創造者たるものまず破壊者であれ - 前編 -

 不思議な青だった。青空は本来吸い上げられるような軽い色彩なのに、まるで海の底にいるかのような澱んだ深い青だ。まるで頭の上から押さえつけられているようで、息苦しさすら感じる。星が想像以上に近く、地上側が明るい空に ちらちらと瞬いている。
 冷えて寒いほどの空気が、グランゼドーラの潮風に負けない強風となって吹き荒れている。見渡す限り水平線は見えず、空の上に浮かんでいるだろう巨大な神殿から下を見る気にはなれなかった。
 神殿は美しい大理石で作られている。艶やかな面に、巨大な篝火の赤がてらてらと映り込む。色鮮やかな輝石で作られたタイルのモザイクが床を彩り、荘厳さの中に華やかさを添える。まるで翼を折り畳んだ鳥のように、丸く形作られた床を囲むように階段が緩やかな円を描き、支えるべき天井がないのに長い柱が連ねられている。階段の上には巨大で荘厳な壁がある。
「あれが、奈落の門だ」
 先に到着していたケネスとラチックが振り返った。
 門。門なんか見えないじゃない、そう思ったが、壁に埋もれた隙間に輝きがある。青く清浄な輝きを闇が切り裂こうとして、甲高い音を立てて弾かれる。弾かれて大きく飛び退った影は、人としては大きすぎる影の横に降り立ちトーマ兄様の姿になる。
 闇が、ゆっくりと振り返った。にたりと笑った笑みは、私を道具として見ていることを隠さない。屈辱を噛み締め、言い様もない不快感を堪える。
 まず目に入ったのは、6本の腕だ。年齢的には壮年を思わせる顔立ちだが、人ならざる紫の肌色で黄金の鎧と深紅の衣服により鮮やかに映える。頭から伸びた2本の角は滑らかな面を見せながら、緩やかに捻れて天を突く。立派な顎髭は威厳を醸し、傲慢なまでの自信に似合っている。
「ようやく、待ち人が来たか」
 人成らざるそれは、慇懃に挨拶をした。見慣れない独特な一礼は、歴史を感じさせそうな格調高さを伺わせる優雅なものだった。闘争の空気が払われ、貴族の謀が渦巻く華やかな戦場の空気が満ちる。
 この場の王であると、主導権を渡さぬ笑みで悠然と語りかけてくる。
「勇者よ、よくぞ参られた。余は大魔王マデサゴーラ。魔族の王の頂点であり、創世の女神への挑戦者だ」
 これが、マデサゴーラ。私は掌の汗で滑る柄を握り直した。敵意を剥き出しにし剣の鋒を外さない私に、マデサゴーラは困ったように眉根を寄せた。
「そういきり立つでない、勇者よ。其方には是非、我が創造の協力者になってもらいたいのだ」
 さぁ。6本の腕が大きく広げられる。
「共に手を携え、奇跡を成就させようぞ」
 体が燃えるようだった。あまりの怒りに、頭の中に浮かんが言葉が悉く焼き尽くされた。大魔王を許せないとか、平和を守る為に戦うとか、考えていた言葉は怒りに焼べられ跡形もなくなる。
 なんなの。なんなの、奇跡って。
 グランゼドーラが襲撃されて、トーマ兄様が死んだこと。ザンクローネ様が守っていたメルサンディ村の人々が、魔物に無惨に食い殺されていったこと。セレドの子供達が親を恋しがって泣いていたこと。魔物の姿になってしまったアラハギーロの兵士が、歓声の中で殺されていくこと。もう一つのグランゼドーラが悍ましい廃墟に成り果てたこと。それらを、奇跡と呼ぶの?
 人の苦しむ様を作り出して、それを芸術と語る。身震いするほどの嫌悪感が、拒絶が、吐き気になって込み上げてくる。体が震える。これが私の打ち倒す敵なのだと、本能が訴える。
 黙りこくる私を見て、マデサゴーラは頭振った。横を見遣り、嫌らしい笑みを浮かべる。
「トーマ。其方も妹が余に協力してくれるよう、説得してはくれまいか?」
 まるで人形のように表情なく佇んでいた兄様が、すっと動き出す。操られているとはいえ、その一挙一投足が全て私の知る兄様そのもの。剣の間合いの外で足を止めると、すっと顔を上げた。
 ふっと眉尻が下がり、口元が持ち上がる。優しい、兄様の笑みが私に向けられた。
「アンルシア。流石は真の勇者。ここに辿り着くほどの強さを得たお前を、私は誇りに思う」
 あぁ。『傀儡の私から出た言葉は、君の兄の言葉ではない』そう、お母様が願った世界で言った兄様の言葉が蘇る。兄様の姿をした何かは、私の成長を心から喜ぶように笑った。
「だが、いくら強くなっても盟友や仲間を得ても、大魔王マデサゴーラ様を敵に回して勝てる可能性は万に一つもない。アンルシア。マデサゴーラ様の配下として、新たな世界で幸せに生きよう」
 気高き兄様の魂を、ここまで凌辱する大魔王の卑劣さ。もう、言葉すらなかった。
 私は剣の鋒を兄様に向け、優しい仮面のような笑顔を睨みつけた。
「兄様。直ぐに大魔王の呪縛から解き放って差し上げます」
 仮面は剥がれ落ち、ソーラリアで初めて見た冷たい顔が露わになる。初めて見た瞬間が脳裏を過ったが、もう、驚きに動揺することはない。兄様に肉薄し、鋭く剣を突く。
 兄様の盟友になろうと剣を握り一生懸命練習した。お父様が基礎を教えてくれて、ノガートが戦略を教えてくれて、怪我をしたらお母様に回復呪文を掛けてもらったわ。そして、剣術が磨かれれば磨かれるほど、修練の相手は兄様だけになった。
 グランゼドーラ王国の姫君としてダンスを踊るよりも長く、兄様と剣を交えた。兄様の力をそのまま流用したからだろう、癖も足の運びも良く知る兄様のもの。そして、大魔王は知らないのだろう。私は、剣術において兄様の腕前を超えてしまったことを。
 激しい剣戟が突然響いた音で止んだ。私が兄様の剣を弾くと、兄様に大きな隙が生まれる。
 私はぐっと拳を握りしめ、全身の力を集中する。湧き上がる光が集まって、掌が光に溶けてしまいそうだ。それを兄様の胸に叩き込んだ!
 兄様の中に満たされていた大魔王の力を吹き飛ばし、勇者の力を注ぎ込む。どうか、兄様が解放されますようにと願いを込めて。仰反った兄様の血の気の失せた白い喉を見つめ、ゆっくりと倒れ込むのを見た。勇者の力に満たされ仄かに金色の光を放つ体は、ぴくりとも動く様子はない。
 私は二度死んでしまっただろう兄様を見つめる。ごめんなさいと悔やむ気持ちに、目頭が熱くなる。
 次の瞬間、白い光が目の前で爆ぜた。ピペが目の前にいて、盟友の盾が展開されている。ラチックさんが私を下がらせピペを押し付けると、盾を構えて兄様の前に立ちはだかる。
「なんで…」
 兄様が私に剣を向けている。勇者の力で闇を打ち払ったはずなのに…。
「余の目論見通りよ。其方の勇者の力を注がれたトーマであれば、奈落の門に施された封印を破ることができよう。一度限りの使い捨て…ではあるがな」
 くつくつと笑い声を漏らすマデサゴーラの横に、大きく飛び退る兄様を見る。大魔王の眷属にされた者への呪縛が、これほどに強力だなんて。光が爆ぜた腕から肉が飛び、血の流れない腕が力なく垂れる。兄様が傷ついていく。私のせいで。
 ラチックが『気をしっかり持て』と声をかけてくれるけど、どうしたら良いか分からない。
 足が崩れても、足取り重く階段を登る兄様の頭上に影が舞った。ケネスだ。煙管をきつく噛み締め、金色の雷を纏わり付かせた二振りの隼の剣を今まさに振り下ろそうとする。乾いた目が裂けてしまいそうなくらい痛むのに、目が離せない。
「封印を解除させるだなんて、させると思ったか?」
 マデサゴーラが放った三連続の闇の塊が、ケネスを目掛けて落下する。ケネスは咄嗟に兄様への攻撃を中断して、放とうとしたギガスラッシュをドルマドンの相殺へ当てる。一つ相殺したとしても、残りの攻撃のうち一つが兄様の腕をもぎ取り吹き飛ばす。
「や…」
 やめて。言いそうになった口を、叩くように塞ぐ。涙が溢れる。私が兄様を苦しめている。勇者は世界を救い、仲間を守る者の筈なのに、兄一人救うことすらできない。
 マデサゴーラの魔法がケネスとラチックに向けて放たれる。私が身動きできず防御に徹するしかないラチックと、執拗な攻撃に兄様に近づけないケネス。ケネスの『動け』と苛立つ声が聞こえる。ラチックが『立て』と急かす声が聞こえる。ピペの手を頬に感じる。その時間は長くは続かなかった。
 大きく、澄んだ音が響く。
「余の野望は、今まさに成就せん!」
 大きく吹き飛ばされ地面に叩きつけられた兄様の向こうで、奈落の門を閉ざしていた戒めが破壊されたのが見える。腕を大きく広げ体を反らして高笑いを上げる、マデサゴーラ背があった。
 奈落の門がゆっくりと開かれようとしていた。