甘やかな誘惑

 ざんざんと滝のように天から零れ落ちた雨が上がると、雲の切れ間から金色の光が無数に差し込んだ。その光は空気に残っていた雨の欠片に宿り、広がりつつある青空に大きな虹を描いた。世界が祝福していると、僕は思った。
 僕の大事な妹。世界を救う勇者。
 僕は浮かない顔をしていただろう。父が嬉しくないのか? と心配そうに顔を覗き込む。妹が生まれて嬉しいよ。ずっと待ってたんだもん。でも、恐ろしい大魔王と戦う運命を持っているんでしょう? 可哀想じゃないの?
 ベッドに横たわる母が、抱いてあげてとお包みを差し出してくる。小さい小さい、何も知らない赤ん坊。びっくりするほど小さい手が、ぎゅっと僕の指を力強く握った。ぱっちりと大きい目が僕を見て、嬉しそうに笑ったんだ。
 僕は何を不安に感じていたんだ。笑顔を見た瞬間、僕は僕の運命を見つけた。真っ直ぐに迷いなく、その運命を望んでいたと手にする。
 僕は命を賭けて、アンルシア、君を守ろうと誓った。
 そんな僕の大事な勇者様は、白の中庭の植え込みで膝を抱えて泣いている。朝に母様と選んだ可愛らしいピンクのドレスは泥に汚れ、赤い帯は池に浸ったのか濡れている。兄様。そう鼻の詰まった声で僕を見上げると、瞳に溜まった涙がぼろぼろと白くまぁるい頬を伝っていく。
「どうしたんだい、アンルシア?」
 妹を抱き上げて、僕は日向に連れ出した。泣き止まない理由は、実は知ってるんだ。
 君が僕の盟友になりたいって、お父様とお母様に言ったんだってね。お母様が『嫁入り前の娘が剣を握るだなんて、はしたない!』って怒ったんだ。まだ幼いアンルシアには内容よりも、お母様に怒られたことがショックだったんだろう。大泣きして中庭の隅っこの植え込みから、動かなくなっちゃった。
 木漏れ日が強くなる日差しを優しく和らげ、中庭の香り高い花々の香りが包み込む。強い潮風を遮る城壁の内側は、宝石のような美しい蝶が花々の上を軽やかに渡っていた。池の辺りに飛んできた小鳥が喉を潤し、美しい声で喉の調子を確かめている。
 泣き止んでも吃逆が止まらないアンルシアが、もぞりと体を動かした。
「にいさまは アンルシア が めいゆう だと いや?」
「嬉しいよ」
 僕はにっこりと笑えば、アンルシアが光るような笑顔を見せる。
 君が僕を守りたいって、大事に思ってくれている。嬉しいに決まってる。でもね。僕は可愛らしい鼻先に、ちょこんと指を当てる。顔を土に押し付けたのか、鼻先について乾いた泥を指先で払った。
「泣き虫の盟友は、困っちゃうな」
 アンルシアのまぁるい頬が、風船みたいに膨らんだ。なかないもん。そう言いながら、じわりと涙が出てきてしまう。めいゆうに なるの。そう言いながら、アンルシアは泣き疲れて眠ってしまう。
 子供の熱いくらいの体温を感じながら、僕に全てを委ねてくれる命を思う。
 勇者の運命を避けることはできない。娘が勇者の運命を背負っていることに、父は困惑を隠せなかったが来たる日の為にと腹を括っている。勇者の父として、一国の王として、世界を救う勇者の王国の預かり手として父は決断するだろう。
 それに真っ向から反対しているのが、母だった。己の血肉を分け、お腹を痛めて産んだ娘だ。待望の子が娘であると信託を受けて喜んだのも束の間、勇者の運命を背負っていると知り不安に苛まれた。大きなお腹を抱えて、勇者の過酷な運命を憂いて海に飛び込もうとしたこともあった。生まれた愛らしい娘に人一倍の愛情を注いでいるのが、償いに見えるほどの傷ましさも感じる。
 アンルシアが勇者になる運命を変えることはできない。それでも、勇者になって命を落とすような危険に身を投じなければならない事は嫌だ。
 どちらの気持ちも、僕はわかる。だから僕は、お包みに包まれた妹を抱いたあの日に誓ったんだ。両親が選ばなかった、選べなかった選択。
 僕が勇者の盟友になって、アンルシアを守るんだって。
 どう守るか。スライムにすら殺されてしまう、幼く弱い勇者。こんな小さな命を四六時中守る事は、難しい事だった。例え世界で最も安全と言われる、王城の中であったとしてもだ。
 そこで僕は考えたんだ。勇者の命を狙うような奴らを欺く事で、危機から遠ざける。僕は勇者の影武者を買って出た。グランゼドーラの第一子の王子という立場は、僕が勇者だって嘘をあっさりと信じさせた。真実を知っている人は信頼できる、ほんのひと握り。父に母に賢者様方、懺悔を聞く神官様、そして最近ノガート兵士長も加わった。
 信じてもらい続けるには努力の必要な嘘だったけど、苦にはならなかった。
 だって、僕こそがアンルシアの盟友になりたいんだもの。大魔王と戦うアンルシアを支えて守る。その為には勇者以上に努力しなきゃいけない。剣術も、魔法も、戦略だって、ありとあらゆることを学んだ。それは結果的に勇者である嘘に、説得力を持たせた。
 本物の勇者であるアンルシアでさえ、僕が勇者だと疑わなかっただろう。
 アンルシアが僕の元から離れて、父から何かを渡されると嬉しそうに戻ってきた。まだ幼さの残る頬を赤らめて、光り輝く瞳で僕を見る。手に持ったレイピアは国一番の名工が打ったもので、真新しい白銀の輝きを宿していた。
「兄様! 見て! お父様に剣を頂いたの! 木剣じゃないの! ほんものよ!」
 よかったね。形の良い丸い頭を撫でながら、僕は笑いかけた。
「真剣だから、怪我をしないようしっかり修練しようね」
 うん! 元気よく頷いた顔が、ぱっとどこかへ走り去っていく。ノガートにも貰ったレイピアを見せていて、手当たり次第に兵士達に自慢して歩いている。よっぽど嬉しかったんだろう。あまりにも嬉しそうで、僕は笑い声を上げてしまう。
 本当は娘の誕生日に剣を贈るだなんて複雑な気分だろうに、あんなに喜ぶ姿を見せつけられた父を振り返る。僕の盟友になると言い続けたアンルシアに根負けしたと言っても良かったけど、父は娘が生き残る為にと贈ったのだ。剣を授けられ、娘を戦場に立つことを許したのだ。
「ね。言った通りでしょう? あの子が、勇者になる事は誰にも止められない」
 でも、大丈夫。僕は父を見上げて笑う。
「僕があの子の盟友になる。そして、あの子を必ず守ってみせる」
 剣を握り呪文の勉強に身を打ち込んでも、アンルシアはグランゼドーラのお姫様だ。勇者でなかったとしても、グランゼドーラの王族には子孫を残す責務が重くのしかかる。先代勇者アルヴァンは不死の魔王と相討ちとなり、今の王族達は勇者の妹君の末裔だからだ。
 アンルシアには幼い頃から縁談が付き纏っていた。歳の近い貴族の若者達から、未来の伴侶を選ばなくてはならない。未来に勇者が生まれる可能性を存続させる為に、僕らが結婚し子をなす事は決定事項だった。
 縁談に使う肖像画の為に美しく着飾ったアンルシアは、飽きて足をぶらぶらさせている。
 姫様、動かないでください。困ったように注意しながら、遠くリャナ地方から呼び寄せた画家が絵筆を走らせる。若い画家の夫婦には歩き始めたばかりの娘がいて、その子をアンルシアがとても気に入って妹にしたいと言って困らせている。ゆりかごに乗ってうとうとしている赤子を覗き込むと、生まれた日のアンルシアを思い出す。
 ぱちっと、赤子が目を覚ました。紫水晶のような美しい瞳が僕を見ると、赤子はつんと尖った唇を開けた。ぽかりと真っ黒い闇が白い肌に刻まれる。
『ずっと、こうしていたいと願っているのですか?』
 責めるような魂の声色に、僕は困ったように眉根を寄せた。
 僕達は創世の欠片で生み出した、奈落の門を目指しているはずだった。しかし、渦巻く創世の力は生きる者の願いや思惑に反応して、様々な世界を生み出した。この世界もそう。僕か、アンルシアの願いで生み出された平和な過去の日々が過ぎ去っていく世界。
 ここ数日間は日にちが進行していない。時間が巻き戻っている訳ではない。まるで蜃気楼を追うかのようで、画家の描くアンルシアの絵は全く捗らない。
 それでも、恐ろしいほどに平和で穏やかな日々だ。僕の今までの人生でも、今が家族が一番満ち足りていたと思える日々。この時より未来に近づけば、アンルシアは勇者の片鱗を見せ始め、修行に明け暮れ実力を高めていく。
「私の願いではない。アンルシアか、それとも、君か」
『あの人達は、私をこれから捨てるんです』
 アンルシアの盟友。小さな赤子のピペは、両親らしい芸術家達の背すら見ない。嫌悪感を滲ませる赤子らしからぬ顔だったが、僕が差し出した指を握って口に入れてしまう。歯の生えてない口が、もごもごと僕の指を食んだ。
『ずっと赤ちゃんで絵筆も持てないし、とっても暇です。そんな世界を作りたいと思いません』
 僕らは母に嗜められ頬を膨らますアンルシアを見る。この世界が創られた偽りの世界であることに、一人気が付いていない様子の彼女が望んでいるのだろうか。
 だとしたら。
 僕は唇を噛む。アンルシアが勇者としての力が必要にならない未来が、確かに欲しかった。母の願うように、妹に剣を持たせて大魔王に立ち向かえ、数多の魔物と戦えと言いたくはない。目の前の縁談のための絵を描かれ、良い伴侶を得て、子供を授かって、戦いを知ることなく生涯を全うして欲しい。
 父の覚悟のように家族と世界を天秤に掛ければ、確かに世界に傾かねばならない。
 それでも僕はアンルシアが望むなら、このままでも良いと思ってしまうのだ。

 絵は一向に完成せず、僕はアンルシアを探す日を繰り返す。絵を描かれる為に何時間も椅子に座るのは苦痛らしく、どこかに隠れてしまったり、ピペと遊んでモデルを放棄したりと画家を困らせている。
 今日もピペを連れ出して中庭で遊んでいる。庭で午後のお茶をしようと、母に呼ばれて足を運ぶ。
 庭師が精魂込めて手入れしている庭はとても美しく、料理人が作ってくれるお菓子はとても美味しい。母が淹れてくれお茶の香りがふんわりと漂う一家団欒の時間は、胸が痛くなるほどに平和だった。
 無邪気に隣で笑うアンルシアが痛ましい。
 僕は君が生まれた時から覚悟していたが、君は何も知らないまま突然勇者の責務を負う。勇者であると突きつけた僕の一言で、君の世界はひっくり返っただろう。
「ずっと、ずっと、こんな日が続けば良いのに」
 アンルシアがぽつりと漏らす。そんな妹に母は優しく微笑んだ。
「そうね。ずっと続くわ。だって、世界はこんなにも平和なんだもの」
 ねぇ。そう父に振れば、穏やかに同意する。見渡す全てが綻び一つない程に穏やかで、幸せに満ちている。疑いようのない平和な世界では、勇者も大魔王も存在しないかのようだった。
 小さく、妹が首を振った。亜麻色の髪が日の光をきらきらと反射するごとに、妹は美しく力強く成長していく。瞬く間に妹はアストルティアを背負う勇者に成長していた。
「違うわ、お母様。アストルティアは今、大魔王の脅威によって危機に瀕しているの」
 僕とピペは弾かれるように、この世界を否定するアンルシアを見た。
 僕でも、ピペでも、アンルシアでもない。一体、誰がこの世界を作って僕らを留めているんだ?
「何を言っているの、アンルシア。大魔王なんて、いないじゃない」
 母は戸惑ったように、手に持ったカップを置いた。
「いいえ。いるわ。私が生まれた時には、大魔王が現れるって分かってた。私は大魔王と戦わねばならないの」
 アンルシアは母の手を取った。いつまでも瑞々しくて美しい肌と、磨かれた爪にマニキュアを塗っている母の手。アンルシアは美しく手入れしも隠せない剣を握る者の無骨な手で、世界一優しい僕らの母の手を包み込んだ。
 にこりと笑うアンルシアは、優しく母に話しかけた。
「お母様、ありがとう。お母様は誰よりも私のことを心配して、私の幸せを願ってくれている。お母様の作った世界は、幸せに満ちていて溺れてしまいそうだった」
 そうか、この世界を作っていたのは、アンルシアを思う母の願いだったのか。
「でも、私は勇者。アストルティアの全ての命のために、戦おうって決めたの」
 勇者は凛々しい表情で言う。
 誰もアンルシアが勇者になることを止められない。ずっと、僕こそが、そう言っていた。優しくて、勇敢で、直向きなアンルシア。僕の盟友になりたいと、後を追うように修行をしていたけれど才能は僕よりもあったんだよ。君は僕を直ぐに追い抜いて、立派な勇者になるって確信してたんだ。
「無事に帰ってくる。そして、この願いの続きをするわ」
 母が、父が、警護をしている兵士達が、お茶会の裏方として忙しなく動く者達がぴたりと動きを止めた。人々から、色鮮やかな中庭から色彩が失われていく。そしてガラスのように色味を失うと、世界が砕けだした。バラバラと砕けた向こう側に、雲ひとつない青空がある。
 アンルシアが僕の前に立ち、悲しそうに目を伏せた。
「兄様、ごめんなさい。お母様の作った世界を壊してしまった。ここにいれば、兄様はマデサゴーラの傀儡などにならずに済んでいられたのに…」
 そうか、母の作った世界に気がつかない振りをし続けていたのは、心配する母の為ではない。この世界を出ていけばマデサゴーラの眷属として傀儡にさせられている、僕のことを慮っていたんだ。
 僕はアンルシアの肩に手を置いて、労るように微笑みかけた。
「私のことは気にしなくて良い。アンルシアは、アンルシアの使命を果たせば良いんだ」
 ぼろぼろと涙を溢してしまうアンルシアの涙を、指先で掬う。君ならば世界を救ってくれると思えるような勇者なのに、どうにも泣き虫は治らなかったようだ。でも涙の数だけ、君は強くなっている。
「マデサゴーラは私を使って、君の心を揺さぶろうとするだろう。そんな卑劣な行為に、屈しないで欲しい。傀儡の私から出た言葉は、君の兄の言葉ではない」
 アンルシアが僕の胸に顔を埋める。震える背中を、優しく抱きしめる。
 守りたかった。勇者の盟友として君を守って、君を守り抜いて、平和な時代を勇者としてではなく生きていけるようしたかった。
 それでも、自死は許されない。もう死んでいる肉体は剣を突き立てた程度では機能を停止することはなく、水に溺れようが炎で身を焼こうが滅ぶことはない。大魔王の創世の力と闇の根源との契約でもたらされた魔瘴の力が、肉体をすでに人ではなく魔のものに変じていた。自分の意思とは関係なく、勇者の敵として立ちはだかる運命を呪う。死んでいたとはいえ、僕が魔王の手に落ちたことでアンルシアを傷つけているのが辛かった。
『トーマ王子。希望を捨ててはいけません』
 赤子から小さい女の子に成長したピペが、くりっとした瞳で僕らを見上げたまま猛然とスケッチブックに鉛筆を走らせている。今まで書けなかった鬱憤を晴らしているのだろう。鉛筆から煙が出そうな勢いで、僕らのスケッチを次々に完成させている。
『マデサゴーラ様は変化は認めております。黒は白に変わることはできませんが、白に変わろうとすることは許されているのです。それが、あの方が描きたかった生涯の主題であるのでしょう』
 自信たっぷりにピペは笑った。
『私は奇跡を信じています』
 ピペは芸術家達が持つ、狂気に似た好奇心で目が輝いている。
『奇跡の連なる今が、私達が立っている場所。奇跡とは可能性があっても、予期せぬこと。あらゆる技術に精通したゆえに熟練し、全てを思うがままに創造しているマデサゴーラ様が、持ち得ていない唯一の手法です。私はそれを使って、マデサゴーラ様に負けない作品を生み出します』
 アン。トーマ王子。小さい手が僕達に差し出される。
『どうか私と一緒に、アストルティアの平和という作品を作ってくれませんか?』
「ピペ!」
 アンルシアが飛びつくように手を取って、そのまま小さい体を抱きしめる。アンルシア、ちょっと力を緩めた方がいい。ピペがとても苦しそうだ。
 僕はふっと笑みが浮かんでしまう。
 ピペ。君が妹の盟友で良かった。僕が盟友になれなかったのはとても悔しいことだけど、君がアンルシアの隣にいることが今はとても心強い。君になら大事な妹を任せられる。
 アンルシア。僕は必ず君を守ってみせる。そう決意を秘めることが、無駄ではないと君の盟友は言った。小さい体に秘められた大きな力は、生まれた時に僕に微笑みかけた君を思い出す。
 あの時から僕の運命は決まっていた。
 でも、奇跡は必ずある。
「行こう、アンルシア」
 僕にとって破滅が待っている未来が行く先にある。でも、何も怖くない。
 僕は、君を守りたいのだから。