いつかあの人が言ったこと、いまもまだ [信] - 後編 -

 俺はご機嫌な咆哮を上げて、雪原を駆けている。砂粒のような氷がたくさん敷き詰められた坂道を、飛竜の姿で滑空するかのような速度で滑り降りることも出来る。空から降ってくる雪という氷の塊の中を、突き進むのは新鮮だ。
 雪原竜は大地を走るのに特化した体だ。頭が重く体が前傾になる上に、凄まじく筋力の発達した太腿と体全体を支える巨大な足で大地を踏み締め前へ進む力に変える。体全体が走ることに特化していて、走り出したら瞬く間に最高速度に達する。最高速度に達すると小回りは途端に効かなくなるが、速度が落ちてる状態なら尾のバランス力で強引に向きを変えられる。首にしがみ付いたルアムが一度すっ飛んだけどな。
 寒くない! 寒くない! 俺はご機嫌だ。楽しくて楽しくて、ごろごろと喉が鳴り止まない。
「ダズニフさん! 怖い! 怖いんですけど!」
 首にしがみ付いているルアムが、悲鳴に近い声で訴える。『急いでるんだ、泣き言をいうんじゃねぇ』と言うケネスの声も、風を切る音が全て後方へ押し流してしまう。
 どうして、怖いんだ? 俺は空気の流れから森の中の木々がどう生えているか分かるし、全てを避けている。今向かっているランガーオ村も、大自然の中にくっきりと浮き上がった生活の匂いで間違えようもなかった。川の音もクレバスから吹き上がる強風の音も聞き分けて、走ることに特化した雪原竜の足で踏み込めば大きく飛び越えることが出来た。
 冷たい空気が鼻先に触れる。寒さは開けた口や鼻先、吸い込んだ空気の中に確かにあった。それでも、それは俺の命を奪うような脅威にはならなかった。鱗の内側は燃えるように熱い。俺は寒さを遮断するような鱗に身を包んで、寒さの中を自由に動けることに感動していた。
「最高だ! 最高だよ! 寒くないって、こんなに凄ぇことなんだな!」
「そりゃあ、良かったな!」
 俺に聞こえるように大声を張り上げたケネスの声に、俺は嬉しげに声を返した。氷が転がるような甲高い澄んだ音。親しく思う存在に感謝を捧げる音だとしたら、なんて綺麗なんだろう!
 寒さを初めて知った時、俺は死んだと思った。
 寒いという感覚が襲い、体を切り刻むなんて生優しい痛みが貫いた。痛みに悶えている間に痛みの感覚は薄れて、体を認識できなくなる。手が、足が、末端から失われていく。必死に俺の名を呼ぶ声も俺の真横に他人の匂いを感じているのに、俺の体が世界から消えてしまっている感覚。
 意識を取り戻した時、俺は寒さへの恐怖が染み付いてしまった。どんなことがあろうと、進むことを止めないつもりだった。それなのに、あの寒い空間に行くことが恐ろしくてたまらない。死の恐怖と等しいかった。
 それを責める者は誰もいない。
 なにせ灼熱の大地で生まれた炎の領界の竜族達は、寒いということを知らなかった。寒さに慣れれば進むことが出来るのではと、多くの竜族が氷の大地に足を踏み込んだが、一刻も保たずに引き返す。酷い者は手足の指を失って、脅威と絶望を思い知らされる。防寒具も知識のなさに開発は進まず、魔法の炎を掲げて進むにもそれ以上の寒波が襲う。根性とか小手先で誤魔化せない壁は、凶悪な魔物でも、困難な試練でもない。ただの、凍てつくまでの寒さだった。
 誰か、教えてくれ。どうすれば良いんだ。
 あの足踏みする日々の中、俺はもがくように熱波の中を彷徨い歩いた。言葉が喋れる者には片っ端から訪ねて歩いても、まず『寒さ』を理解しない者ばかり。進めない焦燥が、諦めの絶望に変わりそうな時だった。
『ダズニフ。お前の竜に変化する力は、鎧と一緒だ』
 アストルティアで最初に覚えた味。血の味は底知れない深みが、たくさんの複雑な匂いを織り混ぜ、大きな流れに組み込まれて一つにまとめ上げられる。そう、じいさんにとても良く似た風味。アンテロの血の匂いをつけていて、相当の手練だと思ったんだ。
 初めて雪原竜の姿になれた時、ケネスと名乗った男は言った。
『雪原竜は鱗の下に蓄えた脂肪が、高い断熱性を持っている。吹雪の中を一週間以上耐え凌ぐことができる、高い防寒能力をお前は手に入れたってことだ』
 ヌーク草と炎の樹木と火炎草を配合した煙草は、副流煙ですら体を温める。
 寒さをものともしない、求めていた力。実際にそれを身につけて、あれほどの寒さが嘘のようで、なんだか拍子抜けしてしまう。竜族は竜化の術を、血を吐くような修行の果てに手に入れるという。俺には寒さの克服こそ、竜化の術を得るような壮絶な積み重ねが要求されるのだと思っていた。
 それを俺に授けるように教えた男は、俺の心の内など知らずに事もなげに続けた。
『ナドラガンドは神世の時代の厄災で、酷い状況なんだろう。竜族のお前ですら、二の足を踏むような状況がこれから先もあるはずだ』
 あぁ。そうなんだ。どうして、見てきたように理解してくれるんだろう?
 ナドラガンドは、地獄なんだ。なんの罪もなく生まれた赤子も、残虐非道な振る舞いをした大人も等しく、灼熱の大地に身を焼かれ喉の渇きに苦しみながら生きていかねばならない。同胞達は種族神ナドラガに縋って今日も祈りを捧げているが、責苦のような現実が変わることはない。
 寒さに絶望を突きつけられた今までを思えば、これから先の困難を想像することすらできない。
 世界が立ち上がっていくような言葉だった。寒さに全てが消えていた世界に、踏みしめる大地があり、突き抜けるような高い空から身を斬るような冷たい風が吹き下ろされる。風に揺れた木々から、ざざっと雪が落ちる音。氷の上を滑る空気の流れの下に、蹲るような川の匂い。
 分かれば、目の見えない俺にも捉えることができる。
『その時は、その厄災に順応した竜の姿を得ろ。毒に満ちた場所で生きる竜は、毒に耐性を持っている。暴風が吹き荒れる場所では、嵐をものともしない翼を持つ竜がいるかもしれん。水の中を生きる竜の姿なら、水中で息ができるようになっているはずだ。お前は、彼らが培った生きる手段を鎧のように着こなせる』
 どうして。俺は思わず声に出す。
 耐えることで生きることに精一杯の同胞達。可哀想だと思うほどに、彼らは何も考えちゃいない。家族が隣で苦しんでいても、諦めに似た顔で眺めて時が訪れるのを待つばかり。ナドラガンドに全く関係のない、アストルティアの人間なのに、どうして。そう、気持ちが募る。
『どうして?』
 ケネスが聞き返す。小さく、笑ったようだった。
『俺はお前の求めた『誰か』となって、お前の前に立っているだけだ』
 つんと、強い匂いが鼻を突いた。背中でケネスが顔を上げ、小さく舌打ちする音と苦々しい声が鱗を撫でて流されていく。
「火の手が上がったな。ランガーオ村に飛竜が到着しようだ」
 ダズニフ。そう言いながら、ケネスは俺の首の付け根に軽く触れる。
「村に入ったら雪原竜の姿を解け」
「どうしてですか? 火に包まれたとしても、ダズニフさんにとっては寒いはずですよ」
 背中にしがみついている二人には、激しく燃え上がる村が見えているらしい。匂いからして距離があるはずの村だが、ごうごうと燃える音と岩らしい重いものが崩れる音、飛竜と村人が争う雄叫びが聴覚に飛び込んでくる。特に飛竜の声は傷ましくて耳が痛い。生き物の焼ける匂いはまだしないが、村から流れてくる空気は故郷の風のような熱を含んで顔を舐めていく。
「超極寒の大地に順応した種族が、気温の上昇で絶滅するって有名な論文があってな。断熱性が高いばっかりで排熱機能がなくて、熱中症に近い状態で自滅したって話なんだ。雪原竜もおそらく排熱機能がないだろう。己の熱で自分を焼き殺す。だから、変化を解けって言ってんだ」
 『論文なんて読むんですか?』『部下が机の上に置いたものは、一応全部目を通すことになってんの』そんな会話が背中の上で交わされる。心配が端々に滲む息遣いと心の臓の音に笑ってしまう。この俺が、心配されるだなんてな!
「なぁんだ。それなら、心配いらねぇよ!」
 吸い込んだ空気が熱い。その熱が体の中に止まった熱と合わさって、懐かしい高温に引き上げられる。汗の出ない体は自然と口が開き、舌が出る。のたうち回るような暑さの懐かしさに、俺は声をあげて笑った。
「俺の故郷は、もっともっと、暑いんでね!」
 太い丸太を連ねた入口を勢いをつけて飛び越え、弓矢を使うルアムを着地した場所に下ろす。ケネスをそのまま背に乗せて、俺達はランガーオ村で最も激しい攻撃が繰り広げられている場所を目指す。村は炎に包まれているようだった。どこからも炎が燃え上がる音が響いて、ケネスが『この雪原竜は味方だ!』と戦士達に声を張り上げて伝えている。ケネスが背に乗っているからか、俺が戦士達の攻撃を受けることはない。
 俺は最も手近な位置にいた飛竜に体当たりをする。空を飛ぶために必要な筋肉と臓器以外は全て削ぎ落としたような体は、翼を広げてどんなに大きく見えても軽く踏ん張りが効かない。重量のある雪原竜の体当たりで簡単に転倒し、運が悪ければ骨が折れる衝撃が伝わってくる。大地を駆けるのに特化した雪原竜と、村の戦士達を殺めようと空を飛ぶ有利を捨てて大地に降りた飛竜とでは争いにすらならない。
 俺が飛竜達に向かって咆哮すると、飛竜達は怯んだ。
 俺は次々に体当たりをし、尾で薙ぎ払い、転倒したらすかさず尾を叩きつける。飛竜とて反撃はするが、ずっしりと重量があり重心の低い雪原竜の体はびくともしない。背に乗ったケネスが、俺の体の動きに合わせてバランスを取ってくれるのもありがたかった。
「勇敢なるダズニフに続け!」
 俺達が加勢に入って形勢が逆転すると、オーガ達は瞬く間に勢いを取り戻した。怪我人を下げ、空を舞う飛竜に矢を射り魔法が放たれ、火の手が上がっていない建物の隙間に誘き寄せて動きを封じて仕留めていく。
 飛竜達の声は怒りや憎しみに染まり切っていたが、追い込まれ劣勢であることを察して乱れ始めた。痛みに悲痛な声が大地を這いずり回り、自分もこうなるかもしれないと言う恐れが飛竜達を満たし始めた。それでも往生際の悪いというか、頑張る奴はいて動けずとも火を吐き、近づこうものなら咬み殺すと言わんばかりに威嚇する奴もいる。
 そんな飛竜達を、戦士達は殺そうとしなかった。飛竜は確かに彼らの村を破壊し襲ってきた。それがアンテロの策略であり、飛竜の本意でないことへの理解を行動で示す。
 どうするべきか。
 飛竜達を殺さぬように、この場を収めることは出来る。だがこのままでは、オーガに対して怒りと憎しみを抱いたまま野に返すことになる。俺の声を届かせるには、飛竜達に冷静さを取り戻させなければならない。思いあぐねていると、ルミラの声が響き渡った。
「ピペとギルだ! 到着したぞ! 攻撃するな!」
 何か合図を送っているのだろう。松明の焼ける匂いに、何か違うものを混ぜた匂いが鼻を突く。食べ物の匂いがしないもので覆われた魔物の匂い。俺がアストルティアで覚えた味の一つを降ろした飛竜が、瞬く間に飛び去っていく。遠くから真っ直ぐで凛々しい声が、俺に向けられた。
「ダズニフ! 耳を塞くんだ!」
 竜に良く効く秘密兵器。なんでも楽器の形をしていて、その楽器を鳴らすと竜は昏倒するらしい。この襲撃に対する切り札として事前に話は聞いていて、到着したら耳を塞げと言われている。
 ルミラが本当に効果絶大だから、耳を必ず塞げと鬼気迫る様子で言ってたので竜族の姿に戻って耳を塞ぐ。俺は他の同胞よりもずっと聴力が鋭敏ではあるが、竜の姿になれば音を聞き取る組織が大きい分良く聴こえてしまう。だが、楽器を鳴らしただけで竜が昏倒ねぇ。俺はちょっと耳を塞ぐ手を緩めていた。
 すうっと、息を吸う音がする。
 瞬間、凄じい音が脳髄を揺さぶった! 多くの生き物には聞こえることのない不可知の音域だが、竜には凄まじい不快音になって響く。頭皮を引き裂いて脳を素手で掴んで引き摺り出されるような衝撃に、頭から地面に倒れる。吐き気が止まらず、体が痙攣を起こす。
「おい、ダズニフ! しっかりしろ!」
 倒れ込む俺を抱きとめたケネスが、清涼感のある香りの葉を手で握り込み俺の鼻先で開く。ぱっと広がった爽やかな香りは寒々しいほどだったが、世界が回るような不快感が薄れていく。ケネスの心臓の音と、触れた場所からじんわりと伝わってくる熱に縋っていると、徐々に落ち着いてくる。俺は自分の足で立ち上がり、涎か嘔吐物か分からないものでベタベタになった口元を拭った。
「凄ぇ。ちょっと死ぬかと思った」
 衝撃から立ち直った飛竜達も、すっかり戦意を喪失したようだ。いやもう、死ななかったのが奇跡みたい。
 そんな中で、楽器を鳴らした魔物の子が長く長く声を上げる。言葉ではなく鳴き声というよりも呻き声に近いものだったが、それは村の隅々に染み込むように長く続いた。何度も息を継ぎ出していた声に、徐々に飛竜達が加わっていく。それは悲しみに満ちた、泣き声に近かった。
 ギルという飛竜の声も加わり、飛竜達はひたすらに鳴き続けた。もう、飛竜達は戦うことはしないだろう。声を聞く誰もがそう思う声だった。傷を癒しても、ここを立ち去るに違いない。
「神の器は無事か?」「村の奥の修練場に避難した村王を守っている」
 話し声を聞きながら、雪原竜の姿になって匂いを嗅ぐ。炎に焼かれた様々な匂いに混じって、鮮明なアンテロの匂いがする。本当にアンテロの匂いは吐き気がする嫌な匂いだ。いろんな竜族の血と、カビや汚物を混ぜ込んだ匂いと、奴自身の腐った性格が醸し出す悪臭だ。これ程までに酷い匂いをする竜族を俺は知らない。
 匂いは風上から流れてくる。この村の奥にある山の方から、争う音がする。
「アンテロがいる。戦ってるみてぇだ」
 声を掛けたケネスとルミラを背に乗せると、俺は瞬く間に音の方へ駆け寄った。

 竜族は基本的に身体能力に優れるか、魔力に優れるかに別れる。アンテロは身体能力に優れた武術の天才で、俺でさえ手を焼くほど厄介な使い手だ。竜化した姿も俺が知る限り最も強い力と重量を持つ。あの頑丈なラチックを、尾で薙ぎ払うだけで戦闘不能に陥れる攻撃力は竜族屈指といって良いだろう。
 ランガーオの戦士達は弱くはないが、アンテロに敵う実力はない。村王を含め、護衛の戦士達は尽くアンテロに倒されていた。圧倒的な武術の前に倒れた戦士達を踏みつけ、残った相手に拳を交え続けていた。あのアンテロ相手にこうも粘れるたぁ、大した者だ。
「女の方が神の器とされている、マイユだ」
 分かった。そう答えながら、俺の上からルミラとケネスが降りる。俺達を見留め、アンテロは首をばきばきと鳴らしながら回した。
「嗾けた飛竜は、時間稼ぎにもならんかったか。使えぬ奴らよ…」
 竜族よりも格下に見られ、魔物と呼ばれようと竜であることに変わりはない。それを道具のように扱い、命まで弄んで、使えないとか言いやがって…! 腑が煮え繰り返り、俺は憎悪も殺意も隠さずに言い捨てる。
「アンテロ! 無関係な飛竜達を巻き込んで、どの口がほざく!」
「くだらぬわ! 手段など、我らが求める結果に比べれば瑣末!」
 大声を上げたアンテロだったが、冷静さを取り戻したように言う。
「だが、多勢に無勢。最も求めたガズバランの器、今は貴様らに預けておこう」
 引き下がろうとしたアンテロに、一足飛びでケネスが詰めた。その素早さにその場の誰もが息を呑む。
「ラチックが世話になったらしいな。お前はここで死んでいけ」
 ケネスが煙管の中身をぶち撒けたのだろう。空間に燃える前の火炎草やヌーク草や炎の樹木の粉末の匂いが広がると、アンテロに剣が振り下ろされた瞬間に爆発音を響かせて燃え上がる! 驚いた声を上げ衣を脱ぎ捨てたアンテロに、ケネスが更に迫る。ばちばちと爆ぜる音を立てる剣が、空中にふわふわと舞い上がる匂いに触れる毎に炎となって、切り裂かれた場所を音を立てて焼いていく。 
 ケネスに突き出されようとした拳を、ルミラの大剣が受け止める。動きを止めた鱗の上を隼切りが掠めて、血が舞い上がる。大剣は盾のように攻撃を防ぎ、二振りの剣は風のように掴みどころがない。あの、強者として悠然と全てを見下していたアンテロが、弱者と侮った者達の連携に追い詰められている。
 アンテロの怒り狂った声が響き渡った。
「なに、あの姿…! ま、魔族…?」
 この女の声、初めて聞く声だ。村で俺を見かけたことがないんだろう。
 確かに竜族は、妹弟神の子供達に比べれば異形に見えるだろう。全身を小さな鱗が覆い、頭には竜の角が生えている。俺のように首から上が竜の骨格に近い者も、尾を持つ者や翼を持つ者も先祖返りとして一定数いる。闇の中で光るような瞳を持っているらしく、アンテロがこの村に行った数々の悪行を思えば魔族と思われても仕方がないことだろう。
 アンテロの竜族としての自尊心がこれでもかと傷ついた上に、粉砕するような追撃の一言だった。
「偉大な竜族を…よりによって汚れた魔族と間違えるか…!」
 ルミラを大剣ごと蹴り飛ばし、腕を骨まで断たれても構わずにケネスを押しのける。そうして迫った女に一撃を放とうと構えるアンテロの前に、男が滑り込んだ。
 なんだ。妙な感覚に鱗が騒めく。アンテロの筋肉は竜族でも稀なほど鍛え抜かれていて、攻撃しようと動けば轟音のように俺の耳に響く。しかし、阻んだ男や女を攻撃するために力を溜めるような音がしない。
 アンテロと女の間に立っていた男が、迎え撃つ。力強い筋肉がアンテロを殴るという動作のために、淀みなく連動する音は男の体が武器のように研ぎ澄まされて美しいほどだ。しかし、アンテロは待ち構えるように動かない。不気味なほどに、アンテロが大きく息を吸い込んだ。
 吐き出した匂いは、嗅いだことのない悪臭だ。思わず体が強ばり、息を止める。
 男が驚きの声を上げ、ケネスが素早く動いて咳き込み始めた男に体当たりする音がした。二人がもつれるように倒れ込み、女が男の名前らしいものを叫んで駆け寄ろうとする。ケネスが剣を抜き放ち、澄んだ音を立てて女に突きつける。
「寄るな! ……っ!」
 ケネスが激しく咳き込んだ。呼吸音が明らかにおかしい。ぜぇぜぇと体の奥から地響きのような嫌な音がする。混乱はアンテロを逃すには十分なものだったが、ケネスの状態は明らかに異常だった。
「アロルド! どうしたの? どうして、意識を失ってしまったの?」
 縋ろうとした女に、ケネスは近づくなと力なく形だけだが剣を突きつける。やや半狂乱になった女とケネスの間に、ルミラが割って入るようにして女を押し留める。
「ケネス。お前の状態は、普通じゃない。どうすれば良いんだ?」
 激しく咳き込んだケネスは、途切れ途切れに言った。その言葉も掠れ、肺の底から這い上がる喘鳴に聞き取りにくい。
「着替えと、身を清める水と、誰も使わない家を、一軒用意しろ。毒を、大量に、吸い込んじまった、こいつは、死ぬかも、しれん。神の器の女に、警告して、うっかり、吸い込んだ、俺が、処置する」
 毒。俺は愕然とした気持ちになって、気を失った男を担ぎ上げたケネスになんて声を掛ければ良いか分からなかった。一足先に村へ駆け降りていくルミラを、村から上がってきて怪我人を回収する様子に動けずにいる。最後まで震えて立ち尽くしていた女が、とぼとぼと村へ降りて行った。
 俺の様子を見にきた仲間達の声を聞きながら、俺は雪原竜の姿で雪の中丸くなっていた。俺が疲れたからここで休むと言えば、仲間達も分かったと離れていく。
 寒くないはずなのに、俺は腹の底から冷えていく感覚に震えていた。目紛しく言葉が浮かんでは、それは適切で無いと消していく。謝ることも、心配だという己の心を伝える言葉も、毒を治療する方法を必ず見つけるという決意も、何もかもが的外れに思えた。雪が降り始め全ての音が吸い込まれていく。アストルティアで感じるようになった耳の痛い程の静寂は、この世界で俺がただ一人のような言い様のない孤独を感じさせる。
 アンテロ。何が瑣末なんだ。無関係な飛竜達をあんなに傷つけて、ガズバランの民の村を一つ焼いて、竜族の俺に導きを示してくれた恩人を毒で苦しめて、何が瑣末なんだ。これ程のことを瑣末と言い退ける結果って、いったいなんなんだ…! 同じ種族のはずなのに、同じ故郷で生きてきたはずなのに、何一つ理解できねぇ!
 どうすれば同胞の非道を贖える。差し伸べてくれた手に、どうすれば俺は報えるのだ。
 止まれない。止まってはいけない。止まらないと誓ったじゃないか。
 それでも、今は、とても動けそうにない。