だからあの人はいつだって憂いているのだろう [優] - 前編 -

 世界樹の膝下に広がる大森林の入り口に、ツスクルの村があります。この地に世界樹が根付いた時に共に移住し、以後、世界樹の守り人の拠点であり、世界樹信仰の総本山的存在でありましょうしかし、それは昔の話。数百年前に設立された『学びの庭』の存在が、このツスクルの村を大きく変えました。
 エルトナの名門『学びの庭』。エルトナ中より前途有望な若者が集い、知識を学び研鑽を積む学び舎。若葉の試練を経た卒業生達は、名門を名門たらしめる様々な偉業を成し遂げ大樹となったそうですわ。ある者は王に仕えて豊かな国へ導き、ある者は多くの命を救い、ある者は世界を巡って得た見識を持ち帰り民に還元してまいりました。今では『ツスクルに学びの庭』ありと、世界に知れ渡るほどでしょう。
 その歴史深き学び舎の中庭は、乾いた土が剥き出しになっています。これも、教えを示す師が膨大な知識を書き記す際、黒板では足りず地面に書いた事から由来します。今でも雨の心配のない日は、中庭にて地面に書き綴られた知識を新芽達が覗き込みます。
 今は授業が行われておらず、私はこうして暴走魔法陣の上にメラガイアーの魔法陣を重ね掛けして展開しておりますの。メラガイアーの魔法陣に引き寄せられ、炎の精霊達がお祭り騒ぎではしゃいでおりますの。その凄まじい熱気に、木々も風も民も震え上がっているのを感じますわ。
「え、エンジュの姉ちゃん。こんなにアチアチで、ドラゴンステーキになっちゃわない?」
 隣でぐっしょりと汗で毛皮を濡らしたルアムの問いに、私も首を傾げます。
 魔法陣の中央には、六種族の祭典の時にグランドタイタス号で保護されたドラゴンキッズがおりますの。水晶のような鱗は虹を宿し、銀色に輝く見たことのない竜。
 一向に目覚めず眠り続ける小さき竜を、イサークさんは『冬眠している』と診断しましたの。冬眠ならば温めよう。そうして温め始めたのは良かったんですのよ。
 ドラクロンでギルの卵を温めるのに重宝したメラの魔法陣でも、すやすやと眠っている。
 ギガントドラゴンくらい巨大な竜なら暑いと感じる、メラミと暴走魔法陣の掛け合わせでも目覚めない。
 普通の竜なら怪我も止むなしの、メラゾーマと魔力覚醒と暴走魔法陣の組み合わせでも傷ひとつなく眠り続けている。ここまでくれば、この竜が普通でないと思いますでしょう? アサナギさんが止めに来たけど、ラチックさんに頼んで学びの庭の建物の中に押し込んでもらいましたわ。
 ここまで来たなら、最後まで行きませんとね。メラガイアーの魔法陣と暴走魔法陣を重ね掛けして、竜を温めようとしているんじゃないですの。
「もう、ステーキになってしまわれても良いですわ」
 わーお。ルアムの呆れた声を聞き流しながら、魔力覚醒で己の魔力を跳ね上げ火の力を上げる。もはや大地の潤いは熱によって炙られ、木々の葉がカサカサと音を立て始める。熱で巻き上げられた中庭の砂は熱を帯び、陽炎の中で水晶のように輝き出した。炎の加護を持つ私ですら、汗が流れ出す温度。
 炎の力に蹂躙される精霊達の恨み節が、幻聴のように聞こえてきている。災いの子。そう精霊達に疎まれてきた幼少期が、学びの庭の思い出と共に鮮明に痛みをもたらしてくる。
 これで目覚めなかったら、終わりにしましょう。
 私がそう思った時、魔法陣の真ん中で動きがあった。銀色のドラゴンキッズが頭をもたげて、くあっと欠伸を漏らしたのだ。ぶるりと体を震わし、翼や短い四肢を伸ばす。
「あったかい…」
 確かにそう聞こえた。そして、竜はゆっくりと体を伸ばし、大きくなっていく。そう、大きく。ウェディ族のような長身が、ぐっとそれなりに筋肉質な腕を天に伸ばす。巻き上がる熱気に、大きい布を巻き付けて帯で止めるような簡素な衣が翻った。その肌はドラゴンキッズと同じ、虹色に輝く銀の鱗で覆われている。真っ黒い髪はふわふわと目深にかぶった帽子のように、顔の半分を覆っている。残り半分は竜のようで、耳元まで大きく裂けた口に鋭い牙が並んでいる。人の形に近くなったそれは、後ろに長く伸びた黒曜石のような角を摩った手で、次の瞬間己を掻き抱いた。
「いや! ナドラガンドに比べたら、メチャクチャ寒い!」
 次の瞬間、ぽんと音でも立てたかのように、一瞬でドラゴンキッズの姿に戻ってしまわれましたわ。

 『学びの庭』の客間に常設されたダルマストーブに、薪が焼べられ熱を放つ。本来なら薬缶や鍋を温める上面に、銀色のドラゴンキッズが直に置かれていますの。ドラゴンキッズは小刻みに震えながら、小さく小さく丸くなって、本来なら料理になってしまいそうな場所にいつまでも鎮座しておられますわ。
「さむいよー。おれは さむいの にがてなんだよー」
 固く目を閉ざしたまま、ぴすぴすと鼻水を啜って泣き言を言う。
「アストルティアが こんなに さむいって しってたら ぜったいに こなかったよー」
 部屋の中は既に蒸し風呂のような温度ですわ。ツスクルは冬になれば雪も積もりますので寒いほうですけれど、今の季節は暖かいですわよ? 毛皮がぺったりと張り付いたルアムの横で、ぼそぼそと呻き声のようなものを囁いていたラチックさんが首を傾げた。
「こいつ ドラゴンキッズ 違う?」
「どう見ても、珍しい色だけどドラゴンキッズだぞ?」
 カミハルムイのリン姫の護衛の為にやってきたラチックさんでしたが、私のお願いでツスクルに来ていただいたの。なんでも勇者の仲間として大魔王と戦ってきたそうで、セレドでご一緒した時とは比べ物にならない頼もしい雰囲気になられましたわ。
 鎧を脱いだ軽装のラチックさんは、シャツが汗で張り付くのが気持ち悪いのか、しきりに引っ張りながら言いますの。
「全然 魔竜族の 訛り ない。俺が 魔竜族の 言葉で 話しかけても 反応しない」
「あんちゃんって、魔物の言葉喋れるの? すげーな」
 それほどでも。脂っ気のないごわごわの毛皮のような白髪に手を突っ込んで、ラチックさんが照れる。感心するルアムにドラゴンキッズが鼻先を向けた。大きくずずっと鼻を啜り上げる。
「おれは おまえたちが まものって よんでる ドラゴンと ちがうんだ」
 そうでしょう。先ほど見た姿はどう見ても、女神ルティアナの6人の子供達に近い姿。しかし、その姿から再びこのドラゴンキッズの姿に戻ってしまうのは、どういう事なのかしら?
 全く焦付きもしない銀色の鱗に映り込んだ鉄の色彩を眺めていると、くあっと欠伸を一つ漏らしてドラゴンキッズが人の姿をとる。先ほど見た長身の男性が、ダルマストーブの上に腰を下ろす意味のわからない状況が誕生してしまいましたわ。寒そうに肌を摩ってはいらっしゃいますけど、先程よりも余裕のありそうな雰囲気ですわね。
「俺はナドラガンドの竜族。ダズニフってんだ」
 ナドラガンド。聞き違えではありませんでしたのね。
 神話の時代に語られる、女神ルティアナの長子であり竜の種族神ナドラガの名を持つ浮遊大陸。神世の時代に奈落と化し、アストルティアから長らく断絶されていた場所ですわ。先日、大魔王との戦いで世界規模の厄災が頭をもたげたのは、奈落と化したかの大地がこの地と再び接点を持ったから。
 私はダズニフさんを見る。
 生命が生きるには過酷な状況に変えられてしまった大地に、今も竜族は生きておられる。アストルティアには竜族の目撃例はないのなら、救いきれなかった訳ではない。ナドラガ神の弟妹神達は、兄の守護する竜族を救わなかったのだ。一体、どうして?
 ダズニフと名乗った元ドラゴンキッズの男に、ルアムもラチックも自己紹介を返しておりますわ。
「甘いふわふわがルアムで、2種族分の匂いがするのがラチックか」
「なに、甘いふわふわって? 猫耳とか赤毛とか、もっとわかりやすい特徴あんだろー?」
 こしこしと猫のように猫耳の裏側を撫でつけて掻くルアムに、ダズニフさんはにんまりと笑ったのです。目深に被った毛糸の帽子のような柔らかい前髪を掻き上げると、固く閉ざした目元が露わになりました。ダズニフさんは私達によく見えるように顔を寄せると、うっすらと目を開けた。
 まるで真珠が嵌っているような白濁した白目の中に、錯覚と思えるほど薄い虹彩が見える。誰が見ても、失明しているのが分かりましたわ。私達が理解した反応を感じたのか、ダズニフさんは前髪を下ろして歯を見せて笑う。
「でも、大丈夫。お前らは味見済みだから、きちんと分かる」
 そういえば、銀色のドラゴンキッズは噛み癖が凄いって言ってましたわね。
「あの 噛みつき 味見! 痛い! 迷惑!」
「まぁまぁ、そう言うなよラチック。俺は気に入った奴しか、味を覚えねぇからさ! ちなみに気に入った奴は、何度でも味見したい!」
 言うが早いか、ダルマストーブから降りて二人に突撃する。噛まれるーとか言ってるうちに、ルアムは猫耳を齧られてしまわれましたわ。あの大柄なラチックさんが押さえつけられ、腕を噛まれてしまう。男3人どたんこどたんこ、五月蝿いですわね!

 ■ □ ■ □

 ツスクル村は世界樹の裾野と呼ばれる大樹海の入り口に座し、奥に行くほどにその深度を深めます。田畑の為に森を開拓し明るい日差しの差し込む村の入り口から、真っ直ぐ世界樹へ伸びる参道の中程にヒメア様の座す社がございます。その御社へ辿り着くには、徒歩で日の傾きが実感できるほどの時間が要る。世界樹はそこから1日掛かる。世界樹を中心とした大樹海の深さを実感できるでしょう。
 日の光が差し込めぬほどに高く聳える木々の下では、堆積した木の葉や、苔むした岩が覗く。獣の影が柱のように乱立する木々の間に見え、遠くより鳥の囀りが聞こえ、静謐な空気に神聖さを伴わせる。石灯籠が道を示すように等間隔に立ち、磨き抜かれて滑りやすい石畳が落ち葉の隙間より見えていますわ。
「おれは わるい りゅうぞく じゃないぞ。なんで いかなきゃ いけねぇんだよ?」
 ピペさんの指定席に毛皮に包まれて居座るドラゴンキッズ姿のダズニフさんが、ぴすぴすと鼻息荒く周囲を嗅いでいますわ。不満げに仰いますけど、ラチックさんに運んで頂いているのを自覚すべきね。
「貴方を冬眠から覚ます為に、かなりの火の力でこの地を脅かしてしまいましたのよ! 何も悪いことはしておられませんが、お詫びの気持ちを込めてヒメア様にご挨拶なさい!」
 流れ込んで横断する小川をいくつか跨ぐと、世界樹の守り人ヒメア様が座す御社に到着しましたわ。私達の来訪を告げ、ヒメア様にお目通りが叶ったのは昼を過ぎた頃でしたわ。泣いて嫌がるダズニフさんを沐浴用の水で煮るだなんて、全く、意味がわかりませんわ。沸騰した湯でも寒がるなんて何事ですの!
「皆さん、良く来てくれました」
 御簾がゆるりと上がっていく。私達の前に座られたヒメア様が、目元を緩められましたわ。
 ヒメア様はいつ見てもお美しい。稀に存在する長身のエルフ族で、白い百合を彷彿とさせる艶やかな白い髪。色白い肌にほんのりと健康的な血色が差し、姿勢の良い居住まいから、膝の上に柔らかく重ねられた指先の仄かな桜色の上品な事。巫女の装束を纏っているとはいえ、まるでエルドナ神の御姿を体現されたような神聖な佇まいであらせられるわ。
 私とアサナギさん、そしてフウラが深々と首を垂れた。後ろに並んでいるだろう、ルアムとラチックさんが慌てて習う気配が続く。『どうぞ、面を上げてください』と促され、私達は顔を上げました。
 物憂げな表情のヒメア様は、傍に控えていた従者に目配せをする。
「凶風を感じ世界樹に使者を派遣したところ、このようなものが落ちていました」
 従者が私達の元へ近づき、手に捧げ持った綺麗に畳まれた絹を開く。覗き込んだ私達の目の前に、壊れたピアスがありましたわ。ピアスにしてはやや大振りの赤い宝石と、金の金具の間には非常に精密なパーツが詰め込まれている。
「ドワチャッカが誘拐犯の追跡用に開発している発信機と、同じ形です。破損は真新しいようですね」
 私も同意するように頷いた。
 切り裂かれた断面は指を切りそうなほどに鋭く、こんなものが世界樹に落ちている異常さに思わず息を呑む。持たせた者に馴染み誘拐犯に発覚しないようにする為か、ガノさんの手紙にあった設計図よりも小型化しておりますわね。
 既にドルワーム王国より、誘拐犯との騒動は世界中に共有されている。誘拐犯の狙いが『器』と呼ばれる存在で、王族とは限らないこと。アンテロという名前の誘拐犯に付けた発信機が、エルトナに向かったこと。
 ガノさんが挑発して怒りを相当焚きつけと聞けば、切断面からガノさんへの憎しみを感じますわね。
「アンテロの匂いがする」
 もそりと音がして膝の上に何かが乗る。ダズニフさんは私の膝に小さい前足を乗せて、壊れた発信機にぴすぴすと鼻先を寄せる。
「ダズニフさん! ヒメア様の御前ですわ! 大人しくなさって!」
 慌てて抱き締めるように押さえつけたドラゴンキッズが、のそりと動く。私の膝を下り、ゆっくりと周囲の匂いを嗅ぎながらヒメア様に向かって歩いていく。すっと銀色の鱗が輝いて竜族の姿になると、控えていた護衛達がヒメア様を守るようにダズニフさんの前に立ちはだかりましたわ。
 世界樹の枝で作った棍を突きつけられているのが分かっているのか、ダズニフさんは足を止める。
「そうかこの濃厚な匂いのする女が、お前達の信仰の長か」
 すっと銀の鱗で覆われた両手が上がる。棍を突きつけ相手の出方を慎重に見極めている護衛達の前で、ダズニフさんの両手は自身の頭上にまで高く上がった。力なく開いた手が拳を握り、握った拳を揃えて顔の前に下ろしていく。自然に向き合った拳を合わせ顔の下まで降りていくと、そのまま片膝を折って頭を垂れる。固唾を呑んで見守ってしまいましたが、その動きは美しく洗練されておられましたわ。
「貴君らの文化とは違い無礼な振る舞いであるかも知れぬが、我らにとって最上位の礼であることは理解いただきたい。私はダズニフ。ナドラガンド、炎の領界より参った竜族です」
 ぽかんと、開いた口が閉じませんわ。ダズニフさん、敬語なんて使えるんですのね。
「我らが種族神ナドラガに代わり、妹神であられるエルドナ神の民に祝福を…」
 銀の鱗が木の葉が擦れるような音を立てて逆立ち、緑の色彩を帯びていく。ダズニフさんがすっと顔を上げると、その竜の顎を小さく窄めて息を送り出す。濃厚な世界樹の緑の香りに、不思議な良い香りが混じって輝いている。それらが一陣の風になって部屋を行き渡り、淡雪のように消えていく。
 護衛達がヒメア様が頷くのを確認して下がると、ヒメア様は柔らかく微笑まれた。
「ようこそ、この世界樹の花の咲く良き頃に足を運ばれました。ダズニフ殿。貴方の捧げてくれた敬意と竜の神ナドラガ様の祝福、このヒメア、必ずやエルドナの元に届けましょう」
 ダズニフさんの返事は大きなくしゃみでしたわ。ドラゴンキッズの姿に瞬時に戻ると、鼻水を啜り上げてラチックさんの横に抜け出たままの毛皮に滑り込んだ。『さむい さむい』としょんぼりした声が聞こえますわ。
 しっぽを抱えて丸くなる銀色の鞠に、私は問いましたの。
「貴方の仰ったアンテロという者は、何者なんですの?」
「腕っ節の立つ男だ。傲慢で、残虐で、嫌いだね。アイツのせいで寝れない日が何日あったか、数え切れやしねぇ」
 嫌悪が滲むのを隠さない、吐き捨てるような声が返ってきました。
「知り合いってことは、ダズ兄と同じ竜族?」
 ルアムの問いにダズニフさんが『まぁな』と返す。
 ダズニフさんにはドワチャッカで判明した一連の出来事は話していない。眠っている間に聞いていた可能性もあるけれど、イサークさんが冬眠と診断したなら狸寝入りを決め込んでいたとは思えませんわ。アンテロという名の竜族を、ダズニフさんは知っている。これほどの嫌悪を見せるなら仲間とは思えませんが、各大陸での誘拐事件とほぼ同時に現れた事実から否定するのは早すぎますわ。
 もっと知っている事情を聞き出したいけれど、ヒメア様の御前では控えたい話題ですわね。
「まもなく、世界樹に花が咲きます」
 ヒメア様が憂に満ちた表情で、ため息を含んだお言葉を零しました。
「エルトナの民にとって、世界樹の花が開くことは至上の喜び。世界樹の花の恵みによって、数多の奇跡がエルトナの民に齎される。『花開きの聖祭』にて奇跡を祝うめでたき時に、不吉な風が吹き込もうとは…」
 この場に居合わせた全てのエルフの曇った表情を見渡し、ラチックさんが遠慮がちに訊ねる。
「延期 難しい?」
 至極真っ当な問いですわ。六種族の祭典の真っ最中に王族二人を拐かし、厳戒態勢のヴェリナードの中心に冥界に繋がる穴を開けた蛮行は、一歩間違えれば多くの命が失われる大事件。『花開きの聖祭』だけがそれを免れる保証はどこにもなく、実際に世界樹の袂に予告状のように破壊された発信機が捨てられている。闇に紛れた不吉な風を、ダズニフさんは残虐と評価する。問題を先に解決し、穏やかに祭りを行うことを提案したくなるラチックさんの心情は当然ですわ。
 私達だって、そうしたいでしょう。しかし、全てのエルフを代表しヒメア様は言う。
「世界樹の花の蕾は、成熟しています。期を逃せば蕾は萎れ枯れてしまう。延期は選択肢にはありません」
 五百年ぶりに咲く世界樹の花。花の咲く時期は私達にはどうにもできぬ、天の定め。それを噛み締めるように決断を述べられたヒメア様は、硬い表情を崩してフウラに視線を向けました。
「フウラ、こちらへ」
 フウラは不安そうに私を見たので、小さく頷いて見せる。貴女はもう立派な風乗り様なのに、甘えん坊はなかなか直りませんわね。
 緊張した面持ちでフウラが立ち上がる。彼女の一挙一動に豊かな風の加護が追随し、まるで野外のような爽やかな風が吹き抜けていきます。まだ幼さの残る福代かな手は、日差しに輝くガラス細工の木の葉の向こうに、蓮の花のような美しい虹色の花が咲き金色の蝶が舞う、まるで昇天の梯のような世界を捧げ持つ。
 あぁ、なんて美しいのかしら。私は思わず感動に胸がいっぱいで、息を止めて見つめてしまいましたわ。
「聖祭の介添え役、アズランの風乗りフウラ。エルトナの水の恵みを、スイの御社より頂戴致しました」
 畏まった風乗りが捧げる神器を見て、ヒメア様は穏やかに頷かれました。
「アサナギ、エンジュ。ラチック殿。フウラと共に御社へ参られたこと、エルトナの民に代わり御礼申します。これで、聖祭が恙なく行われ、大地と民に多くの恵みが齎されることでしょう」
 もったいなきお言葉。私とアサナギさんが深々と頭を下げました。
 神器である聖なる水差しが手渡されれば、私達の役目は終わります。あとは粛々と聖祭が行われるのみ。しかし、何故かフウラは水差しを胸に抱き後ずさってきます。
「ヒ、ヒメア様。わ、私、聖祭の介添え役だなんて、大役、と、とても自信がありません」
 フウラったら何を仰るのかしら。貴女以上に聖祭の介添え役に相応しい存在がいる訳がありませんわ。エルトナに吹き渡る風を司る貴女が、そんな涙声では風も凪いでしまいますわ。
「だって、聖祭が終わったら、ヒメア様が…」
 私はちらりと、アサナギさんに目配せする。冷静でいつも仮面のように表情の崩れない彼ですら、苦虫を潰したような苦々しい顔をした。聖祭は確かにエルトナにとって至上の喜び。しかし、その対価は一部の民にとっては非常に辛いもの。アサナギさんも、学びの庭やツスクルの民も、そして私も、敢えて見ないように蓋をしていた真実を、フウラがたった一言で眼前に突きつけたのです。
 フウラ。私は妹同然の少女に声を掛ける。
「世界樹の守り人であるヒメア様には特別なお勤めがあるのよ。そう、風乗りとしてのお勤めがフウラにしか出来ないように、ヒメア様にしか出来ないお勤めを果たすことが全ての幸せに」
 そんな言葉は聞きたくない! フウラの暴風を伴う拒絶が、私の言葉を遮った。
 フウラの手から落ちそうな水差しを、アサナギさんが咄嗟に受け取りましたわ! 良い判断ですことよ!
「でも! ヒメア様が死んじゃうよ! 死んでほしくない! みんな、ヒメア様に生きて欲しいって願ってる!」
 フウラが私の腕を掴んだ。ぎゅっと強く掴まれ流れ込む暴風のような風の力に、炎の加護が呼応する。思わず奥歯を噛み締めた。ただでさえダズニフさんが冬眠しないように、炎の精霊を活発化させて傍においている。風が加わって暴走してしまえば、大樹海が焼失しかねないわ!
「ねぇ、お姉様。お姉様は学びの庭史上最高の天才って呼ばれているわ。お願い、ヒメア様が死なないで、世界樹の花を咲かせる方法とか考えてよ!」
 ぼろぼろと大粒の涙を溢す双眸を見つめ返し、私はたまらず小さな体を抱き締める。ごめんなさいね。フウラが知る『学びの庭の天才エンジュ』なら、『それは興味深い試みですわね!』って二つ返事で協力してくれたでしょうにね。
「そうね。貴女の言う通りですわ。フウラ」
 でも、悔しいけれど無理なのよ、フウラ。
 世界樹の花とヒメア様は魂が結びついてしまっている。ヒメア様がその命と魂を捧げることで、世界樹の花は初めて奇跡の花としてこの世に咲き誇る。花が咲こうと咲かずに枯れようと世界樹より切り離された時、ヒメア様もまた世界樹との結びつきを失い死に至る。
 私はフウラの頭越しに、ヒメア様のお顔を見る。
「ありがとう、フウラ、エンジュ。そのように私を大切に思うてくれる皆を、私もまた大切に思うています」
 初めてその瞳に深く暗い翳りがあると気がついたのは、随分と幼い頃だった。世界樹の守り人として、ツスクルの民の、エルトナの精霊達の信頼を一身に受けるヒメア様の瞳に、闇なんてあろうことかと否定したものですわ。
「学びの庭を見守ってきた日々は、永遠と思えた停滞した時の中で大いなる喜びでした」
 その陰りの意味を私は思わぬ場所で知りました。
 人間の大陸、レンダーシアのセレドの町。その街に暮らす大人達は、どんな奇跡でも治せぬ苦しみに生涯向き合っていかねばならない。我が子に先立たれ、取り戻せぬ時間と命に、これほどの罪があろうかと天を呪うほどの苦しみに悶えていかねばならない。死んだ子供と一瞬でも対面を果たせた事が、どれほど彼らの救いになれたことでしょう?
 それでも告げられる感謝が、暗い暗い翳りの中から浮かび上がる。どんな奇跡も癒せぬ、愛しい人との別れ。愛しければ愛しいほどに深い暗い闇となって、永遠に傷として残り続けている。 
 既視感があった正体が、今、私の目の前にある。500年という悠久の年月、慈しみ愛した数多の子等と別れを強いられてきた世界樹の守り人。その瞳は眼前に迫った死を、凪いだ風のように受け止めようとしている。望んでいたかもしれない、そう、思うほどに穏やかなヒメア様。
「私は世界樹の守り人でありながら、子らに囲まれ人としての幸せを謳歌しています。募る愛を子らに残すため、私は花開きの聖祭を成し遂げたい。わかって、くれますね?」
 あぁ、いけない。それは、許されません。
「無理強いは感心しません。ヒメア様」
 ヒメア様の頑ななお言葉に、私の怒りを秘めた燃える言葉に、身を固くしたフウラを強く抱き締める。
「フウラはカムシカを救うために命を失ってしまったお母様を、ヒメア様に重ねているのです。ヒメア様がエルトナの全ての民のために、自身を犠牲にされるのが嫌なのです」
 私達のため。そんな耳障りの良い呪いなど、あってはならない。
「僭越ながら、私がヒメア様の御心を代弁しとうございます」
 私はきっぱりと言い切ると、力を緩めて濡れそぼったフウラの頬を袖で拭う。少し興奮しているのか、まるで眠たくて仕方のない赤子のような手が、冷たいフウラ頬を包み込んだ。口の中で『お姉様?』と戸惑う声を転がすフウラに、私は務めて柔らかく微笑み掛けましたの。
「学びの庭の、エルトナの子供達の為に世界樹の花を咲かせ今後数百年の安寧をもたらすこと。それは確かに私達の幸せを願った、母としてのヒメア様の切なる願い。世界樹の守り人としての使命。それらは、ヒメア様にとって我が子のように尊い私達の願いを、振り払うだけの力があるのです」
 そう、有無も言わさず、私達のためと言い含められる絶対的な理由。それでも、それが愛しさからくるものだと分かっている。でも、私達も、特にヒメア様をお慕いしているフウラは深く深く傷ついてしまう。
 愛しいからこそ深く傷つく。
 それがどんなに苦しいか、きっとヒメア様は身を持って知っている。先代の世界樹の守り人は、ヒメア様のお母様であられたはず。同じ気持ちで愛しさと共に、孤独な守り人の責務を譲り渡してしまわれた。
 守り人の使命が終わろうとしている。
 これから出会う数多の喜びも幸せも、これから受ける数多の苦しみも悲しみも、終わらせてしまう使命。それを心穏やかに受け入れているのは、他でもないヒメア様なのだ。私達ができることは、泣くことではない。死んでほしくないと縋ることではない。生きる道を模索することでもないの。
 私はフウラの大きな瞳を覗き込んで、噛み砕くようにゆっくりと言った。
「ヒメア様の我儘を許してあげて、フウラ」
 フウラの顔が瞬く間に歪んだ。込み上げるように喉が動き、嘔気のように口が開くと、驚くような大声が迸りましたわ。私の胸に顔を埋め、まるで赤子のように泣いて、泣いて、喉が枯れて、大きく開けた口でうまく呼吸できない苦しさに喘ぎながら、フウラは泣き続けた。
 ヒメア様を見遣ると、呆気に取られたお顔をされておいででしたわ。初めて見る、世界樹の守り人の仮面が剥がれ落ちた顔。世の中をあまり知らない純朴な少女は、一拍の間を置いてくしゃりと泣きそうな顔をする。
「成長しましたね。エンジュ」
 私は深々と頭を下げました。「恐縮です」という言葉は、きっとフウラの泣き声で届かない。

 泣き疲れたフウラをアサナギさんが背負って学びの庭に戻ったのは、日が暮れる寸前でしたわ。ツスクルの村人達が己の家の前に火を入れた提灯を下げ、それぞれの家から暖かい夕餉の香りが漂ってくる。
 客人として『学びの庭』の師達のもてなしを受けてお腹がくちくなる私達の後ろで、ラチックさんが疲れて眠っているフウラのためにおにぎりをこさえているようですわ。本当にマメで優しいお人。私も爪の垢でも煎じて飲んでみようかしら?
 考えながら男性の客間を通りすがりに見ると、ストーブの上に丸くなっていた銀のドラゴンキッズが顔を上げる。私を待っていたのでしょうね。閉じた目でもぱっと顔を上げ、ぴすぴすとこちらに鼻先を向けていますわ。ストーブから降り立つと、すっと竜族の姿に戻って私の真横に一足飛びで歩み寄る。
「あったかい姉ちゃん! 待ってたんだ! なぁ、味見させて…ぶふぁ!」
 言い終わる前に顔面にメラの花が咲きましてよ。びっくりした様子のダズニフさんを睨み上げる。
「貴方に火の呪文は無意味だとは分かっていますわ。それでも私の意思を伝えるには十分でしょう。私の質問に正直に答えてくださったら、良いですわよ」
 全く、どういう構造しておられるのかしら。髪の毛一本、熱で縮れた様子も見えませんわ。
「貴方はアンテロという不吉な風の運び手の仲間なの?」
 これだけは、はっきりと明らかにしなくてはなりませんわ。
 勿論、仲間であるなら正直に申されるとは思いません。私達を騙し、ここぞというタイミングで裏切ることとて考えられる。でも、冬眠から目覚めて一日もまだご一緒しておりませんけど、そこまで悪い方とは思えませんわ。あまり論理的ではありませんが、本人の口から否定の言葉が欲しい。
 ダズニフさんは突き出た顎をさする。しゃらしゃらと、鱗が擦れる涼やかな音が虫の声に混ざる。
「仲間…仲間ねぇ。あんなのと仲間ってのは、俺は嫌なんだが…」
 嫌悪を隠さぬ声色と、唸るような声がごろごろと喉を鳴らす。暫く明後日の方向に向けられていた顔が、こちらを向きました。居住まいを正すように足を踏み替えて向き直り、生真面目そうな雰囲気が漂う。
「同胞の無礼を許さなくていい。憎んでくれていい。ただ俺達は必死だということは、理解して欲しい。俺と違って同胞達には、種族神の御加護がどうしても必要なんだ。その為に手段を選ばない同胞がいる」
 勇者と大魔王の闘争の最中にナドラガンドと繋がって、まだ日が浅い。ナドラガンドの竜族が、何らかの目的のために行動に移した日数的には驚異的な早さですわ。アンテロという者が『器』を見分ける手段を持ち、召喚符のようなもので援軍を呼びつけられる。単体で見知らぬ地に踏み込む度胸は個人の力量ありきですが、その装備の準備には生半可な援助では賄えぬ周到さがある。大きな組織の影と、アストルティアと繋がった瞬間に行動に移行する執念に近い決意。私達は想像以上に巨大な敵を相手にしているのでしょう。
 同胞。そう表現したダズニフさんの声には、同情的な感情が滲んでいた。
「貴方も、手段を選ばない同胞なのかしら?」
 それでも、アンテロを嫌悪していることは隠さない。
「アンテロも、俺も、ナドラガンドの如何なる竜族も、何が正解か知らない。だから、俺は手段を俺が選ぶ。俺は誰の命令も聞かないし、誰の頼みも聞き入れない。全て俺の選択と責任で、俺の未来を作る」
 私はダズニフさんを見る。嘘を言っているようには思えませんわね。
 何より、自分で決めるって所が良いですわ。他人の言葉に惑わされず、自分が見て聞いて調べた結果を求めることは大事ですわ。それを積み重ねた解答は、同じものでも重みが違う。粗暴で短慮な風を装って、思った以上に思慮深いお方のようですわね。
 私はつっとダズニフさんの鼻先に、人差し指を差し出しましたわ。驚いたように肩が跳ねる。
「良いのか?」
「その似合わない真面目な態度。場を弁えたり、私の疑いに向き合ってくれたのでしょう? 信頼したいと思いますわ」
 に、似合わない。そう零すダズニフさんが、衝撃に打ち拉がれておいでですわ。
「…俺は結構、真面目なんだけどなぁ」
 しょんぼりするのは勝手ですけど、味見するなら早くしてくれませんこと?
 私、痛いの怖いから凄く我慢しているんですのよ!