創造者たるものまず破壊者であれ - 後編 -

 シンイの生まれ故郷であるエテーネ村は、レンダーシアの内海の中央にある島だ。その島で最も高い山にある朽ち掛けている神殿で、俺達は時が来るのを待っていた。初めて俺達が出会った日、まだ幼いシンイが予言した時が直ぐそこに迫っている。
 巻き上げられるような空気の流れが、俺達の衣を引っ張る。彼の幼馴染の友人達が仕立ててくれた装備が、ふわふわとした髪やつぶらな瞳や丸い頬なんて優男の印象を引き締めてくれる。実際に戦いに向かない優しい真面目な男だ。ただ血筋や天が与えた才能が、彼を戦場に誘ってしまう。
 幼馴染の少年に故郷を預けた時の心配しきりな顔を見ても、俺は一緒に行くというシンイの意思を拒絶できなかった。その理由もまた、この日の先の予言のためだ。
 不思議な瞳だ。目を開き目の前に広がる広大な世界を見ているはずなのに、ここではない何処かを覗き込んでいるような瞳。色も純朴そうな黒だったが、覗き込めば様々な色が光を反射して星空のようだ。その瞳で未来を見る。エテーネの民のごく一部が持つという、時間に関わる力だそうだ。
 一つ瞬きをし、シンイは表情を引き締めた。
「時が来ました。奈落の門が開きます」
 今まで穏やかだった空が、瞬く間に一変した。まるで積乱雲が湧き上がるように、暗澹たる黒い雲がアストルティアの空を覆い尽くしたのだ。いや、その黒い雲に目を凝らした者は、黒い雲の中に雲ではない何かが潜んでいるとわかるだろう。
 それは空に浮かぶ大陸。
 女神ルティアナが産んだ子供達の長子、ナドラガが守護せし空の民の大陸。浮遊大陸、ナドラガンドだ。俺は故郷の誰もが見向きもしなかった伝説の地が、目の前にあることに感動した。しかし感動できたのは、ほんの一瞬だった。
 凄まじい熱波が顔を舐めた。大陸を包んでいる雲が燃え出し、まるで一つの太陽のようだ。
 奈落と成り果てた空の民の大地は、5つの厄災に見舞われたという。業火に見舞われ灼熱の大地となり、全ての命が燃え尽きた地。全ての熱が奪われ、ありとあらゆるものが凍りついた大地。猛毒に汚染され暗闇に閉ざされた大地。洪水によって全ての陸地が水没した地。嵐と風によって、全てが薙ぎ払われた荒野が広がる地。それらの厄災は竜の民の大地に収まりきれず、ナドラガの兄弟達は兄を見捨て空の民の地を切り離したという。
 今までは神でさえ恨んでいたが、実際に目の前に現れると揺れ動く。
 レンダーシアの上にあるのは灼熱の大地だろう。奈落の門が開いた現段階では幻影の如き影響だというのに、レンダーシアを否応なく灼いていく。ほんの数分を過ぎただけで、もう肌がちりちりと痛み、柔らかい植物が変色していくのが見て取れる。500年前の偽りの太陽は移動するが故に耐え凌げたが、巨大で停滞し続ける熱波に晒されれば、月が満ち欠ける間もなく生命は死に絶えかねない。
 他の大陸の下も似たような状況だろう。氷の大地の下は吹雪き、毒が舞い降り、陸地を沈める雨が降り、嵐が大地を蹂躙する。まさに、アストルティアが崩壊するような厄災だ。
 これが大魔王の欲望の通過地点でしかないのだから、恐ろしい。
 それでも、俺はこの瞬間を待ち望んでいた。大魔王によって多くの民が死に苦しもうとも、奈落の門が開いた影響で世界が危機に瀕しようと、俺にはナドラガンドへ行く理由があるのだ。
 断崖絶壁に建てられた神殿から、一歩外へ足を踏み出す。体を寄る辺なき空中へ放り投げると、重力がここぞとばかりに掴みにやってくる。しかし、そんなものは意味を成さない。俺は意識を集中し、内に秘めたイメージを膨らませる。あるはずのない翼を、そこまで大きくないはずの角を、生えていないはずの尾を、体を覆っている皮膚を鱗に置き換えて、形を結んでいく。世界が変わる。焼け爛れていく匂いが鮮明に鼻を突き、ここにいないはずの人々の困惑の声が聞こえてくる。重力が諦めて手放すと、俺は翼を力強く羽ばたかせた。泳ぐように神殿の周囲を一周し、シンイの前に降り立つ。
 シンイはにっこりと、優男によく似合う笑みを浮かべる。
「行きましょう。クロウズ」
 膝の上に足をかけ、魔法使いらしい見た目以上に軽やかに背に乗った。背鰭を掴んでいる感覚と、風を遮る魔力がふわりと漂う。神殿の脆くなった床を踏みしだき、俺は神殿から舞い上がる。
 灼熱した雲に突っ込み、凄まじい熱波が包み込む。シンイのフバーハがあって、これほどに熱いのか。人間ならひとたまりもないだろう。雲の上に舞い上がると灼熱の大地の全貌が見えたが、触れることは叶わぬ幻だ。
「大魔王が塗り替えた大地はソーラリアです。影響の起点である奈落の門も、そこにあるでしょう」
「そうだな」
 熱気に炙られながらも、ソーラリアがある方角へ飛ぶ。沸騰したスープのように泡をふつふつと浮かべては弾ける溶岩は、まるで水のように川になり滝になり、大地の底を目指して下がっていく。マグマから生まれた火柱は、生き物のようにマグマの上を自由気ままに飛び跳ね回った。それらに触れても熱いばかりで、火傷を負うことはない。まだ、奈落の門が開かれて世界が繋がったばかりであることを示していた。
 巨大な街が熱気の向こうに見えると、その一つが星のように白く瞬いていた。奈落の門。失われたはずのナドラガンドへの入り口は、すでに戦いの場だった。
 シンイ。そう背に向けて声を掛ければ、応じるように魔力が高まる。人間でこれほどの魔力を持つ者は、数える程度しかいないだろう。昔、それを褒めた時、シンイは祖父のお陰だと笑っていた。謙遜だと俺は言ったが、祖父のことを誇らしげに語るシンイに親近感を抱いたものだ。
 開かれた門から叢雲のように黒々とした影が飛び出してくる。それは翼を広げた翼竜の姿となって奈落の門の周囲を悠々と旋回し、最も手近にいる大魔王と勇者一行に攻撃を始めていた。大魔王と戦っていた勇者一行も、突然の新手に混乱しているのが見て取れる。
「アンルシア! 奈落の門から出てきた竜の怨霊達は、お前が対処しろ!」
 勇者一行で一番の年長者だろう赤髪の男が、大魔王に切り掛かりながら叫ぶ。
「大魔王はどうするのよ!」
「物理が入ると思ってんのか? 破魔の力を加えたギガデインで、ぶっ飛ばせ!」
 むちゃくちゃよ! そう勇者が悲鳴を上げた。
 それでも、男の判断は彼らが選べる選択で最善だろう。竜族を見捨てた神々への恨みを募らせ、アストルティアへの門に取り憑き復讐の機会を虎視眈々と窺っていた怨霊達。彼らは肉体を持たないので、当然物理攻撃が当たる訳がない。そして翼竜の姿が物語る通り、素早く滑空する。飛ぶ術を持たない人間が攻撃するならば、魔法に頼ることになるだろう。破魔の力を持つ勇者の魔法なら効果があると考える男は、確かに最も正解に近い作戦を提案した。
 だが、その作戦は不要だ。なにせ、この俺が参戦するんだからな!
 俺は体をぐっと丸め、体全身の力を腹に集める。強固な竜の器の中で練られた高濃度の力は、体の外で繰る魔法よりも強力だ。腹の中が熱を帯び、飲み込むことも難しい不快感のように存在を主張する。俺は滑空し最も怨霊が集まっている箇所に向けて、顎を開いた。
 閃光が走る。炎でも氷でもない純粋なまでの魔力の放出が、恨みの感情一つで存在を保っていた霊を容赦無く薙ぎ払う。シンイもまた炎の精霊に祝福された宝玉によって聖なる力を帯びた炎で、竜の怨霊達を焼き払う。俺達の参戦に、勇者一行も大魔王でさえ攻撃の手が止まる。
 シンイが素早く俺から飛び降りると、勇者に駆け寄った。胸に手を当て一礼する。俺はすぐさま飛び上がり、俺を敵と定めた怨霊達を引き連れて空を滑空する。相手が敵意剥き出しでなければ、空中散歩と洒落込みたい優雅な絵面だろうな。
「初めまして、アンルシア姫。私は賢者ホーローの孫、シンイと申します」
 シンイの声が聞こえる。頼むぜ。俺は羽ばたきながら次の攻撃のために力を溜める。
「私はこれから仲間の竜と共に、奈落の門をナドラガンド側から封印します」
「そんなことが、できるの?」
 勇者が戸惑うような声を上げた。可愛らしい娘の声が、鋭敏になった聴覚をくすぐってくる。
「危ない。熱 凄い。死んで しまう」
 一番重装備の大柄の男の、疲労した声が聞こえた。奈落の門は炎天下の砂漠と大差ない温度になっていて、きっとこの男は戦いよりも熱に参っているのだ。初めて会う、信頼も何もない俺達を気遣うか。
 俺は後ろを追いかけてくる怨霊達に振り返り、閃光を伴った一撃で薙ぎ払う。
「やらせろ! 奈落の門の向こうに行かせるために、援護するぞ!」
 待っていた言葉に、俺は思わず口の端を持ち上げた。
 最も戦い慣れた年長者の男は、俺達の提案が最善だと直ぐ様判断してくれた。大魔王の討伐、もしくは奈落の門の向こうへ行くことを妨害するのが、今の勇者一行の目的だ。だが、奈落の門が開かれたことで、竜の怨霊は出るわ、大魔王以上の脅威が現れるわで目的達成どころの話ではなくなってしまった。最優先は奈落の門を閉じること。しかし、大魔王が指を咥えて待っていてくれる訳がない。封印の手段を知っていたとしても、こちら側から封印しようとすれば大魔王が妨害するのは目に見えている。だからこその、ナドラガンド側からの封印。一度向こうに渡ってしまえば、彼らが大魔王を妨害出来ている限り邪魔されずに封印に集中できる。
 奈落の門が開かれただけで及ぶ影響を考えれば、勇者の戸惑いも時間の無駄でしかない。しかし、奈落の門へ行こうとして大魔王の横槍が入ると思えば、突破する間の援護は欲しい。誂えたように都合の良い味方の出現を訝しく思っても、それを拒絶できないという所まで分かっているかもしれない。年長者の男の判断力は、全て理解して味方することを決めてくれた。
 勇者も男のことを信頼しているのだろう。納得しきれてはいないが、男が言うならば、と飲み込もうとしているようだ。勇者は無事を祈るように、シンイの目の前に歩み寄り光の加護を授ける。
「わかりました。どうか、奈落の門を閉じてください」
「任せてください」
 シンイ。涼しい優男の顔して平然と答えるお前を、心から尊敬するわ。
 勇者は高らかに聖なる稲妻の呪文を唱えると、俺を追撃していた竜達の半分が貫かれて墜落していった。追っ手が少なくなった隙を突いて、シンイの傍に降り立ち素早く乗ったのを確認する。『貴方もご無事で』そう勇者が言ってきたのを、そっぽを向いて流す。俺は人間ほど柔い存在じゃない。
 翼を広げ飛び立つと、大魔王と視線があった。当然、俺達の作戦を聞いているだろう。
 指が突きつけられると、凄まじい勢いでメラゾーマが飛んでくる。前もって飛んでくると認識しているからギリギリ避けられる、竜族すら凌駕するだろう魔力の量とコントロールが為せる業だ。躱す為に落ちた速度に食いつくように怨霊達が迫る。恨みの感情でしかない連中が、俺に牙を立てることが許されると思うな…!
 大魔王の攻撃が俺に向けられた事で、攻撃対象から外れた勇者の仲間達は即座に援護にまわってくれた。大盾を構えてマデサゴーラに突撃して呪文を妨害したと思えば、年長者の男が二振りの隼の剣であわよくば首を飛ばさんと攻める。長年、共に戦ってきたような見事な連携だ。互いに攻撃を阻害する事なく、流れるように攻守を入れ替え俺達に攻撃するような暇を大魔王に与えない。
 肩に乗せた小さいプクリポのよう奴が紙を空に投げ、それを勇者の呪文が貫くと先程の稲妻とは桁違いの力が追跡してきた怨霊達を打ち砕いた。もう、俺を追いかけてくる奴はいない。
 クロウズ。シンイの声に俺は小さく頷いた。
 俺は奈落の門を正面に見据え、大きく息を吸い込んで力を溜め込んだ。漏れ出した魔力の奔流で輝く鱗が、奈落の門とその周囲を強く照らし出す。門の向こうの黒い淀みからは、憎悪を秘めた赤い光が無数に瞬いている。
 俺はその淀みに向けて、閃光を叩き込んだ!
 直線に伸びる高出力の魔力の放出は、形ある者の影をくっきりと床に刻み付け、その本体をかき消すほどの光を伴った。直撃した怨霊共は存在すら保ってはいられまい。俺はその放出に追随するように、最高速度で駆け抜けた。勇者達を横目に見て、大魔王の上を一気に飛ぶ。
 巨大な竜が悠々と翼を広げても余裕のある大扉を抜けると、怨霊達は消し飛んだ後のようで静かな空間が広がっている。吸い出されるような空気が、アストルティアに強風のように流れ込んでいる。キラキラと光っているのは、ナドラガンドに満ちている創世の霊核の力だろう。
 勇者達と大魔王が戦っていたアストルティア側の奈落の門前と、鏡合わせのように同じ空間がある。違いがあるのは、こちらの空は夜空であることと、奥にもう一つ扉があることだ。アストルティアが現在進行形で晒されている、空の大陸の脅威が全くないそこは神殿のように厳かな静寂で満たされいた。
 俺が扉の前に降り立つと、背から降りたシンイは門の封印に早速取り掛かった。幾重にも重なった複雑な魔法陣が展開されると、空気の流れが止まった。更に封印を強固にする為に、じっくりと魔法陣の調整を行なったシンイが息を吐いたのは随分と後のことだ。
「奈落の門がアストルティア側で壊されてしまったので、門を閉めることは難しいですね。ですが、ナドラガンドの影響はアストルティアには、もう漏れ出さない事でしょう」
「大魔王が破る可能性は考えないのか?」
 俺は変化を解いて意地悪く笑った。勇者が敗北し大魔王が創世の霊核を手に入れれば、アストルティアは滅ぶ。まるで、大魔王はこの門を潜ってこないと言いたげな処置しかしないのは、勇者の勝つ未来が見えているのだろうか?
 シンイは控えめな笑みを浮かべて、門の向こうを見つめた。
「以前は勇者が敗北した未来が見えていましたが、今は違います。勇者と仲間達が大魔王を討つ可能性が増してきたのでしょう。僕は、彼女らが勝利すると思っています」
 さぁ。シンイは振り返り、奥の扉を見た。
「僕らは僕らの成すべきことをしましょう」
「そうだな」
 扉の前に一人の竜族の戦士の亡霊が立っている。先程まで沸いていた竜の怨霊とは違い、明確な理性と静かな闘争心を抱えて蹲る獣のように立っている。番人か何かだろうか。彼に力を示さねば、あんなに格好良く旅立ったってのに蜻蛉返りだ。
 勇者達にとっては最終決戦であろうが、俺達にとっては始まりに過ぎないのだ。俺達は進まなくてはならない。
 求めた未来のために…。