いつかあの人が言ったこと、いまもまだ [信] - 中編 -

 オーグリードの南北へ貫く街道の終点を目指して、自分達は足早に雪道を進んでいた。北一面に壁のように聳り立つ雪深き山は、まさにオーグリード大陸の北端。獅子門から行商の馬車が行き来できる夏の時期が、一週間ほどしかない雪深き大地。今もプクリポの尻尾くらいの雪が降り、人の行き来が疎らな街道には膝まで雪が積もっている。
 雪の中を行く思い出の殆どが、父の背中を追っていた。
 戦士の村ランガーオ出身の父は、それはもう偉丈夫で頑強だった。猛者すら尻込む吹雪の日に、遭難した村人を3人も担いで帰還した逸話を持つ勇敢な男。
 しかし、父には戦うセンスがなかった。
 臆病ではない、むしろ危機に飛び込み我が身を盾にするような男だった。家畜を屠り、狩りで得た獣を捌くことも出来た。ただ、恐ろしいまでに不器用だったのだ。故に父は短い夏以外の時期、徒歩で荷を運び上げる仕事をしていた。自分も父に付き添った道を、故郷を離れた今でも体が覚えている。
「アロルド、そろそろ先頭を代わろう」
 先頭を歩き道を作っている同年代の男に声を掛ける。
 若き日の父を彷彿とさせる背の広いアロルドは、頬の十字傷が見える程度に振り返る。笑った声に疲れはなく、背負い直した荷物が重そうな音を立てても、筋肉で一回り大きく見える体は揺らぎもしない。
「大丈夫だ、ルミラ。君は仲間のことに気を配ってやってくれ」
 ごめんなー。背に背負っているルアムが申し訳なさそうに言う。寒さに強いプクリポでも、自分達は膝程度と軽んじられる積雪は大きな負担になる。本来ならルーラストーンに頼って、瞬時に村に向かいたい。しかし飛竜の群れの襲撃が迫っている為、オーグリード大陸全域はルーラの移動制限区域に指定されていた。
「謝る必要なんてないわ。支え合うのは当然のことよ」
 そう明るい声で言い放ったのは、幼馴染のマイユだ。命の輝きを美しいと例えるものは多いが、マイユほど生命の輝きに満ちた女性はそういない。快活で明るく、男にすら地を舐めさせる武術の達人だ。大きな瞳は陽の照らされた雪原のように眩く、重苦しい雲が頭上を覆う雪国で彼女の声は炎のように人々を温め春へ導いていたのを思い出す。
 ぽんぽんとルアムの背を労るように触れて、結い上げた長髪を流しながらアロルドの真後ろに付く。婚約を取り決めた男の荷物を持つと、山の合間に見え始めた人々の営みの煙を目指し、速度を上げた。
「ピペのじょーちゃん、間に合うかな?」
 大丈夫だろう。そう、ルアムの言葉に相槌を打つ。
「小さい方がギルの負担は少ない。ウェナとの往復は、ピペが適任だ」
 ピペはガートランドで、ゼラリムの膝の上に乗せられて可愛がられていた。ガートランドのパラディンの精鋭に護られている彼女に護衛は必要なく、ピペだから膝の上に乗っていられたと言えよう。
 ピペにはウェナにいるイサークから、戦局を左右させる重要な品を取りに行くよう頼んだ。彼女が飛竜の襲撃よりも早く到着すれば、ランガーオ村を無傷で守り通せるような強力な一手。しかし、自分達の方が先に到着したようだ。
 ランガーオの入り口が見えてきた。街道の終点である村の入り口は、ブラウンウッドの丸太を組んで作り上げた強固な門で硬く閉ざされている。見張りの戦士が自分達に気がつくと歓迎の声を上げた。太い縄を村側の勇士達が引いて開いた扉の隙間に自分達が滑り込み、背後で扉が閉じ閂が咬まされるまでが流れるように行われる。一瞬沸いた賑やかさは警戒へ移り、物見櫓の戦士が再び周囲の空へ視線を凝らした。
 戦い易いよう雪を掻き硬い凍土が露出し、家々の軒先に干されているはずの保存野菜が全て下げられている。雪に押し潰されぬ頑丈なランガーオの家だったが、先の飛竜の襲撃で半壊した家がいくつか見えた。殆どの女子供を獅子門へ避難させたので、長く育ったつららのある家は数えるほどしかない。戦士達は交代で警戒に立っていて、寒さを紛らわすためか巡回したり武器を振って体を温めている。
 先を歩いていたアロルドが小走りになるのに気がついた時には、マイユは既に村王の家に疾風のように飛び込んでいた。本当に羨ましくなるような身体能力の高さだ。同じ戦士として嫉妬してしまいそうになる。
 ルアムが背から飛び降りて、アロルドに続いて村王の家へ入る。マイユの父を呼ぶ悲痛な声と、補佐を務めるギュランの宥める声が聞こえる部屋を覗き込む。むせ返るような薬の匂いと熱気の中で、ベッドの脇に膝をつき眠る村王の手を握るマイユがいた。
 状態を確かめようと覗き込んだ自分に続いたルアムが、渋い顔で唸って後ずさった。
 村王クリフーゲン殿。オーグリードでも数多くの武勲を誇る戦士達を排出するランガーオにおいて、無敗記録を重ねる猛者の中の猛者だ。衰えを知らぬ筋肉はランガーオの山々のように隆々であり、その腕から繰り出される一撃は雪崩のように激しく、勝者敗者を問わず賞賛する心は春のようと賞賛されるお方。しかし、その胸は血の滲む包帯に巻かれ、高熱に喘ぐように呼吸する様はあまりにも苦しげだ。村王の非常に痛ましい姿に、自分も眉間に皺が寄る。
「戻ったかね」
 ガノが小さな声で話しかけてくる。見慣れたトレジャーコートセットに、ヘルメットを外して室内用の毛皮の帽子を被っている。温かい飲み物を自分とルアムに差し出すと、村王を見遣って話し出す。
「胸から腹への傷は内臓まで達しておった。我輩も縫合はあまり経験はなかったが、どうにか出血を止めることができておる。しかし一番表層の皮膚は抉られておって出血が止まらぬし、熱も高く推移しておって体力を消耗し続けておる。回復呪文が使えぬ重傷者の難しさを痛感したわい」
「村王がここまで保ったのもガノのお陰だ。村を代表して礼を言う」
 礼はいらんわい。ガノが手を振る。
 治癒術はエルフが秀でているが、治癒術が施せない重傷者などに施す外科技術はドワーフに名医が多い。経験がないと言いながら、器用さと集中力で村王の傷を縫合してしまうのだから恐れ入る。
「宿屋協会の者が置いていった薬は使い切ってしまった。後は村王殿の体力と雪中花の力を信じる他あるまい」
 癒しの雪中花。オーグリードではどんな傷をも癒す、幻の薬と呼ばれた薬草だ。
 ガートランドでマイユとアロルドと再開した時は驚いた。
 自分の両親はガートランドで薬草問屋をしており、始まりは病弱な姉の為だったが今ではオーグリード屈指の品揃えを誇る。噂を聞きつけ、珍しい薬草を求めて他の大陸から客が来るほどだ。そんな実家で、マイユとアロルドは自分の両親と金袋を押し付けあっている最中だった。村王を治す薬草は珍しい上に高価なのだから支払うという幼馴染と、恩ある村王を治す為なら金はいらないと突っ返す両親とで相撲状態だ。すでに野次馬までいて、半額で妥協するまでにどれだけ時間がかかったことか。
 薬を煎じ村王に飲ませたギュランは、これで少し様子を見ましょうと言った。
 村王の氷嚢の氷の替えを氷室に取りに行くと、巨大な氷の塊にルアムとガノが感動する。この村は大きな産業はないが、質の高い氷を作っている。天然水を丹念に重ねて磨いた氷は、他の大陸の王宮にも卸される。最近では魚の養殖を始めた家もあるらしく、氷の下を泳ぐ魚達を仲間は熱心に覗き込む。我が村に興味津々で感動する他種族の姿に、警戒に神経を尖らせていた戦士達も目元を緩めて見守っていた。
 嵐の前の静けさ。そんな穏やかな時間だった。

 翌朝に響き渡ったマイユの喜びの声が、村王の意識が戻ったことを伝えた。戦士達は見張りの合間に村王の様子を見にきては、快方に向かうと涙を浮かべて喜んだ。
 自分達が呼ばれてお目通りが叶うと、薬の匂いが鼻を突く部屋にはマイユとアロルド、ギュランがすでにいた。マイユは村王が意識を取り戻したことに安堵したのか、張り詰めた感情がだいぶ和らいだ顔で足元側に椅子を寄せて座っている。
 長い間高熱で汗に濡れボリュームを失った癖毛だったが、村王は力強い瞳で自分達を見た。こんな大怪我で脂汗も浮かんでいると言うのに、豪快な笑い声は廊下にまで響いてくる。自分はあまり傷に響く大声は出させぬよう、枕元に寄って膝をついた。
 村王は嬉しそうに目元を和らげ、自分を見た。
「久しいな、ルミラ。オーグリードの精鋭としてレンダーシアの調査団に加わったと聞いて、とても誇らしかったぞ。雪中草の件は折りを見て礼の手紙を出すが、いい加減村に戻ってこいと両親に伝えて欲しい」
「父は村王が生き残る運命の為に村を出たのだと、誇らしく思っているでしょう。戻りますまい」
 そう返せば『奴ならそう言いかねん』と、父の親友は渋い顔をした。
 村王が自分の背後に並ぶ仲間達を見ようと首を伸ばしたので、皆が見えるよう立ち上がる。ルアムを、ガノを、自分を、娘のマイユに婚約者のアロルド、側近のギュランへと視線をゆっくりと向ける。
 強者を見る頼もしそうな光を湛えた瞳が細められると、表情を引き締めた。
「話はギュランから聞いている。神の器と呼ばれる者を誘拐する悪しき者を、追っているそうだな」
 自分達がランガーオに到着した時には、村王は既に飛竜によって深傷を負わされていた。立て続けに世界宿屋協会の警備部長と名乗る男も血相を変えて訪ねてくれば、何事かと誰もが驚くに違いない。
 自分達が今までの事の次第を、ギュランに伝えていたのだ。
 ギュランは武術の腕は秀でてはいないが、博識で頭の回転の速い男だ。一部にしか伝えられていない誘拐事件についても知らされており、今回の飛竜の襲撃が誘拐犯の仕業であることも彼だからこそ円滑に伝わったといえよう。村王が意識不明に陥って混乱する村人達を束ね、的確に今後を指示した指揮力に助けられた。
 自分達が肯定するように頷けば、村王は荒い息を整えてから言葉を紡いだ。
「実は飛竜と遭遇していた時、高台に白い外套を着た影を見た。それが村人達に向けて手を翳していて、不思議に思ったものだ。今思えば、神の器を探していたのだろう」
 神の器。
 合流した仲間から聞いた言葉は、予想外な内容だった。
 誘拐されている人物達は、アストルティアの種族神達と繋がった特別な存在なのだと言う。勇者であり人間の神『グランゼニス』に選ばれたアンルシア姫、メギストリスの王子であり予知能力のある『ピナヘト』の器であるラグアス王子。エルフの神『エルドナ』を降ろしたフウラと、誘拐犯が神の器と断言した『ワギ』の器であるダストン。そして未だ行方不明なヒューザという若者は『マリーヌ』の器であるとされる。
 それぞれの種族から一人ずつ誘拐されており、次は残ったオーガの神『ガズバラン』様の器を狙うとされる。そうして誘拐犯を追ってきた自分達が辿り着いたのが、このランガーオ村だった。陽動の可能性も考えたが、ダズニフ曰く飛竜を嗾しかけてからもアンテロは近辺に潜伏しているらしい。
 この村に神の器がいると、自分達は睨んでいた。
「村王殿。神の器は種族神に由来する、何らかの加護が与えられておる可能性が高い。心当たりはないかね?」
 ガノの問いに、村王が頷いた。
「おそらく、マイユを探しているのだろう」
 一斉に視線を向けられたマイユは、目を丸くして己を見る人々を見返した。
「…私?」
「生まれて間も無いお前は、火事に巻き込まれ炎に包まれた。あの炎の中で助けに行った儂は大火傷であったのに、お前は火傷一つなくけろりとしておった。火の神ガズバラン様の御加護に違いない」
 村王の言葉は両親からも聞いた事のない内容だったが、驚きはなかった。
 ランガーオの子供は極寒の気候故に、小さい時から火の扱いを叩き込まれる。火の起こし方、薪を焼べて火を制御する方法、適切な焚き火の片付け方。言葉よりも先に、火打ち石の使い方を覚えるような地だった。小さい子供は大抵手に火傷を負うものだが、マイユだけは火傷のない綺麗な手だった。
『火傷しないなんて嘘だ! 村王の子供のくせに、火を使ったことがないんだろ!』
『嘘じゃない!』
 甲高い声で疑った子供らの前に、マイユが焚き火の中に手を突っ込んだ。やめろと自分が腕を引っ張っても、手は焚き火に焼べられたまま。凄まじい熱の中にあるマイユの手が、火の中で何ら変わりなくあったのを間近に見て、恐ろしく震えたものだ。
 最終的に嘘つきと罵った子が、焚き火に手を突っ込んで火傷を負ったのは言うまでもない。
 村王が体を起こそうとされるので、ギュランが背を支え枕を入れる。小さく息を吐き、村王は眩い笑みで愛娘をひたと見つめた。
「だが、安心しろ。何度奴が卑劣な手で村を襲おうと、命に代えてお前を守ってやる!」
 どんと胸を叩き、がははと声をあげて笑う。そんな村王をマイユが立ち上がり一喝した。
「無茶なこと言わないで!ルミラの仲間が傷を縫ってくれて、ルミラのご両親が運良く雪中花を扱っていたから、意識が戻ってこれたのよ! やっと血が止まったばかりの体で動いて、傷口が開いたら…!」
 まぁ、助からんじゃろうな。ガノが横で小さく呟いた。
「ふんっ! これしきの怪我如き、歴戦の戦士でありランガーオ最強の村王を見くびるでない!」
 名演技って言いてーけど、包帯から血が滲んでるぞ。ルアムが隣でぼそりと言う。
「父さんの強さは誰よりも信じているわ! でもこれ以上、父さんに村の皆にルミラ達に迷惑を掛けたくないの! 父さん、お願い! これまで育ててくれた恩返しをさせてちょうだい!」
「一丁前の口を叩きおって! 恩返しなど親子の間に必要などない!」
 この親あれば、この子あり。お互い頑固な性分だ。
 余所者故に口を出せぬ仲間は仕方がない。どうするべきか目が泳いでいる男共を後目に、自分は唾を飛ばし合う親子の合間に割って入った。
「二人とも落ち着くんだ。どちらにせよ飛竜の襲撃は止め様がないし、村王が動ける状態でもない。まずは、飛竜の襲撃に耐えることを優先するべきだ」
 落ち着かせるように低くした声で言うと、似たもの親子はおずおずと身を引いた。それでも村王は娘を守る強い決意を瞳に湛え、マイユも考え込んだ様子で俯いてしまう。
 マイユ。村王は愛娘に語りかける。
「まだ子を持たぬお前は分からぬだろうが、儂はお前の笑顔に何度も救われてきた」
 村王は一人で村を変えた偉大な男だ。そう、北の空を見上げて父は言っていた。
 寒い地域故に体力の弱い子供が育つことは難しく、大人でさえ判断を誤れば吹雪に呑まれて帰らない。ランガーオは強さを尊ぶオーガの気質が、強く残った地域であった。
 姉は病弱だった。言葉を覚えることは早かったが、歩けるようになるのは一年遅かった。心の臓が弱く女仕事を手伝うことも難しく、物心ついた時には姉用の棺桶が用意されている。両親が逃げるように山を降り、オーグリードでも比較的弱者に寛容なガートランドで暮らすようになったのも仕方のないことだったろう。
「やり場のない怒りや悲しみ、苦い後悔に胸が潰れそうになる時、絶望に膝が折れてしまいそうな時、家へ帰れば愛する娘が笑顔で迎えてくれる。どれほど儂の希望となって、奮い立たせてくれたか…」
 強さこそ正義。その風習は王子が身罷られたばかりのガートランドにも、色濃く影を落とす。父は故郷とは違う場所でも、力から平等へ舵を切る事の大変さを間近で見ながら過ごしていた。そして言うのだ。親友に自分が立ち向かうべきことを全て押し付けて、自分は村を出てしまったのだ…と。
 故郷を想う父と苦しい時期を思い出す村王の顔は、胸が痛むほど良く似ていた。
 村王は笑みを浮かべる。俯き、視線を合わせない娘に、そっと囁くように言う。
「儂の娘になってくれて、ありがとう、マイユ」
 黙っていたマイユは、ぐっと唇を引き結んだ。その唇も小刻みに震えて体全体に伝播していくのを、二の腕を強く掴んだ手でどうにか堪えている。ふっくらとした唇の力が抜けると、そっけない言葉を吐き出した。
「風に、当たってくるわ」
 まるで雪原の一角兎が逃げ出すような速さ。自分達があっと口走る前に、玄関の戸が乱暴なまでの音を響かせて閉じるほどだ。暇乞いをしたアロルドが慌ただしく村王の家から追いかけて行った。
 ぱちぱちと暖炉の薪が爆ぜる音が煩く感じるような静寂が満ちると、村王は苦しげに息を吐く。ギュランが背を支えて枕を抜き、慎重に横たわらせる。長く吐いた息をゆっくりと吸い込むと、村王は脂汗を浮かべ瞑目する。
 やはり、マイユの前だから気丈に振る舞ったのだろう。
「村王。ご無理をされてはなりません」
 脂汗を濡れた手拭いで拭うと、村王は弱々しく笑った。
「突然『神の器』だと聞かされ、混乱しているのだろう」
 マイユは優しい娘だ。村が飛竜の襲撃を受けて危機に瀕するだけでも心が痛いだろうに、原因が己にあるなど我慢ならないに違いない。村人達がマイユを守ろうとして怪我を負い、死ぬ可能性もあると思えば気が触れそうな自責の念に駆られるだろう。
 村を出ることも考えているだろう。神の器が村を出れば、アンテロは追うだろう。
 だが、マイユがここに居ようと居まいと、飛竜の大軍はここに向かってくる。それがマイユの優しい心を嘲笑い踏み躙るようで、自分は怒りに震えるばかりだ。
 ふと、手拭いを持っていた手が握られた。村王が自分を見上げている。
「ルミラ、行ってやって欲しい。マイユを守ってやってくれ」
「はい。命に代えても…」
 ぎゅっと手が強く握られる。思わず息を詰めるような、死の淵に立たされた者とは思えぬ力強さだ。
「死んではならぬ。良いな」
 はい。掠れた声で返事をして頷くと、村王は手を離した。仲間と共に部屋を退室すると、自分は仲間達に振り返った。自分の顔を見上げてた仲間達の笑みは、自分の背を押すようで頼もしい。
「行くかね? 村の守りは任すが良い」
「マイユの姉ちゃんって、アンテロってヤローに狙われてるんだろ? 姐さん、気をつけてなー」
 自分は扉を開けて身を切るような冷たく澄んだ空気を、足早に迷うことなく進む。
 村王の娘マイユは運動神経も抜群で、大人が舌を巻く戦闘センスを持つ何でも出来る子供だった。駆けっこは一番だし、木登りは誰よりも高く登り、修練は年上の男でさえ打ち負かす。誰よりも負けず嫌いで、実際に負けない女王様。ちょっと、我儘だった。
 そんなマイユがどうにもならなかったのが、遊び仲間の自分の存在だった。
 病弱な姉の看病で、自分はマイユの誘いを良くすっぽかした。それを玄関先に来ては、約束したのにと怒って、涙を溜めてどこかへ駆けて行ってしまう。母か父が戻ってきて姉を任して、追いかける。行く先は待っているかのように、いつも同じ場所だった。
 村の奥にある修練場を見下ろす場所。村を一望し天気の良い日は獅子門まで見渡せる、ランガーオ屈指の見晴らしの良さを誇る。そこにアロルドを見張りに立たせて、一人ぐずぐずと泣いている。見張りに立つ少年が振り返る。膝を抱えて小さくなった少女の背中と、追ってきた自分とを交互に見遣り、道を譲るように一歩下がる。
「情けない所を見せちゃったわね」
 大人びた声で強がりを言いながら、小さい少女が顔を拳で拭っている。
「貴女の家族が村を出て、ずっと父を責めたわ。どうして、出て行ったのって。年に一度の祭りで戻ってきても、また南に戻ってしまうのを見る度に泣いていたわ。今思うと、辛い思いをさせてしまったのね」
 そう言いながら少女は、遠く獅子門の方角を見る。毎年毎年、この場所から自分が向かってくるのを待ち遠しく思い、同じ場所から自分が南に降っていくのを見送っていたのだろう。
 まだ剣胼胝すら出来ていない、福代かな子供らしい手を握りしめる。寒くて空気の薄い生まれ故郷に戻るのは、父と自分だけ。自分は姉と母を置いて、父と別れて、少女に触れてランガーオに残ることを選ぶことはなかった。泣かせているのは自分だと、それだけは良く分かっていた。
 どうして。そう、言葉が口いっぱいに膨らむ。
「すまない。姉はランガーオの寒さの中では生きていけなかった」
 どうして、こうもままならないのだろう。
 姉が病弱であることも、村が強さを尊ぶのも仕方のないことだ。村王がマイユを慈しむことも、村を守ろうと戦士達が命を賭けることも、彼らが自ら選んだことだ。マイユが『神の器』であるだなんて、本人は全く望んでいない。全てが上手く噛み合わない。それなのに、運命は雪崩のように全てを飲み込もうと迫る。
 姉が長く生きられないことを、漠然と知っていた。賢者様が手を尽くしても、治らないと悟った時、父の呻くような言葉が今も耳にこびりついている。
 それでも、出来ることをするしかない…と。
「南で運良く王女の治療に携わる賢者様に会って、姉も診てもらえた。姉は、ランガーオでは得られなかった友を得たんだ。マイユ、君を泣かせても、自分は家族と南へ行ったことを後悔していない」
 全てを救えたらどんなに素晴らしいだろう。だが、姉とマイユを同時に笑顔にしてやる方法はなかった。勝者がいれば必然的に敗者が生まれるように、何もかもが両立することはない。
 自分が戦うしか能のない戦士でなかったら、違う道があっただろうかと思う時がある。赤毛のプクリポのように皆を笑顔にできる明るさがあれば、眼鏡のエルフのように魔法に秀でていたら、トンブレロソンブレロを被ったウェディのように料理が上手かったら、老齢のドワーフのように多くの知識を持っていたら、父のように薬草問屋を営める商才があれば、母のような忍耐と優しさがあったら、そして、姉と自分の立場が逆であったら、違う道があっただろうか?
 否。どんなに問うても、振り返っても、否定が眼前にある。
 どんな道であったとしても、どんな才能を得ていたとしても、どんな境遇であったとしても、自分は今の自分になっていた。それくらい、自分は愚鈍だ。昔のマイユの悲しみを拭うことも、今のマイユの苦しみを消し去ることも出来やしない。
「自分は出来ることしか、出来ない。出来ることも多くない、そんな平凡なオーガだ」
 仲間達の多才さを心の底から羨ましく思う。自分に出来ないことが出来ることが、妬ましく思えた。力を合わせることは仲間達と出会う前から知っていたが、己の選択肢の一つとして仲間の存在を選べるようになったのは最近のことだ。
 自分達は出来ないことが、たくさんある。
 自分達が出来ることなど、ほんの僅かだ。
「だからこそ、自分に出来ることは全てしよう」
 自分にできることをして、道を切り開く。魔法は仲間が唱えてくれる、傷は仲間が癒してくれる、素早い対応も、咄嗟の作戦変更も、それが出来る仲間が身構えて即座に応じる。集った自分達はまさに一騎当千の戦士のようだ。誇らしく、頼もしく、全てを救うほどの力がある。
 そう、この飛竜に襲撃されようとしているランガーオを、守る力が自分達にはあった。
「ランガーオを襲う飛竜の群れに挑む。共に戦ってくれる仲間の誰よりも最前線に立ち戦い抜く。君を守る余裕はないが、アロルドが君を守ってくれるだろう」
 アロルドを見れば、まだ成長期を迎えていないひょろりとした少年が赤ら顔で頷いた。自分は踵を返し、村へ下る道を駆け降りようとした。ぐっと肩を掴まれると、少女が背中に飛びついて自分達は雪の中を転がり落ちた。
「そんなの、ダメに決まってるでしょ!」
 自分の上に乗り上がった少女が、ぼろぼろと涙を流して見下ろしている。ぐっと唇をへの字に引き結んで、涙を堪えるように目元が釣り上がる。自分の胸の上に置かれた手が、ぐいぐいと目元を擦ると無理をしてにっと口元を笑わせた。
「ランガーオを守る為に誰よりも前に出るのは、私よ!」
「先陣を譲る気はない!」
 自分もにっと笑みを浮かべると、少女の肩を掴んで押しのける。雪の上を転がり、前に行こうとする足を掴み、転ばせた相手を横目に進もうとすれば背中から押さえつけられる。雪の上をもがくように取っ組み合う自分達は、もう子供ではなかった。それでも大人とは思えない戯れ合いで、互いにすっかり雪まみれだ。
 互いに荒い息をついて睨み合っていると、どちらともなく笑い出す。
「共に村を守ろう」
「えぇ! もちろん!」
 そうマイユが嬉しそうに応じた。あぁ、マイユ。君は本当に笑顔がよく似合う。村王が幾度となく救われ、村人達が慈しみ、アロルドが惚れるのも仕方のないような暖かい火のような笑み。自分も神の器であるかなど関係なく、最も近き場所で君の脅威を取り除く剣となろう。
 立ち上がった自分の手を掴んで立ち上がったマイユは、空を見上げて眉根を寄せた。自分も、アロルドも、マイユの視線を追う。晴天に叢雲のような黒々とした影が、こちらに迫っていた。
 警戒の鐘が鳴る。襲撃の時が目の前に迫っていた。