすように巨大で美しくカットされた黒い宝石が浮かんで見える。いや、その宝石の中に宮殿らしき影が見えた。あれが大魔王の居城だと、手に力が入る。
 居城へ至る道らしき巨大な階段の前に降り立つと、そこには既に先客がいた。
「本気で単身で来やがったよ。ファルシオン。勇者の命が惜しいなら、止めてやれよ」
 呆れた様子で階段の脇に座っているのはケネスだった。今まで何度も合間見えた時の、ボロ布のような外套に村人が着るような簡素な布の服の出立ちだ。気怠げに喫煙していた彼は、ファルシオン様に白煙が棚引く煙管を突きつけた。
 ファルシオン様から降りた私は、庇うように前に立つ。
「なぜ、貴方がここにいるの?」
「ここに居るのは、ラチックにお前の護衛を頼まれたから。招待状も渡した訳だし、アフターケアの一環さ。ちび助とラチックが居なくてべそべそ泣いてるお前さんを、ぶっ飛ばしに行けってゼルドラドじゃなくても言うぜ?」
 そう言いながら立ち上がるケネスに、背後で不満げに鼻を鳴らしたファルシオン様が言う。
『ケネス。貴方が勇者を傷つけた事は見通しています。出できた以上は、もう少し協力的であってもらえませんか?』
「協力的さ。単身で大魔王の居城に突っ込むなんて無謀だって、止めにきたんだよ。まぁ、俺が止めずとも、進むのは簡単じゃねぇがな」
 そう、階段の先にある宮殿の影を見遣った視線につられる。グランゼドーラの大通りに匹敵する横幅の階段は、真っ直ぐに宮殿に向かって伸びている。しかし階段の途中に門のように3重の結界が貼られていて、恐ろしいほどの魔力を塗り固めて威圧感を伴って立ちはだかる。
 確かに、簡単ではない。結界から波のように寄せる魔力が肌を刺激するのを、憎々しげに見上げた。手も足も出ないのか。そこから指を咥えて見て居ろと、大魔王に嘲笑されている気がした。
 私の横にファルシオン様が並び、同じように結界を見る。知的な瞳で丹念に見ているようだったが、首を巡らせて私の顔に口を寄せる。
『私と勇者が力を合わせれば、突破することができるでしょう』
「突破した後は? ファルシオン、突破する為にどれだけお前自身が消耗するか考えろ。盟友とラチックが合流出来るまで、単身で勇者を進ませるつもりか? あぶねーだろ」
 ひらりと煙管を振るケネスが、鼻先で笑った。その様子にファルシオン様は苛立ちを見せる。
『貴方は勇者の護衛に来たのではないのですか?』
「誰がそんな面倒事引き受けるよ」
 ふっと煙を吐き出したケネスは、道を開けるように階段から離れた。何故かと思う間もなく、ケネスが立っていた場所に巨大な影が着地した。巨体が持つ重量感が、地面に敷き詰められた石畳を砕く。弾け飛ぶ石礫に、腕で顔を庇いながら影を凝視する。
 ソーラリア峡谷でゼルドラドと共に襲ってきた、ガルレイと呼ばれた魔獣だ。瘴気を纏い全体的に黒ずんだ輪郭が見えるばかりだが、ぎょろりとした双眸と大きく開いた口が、楽しくて仕方がないと笑っている。咆哮がびりびりと空気を震わせた。
「勇者! 貴様の首をマデサゴーラ様に捧げる!」
 レイピアを抜き放ち、振り下ろされた爪を盾で流す。修行で力は増したが、やはり敵の純粋な力は脅威だ。人ならざる巨体を構成する筋肉から生み出される一撃は、衝撃すらも伴って踏ん張れず体が蹌踉めく。そんな私の肩を、ガルレイは力強く掴んだ。
 凄まじい瘴気の臭いに顔を背けるが、私の顔を覗き込もうとわざわざ首を巡らせた。そしてにたりと、心底気味の悪い笑みを浮かべた。牙が私の頬を擦り、唾液に濡れた面に私の色が映り込む。
「お前を見ていると昔を思い出す。世界を恨み、自分自身すら憎む、力のなかった頃を」
 はっと瞳を見開く。心に滑り込んだ言葉が蓋を開け、目を背けていた想いが吹き出してくる。
 勇者として覚醒して、私が目指した兄様みたいな勇者になれただろうか?
 盟友がいなくて不安定な私を見て、勇者としての自覚が足りないという言葉が聞こえる。頑張ってるの。頑張ってるつもりなの。それでも、不安で、辛くて、仕方がないの。勇者になれば感じないと思ってた。それでも、勇者になったから余計に強く感じる。人々の希望になる為に、優しくて、勇気があって、頼り甲斐があって、気高くて、強くあろうとした。勇者を目指そうとすればするほど、私は独りになって行く。
 兄様が影武者であったことを、隠した者達を恨む気持ちが吹き出す。それ以上に恨んだ自分が許せない。兄様を死に至らしめたのは、私が無力だから。何もかもが嫌になる。嫌いだ。嫌いだ。勇者はそんな存在じゃあっちゃいけない。律すれば律するほど、相反する気持ちが募って積み上がる。
 一番大事にしたい、ピペとラチックの気持ちすらも…!
 勇者姫を思い出す。あの子の顔が鏡の向こうにあった。
 私が、一番嫌い。だいっきらい…!
「お前は俺と同じだ! 力を求め、憎しみに駆られ、暴力を振りまく!」
 勇者。勇者って何?
 大魔王を倒す。それだけははっきりしている。
 大魔王を倒せば、私は勇者だ。どんな、どんな私であっても。
「だまれぇえええ!」
 自分の声も考えもかき消さんばかりに、私は叫んだ。涙が滲んで、何も見えない。それでも、剣を突き出した。
 前に進むべき体が、前から抱えられて大きく後ろに下がった。瘴気の臭いがこびり付いた嗅覚に、すっと気付草の爽やかな香りが流れ込んでくる。頬を温かいものが伝って行くと、はっきりした視界の中に私を下ろしたケネスが見える。
「ファルシオン。少しだけ、時間を稼いでくれ」
 べちんと両頬が挟まれた。思ったよりも温かい大きな両手が、私の頬から頭を包み込んでいる。煙管を咥えていないからか、鼻先が触れ合うほどの近くにケネスの顔があった。
「頭に血が上り過ぎだ。冷静になれ」
 冷静に。どうすればなれるんだろう。ぐしゃぐしゃになった心は放心状態で弛緩したけれど、しわくちゃなままだ。ただ、息苦しくて、喘ぐように呼吸する。
 あぁ。この男くらいだった。ちかちかと明滅する視界の中で、初めて見る真面目な顔を見る。
 面と向かって、勇者である私を批難する。勇者であるからと、世界を救う唯一の存在だからと、何か言いたげに見ているだけはない。その赤と碧の瞳で射抜くように見て、その無精髭の生えた口元が心を抉るように厳しい言葉を紡ぐ。その足は私を蹴飛ばしたし、その剣の鋭さに圧倒された。嘲るような顔で私を見下ろしてばかりだったわ。
 どうして、貴方は私の目の前にいるの? 私は期待もできない小娘なんでしょう?
「あ、あなたも、わたしが、ゆうしゃじゃ…な、ないって、いうんでしょ? みじゅくで、おろかな、な、ゆうしゃだって」
 涙が溢れて何もかもがぐちゃぐちゃになる。そんな中で、男が動いた。額を押し付けられ暗く陰る世界に、静かに丁寧に紡がれた言葉だけが響いてくる。
「勇者が愚かで何が悪い。未熟で何故駄目なんだ? 勇者は馬鹿で丁度良いんだ」
 初めて聞いた言葉に、私は目を丸くした。
 愚かな勇者様なんて聞いたことがない。馬鹿で良いだなんて、誰一人言わない。
 だって、勇者様なら馬鹿より賢い方がいいじゃない。だから兄様は誰よりも呪文の勉強ができたし、誰よりも剣術の修行に励んで強くなって行った。優しくって、立ち振る舞いが綺麗で、私の自慢の兄様だった。兄様が勇者であるだけで、世界が救われるって思うほど完璧な勇者だった。
 勇者は世界を救う。全部を救ってみせてしまう。人の理想を体現した勇者。優しくて、勇気にあふれて、誰かのためを常に考える。そうなろうとした。兄様に出来るだけ近い存在になろうとした。勇者は、そうなるべきだって私も皆も思ってる。
「勇者は、立派な」
「勇者は人が生み出した幻だ。お前は勇者じゃない。お前の名はアンルシアだろ?」
 私の言葉を押しつぶした声は、何の感情もなく意味だけで構成されている。
 アンルシア。私の名前がじんわりと染み込んでくる。
 そうだ、私の名前はアンルシアだ。どうして、そんな当たり前のことを忘れていたんだろう。お父様が、お母様が、兄様が、城にいる全ての人々が親愛を込めて呼んでくれた名前。ピペとラチックが、勇者であっても変わらずに呼び続けてくれた愛称。それが私だと思った瞬間に、すっと全てが明瞭になる。
 アンルシアだって苦手なものくらいあったわ。ミシュアとして生きてお料理やパン作りがとても上手になったけど、それまではお料理なんて全然出来なかった。大きな声で笑ったら怒られて、礼儀作法の勉強は嫌いだった。お姫様なのに剣も呪文も得意で、お転婆姫って言われたわね。家族の前で怒って拗ねて部屋に閉じこもったこともあったっけ。
 私の形がはっきりする。無理に型に嵌めたような、無理矢理広げたような息苦しさがない。ありのままの、心の形が人の形とぴったりと合わさったようだった。
 世界が明るくなる。優しく細められた赤と碧の瞳が、私を覗き込んだ。
「落ち着いたな」
 顔を包み込むように挟んだ手が離れると、冷えた空気が頬を撫で音が耳に飛び込んでくる。煙管を咥えたケネスが、口を歪めて私に問う。
「アンルシア。お前は、今、何がしたい」
「ピペとラチックの所に行きたい」
 私の即答に、ケネスは『分かった』と小さく頷いた。腰に佩た2本の隼の剣を抜き放ち、外套を翻して背を向ける。
「連れて行ってやろう。目の前のデカブツを蹴散らして、お前とファルシオンで大魔王の門をド派手にぶち破ってやれ」
 ケネスが駆ける。ガルレイを押し留めるファルシオン様を踏み台にして、上を取ると凄まじい剣戟の雨を降らせる。驚いて大きな隙が生まれたガルレイに追撃し、ファルシオン様は翼を広げて戦線から離れる。
 後は頼みましたよ。そんな言葉を聞いてすれ違う私に、ケネスが大声で言い放った。
「アンルシア! 勇者の光で大魔王の力を払え!」
 体の内側から光が溢れてくる、勇者の証の力。それは閃光になってガルレイに放たれ、獰猛な獣のように闇に喰らい付いた。闇は衣のように切り裂かれて鮮やかな色を曝け出し、闇に膨れ上がった獣の体が闇が引き剥がされたことによって明らかになる。
 ガルレイが忌々しげに吠えた。頭から背に伸びた金色の鬣を振りかざし、濃い紫の皮膚の上を覆う茶色い毛並みが逆立つ。大きく振り被った両手が私に向かって振り下ろされるのを、前に滑り込んだケネスが隼の剣を交差して受け止める。凄まじい力が加わり、ケネスの足元の石畳がびしりと音を立てて砕ける。
 ガルレイの瞳に傲慢があった。ケネスが攻めても、私が攻撃に加わっても、負けぬ自信があるのだ。実際に鬣も毛皮も鋼のような剛毛のようで、ゼルドラドに多数の切り傷を付けたケネスの剣戟をものともしない。毛皮の覆われていない胸から腹は、一撃を受け止めているケネスで隠れている。側面から攻撃しても、大した一撃にはなり得ないのを分かっているのだ。
 だが、それをこの場の誰もが理解していた。
 ケネスの頭が左にズレる。僅かに空いた頭と腕の隙間は、レイピアだからこそ滑り込ませることが出来た。ずぶりと、剣先が沈み込む。これが両刃の剣であったなら筋肉によって阻まれただろうが、これは針のように細いレイピアだ。筋組織を滑り込み、奥へ奥へ進軍する。
 私は高らかに雷の呪文を唱えた。黄金の雷が銀の刀身を駆け上り、敵の胸板を貫いた! 大きく開いた口から迸ったのは、断末魔の叫びではなく私の放った雷だ。体の中で爆ぜて暴れた力に大きく仰け反ったガルレイに、ケネスは隼の剣を大きく振りかぶった。寸分の狂いもなく同じ場所に振り下ろされる刃。それは鋼のような筋肉を切断していき、瞬く間に背に達して切り裂いた!
「俺は……全てを、ひ、跪かせ…」
 血泡に混ざった言葉が消えると、ガルレイの体は魔障の煙となって霧散した。
 ガルレイの死を見届けたケネスは、階段の脇に退いて隼の剣に付着した汚れを外套で拭う。目で追っていた私に気がついて、小さく肩を竦めてみせた。自由にしろとでも言っているんだろう。
 もう、私の前に立ちはだかる者は誰もいない。結界すら障害にならない気がした。
『さぁ、私の勇者。お乗りなさい』
 傍に寄り添ったファルシオン様に跨る。ファルシオン様の聖なる力と、私の勇者の力が呼応するように高まっていく。黄金の光は輝く馬具になり、純白の体を覆っていく。前足を上げて嘶くと、虹を帯びたパールのような光が一角の鋭い角になる。
 行きますよ。そんな言葉は必要なかった。私は前屈みになり、ファルシオン様の一部になろうとする。前足が地面を掻き、視線が結界を構築する魔法陣を見据える。後ろ足の筋肉が盛り上がり、力強く大地を蹴る。
 魔障漂う空気を引き裂き、前へ前へ。最も強固な中央から、正面切って一角を突き立てる。硝子を砕くように一枚。氷を貫くように二枚。最後の一枚は強固だったが、それでも、私とファルシオン様の妨げにはならなかった。摩耗して光を散らす一角を突き立てられた魔法陣は、小さい輝くヒビを生じさせると、瞬く間に大きく全面に広がっていく。
 空気が弾けるように魔法陣が砕け散った。光の残滓が雪のように舞い散る中、ファルシオン様が大魔王の居城の前に降り立った。翼を畳み、一角が馬具と共に消え、疲労したように項垂れる。降り立って労るように頭を撫でる私に、拍手が響き渡った。
「おみごと。一気に叩き割っちまうとは、思わなかった」
 手を叩きながら階段を登ってくるケネスを見下ろしながら、私は言う。
「ケネス。なんで心変わりしたの?」
 今まで否定的だった存在は、唸るような返事をしながら私に並ぶ。煙管を手にして上を向いて煙を吐き出すと、こともなげに呟いた。
「ラチックから気付草3束貰っちまったからさ」
 どんな返事が返ってきても『行きましょう』と言って進むつもりだった。その言葉が消えていた。
 ケネスは気付草3束貰ったから、大魔王の城の前に居るらしい。勇者の護衛として、大魔王の精鋭と命を賭けて戦わされたのだ。ここから先も、一緒に行ってくれる。気付草3束で。
 私がしげしげとケネスを見上げると、ケネスも首を傾げるように見下ろしてくる。
「貴方、気付草3束で勇者の護衛を引き受けたの?」
「何か問題でもあるのか?」
 なぜ、そんな質問をしてくるんだと言いたげな顔がそこにある。普通なら命を賭けるのには相応の理由があるはずなのに、この人は気付草3束なのよ。変な人!
 大魔王の城の前で、私は大声で笑ってしまった。