だからあの人はいつだって憂いているのだろう [優] - 後編 -

 木の葉が擦れる音とは違うものが、耳元でざわざわと音を立てる。ガノというルアム達の仲間が作った、通信機という離れた場所にいる仲間の声が聞こえる道具だそうだ。便利は便利だが、耳がくすぐったくて痒い。
『このドラゴンキッズ君は、我輩の耳をスルメか何かかと勘違いしておるのかね? 痛くて堪らんぞい』
『ガノのじっちゃんも味見されちゃったのか。ごしゅーしょーさまー』
 濃厚な緑の匂いに満ちている世界樹の頂き。俺は『花開きの聖祭』が行われている場所に、最も近い茂みに身を隠していた。盾で仲間を守るというパラディンの職業上、一番近い位置が良いだろうってことらしい。
 周囲を見渡せば、祭りの舞台を囲むように仲間達が身を隠している。木々の高い場所にはどんな場所にも飛んでいける身の軽いルアムが燃えるような赤を隠すように緑のフードを被って潜み、祭りを見渡せる場所に矢を番た人間の方のルアムが目を光らせている。地上から頂へ登ってくる道の傍で、ガノが銀色のドラゴンキッズを抱えて待機している。エンジュも祭りの参加者でありながら、襲撃者への警戒に目を光らせているようだ。
 祭りはヒメアというエルフの巫女が、魂を捧げて息を引き取った所だった。フウラというエンジュが妹のように可愛がっていた娘が、大声で咽び泣く声が胸を突く。あまり、子供の泣く声は聞きたくない。
 貰い泣きしているのか、ルアムが鼻を啜る音が耳元でする。
『祭りが終わるな。アンテロって誘拐犯は、もう現れねーのかな?』
 いや。ぴすぴすと魔竜族もする独特の鼻息を響かせながら、ダズニフが鼻詰まった声で言う。
『アンテロの匂いがする。近くに居るのは間違いねぇよ』
 そう断言されて、ダズニフの声を聞いた誰もが周囲を改めて見回した。フウラの激しい泣き声に反応して、強い風に揺れる大木のような世界樹の枝ばかりが見える。巨木の頂には鳥達も舞い込まず、木々の間に獣達の影すらない。事前に誰も潜んでいないのは確認しているが、ダズニフの言う近くとはどれくらいの距離なんだろう?
『ダズニフさん。詳しい方角とか絞れますか?』
『風が乱れて方向が定まらねぇ。だが離れねぇみてぇだし、この祭りの参加者の誰かが『器』なんだろう。帰りを狙うなら、ここに来る必要もねぇぞ』
 なるほど、帰りか。確かに『花開きの聖祭』を行うこの場所は、俺達が待ち伏せていて警備が厳重だ。ここで『器』を拐おうとして確実に俺達の妨害を受けるより、祭りを終えて緩んだ帰り道を襲撃した方が簡単だろう。列を成して移動する参列者に当たらぬよう、鏃に毒を仕込んだルアムの戦法は完全に封じられてしまう。地上の方が死角も多いし、増援を呼ばれてしまえば全員を守り抜くのは難しい。
 ヒメアを納める棺なのだろう、白木に美しい木々と花の透かし彫りを施した長い箱が運び込まれてきた。それを一瞥したエンジュが『ヒメア様のご遺体を納棺しましたら、世界樹から降りますわ』と発信機越しに耳打ちする。
『花が恙無く咲いたのは良いが、準備不足の帰り際を狙っておったなら相手が一枚上手じゃったの。気を引き締めるとするかの』
 そう、ガノが腰を上げるのを見ていた俺は、ぱっと空が明るくなるのを感じた。魔法の光かと慌てて振り返れば、ヒメアとフウラがいた場所が眩い光を放っている。ヒメアの膝に縋り付いて泣いていたフウラの声は止み、小さい翅を羽ばたかせ立ち上がる。神々しい真っ白い光を放つ小さい体が、ふわりと浮かび上がった。
『…我はエルフの神、エルドナ』
 フウラの声色は、厳かにそう言った。
 エルドナ。確か、エルフの種族神の名前だ。
 俺はこの種族神という存在がとても不思議だった。俺達、魔物には神はいない。だがフウラから溢れる眩しくても痛みを感じない不思議な光に、特別に思いたくなる気持ちが分かった。
 祭りに参加していたエルフ達が、倒れるように膝を折って畏まる。
『遠くない未来、闇がアストルティアを覆い尽くします』
 『なんと、神託か』ガノの声が発信機から聞こえる。
『世界樹の守り人ヒメアによって守られる花は、その時、大きな役割を担いましょう』
 未来を語る光は、緩やかに手を上げた。ヒメアが祭りの時に振り撒いた水の一滴一滴が舞い上がり、優しい光を帯びて星のように輝いた。満天の星のようで、俺は思わずその一つに触れたいと手を伸ばす。星は、魂だ。俺達が死んだ後、星降りの夜を迎えるまでの姿が手に届く距離にある。
 光に触れる前に、光は渦を巻いてヒメアに降り注いで行く。座り込んだ姿勢で息絶えていたヒメアが、大きく身震いした。大きく息を吸い、ゆっくりと目を開けるのを見て、誰かが『奇跡だ!』と叫んだ。
 ヒメアは立ち上がると、いつの間にか世界樹の花を手にしていた。夜明けの色のたくさんの花弁を重ねた、華奢なエルフなら一抱えありそうな大ぶりな花が無数の輝きになってヒメアの中に溶け込んでいく。その光の残滓が花の花弁のように目に焼きついた。
『花を守り、時に備えるのです』
 言い放った言葉に深々と頭を垂れたエルフ達を、光はゆっくりと見回した。まだ幼さの残る娘には似つかわしくない、母のような慈愛に満ちた笑みに似合う柔らかい声が降り注ぐ。
『我が愛しい子等よ。末長い幸せを、エルドナは願っています…』
 声の余韻が残る中で、ゆっくりと薄れる光の中でフウラの身体が降りてくる。エンジュがその体を抱き止めようと、上を見ながら歩き出す。光に誰も彼もの視線が注がれる中で、俺は何かに気がついた。何かが何とは分からないままに、エンジュに向かって駆け出していく。
 いいか。ラチック。一際目立つものがある時は、特に周囲に気をつけなくちゃあいけない。
 どうして? そう聞いた俺は、今、全力で踝まで伸びた草を踏みしめて進む。
 それは真っ白い光に紛れて、いつの間にかそこに立っている。太い筋肉質な腕が布越しに分かる袖を振り上げて、雪のように降りてくるフウラを乱暴なまでの手つきで横様に掻っ拐う。
 そりゃあ、注目しちゃって隙だらけだからさ。お前、全員守るんだろ? 気ぃ張れよ? そう笑う声を振り切り、俺は盾を構えた手を伸ばした。
 いきなり目の前に現れたように見えたのだろう。エンジュの肩が驚きに跳ね上がり、白いフードの男であるアンテロの手は殺意を持って振り上げられる。滑り込んだ俺の盾は、エンジュの首を掻き切ろうとした鋭い爪を弾いた!
 そのままエンジュを抱き上げると、盾を構えたまま大きく下がる。驚きに息が完全に止まっていたエンジュは、腕の中で喘ぐように息を吸い込み一息のうちに鋭く吐き出した。
「フウラを離しなさい!」
 盾の外に出した魔道士の杖の赤い宝玉から、石礫のようにメラの炎が飛んでいく。アンテロの白いローブが瞬く間に赤く染まる至近距離の一撃だったが、太い腕で薙ぎ払われてしまう。エンジュが『ダズニフさんもそうですが、炎に耐性が高過ぎですわ!』と悔しげに洩らす。
 アンテロが懐からピペが使う召喚符に似た札を束で取り出す。桜色と緑色の二色の札が空中にばら撒かれると、鋭い声が響き渡った。
「来い、桜蝶鬼メイガ! 緑風鬼フー!」
 召喚符が爆ぜる。桜色の札からは桜色の翅と白い体の小型の竜が、緑色の札からは緑の羽の美しい大鳥が現れる。桜色の翅が羽ばたく毎に桜色に光る鱗粉が舞い、緑の鳥が凄まじく嫌な匂いのする緑色の風を吐き出している。数も決して少なくないはずだが、視界を撹乱する意味で呼び出しただろう敵の数が把握すらできない。この距離の俺ですら見失いつつあるのだ。このままでは、逃げられてしまう!
「エンジュ。ヒメア 頼む。俺、逃げられる前に 押し留める」
 エンジュを離し、盾を構えて鱗粉と緑の風の中に飛び込む。鳥の甲高い声が響くと、鋭い嘴が次々と煙幕のように視界を塞ぐ風の中から飛び出してくる。俺は盾を頭の上に構えて嘴を防ぐと、嘴の位置から推測した位置に大きく盾を振り抜く。俺の上半身をすっぽりと覆い隠す大盾は、それだけ攻撃の範囲が広い。鳥達を横薙ぎに捕まえることができたら、そのまま地面に叩きつけて踏みつける。空を飛ぶ獣は飛ぶ為に体が軽いから、盾越しにバキバキと骨が砕ける感触が駆け上がってくる。
 ルアムの矢に射抜かれたのか、悲鳴をあげて落下する者もいる。
 振り抜いたハンマーに翅を千切られて悲痛な声をあげる竜から視線を外し、さっきアンテロが立っていた場所で足を止める。どこにいる。煙と惑わしの鱗粉が舞っている外に出たならば、ルアムの矢に狙い撃たれる。
 まだ煙の中にいるはずだ。充満し停滞する煙が、ぼっと音を立てて穴を開ける。
 突き出された拳を盾で受け流すが、あまりの勢いに盾ごと持っていかれて崩されそうになる。俺は盾を手放し、頭を狙った足を掴んだ。蹴りの勢いを殺させずに体を捻り、相手の内側に入り込んで肘鉄を入れようとする。その肘も、アンテロだろう男の手に止められてしまう。
「下等な種族には惜しい技量だな」
 息が掛かるほどに近いアンテロの口から、感嘆らしい声が漏れた。
「それは どうも」
 フウラを抱えているなら、相手は片手で俺の相手をしている。上半身は万全ではない。崩すなら、上から。あまりに密着しすぎて、ハンマーを振り下ろすことはできない。俺はアンテロの足の間に片足を差し込み、押し潰すように力を込める。体格は同じくらい。力も負けはしない。それなのに、まるで岩のように動かない。
「だが我ら偉大なる竜族に勝れる能力を、貴様らは有してはいない」
 アンテロが足を踏み替えた瞬間、相手が大きく膨らむ感覚を覚える。腕が押し返され、体全体が前から押されて足の踏ん張りが効かずに浮かび上がる。体制を崩されて立て直せないと思った瞬間にはアンテロが身を捻って、太い何かが俺の横っ腹に食い込んだ。あまりの衝撃に体の中で骨が折れる音と、激痛が走る。吹き飛ばされる。俺は血を吐き出しそうになるのを堪えて歯を食いしばり、ハンマーを手放して頭を抱える。
 視界が晴れた。視界の悪い充満した煙から弾き出されて、頂を構築する太い枝に運良く叩きつけられる。意識が一瞬飛んだが、顔は上を向いていなかったらしい。ぐわんぐわんと世界が回る中で、口から血の混じった胃の中身が溢れて流れ落ちていく。
「あんちゃん! しっかり!」
 ルアムの声がして、暖かい力がふんわりと触れる。それでも世界が回るのが止まらない。地面がぐらぐらと揺れて、体が支えられない。霞んだ視界の中で、1箇所、パッと明るい緑の光が強く輝いた。
「神の器は渡さない!」
 光の中から飛び出したのは、アンとプクリポの王子を拐った赤と緑の奇抜なツートンカラーのスーツを着た男だ。振り下ろすようにアンテロに手を向けた瞬間、アンテロを覆い隠していた緑の煙が液状化し、斑蜘蛛の糸のように巨大な影に絡みつく。
「どうなってるんだ?」
 ルアムの声を聞きながら、俺は激しい痛みと止まらない吐き気の中で目を凝らす。
 アンとプクリポの王子を拐った、人間のルアムの兄テンレス。同じ青紫の髪と瞳、年の頃もルアムより少し年上だろう青年。ケネスはアンテロが彼の協力者かもしれないと推測していたが、どうにもアンテロの妨害をしているようにしか見えない。
 まとわりつく粘液に忌々しそうに身を捩りながら、ベヒードスくらいの大きさのある竜が男を見た。
「なぜ、神の器のことを知っている?」
 アンテロの声で竜が呟くと、はっとしたように身を震わせた。
「そうか。貴様、2つの器を掠め取った盗人か!」
 怒りを隠さない声で叫ぶと、竜は男に向かって火炎の息を吐く。中心が真っ白に輝く凄まじい温度の火炎が、ルアムの兄が立っていた木を焼き払う。ばちばちと激しい音を立てて瑞々しい世界樹の葉を、次々に食い破る。ガノが叫ぶ声が聞こえ、ヒメアやニコロイ王といった参加者の殿を務める者が出て行くところだった。あまりの炎の勢いに青ざめるエンジュの横顔が見える。
 炎は竜を絡め取る粘液を乾燥させて砂に変え、自由になった。しかし、暖められた空気に動ける者がもう一人いる。至近距離で急に現れた銀色のキングリザードが、炎を吐き続ける竜の顎を強引に掴んで地面に叩きつけた。そのあまりの衝撃に世界樹の頂きが大きく揺れる。
「アンテロ! 頭の骨を砕かれたくねぇなら、エンジュの妹分を解放しろ!」
 竜の体つきはよく分からないが、上手く関節を押さて動けなくさせているらしい。フウラが潰されないか、ヒヤヒヤしてしまう。完全に押さえ込まれたアンテロは、にやりと笑うように口を動かした。
「ダズニフ。小娘か、連中の信仰か選べ」
 ダズニフがびくりと体を硬らせる。
「エルドナの下僕共の信仰が燃え落ちるぞ。お前には聞こえているはずだ。嘆き悲しむ連中の声が。音を立てて燃えて傷ついていく大樹の悲鳴が。お前が今すぐ動かねば、炎は全てを燃やし尽くす」
 炎の勢いは全く衰えていない。このままでは俺達は火に囲まれて焼け死ぬし、エンジュでさえどうにもできないほどに燃え広がった炎は世界樹の周辺に広がる森までも焼き尽くすだろう。
 逡巡しただろうダズニフに、アンテロが氷の息を吐きつける。それは小さく弱い息だっただろうが、寒がりで目の見えないダズニフを驚かすには十分だった。組み敷いたダズニフの上に乗り上がり、アンテロは矢を構えて開けた場所に立っていたルアムに向けて炎の玉を吐き出した。
「相棒!」
 どんなに身軽で素早い猫耳のプクリポですら間に合わない。火の玉がルアムの持った矢を熱で炙り、青紫の髪が真っ赤に染まっていく。炎の玉が直撃し、大きく爆ぜた!
 小さいプクリポから迸るの悲痛な大声が、次の瞬間息と共に飲み込まれる。
 腰が抜けてへたり込むルアムを抱きしめるように、黒く焦げた背中がある。ひどく火傷した背に回復呪文を掛けているのか、淡い光がはらはらと散っている。テンレスはルアムに耳に口を寄せて、次の瞬間、黄緑色の光に呑まれて消えていく。アンテロもまた、この一瞬の隙を突いて世界樹の頂から飛び降りてしまった。
 周囲は轟々と燃える炎の音だけになる。呆然とする俺達の前でダズニフがのそりと起き上がり、世界樹の頂きに溜まった小さい池に頭を突っ込んだ。キングリザードの体は脂肪にずんぐりとした形になり、首の長い手足が櫂のような形の竜の姿になる。大きく長い首を逸らして高い声を長く長く響かせると、程なくして雨が降り始めた。
 雨は次第に強くなり土砂降りになって、木々を舐める炎を流す。
 俺達は誰も動かず、ただ、雨に打たれ続けていた。