人の得るもっとも美しく尊い旅路 - 後編 -

 大魔王マデサゴーラの居城である魔幻宮殿の、世界に存在する在らん限りの荘厳さを溶いた闇が包み込んでいる。篝火の炎は何の燃料を使っているのか黄緑色で、不思議と空間の厳かさに合っていた。その最奥に据えられた薄布で覆われた玉座らしき巨大な影を前に、ゼルドラドは膝を折って畏まっている。カーペットが吸い込む足音すら荒々しく踏み潰して進む勇者に、大魔王の右腕は行手を遮るように立ち上がった。
「大魔王様の御前である。控えろ」
 俺は足を止めて小さく会釈する。相手の要求にある程度応えることは、面倒回避に必須のことだ。
 当然、大魔王の宿敵たる勇者のアンルシアは聞き入れやしない。ゼルドラドを射抜く燃えるような憎悪の眼差しは、結びつけられたようだ。澄んだ音でレイピアを抜き放ち、ゼルドラドとその背後にいる大魔王に鋒を突きつける。
「勇者よ。戦いの美学を知らぬとは、器が知れるぞ」
 マデサゴーラの嘲笑う声が聞こえた。復讐に燃える乙女もまた美しいとか言うと思ったが、やはり勇者にはそれなりの理想を描いているんだろう。薄布で遮られた巨大な玉座の影に沈んだ赤い双眸が瞬いた。
「教えてやるが良い、ゼルドラドよ」
 ゼルドラドは玉座に向けて優雅な一礼をし『全て心得ております』と答えた。こちらを向いた時にはゼルドラドの長身と大差ない大剣を携え、闘気と殺気が迸る。戦いの美学にしては随分と粗野じゃないか?
 俺が隼の剣に手をかけようとして、アンルシアのレイピアが空気を横に薙いだ。一瞥もくれることなく、憎き兄の仇を討つ決意に満ちた声が固く響く。
「ケネス。手出しは無用よ」
 堂々と一服できるな。俺は煙管を取り出そうとして、ゼルドラドの殺意満載の視線を浴びたので戻した。
 アンルシアの気合いが空気を震わせ、勇猛果敢に斬りかかる。刀身に勇者の力を乗せた黄金の輝きは、ゼルドラドの大剣の圧と拮抗するほどの力を秘めている。ゼルドラドが面白いものを見るように口元を歪める。
 盟友を得て、修行を行い、闇を払う力に目覚めた勇者の力は大魔王と戦うに値するだけのものになっている。ゼルドラドといえど、軽く遇らうことは難しいだろう。
 黒い雷と金色の雷が互いに食い合う。黒い獣が金の鳳と互いの喉笛を噛み切らんと激しく衝突し、食い殺した相手の屍を踏みしだいてその奥にいる敵に迫る。黒い獣が勝てば勇者は剣を振りかざして金の光で貫き、金の鳳が勝てば魔界屈指の剣士は漆黒の剣を複数呼び出して串刺しにして大地に縫い留めた。
 ゼルドラドが呼び出した複数の大剣が、雨霰とアンルシアに迫る。アンルシアは駆けて避けながら、大剣を睨みつけると幻のように大剣をかき消してしまう。魔力で作られ実態にも作用する幻をかき消す勇者の眼の力だろう。
 次々と迫る大剣を消すには、それなりに集中が必要なのだろう。一度に全てを消し去ることはできず、攻撃を避けながら消していく。しかし、ゼルドラドとて追い討ちをかけるように、大剣の本数を増やして攻撃を苛烈なものにしていく。
 ちらりと目くばせしてきた勇者と、目が合う。そう、これは復讐じゃない。勇者と大魔王がアストルティアを賭けて争ってるんだ。
「仕方ないな。少しだけ、だぞ」
 アンルシアの上を飛び越えるように飛ぶと、隼の剣を二本抜き放つ。黄金の光が鞘から飛び出し、振り抜いた軌道を雷が駆け抜けていく。4重のギガスラッシュの閃光が、槍衾のように迫った大剣を一蹴した。
 手加減して消えないようにした大剣は、ばらばらと宙を舞う。その一つに足を掛け停滞した空間を駆ける。全ての時が止まったかのような集中力の中、まだ掻き消えていないゼルドラドの大剣を把握する。隼の剣を握り直し、俺はすっと目を細めた。全てが、繋がる。世界に、溶ける。個の概念が消えて明確になる空間の中で、俺は隼斬りよりもさらに高速で刃を振るった。的確にゼルドラドの大剣達は弾かれて持ち主に向かっていく。
 驚きに目を見開いたゼルドラドが、力を制御して己の生み出した刃を消滅させる。力を解かれて霧散した魔瘴の黒々とした霧が、ゼルドラドの周囲を厚く包み込んだ。
 双方に奪われた視界。それを大きな好機と、アンルシアは捉えるだろう。
 闇を突破し、自分を殺めようと迫る剣。急所を狙ってくるが故に、熟練ならば対処しやすい攻撃だった。ゼルドラドには、霧を抜けて剣を突き出すアンルシアの姿が見えているに違いない。
 アンルシアは無謀でも一縷の望みに縋って、霧の中に突進していく。アンルシアの光が、魔瘴の霧の中に呑まれていった。
 俺は隼の剣を収めると、弾ききれずに残った大剣を掴んで着地する。ゼルドラドの大剣はずっしりと重かったが、バランスの良いものだ。魔瘴で作られていて指先が痺れていくが、気にはしていられない。両手に持ち、大地を踏み締め、腰を低く落とす。ぐっと奥歯を噛み締め、力の限り大剣を振り抜く。遠心力を最大限に引き出した剣圧は、その場の空気を引き回して強烈な旋風を生み出した。
 風が動く。霧を毟るように引っ掴んで、虚空に放り投げる。
 霧が払われて露わになった二人は、渾身の一撃を繰り出すところだった。互いにその心の臓に剣をねじ込もうと、意思が体を動かし結果を掴もうとする。アンルシアの剣の鋭さも、ゼルドラドの圧倒的な剣術も、ほぼ同時に命を奪う位置にあった。
 このままならば、相打ち。
 この場に、俺という不確定要素がなければ。
 俺は煙管を咥えた。
 その動作だけで、ゼルドラドの集中が分散した。ただアンルシアを殺めることだけに集中していれば殺せたのに、ゼルドラドは俺が喫煙し出すことに一瞬気を取られてしまったのだ。芸術品が展示されている宮殿内って、禁煙だもんな。
 一瞬の隙をアンルシアは逃さなかった。ゼルドラドの胸に彼女の刃が突き立てられる。兄の仇、人間の敵、大魔王の右腕。勇者にとっては超えるべき存在に、ついに刃が届いたのだ。
 それでも、ゼルドラドは余裕の笑みを浮かべていた。なにせレイピアが突き刺さっただけで、致命傷には程遠い。己を貫いたことで次の行動を起こすまで隙だらけな勇者に、大剣を振り下ろして殺すことなど雑作もないと思っただろう。ゼルドラドが大魔王の眷属でなければ、それは正しい認識だった。
 勇者。勇者が生まれるグランゼドーラの一族の中から、更に神が選んだ存在。大魔王を倒す運命を背負った者。その運命は大魔王とその眷属に特別な力となって作用する。
 刀身に流し込まれた光が爆ぜる。大魔王を殺めるべく神が与えた、人には過ぎたる力。大魔王の眷属に耐えられるものではない。
 ゼルドラドは鼓膜が破れそうな大声で叫び、大きく仰け反る。それでも、剣は手放さない。体という体から吹き出した光が血飛沫を巻き散らし、剣を持った腕すらも大きく震えているのに勇者に向けて振り下ろそうとする。
 その剣は勇者の豊かな亜麻色の髪を数本散らしたところで、手からこぼれ落ちた。力の抜けた体はゆっくりと背中から床に倒れていき、夥しい血が広がっていく。ずるりと仇から抜けた剣を無造作に下げ、アンルシアはゼルドラドを見つめていた。
 兄の仇を討てたのを喜んでいるのだろうか。大魔王を倒す一つの障害を取り除いたと思う程度なのか、俺には分からない。無表情だった横顔が、ぴくりと動いた。
 小さく笑い声が聞こえる。痙攣のように全身を引き攣らせながらも、ゼルドラドは愉快そうに笑っていた。両手を天に突き出し、ここにいないだろう誰かに向けて言葉を紡ぐ。
「マデサゴーラ様…。このゼルドラド、お役目を、完遂いたしました」
 弾かれたように顔を上げたアンルシアは、ゼルドラドの脇を駆け抜け薄布を切り払った。薄布が流水のように流れ落ちて床に溜まると、その向こうには空の玉座しかない。魔力で作り上げた赤い双眸に見立てた光が、蝋燭の火を吹き消すかのように消えていく。
 アンルシアが驚いたように息を呑み、ゼルドラドに振り返った。
「大魔王はどこにいるの!」
「貴方の芸術の完成を、見届けることができぬのが、唯一の、こころ、のこ…り」
 俺はゼルドラドの傍に歩み寄ると、その顔を覗き込んだ。煙管を咥えたまま、にやりと口元を持ち上げた。良い魔生だったか? そう、無言で問いかける。
「じゃあな、ゼルドラド」
 マデサゴーラに仕えると決めたお前に、俺は心底驚いた。剣の道を極めることだけを考えていたから、ネロドスのような大魔王になりたいと思っていた。剣の道以外に見つけた道を、想像以上に楽しそうに誇らしげに歩いていた。最後まで変わらなかったのは、その生真面目さ。
 笑みを深めたゼルドラドの両腕が力を失って床を叩くと、一瞬にして魔瘴の霧と成り果ててしまった。
 お前の生き様を心底羨ましく思う。俺は瞑目して梯を昇った先の幸福を祈った。

 変化は一瞬にして起きた。
 魔幻宮殿の泥濘んだ闇が吹き払われ、周囲が明るくなったのだ。まるで空の上に放り出されたかのようで、塔の頂上が一番しっくりとする。真っ青な雲ひとつない空に向かって、氷のような透明感のある螺旋階段が果てしなく続いている。渦巻く魔力は創世の力だろ。
 背後の一幅の絵が扉のような存在感と、その絵の向こうが別の空間に繋がっている気配がする。茨に絡みつかれた美しい女神の絵だった。
「アン!」
 絵の中からラチックとピペが飛び出してきた。幽霊みたいで驚いて肩が跳ねる。
 勇者と盟友とその仲間は、再会を喜びあった。互いに抱きついて肩に顔を埋め、互いの無事を心から喜んでいる。もう大魔王を倒したような雰囲気だが、面倒なので水は差さない。
 ピペを抱いていたアンルシアは、再会を堪能してから現実に意識を戻した。どこまでも広がる世界を見回しながら、首を傾げる。
「大魔王はどこへ向かったのかしら?」
 それぞれに周囲を見回した3人の視線が、なぜか俺に集まった。全員分からないが、俺が知ってるかもってか? 俺は火の入っていない煙管を口から離すと、煙管をすっと真上に向けた。
「奈落の門。神々が封じた地への入り口だ」
 果てしなく広がる真っ青な空に一つだけ輝く光。良く目を凝らせば、星とは違うと分かるだろう。
「神世の時代の戦争で、竜の民が暮らした世界は奈落と化した。生きるには過酷で、憎悪が渦巻く大地は凄まじい穢れに満ちた。生き残った神々はその世界をアストルティアから切り離し、唯一の入り口たる奈落の門を破壊してしまった」
 天空に浮かんだ大地は、地上に存在する6大陸と変わらぬ巨大なものだった。創造した存在の連なりを切断する行為は、世界のバランスを欠いて崩壊の危険すらあるが、神々は奈落となった彼の地を捨てることを選んだ。影響しないよう繋がる可能性すら潰した、念の入れようだ。
 アストルティアと彼の地を直接行き来することは、誰もできない。はずだった。
「しかし、創世の魔力で新しく作ったんだろう」
 大魔王マデサゴーラ。恐ろしい大魔王だと熟思わされる。
 無いなら、新しく作ってしまえ。実現させてしまうのだから、厄介さに拍車をかける。
「何の ため?」
 奈落は確かに存在し続ける。確定とまで言い切れる可能性が、彼の地には存在した。
 質問の答えを求めるように集まった視線に、俺は煙管を形だけ咥えて言う。
「そりゃあ、奈落にお宝があるからさ。神世の戦いと共に失われた竜の神、女神ルティアナの長子が持ち得る唯一にして絶対の秘宝『創世の霊核』。新しい世界を一つ作れる強大な力の源だ」
『マデサゴーラ様の芸術にそれが必要という訳なのですね』
 俺が肯定するように頷くと、アンルシアが凛々しい声で言う。
「大魔王の思う通りにはさせないわ!」
 『行くわよ!』と気合いに満ちたアンルシアと、力強く応じる仲間達。大魔王との決戦間近ではあったが、どうにか形にはなったようだ。この勇者と盟友、そして仲間。彼らを見ていると、この世界は大丈夫だろうという気持ちが湧いてくる。
 なんとかアストルティアは守られる可能性が出てきたな。
「ケネス 怪我でも してるのか?」
 視線を向けるとラチックが心配そうに、こちらを見ている。別に。そう言いながら、俺は出入り口だろう茨の女神の絵画に向かって歩き出す。
「俺は役目を果たした。もう、帰る」
 アンルシアが二人と合流するまで守る。盟友とラチックの所まで、勇者を連れていく。俺は確かに約束を果たした。お役御免じゃないか。ようやく帰れる。まずは宮殿から出て一服して、協会に戻ったらアインツの分まで溜まった仕事を確認しなくちゃならない。いや、その前にゼネラルマネージャーに退職願を突きつけなくては。もう俺は働きたくねぇのって、主張しなくちゃならねぇ。なんで仕事が優先になってんだよ。あぁ、煙草は久々にとっておきの特薬草でも吸おうかなぁ。
 豊満とも慎ましやかとも言えない絶妙な大きさの女神の胸に顔を埋めそうなくらい近づいた体が、急に引き離される。思わず目を見開いて、口から煙管が落ちた。なんで? 疑問が頭をよぎって、ようやく思考が未来から今に向く。
「ここまで来て、帰るだなんて許さないわよ!」
 アンルシアの両手が胸の上に置かれて押している。
「ケネス 一緒に 来て!」
 ラチック、後ろから羽交い締めにしてんじゃねぇ!
 は? なにこれ。なんなんだよ、この状況。俺、どうして帰っちゃいけねぇんだよ? 体に力を入れて振り解こうと思ったが、ラチックの馬鹿力ががっちり嵌って抜けられん! アンルシアの押しも加わって、ずるずると絵から引き離されていく。
「ちょ、やめろ! これ以上面倒事に巻き込むんじゃねぇ!」
 ダメよ。駄目だ。周囲で否定が輪唱する。く、本当にラチックの野郎は力が強いな。ここまで見事に嵌ると、関節外すくらいしないと逃げられない。もう帰れるって完全に油断した。第一、アンルシアにとって俺は嫌な奴じゃないか。俺をどうして最終決戦まで連れていくつもりなんだ? 意味がわからねぇよ!
 ピペが俺の煙管を拾って、ちょこちょこと前に進み出た。見た目は完全にプクリポの くりっとした瞳と、ベビーサタンの癖なのか舌がぺろりと出たあざとい顔が俺を見上げている。
 なんだろう。じりっと、表現するには曖昧な不安が忍び寄る。
 なんか、これが、一番嫌な感じがする。
 にまっと笑ったと思ったら、脇腹に飛びついてきやがった! な、何でそうなる! 振り解こうにも振り解けず、なんだか小さい指が背中で動いている。何なんだ。不満をぶつけようと口を開いて、その指の動きが覚えのあるものだと気がついた。
 み ん な が み ん な で あ れ る
 あ な た の お か げ で す
 背中に描かれた文字を集中して読み取る間に、すっかり大人しくなってしまった。俺の顔を覗き込む顔が何とも嬉しそうで、なんだか、帰りづらくなっちまった。
「ケネスも行くのよ!」
 あぁ、ゼルドラド。お前の魂がまだそこにいるなら、俺を笑ってるんだろうな。俺の果てしない旅の合間に加わった同行者は、今回はどうにも騒がしい勇者御一行なんだから。アインツもそうだが、こうやって引っ張り回してくる性分の連中とは相性が悪い。
 仕方がない。大魔王ぶっ飛ばすのとガキ共を振り切るの、どっちも面倒だがガキ共の方が厄介だろう。
 俺はガキ共と歩き出す。ピペだけは、なぜか脇腹にひっついたまんまで。