戦え、そして未来を創造せよ - 後編 -

 マデサゴーラ様は倒れ、勝負は決しました。もう一本も指が動かせないと、両手をだらりと床に投げ出し仰向けで奈落の門の床に身を投げております。喘ぐように短い呼吸を繰り返して、悔しげに歯を食いしばった。悔しさのあまりに拳を握り、床を叩く。
「おのれ…! 神の道具ごときが、創造神たる余を追い込むなぞ!」
 血反吐を吐くような苦しさを紡ぐ喉仏に、アンは鋭く剣の切先を向けました。アンも疲れ果てているでしょうに、その声は毅然として凛としています。
 アストルティアの勇者。なんて勇ましいんでしょう!
「負けを認めなさい、マデサゴーラ。魔界へ戻りアストルティアに手を出さないと誓うなら、命までは奪わない」
 マデサゴーラ様は憎悪の籠った瞳で、アンを睨みつけました。そこには、何故殺さないのかという驚きや疑問よりも、アンがマデサゴーラ様の命を握っているという事実に激しい憤りを感じておられるようでした。誇り高き王であるマデサゴーラ様にとって、敗北も、地に倒れているのも、勇者に決定権が委ねられている今も、全てが屈辱でありましょう。
 アンは全て理解しているのでしょう。淡々と感情のない顔で、大魔王を見下ろして言いました。
「貴方を殺したいほど憎んでいるし、今ここで殺せたらどれだけスッキリするかと思うわ。でも、貴方が負けを認めて魔界へ戻ることが、貴方には死よりも屈辱だって思っている」
 言葉の通りでしょう。私は息を呑みました。
 私達なら生きていれば良いことがあると、喜んで恥も自尊心も捨てて生きることを選ぶでしょう。大魔王の命を奪わずに戦いを収めるなど、なんと慈悲深い勇者であると後世で讃えられることでしょう。
 ですが、マデサゴーラ様は違います。このまま生かされ、勇者に敗北した大魔王として魔界に戻り、その事実を抱えて余生を生きる。こんな提案をされる事自体、自尊心がずたずたに切り裂かれているはず。今ここで殺された方が、マデサゴーラ様には幸せなのでしょう。
 マデサゴーラ様はアンの剣を払う。腕が深々と切り裂かれ骨にまで食い込んだ剣は勢い相まって、大きく横に飛んでいきました。ケネスさんが顔を顰めて隼の剣をアンに差し出して、飛んでいった剣を拾いに行きます。
 マデサゴーラ様はじりじりと体を起こし、震える足で立ち上がろうとされます。満身創痍。立っているのがやっとの有様です。呼吸をするごとに顎がかくりと下がり、苦しさを引き立てる。
「余は死なぬ。まだ…終わりではない。門の向こうへ…創世の霊核さえ手に入れば『世界創造』は完成する…!」
 腕を振るうとマデサゴーラ様と私達の間に、燃え盛る炎の壁が現れました。驚く私達の目の前でマデサゴーラ様は踵を返し、足を引きずるように奈落の門を目指す。
 そう、終わりではない。マデサゴーラ様の目的は歴代の大魔王とは違うのです。アストルティアを手にする訳でも、勇者を打倒する訳でもない。ただ、彼の芸術を完成させる為にここにいる。マデサゴーラ様の心が折れぬ限り、作品への執着が続く限り、負けを認めるなどあり得ないのです!
 ラチックさんが炎に向かって盾を振るいますが、炎の勢いが激しすぎて消すことができません。アンが素早く左右へ視線を巡らせましたが、回り込むには炎の壁は長く広がっています。
 このままでは、門の向こうに行ってしまう!
 開け放たれた門へ手を伸ばそうとしたマデサゴーラ様が、突如横様に斬り伏せられ大きく弾き飛ばされました! 炎に炙られて揺らめく空気の向こうにいた影は、門の前に立ち塞がるようにマデサゴーラ様に剣を向けました。
 マデサゴーラ様が信じられないものを見るように、声を上げました。
「トーマ!」
 隻腕になった腕に剣をしっかりと握り、大魔王を睨みつけています。その凛々しい表情は怒りに燃え、呪縛から解き放たれた瞳は澄んだ空のように美しいのです。
「心を踏み躙られ、大魔王の傀儡にされた苦しみは、死に勝るものだったぞ!」
 力を使い果たし尽きる寸前の大魔王に、今まさに消滅しようとしているトーマ様が剣を向ける。
「貴様を門の向こうには行かせはしない!」
 アンによって注がれた勇者の力を、トーマ様に残された朽ちゆく体と魂で燃やす。そのお姿はまさに大魔王に立ち向かう勇者そのもの。己の命を投げ打ってでも、アストルティアを守り抜く…いえ、妹の為に剣を振るう、アンの勇者様のお姿です。
 大魔王が尽きるのが先か、トーマ様が消滅するのが先か、誰にもわかりません。駆け寄りたくても炎によって遮られるアンが、悲痛な声で兄を呼ぶ。
 アン。ラチックさんが、アンの肩を叩く。炎を背に腰を落とし、組んだ手を低く下ろす。
「炎 飛び越える。お前の 兄 助ける。行け!」
 躊躇いなくアンはラチックさんが組んだ手の上に足を乗せると、ラチックさんは全身をバネのようにして立ち上がり腕を振り上げた。私を肩に乗せままのアンは高々と舞い上がり、炎の壁を飛び越えたのです。
 隼の剣を手に、トーマ様の助太刀に向かう。体を奮い立たせ、願うように前を目指す。
 じりじりと門を目指すマデサゴーラ様と、抑え込むトーマ王子は密着するほどに接近し押し合っていました。どちらかが一瞬でも体を離せば、殺されると分かっているのでしょう。相手の力が尽きる方が早いと察して、力を消耗させようと渾身の力をぶつけているようです。
「兄様!」
 アンの声にトーマ様が、一瞬だけ目をこちらに向けました。
「アンルシア、お前の剣で大魔王を討つんだ!」
 それが何を意味するか、戦いに疎い私でもわかります。これほど密着しているのです。トーマ様を避けて大魔王だけを狙うことは、大変難しいことでした。そして、トーマ様は今にも力尽きてしまいそうなのです。互いに拮抗し身動きの取れない絶好の機会を、逃してはいけないと訴える。
「嫌です! その位置では兄様諸共…!」
 涙を浮かべて拒絶するアンに、トーマ様は冷静に言い放ちました。
「元より一度死んだ身だ。長く保たぬ私が、お前の望むことを叶えてやることはできない」
 加勢が現れたことで一気に劣勢に傾いたことを察したマデサゴーラ様は、捨身と言える行動に出ました。腕を振りかざし、トーマ様にトドメの一撃を加えんとしたのです。
「おのれ…! 紛い物は、紛い物、らしく、余の道具でおればいいのだ!」
 ボミエの札が振り下ろされようとする腕の軌道に、見事に滑り込みました。一瞬遅くなった腕の真横を、アンの剣が通過していく。ケネスさんの投げた剣に驚いて、大魔王が身を硬らせたのです。カンっと音を立て地面を転がっていく剣に飛び付き、私はアンの剣を拾い上げました。
「アンルシア! 頼む! 私が私でいられるうちに!」
 アンが迷ったように視線を彷徨わせています。その視線が、私に向けられたのです。
 私は、アンに剣を差し出しました。
 アンは隼の剣を地面に置くと、ゆっくりと使い慣れた剣の柄を握りました。迷いよりも、それで良いのかという躊躇いに揺れる瞳が、求めるように私を見ます。兄を殺す。それがアンにとって、とても辛いことだと分かっています。でも、殺せずアストルティアを守りきれなかったら、それこそ誰にとっても最悪なのです。トーマ様はアンの幸せを願っています。命尽き果てようとする今も、アンのことしか考えていないでしょう。
 だから、私は頷くのです。アンの、勇者の、そして私の友達の苦しみを共に背負う為に。
 意を決したアンは唇を真一文字に引き結び、走り出しました。涙を溜めた瞳から雫が落ちて、駆け抜けた跡に輝きながら散っていく。勇者の国の紋章を刺繍したマントが、彼女の決意に追従する。勢いよく飛び込んで、貫いた反動で亜麻色の髪が大きく広がりました。
 大魔王の断末魔の悲鳴が奈落の門を揺るがしました。
 アンはすぐさま剣を抜き、倒れようとするトーマ様を受け止めました。トーマ様の頭を膝に乗せ、アンは兄の顔に涙が濡れるのも構わず覗き込みます。
「私がいなくても、勇者の責務を全うした…。本当に強くなったな、アンルシア」
「盟友が、仲間がいてくれたから出来たの」
 被り振るアンの頬を、トーマ王子は残った手で愛おしげに撫でました。妹への愛情をこれほどまでに表した表情はないのではないかという、優しい笑み。細められた瞳の慈愛、唇に乗せられた親愛、顔いっぱいに広がる二人の思い出を懐かしむ柔らかい時間の全て。
 その顔をアンに見せられたことは、幸いでありましょう。本当に良かった。心からそう思う。
「泣き虫は変わらないな。アンルシア。さようなら、僕の愛しい妹…」
「おやすみなさい。私の勇者様」
 アンは微笑み、消えていった兄の残滓を抱きしめて泣いた。

 私は嗚咽を漏らすアンから離れて、ゆっくりとマデサゴーラ様の元へ向かっていました。もう、立ち上がることができない巨躯は力なく横たわり、諦めの表情で虚空を見つめていました。魔界の覇者、芸術家の王は、声に感情を乗せるのも億劫なのか淡々と言葉を漏らす。
「余の…余の『世界創造』は、未完のままに、は、果てるのか…」
 完成を目前とした傑作が、己の死で日の目を見ないことの、なんと悔しいことでしょう。誰も、この偉大なる芸術家の後に筆を握り完成させる者はいない。
 それでもこの方は傑作の完成のために、命を賭けたのです。世界を破壊し、勇者を殺し、己の命を天秤にかけてでも描きたかった作品。それは未完であってもマデサゴーラ様の最高傑作と称されることでしょう。それが、悔しくて悔しくてたまらない。完成されればどれほど素晴らしいものであったか、見ることができないのが悔しい。
 マデサゴーラ様が、覗き込んでいた私に気がつかれました。
「泣くか。アストルティアを滅ぼそうとし、全てから憎まれる大魔王の死を悲しむか」
 呆れたように笑うと、指が優しく涙を拭ってくれました。
 大魔王に勝利し、勇者であるアンもラチックさんもケネスさんも、アストルティアの人々が死なずに済んだ。それは純粋に嬉しい事で、私だって死なずに生き残ったことにホッとしています。それでも、マデサゴーラ様の死が目の前にあることは辛いのです。
 止めどもない涙に濡れていく一方の指先が、ぴたりと止まりました。私は滲んだ視界の向こうで、マデサゴーラ様がはっとした表情であるのに気が付きました。
「悲しみ、喜び、誇り、余の未練への理解、絶望、未来への希望、混沌…。この世界の全ての感情が混在した存在」
 顔をぐっと寄せ、私の顔を覗き込む。
「これを、創りかった」
 そう、マデサゴーラ様の生涯の主題。私がもう一つのレンダーシアという作品の中で見た、人々の営みや激動の中の感情。人々の生き様と推測した、マデサゴーラ様が描きたかったもの。
 それが、私?
 驚きの中ですとんと納得する。私は確かにマデサゴーラ様の作品だった。見出され、題材を与えられて技量を伸ばし、褒められて嬉しくて心酔していった。こうして一人の芸術家としてマデサゴーラ様と鎬を削り、勇者の盟友として立ちはだかった。
 でも、それはマデサゴーラ様が意図したものでは、きっとなかった。
「生きるものの全ての感情。乱れ、もがき、苦しみ、それでも輝き全てを震わすなにか。それを、求めて、描けず、世界を生み出せば表現出来ると思った」
 マデサゴーラ様は最高の芸術家です。だから自分で描けると思った。作り出せると思った。世界を創造できる創世の霊核という最高の材料があれば、望むものを望むように作れると思っていた。それだけの技量が、この方にはあったのです。
 でも、生み出せなかった。
 この方の望む表現は、この方の中だけでは生み出せなかったのです。
「ピペ。其方は余の最高傑作。余の生涯の主題を体現した存在だ」
 なんて勿体無いお言葉。私は堪らずマデサゴーラ様の胸に顔を埋めました。
 そんな言葉なんて欲しくない。ずっと、ずっと、貴方の作品を見て感動していたい。これからも作品を作って欲しい。満足なんて、しないでください!
 マデサゴーラ様の手が私の背をさする。
「だが、其方はこれから。余の傑作に留まらず、其方の傑作を生み出し続けよ…!」
 マデサゴーラ様が立ち上がる。私は足元からマデサゴーラ様を見上げました。大きくて、偉大で、心から尊敬している存在は不敵に笑い、大きく腕を天に向けたのです。
「余は最後の一瞬まで、芸術である!」
 魔瘴の煙が体からほとばしり、竜のように天を目掛けて立ち上っていきました。きらきらと魔瘴の力を帯びた欠片が落ちてきて、空気に溶けて消えていく。
 死してなお上を目指し、果てた死に様を晒すこともない。私のために偉大なる芸術家であり、魔族のために誇り高き大魔王であった方の最後。私は何一つ見落とすことがないよう、瞬きすら忘れて見ていました。
 それは確かにマデサゴーラ様の生き様を描いた、刹那の芸術でありました。