人の得るもっとも美しく尊い旅路 - 前編 -

 それは素晴らしいという表現以外、どう、言い表すべきなのでしょう。
 建物の全て、見えぬ場所にまで行き渡るマデサゴーラ様の芸術。柱の一つ、タイルの一枚にまで欠けることのない完璧な作品。絵画や彫刻を引き立てる空間は計算され尽くされ、庭の手入れは恙き日々を連想させる整いぶり。建物の色が全体的に暗めで、明かりの届かぬ場所はのっぺりとした闇が溜まっています。そこへ飲み込まれるワインレッドの絨毯の柔らかさに吸い込まれる、足音と歩く感覚。まるでマデサゴーラ様の芸術に飲み込まれ、その一部になっているかのよう。感動に胸が張り裂けてしまいそうで、息苦しさすら感じてしまいます。
 招待状で招かれたのは、私達だけではありませんでした。
 マデサゴーラ様が支援する芸術家は勿論、芸術に精通した人物まで様々。殆どが人間でしたが、人間では有り得ない肌の色や角の生えた者、魔物の姿も見かけました。
 そして彼らを案内するのは、作られた『学芸員』達。レンダーシアの何処にでも居そうな、普通を集めたような無難さで構築された者達です。有り触れた目鼻立ち、見苦しくない体格、不快感や不潔を取り除いた身なりと立ち振る舞いをする人間達。老いも若きも、男も女も様々ですが、まるで台本を丸暗記して読み上げているような抑揚のない語りで作品を説明するのです。彼らの目は固く閉じられていますが、転ぶことも説明する作品を見誤ることなく客人達を案内していきます。
 そして、私とラチックさんに付いた『学芸員』は、トーマ王子だったのです。
 作品を邪魔しないように黒と白い縁取りの二色遣いの礼服ではなく、夢で出会ったトーマ王子としての服装を暗色に染めた感じです。肌の色は血の気のない白さでしたが、身に染み付いた礼儀作法の美しさは溜息を溢すほどです。
「マデサゴーラ様は魔界よりアストルティアに進軍された折に、創生の破片を手中に納められた。偶然か必然かは定かではない。マデサゴーラ様は心赴くままに、もう一つのレンダーシア大陸を創造された」
 窓を覗き込めばミシュアと初めて出会ったメルサンディ村の麦畑が、扉の覗き穴の向こうに子供達だけのセレドの町が、水瓶に映り込んだのは日差しの強いアラハギーロが見えたのです。多くの招待客はその本物のような臨場感に驚きを感じていましたが、実際に旅をして訪れた私達も驚くばかりでした。あの生きていると思っていた人々が、マデサゴーラ様の作品の一部であったのですから。
 しかしルアムさん達が属する、5大陸からやってきた調査団は本物でしょう。彼らの話はこの世界に戻ってきてからも、噂で聞くことができたからです。
 私は違和感を感じながらトーマ王子の説明に耳を傾ける。
 もう一つのレンダーシア。それは、この宮殿の中に納められたマデサゴーラ様の作風とは随分と異なっていたからです。嘘と少しの本物を混ぜて、随分と泥臭さを感じさせる。創作というものは、どことなく作者の綺麗事が透けて見えるものです。死を恐れるなら死のない世界が、苦しみから目を背けたいなら都合の良すぎる展開が、製作者が多少なりとも美化した描写がされるものです。
 マデサゴーラ様の作品集を拝見して、魔族とアストルティアの人間の感性が違うことは確かです。しかし、差し引いても違和感になり得る変化を感じます。
「自らの創り上げた大地に満足された大魔王様は、新たな挑戦に臨まれる。女神の創りし大地を消し去り、自らを創世の大神となることを欲したのだ」
 ラチックさんの上から、トーマ王子の綺麗なつむじを見下ろします。
 彼はマデサゴーラ様が手にした、ある意味、作品の一部です。この作風の変化が彼にも適用されるなら、彼はアンの兄であるべきなのです。しかし、このトーマ王子は他の『学芸員』と変わらない。
「大魔王マデサゴーラ様は、アストルティアに存在した冥王ネルゲルと契約を交わす。エテーネという民を滅ぼす力を貸し与える代わりに、レンダーシアをアストルティアから隔絶させた。迷いの霧はレンダーシアを包み込み、大魔王様の作品が真実となる準備が整えられた」
 わかるのは、マデサゴーラ様がレンダーシアを滅ぼすつもりだということ。大魔王として、アストルティアの敵であること。あれ程の方が何故アストルティアを敵にするのか、私にはわからない。
 その真意を理解しなければ、私はアンの隣に盟友として立つことはできないのです。
「不思議だな」
 私を肩に乗せているラチックさんが、ぽつりと呟いた。
「マデサゴーラの 作った レンダーシア 本物と そっくり。する 必要 あったのか?」
 5大陸の調査団の面々も、誰一人存在を疑わなかったもう一つのレンダーシア。町の佇まいも、作られた人々も、あの時の私達は本物だと思っていました。
 創作は本物とは違う。作り主の主観が入り込んだ、作り物でしかない。
 模倣。手習いのつもりで作ったのでしょうか?
 このレンダーシアを作るという行為も、作り出したレンダーシアを本物とする行為も、マデサゴーラ様が求める理想の一つの通過点でしかないとしたら…。仮説は私の胸に居座り良く落ち着いたのです。
「女神が作り出したレンダーシアに、人間の守護神グランゼニスが遺した神の緋石が存在することが、大きな障害となって立ちはだかった。神の緋石の結界を破る為に、大魔王様はグランゼニスの力を宿した勇者の力が必要だと見抜かれていた」
 トーマ様は他の『学芸員』と同じく、抑揚のない声が平坦に続きます。
「勇者を手にせんとグランゼドーラに魔元帥ゼルドラド卿を差し向けるも、人間達の計略により惜しくも取り逃すこととなった。勇者の行方は知れず、変わりとなるべき存在を創り出したが勇者の力が宿ることはなかった」
 もう一つのレンダーシアにいた、勇者姫アンルシア。彼女は鮮烈でした。丁度、私が描いた絵の前に差し掛かったので、ラチックさんは足を止めて絵を見上げました。
 勇者姫アンルシアと名乗っていた女性の絵。一つ一つのパーツの美しい女性の顔は焦燥に眉を寄せながらも、己を皮肉るように口元に笑みを浮かべる。唇の隙間にうっすらと覗く白い歯は、狂気すら感じるでしょう。己の心の臓を抉り出した掌の上に、多くの民の死骸を踏みしだき悍ましい黄金の魔物が生まれた恐ろしくも美しい絵です。
 必要だったから、鮮烈だったのでしょうか? いえ、必要とされなかったから鮮烈となったのです。彼女は勇者となるべく生まれ、勇者になれぬ故に、ありとあらゆる手段を用いてでも勇者を目指した。
 なぜ。私は絵の中の彼女に問いかける。
 作品が完成した時点で、それは不変です。赤く塗った花は、青くならない。丸は、三角に変わることはない。作られた完成品は、創造主の望んだ形以外のモノになることはできないのです。
 貴女はどうして、勇者になれなかったのに勇者になろうとしたんですか? マデサゴーラ様が勇者に出来なかった思った時点で、貴女はもう勇者にはなれない。望まれたことだったんですか? しかし、許されたことではあったはずです。
「故に勇者の兄トーマを創生の力で蘇らせ利用し、ソーラリア峡谷を魔幻宮殿に塗り替えることに成功した。それは大魔王様の覇道の始まりに過ぎない」
 光のない硝子玉のような瞳が虚空を見つめて、血色の良くない唇が淡々と言葉を紡ぐ。そんなトーマ様を見ながら、私は一つの可能性を考える。
 変化は、許される。
 マデサゴーラ様のレンダーシアが本物に近い理由が、きっと許された変化にあるのでしょう。
 ふと、傍に立っていたラチックさんが振り返り、私を下ろして深々と会釈をしたのです。
 私も振り返れば、そこにはゼルドラド様を従えたマデサゴーラ様が立っておいででした。その姿は私が以前グランゼドーラでお会いした人間の姿ではありません。腕は左右に6本もあり、肌の色は赤と青の配分が完璧な紫。それでもその顔立ちも、彫刻のように整った肉体も、覇王のような堂々たる雰囲気も全く変わりがありません。ラチックさんに倣って頭を下げると『楽にせよ』と声をかけてくださいました。
 私の絵の前に立つと、顎髭を撫でてじっくりと鑑賞される。
「良い絵だ。胸が騒つく」
『ありがとうございます』
 マデサゴーラ様の視線を追うように絵を見上げます。私はマデサゴーラ様のご依頼の通りに、かの世界の勇者姫の肖像画を描いたつもりでした。
 でも、この絵は今のアンの姿を描いているかのよう。
 勇者として覚醒し、盟友を得て真の勇者として磐石になったはずのアンルシア。あとは大魔王を倒すだけ。その矢先に盟友である私は、勇者と盟友を守るべき仲間を伴って大魔王と並んでいる。アンがどれだけ心細く不安定になっているか、それを描いているかのようでした。
「勇者が心配か?」
 私の不安を嗅ぎつけたのか、愉快そうに笑うマデサゴーラ様のお顔がありました。
 問われれば、頷く以外の回答がありましょうか。招待状を差し出したケネスさんの言葉は正しい。マデサゴーラ様が居なければ、私は芸術家としての才能を開花させることは叶わず、アンルシア姫の肖像画を描く画家の選考会に出向くことはなかったでしょう。記憶を失ったミシュアに出会うことはなく、勇者の盟友にはなり得なかったでしょう。アンと出会う前に築かれた、私とマデサゴーラ様との関係。それを否定することは、私にはできなかったのです。
 私は純白のメモに言葉を綴る。
『私が盟友として勇者の横に立つ為には、マデサゴーラ様のご招待に応じなくてはなりませんでした』
「命乞いや、共存を説こうとはせんのだな」
 私はにっこりと笑いました。
『己が求める正しい色を譲れと、誰が強いれましょう。芸術家の拘りを私は理解しています』
 芸術家の己が内にある確かなものが、表に出ることで作品となる。芸術家の世界では海の色は赤ければ赤くなり、どんなに現実の海が青であろう説いたとて変えることは出来ない。その芸術家の海の赤は確かに本物であり、芸術家の作風と現実に受け入れられていく。いずれ赤い海が見える人が現れる影響力が、芸術家の内には煉獄の炎のように燃えたぎっているのです。
 まるで、今の二つのレンダーシアのようです。
 マデサゴーラ様の作品への強い想いを感じております。
『私はマデサゴーラ様の芸術を少しでも理解しようと思い、参りました』
 アンと出会わなければ、一人の芸術家として尊敬する存在であったマデサゴーラ様。そんな方と戦わねばならぬ運命は、アンが思う程に非情には感じませんでした。芸術の道を歩む者同士、己が内のものを譲ることは決して出来ないからです。どんなに素晴らしいと認めても、己の作品が一番良いという信仰に近いものを我々は抱いている。
 そんな我々が譲歩できるのは、理解すること。相手の世界を理解して折り合いをつけることで、共同制作が可能となるのです。出来なければ、それまで。道を分つだけです。
『勇者は何者か。大魔王は何者か。私はアンルシアの代わりに模索せねばなりません』
「勇者は良い盟友を得たようだな」
 それは純粋な喜びに感じました。好きな画材が一緒のような、好きな被写体が同じだったような、そんな共通のものを見出したような喜び。
 それもそうかもしれません。大魔王にとって勇者は、世界から供されるダンスのパートナー。芸術に秀でたマデサゴーラ様であるからこそ、パートナーは魅力的であって欲しいと思っていたに違いないでしょう。しかし、アンはまだ未熟。だからこそ、マデサゴーラ様は勇者よりもレンダーシアという作品に熱を入れたのかもしれません。
 魔族の寿命がどれほどかは知りませんが、ありとあらゆる画材を題材を素材を体現してきたのでしょう。我々にはもう理解できない世界の果てを、この方は目指している。その道を行くことがアストルティアを踏み台にすることになろうと、痛める良心などないのです。
 なぜなら、我々は芸術家。最高の作品を求める狂信者なのですから。
『アンルシアも、私も、ラチックさんも、貴方の作品となり得ますか?』
 ルネデリコ様という芸術家がいらっしゃいます。かの方は戦いや財宝が描かれた、幻想画という世界に人を招く。幻想画の中の真実に右往左往する人々の感情こそが、かの方の描く芸術です。
 作品は真に描きたいものを描く為の、芸術の切っ掛けにすぎない。
 マデサゴーラ様の喜びに触れて確信しました。
 レンダーシアという作品に混ぜられた、創造と本物。これほどの芸術家なら全てを生み出せるはずなのに、本物を混ぜてでも描き出したかったもの。
「蝶は生きる為に花の蜜を求め、花は子孫を増やす為に蝶に蜜を与える。共生関係の片割れを失った時、残された者の絶望の深さは計り知れない。所詮は弱者の馴れ合いにすぎぬ」
 メルサンディ村の麦畑を覗き見る窓辺に立つ『学芸員』が言う。
「妖精達は気の向くままに、空を舞い自由を謳歌する。自由には常に対価が求められることを知らぬ妖精達に、行先に待つ地獄を避ける術はない」
 『学芸員』の囁きの余韻を引き継ぐように、子供達だけのセレドに響いた鐘の音が鍵穴から漏れる。
『強く眩しい光に恐怖を覚える者も、儚く淡い光に安らぎを感じる。どちらも身を焦がす灼熱の閃光に変わりはないにも関わらず…』
 何を選択しても破滅が待っていた砂漠の国の水瓶が、音を立てて倒れた。水溜りに映り込む熱狂の上で、無表情の『学芸員』が言葉を伝える。
「絡み合う蛇達の不規則かつ不自然な姿こそ、混沌の象徴に相応しい。世界はかのような純然たる混沌に満たされるべきなのだ」
 勇者になれぬも目指す事を許された苦しみに喘ぐ少女の絵を前に、『トーマ王子』が語った。
 『学芸員』達の唄うマデサゴーラ様の作品の意図を束ね、私は結論を述べました。
『マデサゴーラ様が目指す主題。それは『生き様』と解釈しました』
 そして、最も大切な被写体が現れる。
 私達だ。勇者と、その仲間達。大魔王と命を賭けて戦う宿命を持った、我々の生き様がマデサゴーラ様によって描かれようとしている。
 私は真っ白い便箋に丁寧に紡いだ言葉を載せました。
『マデサゴーラ様。貴方に認められた者として、勇者の盟友として、責務を果たし貴方の作品と競いましょう』
 便箋を収めた真っ白い封筒を差し出し、それを受け取ったマデサゴーラ様は身を翻します。その表情は窺い知れませんが、無言で受け取られたならば不正解ではありませんでしょう。その堂々たる背中は、確かに魔界を背負いし風格。そして芸術家として弛まぬ研鑽を、私は大魔王として以上に尊敬している。
 宿敵と世界を賭けて戦うにしては、不純な動機かもしれません。
 しかし、私達は己が内に掲げた芸術という信仰の名の下に、決して譲れぬものでもあるのです。それを譲らぬことこそ、芸術家としての誇り。研鑽は互いに最も大切にしているものを、削りあう行為であります。
「行くぞ、トーマ」
 トーマ王子が無言で従い、ゼルドラド様が続く。
 そして一度だけ足を止め、マデサゴーラ様はこちらを見たのです。最後かもしれぬ親しみの色を忘れぬよう、私はマデサゴーラ様のお顔を見つめました。整った口髭が愉快そうに持ち上がり、瞳に期待の色がある。
 あぁ、この表情にお応えしたい。この方に恥じぬ芸術を作り続けねばと、心に誓います。胸の前に持ってきた手に力が籠る。
「楽しみしておるぞ。勇者の盟友と仲間達よ」
 私は深々と頭を下げる。それが、私とマデサゴーラ様の決別でありました。