だからあの人はいつだって憂いているのだろう [優] - 中編 -

 鏡に映った白無垢姿を見て、思わず頬を染めてしまった。
 もう少しで、貴方の元に嫁ぐことができますね。
 この日の為に白無垢を用意したのです。世界樹の守り人の象徴である萌黄色が良いのではと言う者が多かったのですが、私が白無垢が良いと我儘を言ったのよ。エルトナの娘は一度は袖を通したいですものねって、ツスクルの女性達が味方してくれたの。とても美しくて、年甲斐もなく心が浮き立ってしまうわ。
 遠き昔に交わした約束を、コハク、貴方は覚えているでしょうか?
 まるで燦々と輝く陽光のような純白の布には、満月のような光沢のある白い糸によって複雑な木々の葉の紋様が織り込まれている。ツスクルの女達が心を込めて作ってくれた、私にはもったいない一品。髪の艶やかさ、頬の紅の健康そうな赤、青い瞳を引き立てる控えめな目尻の化粧。衣が擦れて銀の飾りが涼しく揺れ、長く伸びる裾を捧げ持つ巫女達の足音が続く。
 守り人の社の両開きの扉を警護が開け放つと、柔らかい月の光が差し込んでくる。もう少しで満ちる月ではあるけれど、雨に洗われた空気によって満月と変わらぬ美しい光を大地に注いでくれる。
 高らかに笛の音が、厳かな琴の音が、鼓動のように太鼓の音が、折り混ざって風に流れて遠くに運ばれていく。懐かしい面影を残した者達を見る度に、最もよく覚えていた若き童に立ち返る。あぁ、なんと懐かしい。嬉しくて、嬉しくて、口元が綻んでしまう。
 世界樹に向かう『花開きの聖祭』の光が伸びていくが見渡せる。
 最前列は露払い。黒い装束を纏った武装した衛士達が列をなし、悪い気を払いながら道を進む。次に青い衣の僧侶達が祝詞を捧げながら道を清める。黄色い衣を着た御者達が、世界樹に奉納する捧げ物を載せた豪奢な馬車を率いて進む。
 私達の列の先頭が歩き出しました。
 風を含んで翻ると燃え上がる炎のように、光沢のある紅葉が美しい衣。赤い貴石と金の細工で飾り立てたエンジュの横顔は、紅に彩られて大人びている。彼女の捧げ持つ松明は、まるで太陽のように周囲を明るく照らし出す。数千年ぶりに『花開きの聖祭』に参加する、エルトナに暖の恵みを約束する赤の衣の者。乗り物を好まない彼女は、本列の先頭をゆっくりと歩き始めていました。
 その後ろにはスイの社から拝借した清らかな水を湛えた水差しを持つ、青い衣のアサナギが続く。エルトナに水の恵みをもたらす青の衣の役目を持った、エンジュと対を成すには相応しい青年。
 カムシカに跨ったフウラもまた、列に加わっていく。エルトナの自然を織り込んだ白い衣は、今は萌える若葉に茂っている。その上を吹き渡る風のように、透き通った羽衣がカムシカの軽快な足取りにすっと流れていく。まだ幼いと揶揄される若き風乗りですが、立派に勤めを果たしている。風の民エルフにとって風は血液も同じ。フウラの運んだ風は、私との別れに泣く民の涙を拭って慰る。
 屋根のない馬車がゆっくりと前に止まりました。
 美しい木で出来た馬車の細工はそれはもう見事でした。飴色の木は花となり、白い木は蝶となり、床は寄木細工で飾り立てられている。王宮のような華やかな造りの席には、まんまる膨らんだ如何にも柔らかそうな真紅の座布団が置かれている。馬車に乗るための足代の傍には、壮年の男性がそれぞれに控えていた。
 そのなんとも格式ばった佇まいに、思わず声をあげて笑ってしまった。
「ニコロイ。タケトラ。少し見ぬ間に、随分と貫禄がつきましたね」
「まさか。私達もヒメア様の前では、いつまでも童部のままです」
 そうタケトラが言うと、立ち上がって手を差し出す。その手に掴まって馬車に乗れば、大きな和傘が開き、吊るされた琥珀と水晶の飾りがしゃらりと揺れる。
 馬車の前をニコロイの馬が先導すると、ぎっと車輪が鳴って動き出した。ごろり、ごろり。先頭のエンジュの足並みに従って、ついに『花開きの聖祭』で最も華やかな、守り人送りが始まったのです。提灯の明かりが列をなし、音楽を奏でる者が後ろの花車で続く。
 馬車に揺られ世界樹に向かう私を、エルトナから集まった多くの民が沿道から見ています。その多くが涙にする中、幼い娘だろう屈託のない声が耳に触れたのです。
「ヒメアさま。およめにいくの?」
 えぇ、そうなのよ。
 これは、300年もお婿さんを待たせた、私の花嫁入りなのですよ。

 刻々と近づく定めの時。長い長い世界樹へ至る一本道を、参道を進む参加者達が持つ提灯の光で輝いている。それを眺め、馬車に揺られていると、今までの500年の年月が思い返される。
 死とは恐ろしいものだと思っていた。空に二つ目の太陽が駆けて森が燃え、共に逃げ延びてきた同胞が干からびて死んでいくのがとても恐ろしかった。水を、水を。そう呻いて苦しみ喘ぐ声に、母が身を震わせて詫びていたのを覚えている。4人の人間達が水を運んで来てくれなければ、全員死んでいたと今なら分かる。
 私の歩んだ500年は母に比べれば、なんと平穏だったことか。
 あれから大きな災いもなく、『学びの庭』の童達の成長を見守る幸せに浴する日々。愛しい人から授けられた『学びの庭』という授かり物は、私のただ世界樹の守り人として時が来るまで生きるだけの日々を一変させた。誕生する愛しい命が成長する喜びを、天寿を全うして去っていく悲しみを、その全てを愛おしく心穏やかに抱いて逝くことができる幸せ。
 母の我儘を許して、ヒメア。涙を流して許しを乞う白い母の顔が、闇から浮かび上がる。私に成功率すら不確かな不老の禁呪を施した行動は、愛憎入り混じった母の剥き出しの欲望だった。意味を知って初めて湧き上がる感情は、もう打つける先もなく苦しく胸に満ちた。
 残された子等も同じ思いを抱くかもしれない、そう心残りがあったがもう要らぬ心配だ。
 ヒメア様の我儘を許してあげて。エンジュの言葉に、思わず翅が震えた。
 天が与えた才能に、地を巡り見識を備えた子。風乗りとしてエルトナを支える優しい子。努力を厭わぬ堅実の強さを知る子。まだ芽吹いたばかりの新芽達。最後に頼もしき次代の子に出会えたことが、エルドナ神の計らいに思える。
 世界樹の守り人として、こんなに幸せで本当に良いのでしょうか?
 樹海に沈む闇にもうエルフの民の姿はない。世界樹へ向かう列を物珍しそうに眺める獣達。エンジュの灯す光に誘われて、光を纏う虫達が舞う美しい世界。星々が徐々に曙色の彼方に消えていく頃になると、朝靄の中を進む列は、ついに世界樹に到達した。まるで巨大な城のような果てしなく巨大な幹を遥かに、畝る荒波のような巨大な根が迫る。
 世界樹の精霊達がほんのひと握りの本祭の参加者だけを、世界樹の頂きへ招く。
 風が含む不吉な気配は消えないことだけが、ただ一つの憂いでした。その災いを退けようと、息を潜める守り手達の息遣いが聞こえてくる。エンジュの伝手で集まった勇猛果敢な猛者達の視線を感じながら、私達は静々と苔むした頂の道を登っていったのです。
 天を貫くほどに巨大なる世界樹の頂は雲の上。地上からでは見ることのできない濃紺色の空に、硬く白く輝く太陽が浮かび星が瞬く。最も深き場所に茂る葉の中に、一際美しい光が輝いている。世界樹の精霊達が恭しく茂みを分けると、世界樹の雫で出来た小さい小さい御池に、ほんのりと曙色を宿した先端が天にピンと向けられている蕾があったのです。
 厳かに『花開きの聖祭』が始まる。
 大地を治める長が地の力を、聖域の守護者が地の上に暮らす数多の命に齎す祝福を捧げる。風に乗りエルトナを巡る者が風を呼び、エルトナに満ちた水気を捧げ持つ者が複雑な祝詞を唄い上げながら世界樹の頂きの水とを交わらせていく。火の加護を受けた者が祈れば強い日差しは緩み、世界樹の咽せ返るような緑と水と風と協調しあい柔らかく心地よい空気が整えられていく。
 エルトナの力を捧げられた蕾は、今にも弾けるように咲いてしまいそうな力に溢れている。もはや花弁の輪郭すら融けてしまい、蕾の形を見極めることができない。それでも私にはわかります。そこに、今、咲き誇ろうとしている世界樹の花の蕾があることが。
 私はゆっくりと蕾に向けて頭を垂れた。
「500年の時を経て芽吹きし蕾に、世界樹の守り人たる私の魂を奉納します」
 介添人が水差しに、スイの社の聖なる水と世界樹の雫で出来た天の水が混ざった御池の水を汲み上げる。差し出した私の手を、切れてしまいそうなほどに澄み切った水が清めていく。濡れた手をすっと暖かい風が拭ってくれた。
 手に水差しが置かれると、私はそれをしっかりと握った。
 フウラの手が離れず、水差しを挟んでじっと立ち尽くしている。これからを思うと、色々思い返してしまうのでしょうね。初めて『学びの庭』にやってきて、お母様を思い返して寝付けなかった夜。世界樹の麓を目指し遠足で、疲れて疲れて、そして美しい大樹の姿に感動したこと。貴女がここで過ごした思い出の端々に、私はこれからも生き続けるのですね。
 フウラの瞳がこちらを見上げると、驚いたように肩が跳ねた。目元が思わず緩んでしまう。驚かなくていいのよ。貴女の優しさをいつまでも感じていたくて、時が止まって欲しいと願うほどなのですから。
 おずおずと下がっていくフウラを見送り、私は水差しを握り直した。
「天駆ける緑の風よ。永久に清らかな息吹を運びたまえ」
 ゆったりと体を動かす。風を含んだ白い衣をはためかせ水差しを振ると、星屑のような輝きが差し口から溢れていく。それは私の命の輝き。
「地を覆う緑の樹々よ。果てることなき実りを齎したまえ」
 輝きが世界樹の葉に触れて鮮やかに輝く。世界樹の頂はまるで陽光差し込む春の庭のような、新芽のような明るく輝く葉に包まれていく。光が伝播し、世界樹を覆っていく。雲を退け空を白く染め上げる世界樹の輝きが、エルトナを照らしているのを感じていた。
 私は薄く目を開ける。暖かく眠気を誘う春の日差しに包まれているような夢現の中で、一つ赤い糸で結ばれたように蕾の存在を感じている。今にも取り落としてしまいそうなくらい、水差しが重かった。
 水を、水を注がなくては。まるで今にも折れてしまう枝のような腕を、すっと誰かの手が支えてくれる。
 暖かい懐かしい手はお母様だった。呪われた太陽に追いかけられていた時の、動きやすい服装ではない。ここで暮らしていた時の世界樹の守り人としての姿で、私に寄り添い手を支えてくれる。
 反対側にも気配がある。驚いて顔を向ければ、愛しい男性の顔がそこにある。ずっと私の傍にいたのを、風に混ざった貴方の優しさで感じていました。それでもこうしてお姿で見ることができたのが、とても嬉しい。
 私は二人の支えを頼りに、水差しを傾けた。
「世界樹の花よ。我が魂を神気となして咲き誇り、エルトナの民に千代の祝福を与えたまえ」
 注がれていく私の命を受け、世界樹の花が綻んでいく。風に乗って芳醇な花の香りが周囲に満ちていく。さらさらと音を立てて、花びらが開いていく。幾重にも重なる曙色はまさに日の出のような移ろいを宿し、瑞々しさを帯びた花びらは宝石には体現できない命の輝きに満ちている。花を支える葉が青々と花の華やかさを引き立てた。
 咲いた。
 なんて、美しい。
 嬉しかった。心の底から喜びに溢れて、私の感情の全てを染め上げていく。白い光の中に落ちていくのは、日向の中で微睡むような幸福感にあふれていた。
「…振り返れば、何もかも愛おしい」
 ありがとう。ありがとう。その言葉が沸き上がり、私の風のように軽くなった体をどこかへ運んでいこうとする。見送ってきた数多の魂達の気配が私を迎えてくれる。懐かしさが500年の堰をきって溢れ、私は使命を全うしたことを実感した。このまま風に溶けていき、エルトナを見守っていくのだ。
 すると形を失い風に溶けていくはずの私は、光に遮られ囲まれてヒメアの形に戻されていく。迎えてくれる気配が、傍にいた母と愛しい男性の気配が遠のいていく。いや、行かないで。伸ばした手は光を掴むばかり。
 どうして、そんなことをするのですか?
 私をヒメアの形に戻そうとする光に、私は問うた。光は決して強引ではなかった。優しく労るように私を撫で、ヒメアの形を呼び起こす。それでも私は不満でした。使命を果たし、こんな幸せな最後を迎えているのに、どうしてと疑問が抑えられない。
『…我はエルフの神、エルドナ』
 優しい母のような声で、光は種族神を名乗った。
『ヒメアよ。500年という人には永い時の間、よく世界樹の守り人の勤めを全うしました』
 それは私の孤独も幸せも全てを知って齎される、慈悲に満ちた賛美。忘れていた褒められた実感に、思わず赤面してしまう。そうなのです、私は与えられた勤めを全うしました。実感が喜びをもたらしてくれる。
『しかし、我は遠くない未来の為に、其方に役目を与えねばなりませぬ』
 光から湧き上がる声は、憂う響きを帯びました。その憂う感情が悍ましい未来となって、私の中に流れ込んでくる。呪われた大地が崩れ落ちて、大量の魔瘴が沸き上がりエルトナを飲み込んでいく。黒い瘴気が豊かな森を瞬く間に枯らし、その残骸を魔瘴を帯びた輝く石に変えていく。民が喉を掻きむしって悶え苦しみ、逃げ惑うものを魔瘴と共に現れた魔の者が殺めて行く。
 思わず目を覆う。しかし、魂だけの存在の私には無意味なこと。海が天を混ぜるが如く荒れ、火山が噴火し全てを飲み込み、雪崩の向こうから叢雲のように魔が現れ、魔瘴の闇に人々が苦しめられて死んでいく。アストルティアが闇に覆われていく。
 これが、エルドナ様が予見する遠くない未来。
 恐ろしさのあまりに魂が崩れ落ちてしまいそうだった。震え怯える私を、光はそっと抱き寄せてくれる。赤子をあやすように背をさすり、包み込んだ温もりが私の心を落ち着かせてくれる。温もりはゆっくりと私の手に集まり、たった今咲いた世界樹の花に変わっていく。
『時がくるまで、世界樹の花を守るのです。それは花と魂を結びし其方にしか出来ぬこと』
 世界樹の花が私の命に輝いている。
 いや、私の命だけではない。この500年の歳月、私を支え愛し共に生きてきた者達の命の輝き。彼らが歌うように訴える。
 未来のために。
 我らの愛しい子等のために。
 私は目を開ける。濃厚な世界樹の緑の香りに包まれて、神々しい光が目の前に浮かんでいるのを見た。心の臓が脈打ち、頂のひんやりと澄み切った空気が肺いっぱいに満たされていく。
 咲いた瞬間からエルトナに拡散していくはずの恵の力が集約し、私の手の中で世界樹の花となる。まるで自分の一部のような花の香りを抱きしめると、花は曙色に薫る風となって私の中に溶け込んでいった。
「しかと、拝命いたしました」
 光が祝福の輝きをエルトナの民に振り撒いた。
『我が愛しい子等よ。末長い幸せを、エルドナは願っています…』
 私は自分の中で咲く花を意識する。この花が厄災を退ける希望になる。その希望を守り、未来に繋げていかねばならない。
 コハク。もう少しだけ、待っていてください。
 風が励ますように、私の衣を撫でていくのを感じた。