いつかあの人が言ったこと、いまもまだ [信] - 前編 -

 燃える。燃える。
 木々が燃える音が耳を打ち、土が焼ける匂いが肺いっぱいに押し込まれる。人々の悲鳴が炎が爆ぜる音に呑まれ、逃げろという声が燃えた木が折れる音に潰される。目に押し寄せる赤、朱、緋、あか。踊り狂うように白く輝き、逃げ惑う者を捕まえようと血のような赤が伸び、捕らえた者を含んで喜ぶように黄色く色づく。
 空気が燃やされてこんなにも苦しいのに、体が炎に炙られてこんなにも痛いのに、動くことが出来ない。
 動かなくていいんだ。僕は矢を番て敵を射抜く役目を負っているんだ。ラグアス王子とミシュアさんだったアンルシア姫を拐った誘拐犯の増援である、蝶のような淡い桃色の翅を持つドラゴンと緑の毒々しい色をした翼を持った大鳥を射抜いている。目眩しだろう緑の煙から少しでも見えたら、射抜いて、落とす。
 集中して、炎から目を逸らすんだ。
 何度も焼べた故郷の幻が、現実になって僕を飲み込もうとする。熱い。暑い。あの日に滅んだ故郷は、どんなに新しく賑やかに復興しても滅んだことには変わりない。飲み込まれたら、火に囚われたら、僕はその日に連れ込まれ帰って来れない確信があった。
 目の前には巨大な紺色の竜が銀色の竜とが、激しく揉みあっている。まるで彫像のように逞しい肉付きが、炎に照らし出されていた。紺色の竜はラチックさんを尾で薙ぎ払ったから敵なのだろうが、手持ちのプラチナ鉱石で出来た鏃ですら鱗に弾かれてしまった。鱗に弾かれない急所を貫かなくちゃ。僕は紺色の竜の目を射抜こうと、息をつめて弓を引く。
 紺色の竜と目が合った。憎悪に塗れ、何一つ上手く運ばない苛立ちを隠さない瞳の瞳孔がすっと窄まった。
 僕の集中で停滞した世界の中を、竜は俊敏に動いた。紺色の竜は顎を大きく開ける。ずらりと整然と並んだ牙に縁取られ、炎にてらてらと滑る舌が、喉へ続く闇を僕は覗き込んだ。打てる瞬間を脊髄反射と言える反応で矢を放ったが、闇がぱっと明るくなって矢が燃えた。その光が炎の玉となるのは一瞬のことで、炎の玉は僕を目掛けてまっすぐに向かって来る。
 逃げなくちゃ。僕は瞬時に危機を理解した。
 僕を狙ったのは、僕が狙いやすい位置にいたからだ。今すぐ、枝から飛び降りれば避けることができる。少し怪我をするかもしれないけど、火の玉が直撃するよりもずっと軽傷だ。分かってるんだ。そんなこと、火の玉が放たれた瞬間には理解していたんだ。
 でも、体が動かない。
 あの日が、僕を捕まえて離さない。
 村を滅ぼしにやってきた冥王ネルゲルが放ったメラゾーマの炎が、僕の目の前に迫っていた。僕はあの日に囚われて、今、正しい歴史と言いたげに迫る炎に焼かれてしまう。
「ルアム!」
 炎と僕の間に影が滑り込む。僕を抱きしめその背に炎を受けた影が、痛みのあまりに悲鳴を上げた。悲鳴を聞いて、ハッとする。今があの日ではないと頭がようやく理解して、へたり込んだ。怪我をしただろう抱きしめる誰かの背に、慌ててホイミを掛ける。
 痛みに震える背中をぎゅっと抱きしめて、服を焼き、皮膚が焼け爛れた背中に手を押し付ける。肉の焼ける匂いに吐き気を堪え、ホイミでは間に合わないと更に強力な回復呪文に変えていく。浸透していく熱を本人の体力で押し返し、回復呪文の力が浸透して焼き壊された体を再構築していく。大丈夫そうだと、掌越しに感じて大きく息を吐いた。
 そう言えば、誰が僕を庇ってくれたんだろう?
 抱きつかれて、顔は僕の方から後ろにあって見えない。敵の攻撃に戦闘不能になって蹲るラチックさんと、介抱する兄さん。『花開きの聖祭』に参加しているエルフ達を避難させているガノさん。炎の勢いに青ざめ立ち尽くしていたエンジュさん。敵に組み敷かれているダズニフさん。仲間達は全員見える範囲にいた。
「ルアム」
 息が詰まる。体が震えるのが止まらなかった。
 テンレス兄さんの声だ。あんなに聞きたかった声が、探し求めた姿が、今、僕を抱きしめていると思うと色んな感情が溢れて言葉にならない。ラグアス王子やアンルシア姫を拐ったのにも理由があるんだ。僕を身を挺して守ってくれたテンレス兄さんは、あの日から変わらない優しいたった一人の僕の兄さんだ。
 肩に手を置かれ、頭が動く。耳にテンレス兄さんの温かい息が掛かった。
「神の器を追うな」
 次の瞬間兄さんの体の感触は、最初からそこになかったかのように消えてしまった。
「…って事があったんですよ! 聞いてますか、ケネスさん!」
 顔面に殴りかかる勢いの大声を真っ向から浴びながら、俺は嘆息した。
 冥王ネルゲルに滅ぼされた、エテーネの民の生き残りルアム。青紫の髪に青紫の瞳、日に焼けた肌に若々しいしなやかな筋肉を持った健康的な若者だ。今では随分と血が薄れ時渡りの力を失いつつある民の末裔だが、こいつは珍しく手伝ってやれば時を渡ることが出来るくらいの力を持っている。俺が最初に出会った時は魂だけの状態だったが、時渡りで違う時間に飛んだ肉体と魂が上手く合流できたのだろう。
 生き別れた兄貴に出会えたのは良いし、己を身を挺して庇ってくれたことは嬉しいのだが、『神の器を追うな』と拒絶の姿勢が大変お気に召さなかったらしい。舞台役者宛らの声を張り上げて、怒りを存分に盛り込んだ声色で、俺に盛大に愚痴る。
 …ルアムとエルジュが喧嘩ばかりしていた、オーグリードでの旅を思い出す。あの時、愚痴と文句を両脇から喚き散らされて凄まじく面倒だった。
 感情的になると気が昂るのか、冷静さを欠くのも良くない。ラギ雪原の狩りに連れ出してきたのは、冷静さを取り戻させ今後の戦いで戦力になるよう必要なことだ。今までの状況を説明してくれるのは助かる。だが、俺は既に疲れ切っていた。
「ほんっとうに ルアム って げんき だな。おれ さむくて しに そうだってのに…」
 完全に鼻が詰まった苦しそうな鼻声で言うのは、俺がグランドタイタスで拾った銀色のドラゴンキッズ。どうやらアストルティアが寒過ぎて冬眠状態だったそうで、冬眠から目覚めてこうしてラギの寒さに震えている。毛皮に包まりながら、固く目を閉ざした顔を上げ鼻水をずずっと啜り上げた。
「女神ルティアナの子供達の中で、最も恵まれた力を与えられた種族が、なっさけねぇなぁ」
「しょうがねぇじゃん さむい んだもん」
 ラギ雪原に最も近い狩人の小屋は、膨大な積雪に潰されないように丈夫なブラウンウッドのログハウス風の作りで、隙間風が入らぬように漆喰で内側は固められている。さらに獣の皮で断熱を施した小屋は、囲炉裏の熱でほっと息がつけるほどに暖かくなっている。
 さらに室内の温度を上げようと、夕食の支度をしている。体が温まるヌーク草を入れ、道中ルアムが仕留めた一角兎をつみれにし、ランガーオ村で調達してきた根野菜を入れる。塩で味を薄めに整えて、最後の仕上げでルアムが持参してきたツスクルの味噌を入れて完成だ。味噌を入れて香りがぱっと空間に広がると、ダズニフと名乗ったドラゴンキッズが頭を上げて鼻を寄せる。湯気が二筋に分かれて、鼻にいつまでも吸い込まれていく。
「いい においー」
 にへら、とダズニフが笑った。ドラゴンキッズの姿から本来の竜族の姿に戻ると、そこにはウェディ並みの長身に人間と変わらぬ体格の男が座っている。その皮膚は水晶のような虹を帯びた小さな鱗に覆われ、爪は黒く尖っている。鼻先まで下ろした柔らかい癖毛と、まっすぐ後ろに伸びた立派な二本角は黒曜石を思わせる漆黒。顔は明らかに人のそれではなく、首から上は髪の生えた竜の頭が据わっているようだ。
「食べて良いか?」
 好奇心が抑えられないのか、きっちりと毛皮を背負い込んでいるが身を乗り出す。待ちきれないダズニフに、ルアムが朗らかに笑った。
「そろそろ良いですよね。取り分けましょう」
 お椀に食事を装い、生姜やヌーク草を煮出した茶を入れる。味噌の風味と適度な辛さが体を温めるし、お茶を飲んで一息ついた頃には火照る程度に温まってきた。
 目が見えないと言っていたが、ダズニフの食事の姿は作法を心得たものだ。きちんと背筋を伸ばし、匙を器用に使う。大きく開けば耳の近くまで割け、ずらりと牙を見せてしまいそうな口は小さく窄めて、一口分を口に含み、咀嚼し、飲み込む。美味しいと無邪気に称賛するが、口の中に食い物が入っている状態では絶対に喋らなかった。
 こいつ、結構、良い育ちしてんな。俺は横目に見ながらそう思う。
「体が温まる。ヌーク草って凄い薬草だな」
「えぇ。物凄く辛いのは難点ですが、凍死の特効薬とも予防薬とも言われるヌーク草です。塗り薬としても優秀ですけど、粉末や煮出した液が目に入ると失明するくらい強力な刺激があるんですよ」
「このくらいの辛さじゃ、物足りねぇよ。俺、束で食べてぇな」
 馬鹿言うんじゃねぇよ。俺ですら火を吹くわ。
 内心突っ込むが、ダズニフは割と本気で言っている。この竜族は超絶な辛党らしく、自分のお椀に追いヌークで草一本ぶち込んでるからな。オーグリードで繁盛してる辛味専門の店でさえ、追いヌーク草一本分はチャレンジメニュー扱いだ。オーグリードのヌーク草、エルトナの花山椒、ドワチャッカの火炎草、プクランドのレッドベリー、ウェナの海鳥の爪、レンダーシアのレンダーペッパーが惜しみなく投入された深みのある辛みの鍋に、追いヌーク草とか考えるだけで燃えちまいそうだ。あまりの辛さに井戸に飛び込む馬鹿が絶えないらしい。
「この草があれば、俺も寒冷地で活動できそうだな」
 嬉しげなダズニフの言葉を、俺は間髪入れずに否定した。
「草の力に頼るな。体が慣れてしまうと、効力が十分に働かなくなる」
 草には様々な効力がある。身を助る薬草も、多過ぎれば毒になる。しかも生き物は良く出来ていて長期間連続摂取し続けると、薬の効果に対して耐性がつく。耐性がついて効きにくくなると、大量に摂取した挙句、過剰摂取で毒となり身を滅ぼしかける奴は存外に多い。
 ダズニフは己の寒さへの耐性の低さを、ヌーク草で補うつもりだ。だが寒冷地を生きる生き物で、ヌーク草に頼って生きる者はいない。それ以外の術を手に入れる必要がある程度に、ヌーク草に頼るにはリスクが存在しているのだろう。
 俺がそう話すと、ダズニフは不安そうに黙り込んだ。
「なに、心配するな。寒さが苦手で役に立たないお前が動けるよう、考えてある」
 寒冷地を生きる生き物は、どう寒さを克服しているか。その多くは己の保温力を高めることにある。もこもこ獣などの毛皮を纏う生き物は、そのふわふわとした毛皮の内側に温かい空気を溜め込んで外の冷気を遮断する。ここに生きるオーガ達も尋ねる旅人も、防寒着を着重ねする。
 そこまで説明して、ダズニフに問う。
「お前、色んな種類の竜になれるそうだな?」
 気圧されるように頷いたダズニフに俺は言い放つ。
「ラギ雪原には雪原竜という、とても寒さに強い竜がいる。お前が雪原竜になる為に何が必要かはわからんが、狩りで取っ組み合ってみたり、尻尾切って食ってみたり、色々試してみよう。雪原竜の姿になることができれば、お前は寒さを克服できる」
 ダズニフがぽかんと口を開け呆然とすること深呼吸一回分。次の瞬間、銀色の鱗がぱっと赤く染まり、俺の両手を勢いよく掴んだ。がばっと開いた口に、齧られると思わず体が強張る。
「ケネス! お前は竜族の救世主だ!」
 しらんがな。
 迸った言葉に混じった唾を浴びた俺が白けた様子で見返していると、ダズニフは赤く染まった鱗をゆっくりと銀色に戻しながら手を離した。恥ずかしそうに膝の上に手を置いて、項垂れる。
「いや、その、なんだ。…か、感謝する」
「別に感謝を求めている訳じゃない。この後来るだろうランガーオ村の飛竜の襲撃は、とにかく一人でも多くの人手が欲しい。戦力確保も俺が楽する為に必要なことだ」
 ランガーオ村に存在する宿屋は、世界宿屋協会に登録した宿の一つ。そこからオーグリード支部に上がり、俺の元にまで舞い込んだ報告は血の気が引くような内容だった。
 ランガーオ村に飛竜が襲撃し、村王がそれを撃退した。
 撃退の内容を詳しく聞く為に全ての業務を放り投げてランガーオ村の宿にやってきて、鉢合わせしたのが『神の器』を誘拐した賊を追っているルアム達だった。
 そして確信した。
 この村が滅ぶほどの厄災が目の前に迫っている。それがアンテロという賊が仕掛けた、卑怯極まりない罠であることを。
「いや、感謝させてくれって。俺は同胞が引き起こした厄災を取り除く義務があるんだ」
 ルアム達がランガーオ村にやってきたのは、『神の器』を集めているアンテロの匂いをダズニフが追って辿り着いた場所だったからだ。ルアムの兄テンレスは、世界樹で消えた場所からパッタリと匂いが途絶えていて追えない。必然的に匂いが追跡できるアンテロを追う形になっているそうだ。
 そして、村に漂う濃厚な飛竜の血の匂いと、死んだ臓腑が急速に痛んで腐る匂い。彼らが到着する直前で飛竜は殺されてしまったと、ダズニフは間に合わなかったことを悔やんだ。
「アンテロは飛竜を操って、村を襲わせたんだ。殺された竜の悲鳴は、自分の死が突然訪れて理解出来ない戸惑いと悲しみに満ちたものだった。こんな酷い目に遭う理由など、あの飛竜にはなかったはずだ。とても許せる事じゃねぇ」
 飛竜は基本的に穏和な種族だが、仲間に危機が及ぶと一致団結し敵を襲撃する習性を持っている。仲間が殺された血に触発され、自分達を害する敵を殺す為に大規模な竜の集団が襲撃するのは間違いない。
 即座に俺達は行動を起こす。猶予はもう殆どなかった。
 赤毛のルアムは先の飛竜の襲撃で怪我をした村人や、女子供老人を率いて山の麓の獅子門へ降る。元々戦士の村出身だった飛竜を繰るルミラというオーガの女が、戦局を左右する鍵を求めて飛び立った。最も深手で動かせない村王と村を守る為に、勇敢な戦士達と共にガノというドルワームの技師が村に残った。
 元々、彼らの仲間は他にもいた筈だが、アンテロの手によって駆けつけられぬ状態にあるそうだ。あの頑丈なラチックでさえ、死にかけたそうだ。あの白いフードの男、本気を出して船上で殺しておくべきだったな。
 そして俺はルアムとダズニフを連れて、ラギ雪原にいる。
 特にダズニフは竜族としての強さが、寒さというたった一つの弱点のせいで全く使い物にならない。この問題は最優先で、どうにかしなきゃなんねぇだろ。
「恐ろしい奴ですね。なんの関係もない生き物ですら、その習性を利用して争いに巻き込むだなんて」
 アンテロは飛竜の習性を利用し、生贄として一匹の飛竜を操りランガーオ村で暴れさせた。村人達も我が身を守る為に戦わなければならないし、退けることは叶わず殺さざる得なかった。村人は悪くはない。だが飛竜の怒りは既に村に向けられている。元凶のアンテロは高みの見物と洒落込んでいるのかもしれねぇな。吐き気がする程の邪悪を感じる。
 それを知った誰もが、アンテロに強い憎しみを抱いた。そりゃあ、そうだろうさ。やってること、人が踏み込んじゃいけない外道の法だ。誰もが嫌悪を隠しやしねぇ。
 ルアムが改めて憎しみを噛み締めているのを察してか、ダズニフが真面目な口調で話し出した。
「昔、じいさんが言ったんだ。民は鏡。危害を加えるべく相対すれば、相手も反発し怒りや憎しみを抱く。良き関係を築こうと望めば、相手の中にいる善なる心を持った者が手を取ってくれる。守護する民の感情が神へ届き、神の心となる」
 まるで神に仕える聖職者のような厳かな声だった。
 信じる者を率いて暗闇を歩く為に、彼らが語る声は輝くという。ダズニフの声は確かに粗野で荒々しいところはあるが、どんな闇にも呑まれないと断言できる揺るがない決意があった。
「俺は行動で証明しねぇといけねぇんだ。ナドラガンドの竜族全てが、アストルティアの民に害を成す者ではないと。今、ここにいる俺こそが、ナドラガンドを背負って弟神ガズバランの民に示さなくてはならない」
 だから。ダズニフは拳を握って、絞り出すように言った。
「感謝してるんだ。俺が選択できるようにしてくれた、異郷の民に、俺は、心から…」
 それは感謝って言うより、深い深い謝罪に俺は思えた。

 身を裂くほどに冷え切った雪原の空は、星に手が届きそうなくらいに近く澄んでいる。雲ひとつない夜空には、純白の雪原を輝かせるほどの星が太陽を名乗るように瞬いている。それらに俺は手を組んで、目を閉じて祈る。今日あったことを、これから起こることを、仲間のことを、星々に報告する。本当はアインツの役目なんだが、出来ない時は俺が祈るという約束なのだ。
 空から星々の声が降ってくる。遥かな過去から偶然流れ着いた他愛のない独り言だったり、今必要な神託に等しい意味を持つ言葉であったり、なんだかご機嫌な笑い声だったり、胸が酷く痛むような嗚咽だったり、とても聞き取りきれない声が雨のように降ってくる。
 拾い切る必要はない。
 拾えなかった言葉は、今、必要なことではない。
 拾った言葉すら、とっくの昔に役目を果たしたり、未来で必要なことかもしれない。
 俺達はここにいて、聞こえる言葉を聞いていれば良いのだ。その言葉でどう汲んで動くかを、俺達は自由に決めることが出来る。弱い人間と等しいが故に、誰よりも自由に俺達は地上に在ることが出来る。
 手を解き、大きく息を吐くと雲のように白い息が風に乗って流れる。マフラーを押し上げているが、鼻の頭が真っ赤になっていたルアムと目が合った。青紫の瞳が懐かしそうに細められる。
「ケネスさんも、お祈りするんですね」
 も。アインツが祈っていたのを、思い出したのだろう。
「ダズニフが無事に、雪原竜の姿になれますようにってな。まぁ、お返事はいつも『大丈夫』だけどな」
 煙管を取り出し、燐寸を擦って火を入れる。ヌーク草と火炎草と炎の樹木を合わせた煙草は、肺いっぱいに吸い込めば体を燃やすほどに温めてくれる。
 ルアムは煙の流れない隣で、最も美しいだろうラギの空を見上げていた。幼さの残る顔立ちも、まだ背が伸びそうな背丈も見慣れたものだ。それでも、冥王の影に怯えて憎む光は瞳になく、その年相応の生き方が出来ただろうに、弓を片手に狩人の目つきで戦場を見渡している。
 何気なく手を伸ばしてルアムの柔らかい髪の上に置くと、そのまま撫で回す。
「な、何するんですか!」
 不満げに言うルアムに、俺は言う。共に旅をした、久々に出会った俺だから言える言葉。
「よく、ネルゲルに殺されずに逃げ切ったな。そんで、故郷に帰って、体も元通りなんだろ?」
 あの時に目指していた目標を達したルアム。冒険者で自分の望むものを手に入れられる奴が、一体何人いるだろう。どんな果てしない年月を掛けても、得られない夢を追う者もいる。夢を諦め手近なもので満足する者もいる。夢のために道半ばで死んだ奴なんか、数えきれやしない。
 お前の夢は具体的だった。
 冥王ネルゲルに殺されたくない。故郷に帰りたい。故郷も復興するんだってな。世界宿屋協会でお前の故郷の話が上がってて、正式に認証されれば俺達が視察に行って宿が建つだろう。赤毛のプクリポの中からじゃなくて、お前を構築する全てでお前は世界を見れる。
 全部叶えた。強欲だな。だが、お前の夢に、お前の願いに、誰もが力を貸した。
 俺は撫でる手を止めて、肩に触れた。煙管を空いた手に持って、顔を寄せて笑う。
「よく頑張ったな、ルアム」
 ルアムが息を詰まらせた。くしゃりと顔を歪ませ唇を引き結ぶと、ぼろぼろと大粒の涙が流れだした。口が開けば大声が溢れて、縋ったまだまだ大きくなりきっていない手が俺の体を掻き寄せようとする。俺は素直に引き寄せられてやって、ルアムの背に手を回す。
「お前は、兄貴に撫でてもらって、笑ってもらって、褒めて欲しかったんだよな」
 言葉にならない声が、押し付けられた胸に響く。兄が生きていて良かったことを、兄が元気そうで嬉しかったことを鼻声で叫ぶ。兄が大事な人々を不幸にしていることが、大事な人を誘拐している事実が、胸を掻きむしるような悲しみで溢れる。拒絶されて怒る自分と、身を挺して守って無事な自分とで、身が引き裂かれそうな苦しみを吐き出す。
 あんなに一つ屋根の下で何もかもを話し合った兄弟なのに、どんな失敗も呆れて物が言えないほどに迷惑を被っても許してしまう兄なのに、あの頃とは何もかもが変わってしまったと血を吐くように言う。
 俺はひたすらにルアムの言葉を聞いてやる。
 本当は兄貴にこそ、してもらいたいんだよな。今までのこと、今のこと、これからのこと、話したいことがいっぱいある。だが、いないんだ。仲間は良い奴過ぎて、お前も良い子過ぎて、わがまま言えねぇもんな。
 言葉が降ってくる。
 誰かの感謝の言葉。いつの、誰の言葉かはわからない。それでも、ルアムを想う誰かの言葉だ。
 幸せ者だなぁ、ルアム。俺は泣きじゃくって熱を帯びる体を抱きしめながら、空を見上げる。お前を想えど、触れられない奴がいる。誰か、と頼る願いがある。望んだ声の慈しみを込めるよう、俺はルアムの柔らかい髪を撫でた。
 ルアムの泣く声が広い広い雪原に響き渡って、雪の一粒一粒に吸い込まれていく。冷え切った風に巻き上げられた粉雪は星々の間を渡り、星々が零れ落ちそうなほどに光り輝いている世界は、まるで星吹雪の中のようだ。
 もう、言葉はない。獣の遠吠えのように、意味の籠ってない声が震える体から溢れている。泣いて、泣いて、全ての気持ちを吐き出して、疲れ切ってすっきり寝ちまうんだな。
 兄貴を追いかけ出したら、もう、泣いてる暇はねぇだろうからさ。