極彩色の世界

 大魔王が倒された事は、私達が帰還する前にはアストルティア全域にまで知れ渡っていた。
 奈落の門が開かれ一瞬とはいえ現れた竜の大陸の影響が、大魔王の齎さんとした厄災だと世界中の人々は感じたらしい。それが消え、天が明るく晴れ渡ると、人々は平和が訪れたと確信したようだった。
 大魔王の脅威が去り、勇者を讃える祝典が行われる。
 半月ほど前からこの日の為に食事制限を行い、侍女達に磨き抜かれただけあって鏡に映る私はとても綺麗だった。つやつやとハリのある肌艶に、控えめな色合いの口紅が健康さを引き立てる。髪は梳き解されて癖毛なんか知らないような、ふんわりとした亜麻色の滝が落ちている。幾重にも重ねられ白から曙色への移ろう様が美しいドレスは小粒のピンクパールが散りばめられ、真紅の大輪の花を飾られてブーケのように華やかだ。銀のヘアバンドにも花が添えられ、ミシュアの銀の蝶の髪飾りが留まっている。
 純白だったらこれからバージンロードを歩くような姿ね。髪を梳いていたお母様が感慨深そうに、鏡の中の私を見つめている。
「私の可愛い赤ちゃんは、本当に勇者様になってしまったのね」
 肩に触れた手を私は握る。兄様と私の幸せを誰よりも願っていた母に、申し訳なく思うの。だって、これから後の世のために、王族としてのお勤めをしなくてはいけない。グランゼドーラの王位を引き継ぐ為の勉強も、後世へ血筋を繋げる為のお見合いも、結婚して出産して子育てだって、しなくてはいけないことは盛り沢山。
 お母様はきっと女性としての楽しみを満喫して欲しいって思ってるし、お見合いとか恋愛とかきっと大好きだと思うわ。大魔王を倒したし勇者としての勤めも果たしたから、憂うことは何も無い。
 兄様が亡くなったのは家族誰もが辛いことだが、これからを見据えて生きていかなくてはいけない。
 でも、絶対退屈よ。苦笑した感情の下で、口の中で行き場のない本音が転がしている。
 勉強も、お見合いも、したくないわ。恋愛もまだ興味はないし、魅力的な男性なんて想像もできない。子供は好きだけど、母にならなきゃいけないって実感はまだまだ湧きそうにない。
 あぁ、お母様。勇者って本当に普通の生活には向かないわ。少し前までの冒険の旅が、私のいる場所だとどうしても思ってしまうの。
 どう答えるべきか考えを巡らせている間に、扉がノックされる。侍女の一人がラチックとピペが訪ねてきたが、通して良いかと聞いてくる。もちろんと答えてすぐに、扉の前に立てられた衝立の上からラチックとピペが顔を覗かせた。
 ピペを肩に乗せたラチックはこの後の祭典の為に、格調高い装束を着ていた。マデサゴーラが見立てたという、芸術家の守り人としての装いは黒と深緑のベリルコートセットだ。襟元のスカーフを止める緑柱石の煌めきは鮮やかで、守るべき存在の影となり、脅威を威圧するような重厚さがラチックによく似合っている。
 二人はお母様に小さく一礼すると、嬉しそうに私を見た。
「アン 綺麗だな!」
 毎日色んなドレスで着飾っているから、挨拶みたいに褒めてくれるの。笑っちゃうわ。ねぇ、知ってる? アンルシアって実はお姫様なのよ?
 ピペがラチックの肩から降りると鼻息を荒くして、猛然とスケッチブックの上に鉛筆を走らせている。それなりに揺れる船舶の影響もどこ吹く風。彼女の線は全くブレる気配もない。メギストリスのデザイナーから取り寄せたロイヤルセットは、すでにピペの創作意欲の犠牲になっていてペタペタと油絵具がついてしまっている。
 そんな私の盟友を見つめていると、目があった。にっこりと『アン、きれい』と口が動く。
「ありがとう、ピペ」
 何かご用事? そう首を傾げた私に、ラチックが興奮したように部屋の奥へ進み窓を開け放った。壁一面の大きな窓が開け放たれ、ぶわっと吹き込んだ潮風にレースのカーテンが巻き上がる。
「外 いっぱい すごいぞ!」
 六種族の祭典の会場は、グランゼドーラが誇る大型客船『グランドタイタス号』。その周囲は参列する各国の王族の船が並走し、壮観な景色となっていた。
 窓を抜けてバルコニーへ出ると、丁度、真っ白い飛竜が横切った。赤い鎧を身に纏った雄々しい飛竜の背には、お揃いの大戦鬼の鎧を纏った女戦士が跨っている。その背のマントに刺繍されたグレンの紋章が鮮やかに翻った。シンイさんの仲間の竜に比べれば子供と思うほどに小さいけれど、大人を3人は乗せられそうな大きさではある。海鳥と戯れながら、船の上を楽しげに滑空する。
 下から水飛沫と低い地鳴りのような音が響く。見下ろすとドルボードという神のカラクリが海を滑るように駆けていき、ドワーフの儀仗兵が祝福とばかりにトランペットを高らかに吹き鳴らす。
 ヴェリナードが誇る世界最強の海軍と、双璧を成すと名高いガードランドの海軍がグランドタイタスの両脇に並走する。その中には最も美しいと謳われたカミハルムイの帆船が、まるで宝石細工のように華やかなメギストリスの魔法船が見える。
 目の前に広がる、世界中の王族が一堂に会する様子。燦々と降り注ぐ日差しの下で、波飛沫を割って進む姿は頼もしく、胸が高鳴るほどの興奮を掻き立てる。
 世界中が喜んでいる。大魔王が倒されて、勇者が勝利して、平和が訪れることを祝福してくれる。帰還して確かに沢山の人に祝福されたけれど、これ程までに実感したのは初めてだ。
 袖を引かれる。隣でラチックに抱えられていたピペが、腕に滑り込んでくる。暖かなピペの感触を腕に感じながら、グランドタイタス号が招かれた王族を歓迎する度に賑やかになっていく。
「ルミラ姐さん! 久しぶりーっ!」
 ルアムさんの大きな元気な声! なんて懐かしいんだろう。ミシュアの時の記憶が鮮やかに蘇り、黄金の小麦の海を思い出す。香ばしいパンの焼ける匂いと共に明るくなっていく朝。汗を流しながら農作業に勤しむ昼。皆で暖炉を囲み、飲み物で体を温めながら談笑した夜。掛け替えのないミシュアの日々を振り返りながら、歩いてきた道のりの果てしなさを想う。
 ルミラさんも懐かしい名前。子供達の顔が一人一人鮮やかに浮かび上がるわ。
 私達は顔を見合わせて、扉を少し開けて廊下を覗く。勇者と仲間は舞踏会のお披露目までお部屋にいなさいって、お支度に出ていくお母様に釘を刺されたけど…。
 ちょっと覗くくらいなら良いわよね!
 廊下は招かれた王族の護衛で溢れかえっていた。先に船に到着していた王族は個別の客室にそれぞれ通されて居ないが、たった今到着したメギストリスの王子がいた。バニラリリィの甘く柔らかそうな髪色を丁寧にセットし、小さい王冠をちょこんと乗せた可愛らしい男の子だ。戦士と魔法使いの護衛の他に、シタル座長に雰囲気の似たピンクのスターコートセットの男性と、懐かしい元気一杯の赤いパイナップルヘアーが跳ねている。
 ルアムさんが大きくジャンプして飛び込むと、ルミラさんが抱き留めた。
「久しいな、ルアム。メギストリスの王子の護衛か。互いに大役だな」
 あぁ、こんな頼もしい声だった。ルミラさんがいるってことは、エンジュさんも一緒なのかしら? 目を凝らしても赤い鎧の横に、黄緑色の呪い師のローブを着たエルフは見えない。
「うん! 見て見て! オイラ達の王様、ラグアスだよ! 頑張り屋さんで、良い子なんだ!」
 ルミラさんの腕から飛び降りると、王子に抱きついた。王子は顔を真っ赤にして「ルアムさん、恥ずかしいですよ」と、もじもじ。恥ずかしさに身を捩る王子の前に、ルミラさんは膝を折り誠実な声で話しかけた。
「初めまして、ラグアス様。貴方のお父上には、大変世話になりました」
「お父さんを知ってるんですか?」
 もちろんです。ラグアス王子が目を瞬いた。ルミラさんは誠実だから、子供扱いに憤る子供達の信頼をどんどん勝ち取っていく。セレドの子供達は彼女と別れるのが、とても悲しかったでしょうね。それでも、子供達だけで生きていけると判断したから彼女らはここにいる。セレドの一件は報告書で知ってはいるけれど、実感が湧いてしまうわ。
 銀の鎧がよく似合うオーガの女性騎士が、ルミラさんの傍に歩み寄る。
「紹介しよう。ジェニャ。ガートランドの護衛官で、黄金のパラディンと名を馳せる腕利きだ」
「あんさんが、ルミラ姐さんとエンジュ先生のお友達ですか。お二人のお陰で恩人のズーボーはんを救うことができましてなぁ、ウチはお二人に一生頭が上がりませんのですわ」
 エンジュさんも元気にしておられるのね。
 ミシュアとして別れた後、彼らはどんな旅をしてきたのかしら? 大魔王との戦いで頭がいっぱいだったけれど、こうして再び道が重なり、余裕が彼らの旅に思いを馳せる。
 ラグアス王子と親しげに話していたスターコートセットのプクリポが、客室に通される。廊下に残された各国の護衛官達の穏やかな談笑の空気に、落ち着いた低い声がすっと滑り込んだ。
「各国の精鋭の護衛官の皆様、本日は六種族の祭典へ、ようこそおいで下さいました」
 部下を従えたケネスが、皆の前に立ってゆったりと頭を下げた。黒と世界宿屋協会の色であるオレンジ差し色のコマンダーコートセットに、二振りの隼の剣が吊り下げられている。顔は真面目で別人みたい。
「今回の警備計画の統括を行なっております、世界宿屋協会警備部のケネスと申します。万全は期しておりますが、各々、警護対象の安全のために力を尽くして参りましょう」
 護衛官がざわめいた。
 実は大魔王を倒した後、最も忙しかったのはケネスだった。竜の大陸の出現と一瞬であれ苛烈なまでの影響に混乱する各国を差し置き、帰還して数日もしないうちに世界中の協会に加盟している宿屋からの報告を取りまとめ分厚い資料にして各王国に叩きつけたのだ。本人はそれで休めると思ったらしいがそうは問屋が卸さず、宿屋協会の大陸支部長と、王国から派遣された兵士長やそれに準ずる幹部達と頭を突き合わせて会議三昧だという。祭典の後に開催される八王会議の土台はそうして出来上がった。
 ルシェンダ様は世界規模だからできる情報収集力と連携は、各王国の追随を許さない。宿屋協会の組織力を手放しで褒め称えた。この場の精鋭もその組織力を実現させる存在に、改めて感嘆しているようだった。
 ケネスったら、いつもこんな風ならいいのに。どうして、私達にはイイカゲンで意地悪なのかしら。最近は顔を合わせる度に『もう、仕事したくねぇ』って愚痴るのよ。そんなケネスは不思議な間を置いて、「何か?」と誰かに問うたようだ。
 はーい! と呑気に手を挙げたのは、ルアムさんだ。
「相棒がおっちゃんのこと知ってるみたい。オイラの相棒、ルアムって言うの」
 がたっと大きな物音がする。短い、悲鳴。え? ケネスの悲鳴なのかしら?
「あのオバケが憑いてたのは、お前か!」
 ラチックがびっくりしたように扉に齧り付いた。ピペも扉に顔が挟まってしまいそうなくらい、前のめりになる。
 そりゃあ、あの苦手なものなんか何もなさそうなケネスが、慌てた声をあげるんですもの。それだけで十分に面白いわ。しかも宿屋協会の人間として猫被ってる状態をかなぐり捨てて、素が出てるって相当よ。でも、オバケが嫌いなの? なんだか、意外だわ。
「相棒、もうオバケじゃないぞ。えーっとな…『ケネスさん、僕は元の肉体に戻ったんです!』だって」
 ケネスが頭を掻きむしる。怒鳴りつける声が、びりびりと空気を震わせた。
「がっつり、幽霊じゃねぇかよ! 元の肉体に戻ったって、腐った死体にでもなったのか!」
「腐ってないぞ! 生きてんぞ!」
 ぎゃあぎゃあ大騒ぎ。ルアムさんに飛びつかれて、ケネスが悲鳴を上げてひっくり返ったわ! もう、笑いを堪えるだけで大変よ。今すぐ飛び出して、からかってしまいたくなるわ!
 私達の扉の近くで賑やかな様子を眺めている、オーガの女性達がのんびりと話している。尻尾の毛先の付け根に、金と輝石で飾られた輪が嵌ってるわ。おしゃれでかわいい。
「賑やかで平和そのものやなぁ。勇者様はお姫様らしいけど、どないなもんなんやろ」
「舞踏会の時にはお目に掛かれるだろう。お綺麗な方に違いない」
 ルミラさんもルアムさんも、とっても吃驚するでしょうね。ミシュアが勇者だったなんて、出会った誰が想像できたかしら。ミシュアであった私ですら、知らなかったんだもの!
 扉の前で呑気に語らっていた声も案内されて遠ざかり、私達は扉を閉めた。客室から王族達が案内されて移動していく気配がして、遠くの大広間から音楽が聞こえてくる。
 着飾った儀仗兵が『お時間です』と迎えにやってきた。席から立ち上がると、ラチックがゆっくりと歩み寄ってきた。
 「アン 手を どうぞ」
 そう、エスコートを申し出るラチックの肩に、軽快にピペが乗り上がる。
 ミシュアと、アンルシアと、私と共に歩いてくれた二人。
 盟友として、仲間として、私と共に歩いてくれる二人。
 彼らの導きが、勇者を目覚めさせ、アストルティアを救ってくれた。二人が居なくともミシュアは勇者姫であるアンルシアと出会う運命であっただろうが、二人が居なければ勇者として覚醒することはできなかった。多くの縁の中で特別な二人は笑いかけてくれる。その笑みが向けられることが誇らしく、その手が差し伸べられることが頼もしい。
「ピペ。ラチック。二人とも、本当にありがとう」
 ピペがさっと絵筆を振るうと金の光が降り注ぐ。ラチックは私が腕に手をかけたのを確認してゆっくりと歩き出した。赤いカーペットの両脇をファンファーレが鳴り響き、大広間へと続く大扉が開け放たれる。私は二人を伴って前へ進み出た。
「紹介しよう! 大魔王に勝利した、勇者と仲間達を…!」
 お父様の声が会場いっぱいに響き渡った。
 各種族の王族達が、招かれた客人達が、それらを護衛する者達が私達を見上げている。惜しみない拍手と、褒め称える喜びに満ちた顔が視界いっぱいに広がっている。彼らの後ろには、彼らの守るべきたくさんの民がいる。彼らは民を代表して感謝を言葉にし、喜びを行動で示す。それはこれからの平和を祝福するように、輝かしいものだった。
 誇らしさで胸がいっぱいになる。兄様と、仲間達と、全ての縁が繋げた今は希望に満ちている。
 六種族の祭典が始まり、アストルティアの平和が高らかに告げられた。

 To be continued Ver.3 いにしえの竜の伝承